サマータイムゴースト 高く伸びる夏空の下、昼休みを告げるチャイムが校内に鳴り響くと同時に、教室を飛び出す影があった。猫と見紛うほどに素早く廊下を駆け抜け、生徒指導の教師に咎められようと、幼なじみと言えなくもない友人に「どこ行くんだよ!」と声をかけられても、その影は足を止めることはない。一階まで一足飛びに駆け下り、閉め切られた校門を目指す。肩にかけたスクールバッグの肩紐を握り直し、走り抜ける勢いを殺さぬまま、助走つけて門を飛び越えた少女のスカートがひらりと舞い上がった。
――クソつまんない授業なんて受けていられるか。
というのが、鮮やかな手際で学校をサボった少女の言い分である。前期中等教育も後半に差しかかり、最後の夏を迎えた今、少女が自由を謳歌できる時間は残り少ない。嫌でも勉強漬けの毎日になるのだ。いま遊ばずに、いつ遊ぶというのか。つまらない人生など、まっぴら御免だった。
脱走してきたものの特に目的もなく、ふらふらと街を歩く。日差しが熱い。天気予報の通り、今日は今年一番の真夏日になるのだろう。長く伸ばした髪をかきあげ首筋に風をいれてやる。太陽の光を吸い込んだような健康的な肌が、呼吸をするたびに脈打った。玉のような汗がぽろりと落ちる。少女は汗ばんだ首を手の甲でぬぐい、アイスでも買おうと公園を目指した。公園の入口にはいつも水色のアイスクリームワゴンが止まっていて、主にフルーツを使用したアイスがたくさん売られている。変わったフレーバーも多く、少女は定期的にこのアイスクリームワゴンを利用していた。
「いらっしゃい! お、今日もサボりですか?」
こんなに可愛らしいワゴンなのに、アイスを売っているのは見た目も厳つい壮年の男たちで、声も大きく、ほぼ全員が長髪を後ろで一本にまとめている。制服なのか、全員が同じTシャツを着ており、真っ白なTシャツにでかでかと描かれたオレンジのイラストと〝フルーツマーケット〟の文字は、似合わないようでいて不思議と似合っていた。
「ココナッツとパッションフルーツのダブルでちょうだい」
少女は人差し指と中指をぴんと伸ばして、ピースの形を作る。第一関節をぐにぐにと折り曲げながら少女がニヤリと笑えば、ひときわ大きな体格の店員は嬉しそうに微笑みながら「特別ですよ」と言って、シュガーコーンをワッフルに変更した。
二段重ねのアイスクリームを受けった少女は、大きな口で冷たいアイスを齧る。ココナッツは後味のさっぱりとした甘さでちょうどよく、パッションフルーツの爽やかな酸味が夏の暑さを和らげた。ときおりワッフルコーンで味にアクセントをつければ、それはもう堪らない美味しさだ。完璧な昼下がりの過ごし方に満足していると、今ごろ真面目に授業を受けているだろう友人の「腹壊すぞ」という忠告が聞こえた気がした。少女はブンブンと頭を振って、その幻聴を振り払う。
コンクリートが放射する熱のせいで緩みだしたアイスを舐めとりながら、人通りの少ない脇道を歩いた。特にあてもないので、探検のつもりで知らない道をずんずん進んで行く。なにか、刺激が欲しかった。とびきり面白くて、ドキドキして、アドレナリンが湧き出すような、そんな何か。見慣れない景色の中、見慣れた空が少女を見下ろしている。少女はスマートフォンを取りだして位置情報を確認した。閑静な住宅街の少し先の方に、開けた場所がある。そういえば広い公園があるのだと、聞いたことがあった。
ココナッツアイスをぺろりとたいらげ、パッションフルーツとワッフルコーンを齧りながら、狭い住宅街を抜ける。公園の名前は、なんといっただろうか。頭に浮かぶ候補を一つずつ消しながら、黄色の外壁が特徴的なアパートを曲がる。
「……何これ」
開けた場所に出るはずが、視界を塞いだ建物に驚いてスクールバッグとアイスを落とした。食べかけのパッションフルーツがじりじりと焼けたアスファルトを汚し、その甘い液体に向かって集まってきたアリが、ぞろぞろと行列をつくる。足元を黒いアリの群れが通り過ぎても、少女は上を見上げたまま、ぽかんと口を開けていた。
