黄金の実験材料アナイクス、もといアナクサゴラスという学者は異常者だと樹庭内で言われている。
その理由の大半が、黄金裔でありながら神や信託を冒涜する姿勢や、禁忌とも言えるような研究をしている事からのものだろう。それもそうだが、アナイクスは実験材料に自分を使用する。そしてその方法も、常人は頷けないものであった。
さて、と研究室の椅子に腰を下ろし、引き出しの中から箱を取りだし、蓋を開ける。そこには、針と注射器、そしてチューブと駆血帯。いわば採血キットである。
そう、今日は実験材料として、自身の血液を使用する。アナイクスは黄金裔、常人には流れない黄金の血を流している。これを有効活用せずには居られないというのが、アナイクスという学者である。
左手の手袋を外すと、そこにあるのは幾つもの注射痕。ヒアンシーからのお小言を無視している最中だが、そろそろ本気で怒られてしまいそうだ。そう思いながらも、薄い血管を撫で、刺せそうな所を探っていく。皮も肉も薄いこの体は、血管も薄く採血しにくい。こんな所まで不便なのかと溜息をつきながら、腕を下におろし、少し手を握り駆血帯を強く巻き付ける。こうすることで、血管が浮き採血がしやすくなるのだ。少々時間を置いたところで腕を定位置に戻し、ドクドクと鼓動を感じる腕に、ゆっくりと細い針を刺す。すると、行き場を失っていた黄金の血が、勢いよくチューブを通り、試験管へと溜まっていく。
さあ、あとはこれを5本分繰り返すだけだ。
5本分の試験管が、ようやく黄金に染まる。
1本目が終わったあと、血の出が悪くなり場所を何度か変えたが、無事採血することができた。
「……ふん」
満足気に鼻を鳴らし、空気が触れぬよう試験管に蓋をする。用済みの駆血帯を外し、圧迫から逃れた腕が、ゆっくりと鼓動を浅く広げていく感覚がする。針を刺した場所に脱脂綿を当て、そのまま絆創膏を貼る。これで止血はできるだろう。
さて、さっそくこの1本目の血を使い、実験を開始させよう。と、思い切って腰を上げたところ、くら、と視界が傾く。
「っう……?」
そしてそのまま、膝の力が抜け、地面へと跪く。もう一度立とうとするも、上手く足に力が入らない。そして次に覚えたのは、吐き気と、手先の冷えと、震え。さあ、と血の気が引く頭でも理解していた、これが貧血からなる症状だと。くらりと揺れる脳で考えている最中も、アナイクスの心臓は不規則な鼓動を奏でていた。一、二、一拍飛ばして三四五。息が詰まる感覚を覚え、呼吸をするのさえ、肺や喉を押しつぶすようだった。もういっその事呼吸を無くしたいとも思ったが、そんな突拍子もないことを考えても現状はどうにもならない。こんな状況でも頭が冴えているのがアナイクスという男である。
さて、確か体の締めつけを無くしたらマシになる、と助手が言っていた…という記憶を引っ張り出してきたアナイクスは、腰を締め付けるコルセットへ手を伸ばす。が、震えの止まらない指先で金具が掴める訳もなく、引っかけては逃がし、引っかけては逃がしを繰り返し、乾いた舌打ちをしてしまう。
こんなことをしている場合では無い、今すぐにでも実験を……と思っていた矢先。
学者、アナクサゴラスの脳に、一筋の光が差し込む。世界の基盤、万物の起源、魂から成る、身体___
「……っ、くふ」
思わず、笑みが溢れ出す。あぁ!なぜこんなことに今まで気づかなかったのか!
「っ、は…は……あっはははは!!ははははっ!」
こうなっては、すぐにでも書き残さなければ!跪きながらそこら辺に散らばる紙をかき集め、机の端に手を伸ばし、ペンをとる。
先程までの脳がクラクラとする感覚から一変し、いつも以上にクリアに、そして研ぎ澄まされた思考力はさらにアナイクスを真理へと誘う。
ぁあ、これが証明されれば、世界の真理へとまた1歩近づく……!!そう思いながら力の入りにくい手でペンを走らせ、脳にある知識を捻り出し、仮説を立てていく。
「っはは!!っは、っ」
しかし体というのは正直なもので、吐き気を誤魔化すことは出来ない。今のアナイクスにとって、吐き気は邪魔者以外の何物でもない。さっさと楽にしてしまおう。アナイクスは迷わず、自らの喉に指を突っ込む。片方はペンを滑らせ、片方は喉奥を揺さぶるその光景は、滑稽で異様なものだろう。
「っぐぇっ、っ……」
空っぽの胃は吐くことさえ拒絶していたが、喉奥を乱暴に弄ってやれば、すぐに嘔吐感は込み上げてきた。その辺にある紙袋へ手を伸ばし、顔を突っ込む。
「っぅぶ」
小さく嗚咽を吐き、紙袋へ吐き出したそれは、水と胃液……そして黄金の血。少し乱暴にしすぎたようだが、アナイクスはそんな物にも目を向けず、また紙へと向かう。ボソボソと常人の理解を超えた理論を口にしながらペンを滑らせるそれは、門の刻を越え、陰匿の刻まで続いた。
「っは、ぁ…これにて、終了……言葉は、もう、ふよ……う……………………」
その言葉を残し、アナイクスはその場へ倒れる。寝る、というよりも気絶に近いそれは、授業に顔を出さない教授を心配し、研究室を訪れた学生によって発見された。
目を覚ましたのは、ベッドの上。真新しく肌触りのいいシーツで寝るのは久々で、心地がいい…と首を捻ったところ、我が助手と目が合う。
「……お説教は先生の顔色が良くなってからにしましょうか」
あぁ、どうやら今回は長引きそうだ。アナイクスのカラカラに乾いた喉からはなにも言葉は出ず、せっかくだからと諦め目を閉じた。次目を開ける時は、きっと正座をさせられるだろう。暫くは別の研究材料を…と考える隙もなく、哀れな学者の意識は再び深海へと落ちていった。