悪魔兄妹のおはなし最初に見えたのは、4つの影
手を繋ぎ繋がり合う影は、優しくて、あたたかくて、そして、懐かしい。父と、母と、妹のシアラと…私たちが作り出す大きく小さな影は、広大な空の中にある、ひとつの雲のようだった。
誰に指を刺されても、この家族さえいればいいと思っていた。幸せだった。
だがある日、母が人間によって殺された。遺体は見ることが出来なかった。父が私達に見せないまま埋葬してしまったから。いや、見せたくなかったのだろう。母が母でないような、目も当てられない"物"と化してしまった事実を、父も受け止めたくなかったのだ。
それを境に、父はゆっくりと形を変えていった。
父が夜遅くに出かけ、残るのは酒の瓶と煙った臭い。閉まる扉の音を合図に、シアラとリビングへ向かう。こうでもしないと、物音1つで花瓶が飛んできてしまうのだ。コンロに火をかけ、母の遺したレシピ通りに、不慣れながらも手を動かす。懐かしい匂いが線となり、母の影をなぞり、輪郭を作っていく。その輪郭はやがてぼやけ、儚く消えていく。
あぁ、私は母が作っていたものは作れないのだと、その時確信した。けれど、ぼうっとしている私の袖を引くシアラの顔は、まるで母を見つめているようで。
「おなかすいた」
「……うん、もうすぐできるから、いい子にして待ってて」
母があの時したように、頭を撫で微笑みそう伝える。上手くできているかはわからない。けれど、今だけでも、私はシアラにとっての兄であり、母でありたい。あの子が失った隙間に、私を無理やりねじ込むようになるとしても。
掃除、洗濯、明日のご飯の準備。それらをすませ寝室へ足を運ぶ。ベッドの片方には小さな膨らみがあり、既にシアラはすぅすぅと可愛い寝息を立てて眠っていた。
起こさぬよう、慎重にベッドの中に入ると、枕元に違和感が走る。固い…薄いような……手に取ると、本であることが分かった。本の中でも、大きく少し薄い……あぁ、絵本だ。
きっとシアラが読みながら寝落ちしたのだろう。いや、もしやすれば私に読んでもらうのを待っていたのかもしれない。眠るシアラの表情は、小さな時から変わらない。ずっと純粋で、無垢で、そしていつだって愛おしくて。ごめんね、の代わりにシアラを抱きしめると、じんわりと体が温かみを帯びる。疲れと明日への不安をうっすらと感じながら、自然とまぶたが重くなる。あぁ、明日は仕事が早く終わるはずだから、シアラを連れて街へ行こう。そう思いながら寝落ちてしまった。
「にいに」
小さな声で目を覚ます。
次に聞こえてきたのは、壁に投げつけられる陶器の音。反射的に体を起こし、シアラを抱きしめる。見ずとも理解できる、父が癇癪を起こしているのだろう。
指先が震える。以前父が癇癪を起こした時、酒瓶で頭を殴られたことがある。私は傷が治りやすい体質だから良かったが、シアラにされたらたまったものじゃない。
「シアラ、シアラはクローゼットに隠れておきなさい」
頭を撫で、そしてクローゼットへ誘導する。シアラはなにか言いたげな顔をしながらも、クローゼットへと収まった。きっとこれでなにがあっても平気だ。もし部屋へ入って来ても、クローゼットを背にしておけばいい。大丈夫、大丈夫。大丈夫…クローゼットにもたれ、落ち着かない手を握る。身体中すべてが心臓になってしまったのではないかと思うほど、拍動が響き渡る。
怖い。その感情に、紙にインクが染みるように、どんどんと侵されていく。その瞬間、勢いよく部屋の扉が開く。
「……父さん」
リビングの明かりに後ろから照らされた父は、本当に悪魔のようだった。ジリジリの近寄る父。私に出来ることは、クローゼットを開けさせないことだけだ。
「クロウ」
久々に名前を呼ばれたような気がする。もしかすると、話す気になったのかも……と、緊張を少し解したのが間違いだった。首を掴まれ、そのまま父の背中にクローゼットが来るように押し倒される。
頭への衝撃と共に、喉に残っていた空気が ぅぐ、だとか情けない言葉となって吐き出される。まずい、シアラが……そう思うと同時に、首に力がじわじわと伝わってくる。
殺される。
直感でそう思った。父さん、そう呼ぼうとしても、喉から出るのはか弱い空気の音だけ。空気を求めて、口を金魚のようにパクパクさせながら、父の腕を掻きむしる。
「ここで死んだ方がお前は楽なんだ。」
そんな父の声が、どくどくと熱を持ち始める頭の中で反芻する。その言葉がどんな意味を持つのか、考えることすら放棄し抵抗することも虚しく、目の前が白黒に反転し始める。死ぬ、死ぬ……実感する死に、自然と涙が出る。せめて、最後に…
「し、ぁら……」
喉から小さく出た言葉。一瞬、父の手が緩む。ひゅ、と求めていた空気を一気に吸い込み、そのまま咳き込む。考え直してくれたのだと目線を上げたその瞬間、父が勢いよく血を吐く。腹に感じ伝う、生暖かさ。
「……は…………」
そして、そのまま私を下敷きにするように倒れる父。
「にいに」
優しく、愛おしく、大切な声。
「…もう、大丈夫だから、ね」
心配そうに顔を覗くシアラ こちらに伸ばした手は、確かに歪な悪魔の手で、血に濡れていた。
私が、上手くできなかったから。シアラは父を自らの手で殺してしまった。のしかかる父の重さと、血なまぐさい臭いが、現実を直視させる。
「…………ご、めん…」
か細く、掠れた声でそう言い、シアラを抱きしめる。
「にいに」
「だいすきだよ」
甘く切ない声色が、2人きりの部屋に響く。
「…わたし、も…大好きだよ」
強く抱き締め、そう言い返す。
窓から見える空は、雲ひとつない晴天だった。