一言でいえば、違法建築。子供が積み上げたブロック。誰かがつくった夢と理想の家。創造に重点をおいたゲームの中で組み立てたかのように、様々な建物が前後左右に積み重なっている。雑な積み方なのに崩れない絶対なバランスは、何段にも重ねたアイスクリームに似ていた。開いた窓からはためくカーテン、ベランダに干された洗濯物、風に揺れながら建物に鞭打つ電線、ひび割れたモルタルの壁。空を覆い隠すようにぐんと伸びた雑居ビルの群れが陽の光を遮って、少女の足元に影をつくる。
――不気味、だけど、面白い。
建物唯一の出入口を塞いでいたであろう赤い格子の門に鍵はかかっておらず、半開きの状態だった。強めに門を押すと、ぎいぎいと錆びついた音を立てる。高揚感で満たされた少女は臆することなく、暗がりへ足を踏み入れた。
踏み入れた場所は暗く、人が一人通れる程度の細い道がずっと奥まで続いている。ポケットから取り出したスマートフォンのライトで当たりを照らせば、高い壁に囲まれていることが分かった。軽く握った拳の裏でコツコツと叩く。冷たくて硬いコンクリートだ。落書きなどは無く、古いが綺麗な状態が保たれている。状態は悪くないが、ただ、風通しが悪いせいか、建物の中に酷い臭いが溜まってた。ドブや生ゴミのすえた臭いだ。それが刺激となって、少女の鼻に突き刺さる。少女は鼻をつまんで「うえっ」と舌を出した。空間の湿度も高い。それが臭いを強くしている。おまけに地面もじっとり濡れていて、何度か転びそうになった。
少女は慎重に歩きながら、さらに奥へと進んだ。ぴちゃん、ぴちゃん、と水の跳ねる音が聞こえる。雨音ではない。建物の亀裂からじわじわと滲み出る水分、おそらく汚水がぽたりぽたりと滴り、地面の水溜まりを跳ねている。コンクリートに縦線を引く水垢が血のシミに見えた。
「……あークソ、予備のバッテリー持ってくればよかった。しかも圏外だし……最悪……」
ライトを切り、残り二十パーセントという心許ない電池残量のスマートフォンを制服のポケットにしまう。少女は、じわりと滲んだ手汗を白いスカートに擦り付けた。まっさらな生地が汚れようと、別に構わなかった。ローファーはすでに泥が跳ね、点々とシミがついている。――アタシが悪いんじゃない。制服が悪いんだ。シャツもスカートもローファーも真っ白だなんて、正気の沙汰じゃない。少女は憤る気持ちを小言にのせながら、どんどん先へ進んでいく。
しばらく歩くと、突然開けた場所に出た。路地裏を抜けたときの感覚に似ている。少女は両手でぐりぐりと目をこすり、何度もまばたきを繰り返した。建物の内部に、街がある。雰囲気は商店街の表通りだ。修理受付のポスターが貼られた電気屋、海鮮飯店や楊枝甘露を売りにしている飲食店、子供用の玩具と駄菓子が並ぶ商店に、豚一頭が丸々吊り下げられた肉屋。寂れた看板は古めかしいデザインで、あまり見かけない。張り巡らされた電線と四方から伸びるダクトによって、空は覆い隠されている。テレビで特集されていた、何十年も前のレトロなシャッター商店街に似ていた。不思議と懐かしい気持ちになる。
「誰かいないのー?」
その懐かしさに惹かれるように、少女はシャッターを叩いて回った。しかしどの店からも反応は無く、人が出てくる気配も無い。ここにはもう人が住んでおらず、とっくの昔に廃墟になっていたのだろうか。期待外れだ。もっと別の場所に行こうか、帰ろうか――少女が後ろを振り返ったとき、どこかで小石を蹴るような音がした。誰かいる。すぐさまスマートフォンを取り出して、音の出処にライトを向けた。その眩い光から逃げるように、建物の中に入っていく長い髪の毛が目に飛び込んでくる。相手が幽霊かもしれない、という焦りは一瞬で、それよりも好奇心が勝った。
少女は、地面のくぼみに溜まった汚水がスカートを濡らすのも気にせず、建物の中に体を滑り込ませた。入ってすぐのところに、上の階へと続く階段がある。古い公営住宅によく見かけるタイプの作りだ。右側の壁にそって、部屋番号が書かれた郵便受けが配置され、雑に詰め込まれた封筒がはみ出している。少女は、ところどころ崩れたコンクリートに足をかけ、全速力で階段を駆け上がった。段差、踊り場、壁にぽっかりと空いた小窓、それが延々と繰り返される、ループのような階段が続く。終わりのない、エッシャーの騙し絵のような空間。少女の中のわずかな不安が鎌首をもたげるが、彼女はそんなことで躓いていられなかった。追いかけろ。あの懐かしい後ろ髪を。息を切らして走る。蜘蛛の巣を爪先で蹴散らし、足場でくつろいでいるネズミを蹴飛ばしそうになりながら、ひたすらに足を動かし、とうとう最上階に辿り着いた。
屋内外を隔ているドアの上半分がすりガラスになっていて、淡い水色が透けて見える。少女は数秒だけ息を整えて、砂埃でざらついたドアノブを握り、一気に押し開けた。ぱっと、視界が開ける。眩しい。暗がりに目が慣れていたせいで、明るい日差しが両目に突き刺さった。薄くひらいた唇から「ゔっ」と、唸るような声が漏れる。生ぬるいビル風が、ゆるく巻かれた黒髪をぐしゃぐしゃに乱した。くしゃみを噛み殺しながら、徐々に目を開いていく。
「よお。いらっしゃい」
飛び込んできた景色に、ある種の予感、そして、焦燥のようなものを感じた。真っ白なキャンバスに青と白の絵の具を塗りたくったような空が、流れる風と時間が、少女を迎え入れた。追いかけてきたはずの幽霊はおらず、代わりに、建物と空を隔てる柵を背もたれにして、一人の男が煙草を吸っている。ゆるくパーマがかかった洒落っ気のある髪型にもかかわらず、衣服には気を使っていないのか、襟首が伸びた鼠色のTシャツと色褪せたジーンズというシンプルな格好だ。耳から顎にかけてのシャープなラインは美術館に飾られた彫刻のようで、目、鼻、口、とすべてのパーツがバランスよく配置されている。一言で表すのならば、イケメン。ハンサム。いや、もっと何か適切な表現があるはずなのに、今ひとつピンとこない。男の存在は、目に映る景色のすべてを映画のワンシーンのように魅せる。ムカつくほど様になっていた。
「おじさん何してんの」
「どこをどう見たらおじさんに見えんの? お兄さんって呼べよ」
挨拶のつもりなのか、男が煙草を持つ手をヒラヒラと振った。その動きにあわせて、白く立ちのぼる煙が柔らかな波をつくる。男の手には黒い布が巻かれていた。いや、指ぬきグローブだろうか。よくよく目を凝らしてみると、指が何本か欠けていた。少女は心の中で「サイアクだ」と独りごちる。優しげな見た目に反して、真っ当な人間ではないということだ。あきらかに堅気の人間じゃない。ここで問題を起こしても、ろくなことにならない。少女は素直に訂正を受け入れた。
「……お兄さん」
「よしよし。お兄さんはね、黄昏てんの」
「は? やば。不審者じゃん」
屋上で物思いに耽ったところで犯罪ではないのだが、怪しい男と二人きりという状況は些かいただけない。脅しの意味も含めてスマートフォンを取り出すと、男は慌てたように首を振った。
「あー、まって、ウソだから。俺は人を待ってんだ」
「雑居ビルの屋上で?」
「そう。いつ来るか分かんないけどな」
「どんな人? 女?」
「いや、男。髪が長くて、サングラスかけて、あと派手な服着てる」
髪が長くて、サングラスをかけた、派手な服の男。男の口から伝えられる情報だけで作り上げた人物像は、これまた堅気の人間から大幅に逸れていた。この廃ビルは、暴力団員たちの秘密集会場なのだろうか。〝ヤバい組織〟の隠れ家として使われているのだとしたら、こんなところでのんびりしていられない。――逃げよう。少女の判断は早かった。利き足を一歩引く。膝にぐっと力を入れたところで、ふと、思い当たる節が一つあることに気がついた。長い髪の幽霊。夏空に溶けてしまったのか、熱気で蒸発してしまったのか、影も残さず消えてしまった幽霊――らしき何かを追いかけて、ここに来たのだ。男の探し人だった可能性もある。知らないふりをすることもできたが、少女はこれみよがしに大きな溜息を吐いて「そういえば」と男に声をかけた。
「サングラスとか服までは見てないけど、髪の長い人なら見かけた」
「……どこで」
男の瞳孔が開く。湿気った香りの風が、二人の間を縫うように通りすぎた。
「この階段の下」
「……そうか」
言葉は少ない。男は少女を見つめたまま、キュッと目を細めた。硝子玉のようにキラリと輝く瞳の感情は読めず、どこか遠くのほうを見ているようだ。何を考えているのか分からない表情。それは、少女が最も苦手とするところだ。少女は両手のひらをスカートに擦りつけ、ぐっと手を握りしめた。四本の爪が感情線に食い込む鈍い痛みが感覚神経を刺激する。警戒する少女の仕草をちらりと見た男は、なんでもないような顔で吸っていた煙草を柵の縁に押しつけて消すと、両手をパンッと合わせてお願いのポーズをとった。
「ひとつ、あんたに頼んでいいか? その男を探して欲しいんだ。見つけてきたら、いいもんやるから」
いいもの。少女は力をゆるめた。柔らかい皮膚に残った爪の痕がほんのりと赤く染る。
「いいものって何? 金?」
「ガキが何言ってんだ。もっと夢のあるもんだよ」
「ふーん、まあいいや。どうせ暇だし」
男が嘘をついているようには見えなかった。少女は「任せな」と言ってグッと親指を立てた。子供の行動理由など単純明快で、楽しそう、暇つぶしにもなる、いいものが貰える。それだけだ。見つけられなかったとしても、まさか殺されはしないだろう、という楽観的な考えもある。
「アタシ、こう見えて人探し得意なんだよ」
「……そうか。じゃあ、頼んだ」
含みのある言い方だが、少女は手を伸ばして男と固く握手をした。契約成立。さっそく探索に出るべく階段を降りる。足場に溜まった落ち葉を踏みつけながら階段をおりると、どこからか、あまじょっぱい香りがふわりと漂ってきた。それだけじゃない。肉が焼けるいい匂いと、ガヤガヤとした喧騒、子供の笑い声、無数の足音。確かに感じる、人の気配。少女は高鳴る胸を押さえながら、踊り場にある小窓を覗き込んだ。
――人がいる。商店街の引き戸は大きく開き、小路はたくさんの人で溢れ返っていた。廃墟なんかじゃなかった。人が暮らしていたのだ。少女は驚きと興奮に身体を震わせながら小窓に足をかけ、ぴょんと下に飛び降りた。
「痛ッ!」
少々着地に失敗したが、歩けないほどじゃない。足の腫れを気にすることなく、商店街の奥――おそらく別エリアに続くのだろう――へと進んでいく。どこもかしこも人だらけだ。人々から感じる生活の熱気がぶわりと全身を包み込む。探し人は、きっとすぐに見つかるだろうと思った。これだけの数の人間が生活しているのだから、目撃証言も相次ぐはずだ。
少女はさっそく、民家の壁に沿って〝けんけんぱ〟をする子供たちに近づいた。死んだ祖母から聞いたことのある古い遊びだ。地面にチョークで縁を描き、その枠からはみ出さないようにピョンピョンと飛んでいく単純な遊び。地域によっては〝けんぱ〟と言ったり、〝かかし〟と呼ぶところもあるそうだが、少女の祖母は〝けんけんぱ〟と長ったらしい名称で呼んでいた。
今の時代、子供が不審者に向ける目はより一層厳しくなった。道を訪ねてくる善良かもしれない大人ですら、声掛け事案として通報される。声掛けの時点では安全か不審かの判断がつかないため妥当な行為ではあるが。だから長髪、サングラス、派手な格好の不審な男が、学校で話題になっている可能性が高い。少女はそう睨んでいた。
「ねえ。聞きたいことがあんだけど、いい?」
わいわいと飛び跳ねていた子供たちが、少女の声に反応して一斉に集まってくる。
「髪がこのくらい長くて、サングラスかけてて、チンピラみたいな服装の怪しい男、見なかった?」
問いかけながら、鎖骨の辺りまで持ってきた手で髪の長さを表現してみせた。チンピラみたいな服、という表現では曖昧かもしれないと思い、「チンピラっていうか、派手な柄シャツの」と言い換える。子供たちは互いに目を見合わせた後、一番大柄な男児が「知らない」と答えた。
「えー、本当に?」
「うん。知らない」
口々に否定の言葉を放つ。あてが外れた。少女はやれやれと首を振って、子供たちを追い返した。ふたたび〝けんけんぱ〟で遊び始めた子供たちを横目に、次のエリアに移る。入り組んだ路地裏を抜けると、その先はさらに暗く、無数の電線が垂れ下がる危険な場所になっていた。横へ抜ける階段が多数あり、その足場に座る者たちはどこか無気力に夢見心地な顔をしていて、ここら一帯の治安の悪さをものがたっている。こんなところでも、危ない薬を取り扱っている人間がいるのだ。いや、こんなところだからこそ、だろうか。少女は見て見ぬふりをしながら、狭い路地を抜けた。抜けた先で、危うく誰かにぶつかりかける。
「っ、悪い。前を見てなかった……」
少女は、厚い胸板に弾き飛ばされた。捻った左足でバランスを取ることは難しく、足が縺れてそのまま尻もちをつく。ぶつかったのは、薄桃色のポロシャツを着て、重たそうなガスボンベを両手に抱えた坊主頭の男だった。男は少女を視界に映すと、驚いたように目を見開く。
「どうして」
辺りをキョロキョロと見回し、声を潜めながら呟いた。
「……こんなところに、子供が」
「アタシはガキじゃないし、迷い込んだわけでもない。このへんがあんまり良くないエリアってのも、何となく分かってる。ただ、人を探してんの」
「人を」
「長髪で、サングラスかけてて……」
「派手な格好の男、か?」
「えっ」
少女は間髪入れずに立ち上がり、坊主頭の男に詰め寄った。
「知ってんの?」
「知っている。会ったことがあるから」
男は無骨な外見に似合わず、純朴そうな目をしていた。口調も存外丁寧で穏やかだ。少し話をしただけで、不思議と人となりが分かる。
「やった! じゃあさ、居場所を教えて欲しいんだけど!」
「何処にいるのかは分からない。役に立てなくて申し訳ないが……」
少女はガックリと肩を落とした。嘘をついているわけじゃないだろう。悪意は感じられない。本当に申し訳なさそうな顔で、少女を見ている。
「……怪我をしているのか」
男は、少女の足元に視線を移した。
「別に痛くない。ちょっと捻っただけ」
「手当をしないと、変な歩き癖がつく。走るのも大変になるぞ」
男の言うとおり、少女はゆるく片足を引きずっている状態だった。歩けなくはないが、重心がズレているため、たしかに走るのは難しい。放っておけば本当に走れなくなるかもしれない。それは嫌だった。足の速さは、少女の自慢だったから。
「ここを真っ直ぐ行って表の通りに出たら、角を右に曲って突き当たりにある階段と坂道を登るといい。腕の良い医者がいる」
「……分かった」
「もう行け。ここはもうじき暗くなる」
男に促され、少女は再度歩きはじめた。でこぼこの道を真っ直ぐ進み、表通りを右に曲がる。しばらく進むと急勾配の石段があったので、そこを登る。登りきると、今度は緩やかな坂道が待ち構えていた。さすがに疲れも出てきたが、少女は黙々と坂道を歩く。怪我の治療、という理由はもちろんだが、少女にはもう一つ目論見があった。医者なら、常日頃から多くの患者を見ているはずだ。それに坊主頭の知り合いともなれば、探し人の情報も集まるかもしれない。やっとの思いで、目当ての扉に辿り着く。一見、普通の部屋の入口に見えるが、たぶん此処で間違いないだろう。
「あのー!」
少女はドンドンと周囲に音が反響するほど、強く扉を叩いた。
「誰かいるー?」
三秒後、突然扉が奥に引っ込んだ。こちら側から押すタイプの扉だったらしい。少女が「おっ」と呟くと、暗がりからぬっと人影が姿を現した。坊主頭が言っていた医者だろう。その医者を真正面から見た彼女は、ん? と首を傾げた。彼女が不思議に思うのも無理はない。男――馬鹿みたいに高い身長と雰囲気的におそらく男――が、白い布……マスクのようなもので、顔を全体を覆っていたからだ。目元と口元だけが露出している。少女が「医者?」と確認も兼ねた疑問を口にする前に――。
「仆街」
扉がバン! と閉められた。
「……は?」
そして三秒後、再び扉が開かれる。
「すまない。間違えた」
「間違えた??」
医者はじろりと少女を見て、部屋の中に引っ込んだ。扉は開いている。入れということだろうか。出鼻をくじかれたが、物事は滞りなく進みそうだったので、少女は暗がりへと身を滑り込ませた。病院、といっていいのか、医務室と呼ぶべきか、もしくは診療所という名称が適切なのか不明だが、部屋の中は独特な薬草の匂いが充満している。
薬を煎じる鍋や、液体がたっぷりと詰まった小瓶、乾燥した葉や木の根を見るに、東洋医学が専門のようだ。机と診察台の奥には、小さくて分厚いモニターが置かれている。周りを取り囲むように配置された長方形の箱はなんだろう。近寄って確認しようとしたところ、少女は医者から「そこに座って」と声をかけられたので、いそいそと診察台に腰を下ろした。
「左足を」
「凄い。なんでわかったの?」
「歩き方を見たら分かる」
少女が左足をプラプラ揺らすと、医者は足首をすくい上げるように持ち上げて、そっと靴を脱がせた。華奢な足を包む白い靴下が取り払われ、赤く腫れた足首が外気に晒される。医者はくっと眉をひそめた。……ような気がした。マスクのせいで正しいところは分からない。彼は腫れた部分を軽く指でつつき、すぐそばにある薬棚を開けた。小袋を取り出し、その中の粉末(濃い緑色が逆に毒々しい)を水に溶かして練ると、ゆるやかな粘土の薬をガーゼに塗りたくる。そしてそれを患部にべったりと貼り付けた。
「臭いし、ヒリヒリする……」
「糾励根といって炎症を抑える薬だ。そのうち熱を持ち始めるかもしれないが、火傷の症状は出ないから安心していい」
「本当に〜?」
「……八時間経ったら剥がせ。その頃には痛みも和らぐだろう」
少女は包帯で固定された足首をじっと見て、診察台からぴょんと飛び降りた。大急ぎで靴下とローファーを履き、医者にかくかくしかじか経緯を伝えて探し人を尋ねる。医者はどこか遠くを見た。手ぬぐいを握る指に力がこもっている。これは絶対に、確実に、何か知っているはずだ。と、少女の期待値はぐんと上がった。これで任務は完了。屋上の男に仕事の早さを見せつけ、そして男から〝いいもの〟を貰うことができる。
――という考えは、だいぶ甘かったと実感した。
「ぜんっぜん見つかんない」
「そりゃあそうだろうな」
「本当に此処にいんの? 嘘ついてたらぶん殴るけど」
「怖っ。……嘘なんかついてない。……此処にいるはずなんだ。絶対に」
屋上の柵に二人並んで座り、進捗を報告する。状況は思わしくない。この雑居ビルの群れは、少女が想像していたよりもだいぶ入り組んだ迷路のようになっていて、しかも、そこかしこに人が暮らしているから、聞き込みには事欠かなかった。しかし老若男女、分け隔てなく聞き込みをしても、全員が全員、口を揃えたように「そんなやつは知らない」と言う。そんなわけあるか? 派手な格好にサングラスだぞ? 当然のように目立つだろ、というのが少女側の意見だが、ここまで証言を得られないとなれば、幽霊説がもっとも正しいように思えてくる。ときおり、長髪に柄シャツの男を街の隅で見かけるが、サングラスはかけておらず、話しかけても無視してフラフラと何処かへ行ってしまうので、それは除外してもいいだろう。
「またあした探しに来るわ。そろそろ帰んないと」
「……そうか。気をつけて帰れよ」
少女は伸びをして立ち上がった。新鮮な空気で肺を膨らませ、ふぅと吐き出す。何度かそれを繰り返すと、疲れた体が空に浮き上がっていくような気分になる。少女は男に軽く手を振って、屋上を後にした。すれ違う人々に聞き込みをしつつ、出口に向かう。初めて訪れた場所なのに、不思議と道には迷わなかった。細い道を抜け、明かりの先を目指す。しかし少女は途中で立ち止まり、踵を返した。
急勾配の石段を駆け上がり、その先にある診療所の扉を平手でバンバンと叩く。
「先生〜!」
扉が開いて、数刻前に別れたばかりの医者が怪訝な顔を覗かせた。さすがに二度目の「仆街」は無かったが、医者は厄介事の気配を感じたのか至極面倒くさそうな声色で「なんだ」と問いかける。
「泊めて欲しいんだけど」
「何故ここなんだ」
「だってアタシ、怪我人だよ。クタクタで歩けないし、少しくらい入院させてくれたっていいだろ?」
医者は少女の肩に手をかけ、軽く押した。少女の体が数歩真横にズレると同時に、室内からのそりと出てくる。パーカーのフードを目深に被っているせいで、さらにその表情は窺えない。
少女が家に帰らず、ここで寝泊まりする選択をしたのは、ちょっとした家出のつもりだった。どうせ両親は一日かそこら帰らないくらいで警察に通報などしないし、学校も学校で少女の素行を知っているため、家に問い合わせることもない。ではどうして家出など反抗期はなはだしい事をするのか。それは単純に、どれだけの期間、自分が家に帰らなければ大人は心配するのか。それが気になったからだ。人探しのために、家と此処を毎日往復するというのが大変だということもある。
「泊めてくれよ、先生。……どこ行くの?」
医者の両手にはポリタンクが握られていた。
「水をくみに」
「はーん、なるほど。手伝ってあげる」
「……必要ない。手は足りてる」
「いいからいいから。働かざる者食うべからず、とかなんとか、あるじゃん。今日の宿代だと思って」
「足……痛いんじゃないのか」
「それはそれ、これはこれ」
少女は片方のポリタンクを無理やり奪い取った。医者は無言で少女を見つめると、やれやれと溜息を吐いて歩き出す。
水汲み場は商店街の中を突っ切った先にあるようで、二人はポツポツと明かりが灯り始めた通路を進んでいた。この辺りは飲食店街のようだ。ほわりとした湯気がただよい、食欲をそそる匂いがあちらこちらから香ってくる。美味しそう。そう思った瞬間、少女の腹はぐぅと音を立てた。
「……腹減った。なんか食いたい」
「ここの物は良くない」
「え、何、不味いの?」
「いや、美味(うま)いが。……事情があるんだ」
「もしかして金ないのか? 医者のくせに」
頭をガッと鷲掴みにされる。大きな手は少女の頭をすっぽりと覆い隠した。ツボ押しをするような絶妙な力加減で、額と後頭部、こめかみをグッグッと押される。痛くはない。むしろ血流が良くなりそうな気持ちよさだったが、少女は「いたた」と言って、その手を振り払った。
「……後で持ってこさせる」
「ふうん? 先生がどれだけ美味しいもん用意してくれんのか楽しみだな」
――後で持ってこさせる。その言葉が意味するところは、後で〝誰かに〟持ってこさせる、だと解釈していた。誰かに。誰かに、と言われたら、誰だってその対象を人間だと思うだろう。少女は診察台の上に胡座をかき、足元でビニール袋を咥える犬を見下ろした。ぶんぶん振り回されるシッポはふわふわで、触り心地がよさそうだ。黄金の毛並みは柔らかそうで、少女は手を伸ばして犬の頭に触れる。大人しい。きっとゴールデンレトリバーだ。暴れることも、噛むこともなく、されるがままになっている。犬は「くぅん」と鼻を鳴らし、少女の手に袋を押しつけた。
水汲み場から戻ってきて間もなく、医者は少女に対し「大人しく待っていろ」と言って何処かへ行ってしまった。代わりにやってきたレトリバーも、少女に袋を渡すとすぐに何処かへ行ってしまう。袋の中身は、コンビニで調達してきたようなサンドイッチと紙パックの牛乳だ。ありきたりでつまらない食べ物に、少女は不満を覚える。飲食店街には、出来たての美味しそうな食べ物がたくさん並んでいたのに。少女は袋を診察台にほっぽりだし、よいしょと立ち上がった。
抜き足差し足忍び足で、小さなモニターの前に歩み寄る。モニターは旧型のテレビだった。棚にこれでもかというほど並んでいるのは、おそらくVHSテープと呼ばれるものだろう。DVDよりもずっと昔に使われていたものだ。そういったものが存在していたのは知っているが、実物を見たのは初めてだった。長方形の箱は思いのほか大きく、分厚い。パッケージを眺めていた少女は「ひひっ」と笑った。
「こんなの見るんだ、医者のくせに」
裸の女が色っぽい表情で、たわんだシーツの上に寝そべっている。赤字で書かれた『痴情』というタイトルを指でなぞり、パカリと箱を開けた。黒くて長方形の物体が出てくる。でかくて重くて、持ち運びにも不便そうだ。少女はじろじろと観察したあと、テレビの下に付属しているビデオデッキにVHSを押し付ける。古い機械のようだったが、案外スムーズに飲み込まれた。リモコンを持ちあげて再生ボタンを押し込む。
「……あっ、おい、何してんだよ」
「それはこっちの台詞だ」
大きな手に視界を塞がれた。手元のリモコンが奪い取られ、ピッという音が耳元に響く。停止のボタンを押されたのだろう。いいところだったのに、タイミングが悪い。少女は頬を膨らませた。
「お前はまだ未成年だろう」
「いいじゃん、別に」
「よくない」
医者がVHSをケースに入れて、元の位置に戻した。棚を埋め尽くすほどのビデオはすべてAVで、少女は目をぱちぱちと瞬かせた。
「エーブイ、趣味なの?」
「違う」
簡潔な答えだ。
「じゃあ、何が趣味?」
「特にない」
ぶっきらぼうな対応に、少女もだんだん意地になってくる。
「……なら、何して遊ぶのが好き?」
「別に」
「嘘だぁ。あるだろ、何か」
振り向いて睨みつけると、医者は気まずそうに息を吐いて、ボソリと呟いた。
「……麻雀」
「麻雀?」
ありがちな趣味だが、想像と違った。怪しいマスクで顔を隠し、外出時はパーカーのフードを被り、人目を気にするような言動をとっていたものだから、もっと一人で出来るような、孤独が滲み出る趣味だと思っていた。予想外の答えに、ぽかんと口を開けてしまう。
「昔はよく、友人と四人で囲んでいた」
昔を懐かしむ声は、どこか優しい。
「今は?」
「今は……ほとんどなくなったが」
「楽しかった?」
その言葉に、医者は不思議そうに首を傾げた。少女の口からそんな質問が出るとは予想だにしなかったようで、目を大きく見開いて、それから緩やかに目尻が下がる。
「四人でやる麻雀、楽しかった?」
「……生まれも、立場も、経験も、てんでバラバラな奴らで、時間を見つけて集まる程度だったが……そうだな。楽しかった」
本当に楽しかったんだろうな、と少女は思った。友人の話をしている時の口調は柔らかく、言葉尻はかすかに弾んでいる。
「てか友達いるんだ」
「……お前にもいるだろう」
「アタシは……別に」
頭に浮かんだ面影を振り払う。
「ああ、でも……友達っていうか、たまに遊ぶ伯父さんならいる」
「おじさん?」
「……親っつうか、保護者はあんまり家に帰って来ないから、アタシはよく伯父さんのとこ泊まってて。偏屈なじいさんでさぁ。貿易? の仕事して金持ってんのに、プレハブ小屋みたいな家に住んでんの」
海辺にひっそりと建つ粗末なプレハブ小屋は、潮風によって錆びつき、朽ちかけたウッドデッキがおどろおどろしい雰囲気を醸し出している。見た目からしてお化け屋敷のようで、普通の人間は近寄らない。しかし少女は知っている。そのボロ小屋の内部は、一風変わった面白さに溢れているということを。
「部屋に船の模型とか、絵とか、たくさん飾ってて。壊したら殺すからなって。ヤバくない? 姪っ子に言うセリフじゃないっしょ。……でも、親よりあの人といた方が楽しいし。わりとそっちに入り浸ってる」
つい先日も、こっそりくすねた葉巻を吸おうとして怒られた。頭のてっぺんに手加減の無いげんこつを落とされ、危うく気絶するところだった。頭が硬くてよかった。少女でなければ、脳天をかち割られていただろう。
「……よかったな」
「なにが」
「楽しそうだ」
「そう?」
「ああ。よかった」
優しい笑顔を向けられると、途端に内臓のあたりがムズムズしてくる。少女はバッと立ち上がり、わざと足音を大きく響かせながら診察台に近づき、ごろんと寝転がった。
「腹減った。眠い。シャワー浴びたい」
「無茶を言うな。どれかひとつに絞れ」
「シャワー」
乾いた布が顔面にぶつかる。
「残念だが、そんな便利なものはない。水を持ってきてやるから、その布で体をふけ」
「ええ〜……」
少女は、なんだかんだと世話を焼く医者の後ろ姿を眠たげな瞳で見つめた。