【曦澄/現代AU】スーパーライク・ミー(仮)空気が乾き冷たくなり始め、空は高く晴れ心地よい。
天を見上げながら、藍曦臣は日陰から一歩踏み出した。駅前の雑踏と排気ガスの匂い。なかなか慣れないが、こうしてよく晴れていると空の方がどうも嬉しさを運んできてくれて、脚の軽くなる心地がする。片手に携えた鞄には買いたての本。指に引っ掛けた紙袋には気に入りの珈琲屋で買い求めた豆の袋がいくつか。家に帰ってからのくつろいだ時間が約束されているようで、そうなると公園にでも立ち寄って草木でも眺めようかという心地になる。
休日の、あまりに心地いい午後だった。
駅前のロータリーの傍、街灯に凭れかかった見覚えのある青年の姿を見出し、藍曦臣は少しためらってから歩み寄った。陽気になっていたこともあるだろう。おでかけですか、と話しかけようとした唇は、思ったようには動かなかった。
青年の名は江晩吟、義理の弟が呼ぶには江澄という。
藍曦臣にはかけがえのない弟がいる。彼の名は藍忘機という。寡黙な弟は兄より先に一生大切にしたい人を見つけ、一度は離れ離れになったもののあれよあれよという間に結婚を果たした。応援しながら眺めているうちに、移り気を装った魏無羨というすこし難しい相手を見事射止める藍忘機を見、藍曦臣としては長年応援していた作家が大成したような、あらゆる人に触れまわって弟を褒めてもらいたくなるような誇らしくもこそばゆい気分だった。
その気分のまま親族の食事会へ顔を出したところに登場したのが江澄だった。戸惑いながらも嬉しそうに養い子の幸福を寿ぐ育ての親の傍で。彼の実子たる江晩吟は隙のない装いを纏いつつ、静かに佇んでいた。最初は藍曦臣もともに寿いだものの、少なからず違和感は覚えた。江晩吟へ声を掛けようとしたところで魏無羨が現れ。改めて紹介してもらった時には、彼はやや皮肉屋の落ち着いた青年になっていた。目元に差していた不安そうな影はなりをひそめ。きっと見間違いだったのだろうと、藍曦臣もそのくだけた様子に頬を緩めた。
伏せられた、長い睫毛の下にどろつく瞳。
それが見間違えではなかったのだな、と気づきながら、藍曦臣は必死に言葉を選んだ。どうもこの昼下がりに気が緩んでしまっていたようで、冴えた言葉など何一つ思いつかない。
「あの……」
一番冴えていないひとことと共に視野に入れば、江晩吟は大きな目の端っこが切れんばかりの勢いで目を見開いた。小さくもの言いたげに口をぱくぱくさせて、口元を抑えて、やや青ざめているようにも見える。
「……ええと、やはり、声を掛けてはいけなかったかな」
「……く、黒い靴と、白いニット、……か、紙袋に茶のバッグ……」
「え?」
着ているものを指して驚いている彼に、どうしていいかわからないまま。藍曦臣は指されるままにちょっとニットの端を摘まんだり。紙袋を持ち上げたりして、江晩吟の顔色を窺った。どんどん青ざめていくばかりで芳しくない。
「……ええと、あなたは黒いシャツにカーキのジャケット、スキニーが良くお似合いです」
「嘘だろう!」
「嘘なんて。よくお似合いです」
「……う、嘘でなければあなた、なんだ、魏無羨にでも頼まれたか!」
「なにをです? 私は誰にも何も頼まれてはいません。ただここへ来ていて、その、有意義な休日を過ごそうとしただけで……」
「こんな酷いことになるなら顔出ししておくべきだった……!」
「かおだし」
いよいよわからない言葉が出てきて首を傾げる。
傾げた先に、やたらきょろきょろとあたりを見回している男性が見えた。生垣の向こう側に、黒い靴と白いニットがちらつく。手元には紙袋に茶のバッグ。背丈は同じぐらいだろうか。手にしている紙袋には何の刻印もなく、持ち手の紐が撚れて周りが黒ばんでいる。
江晩吟は青ざめていた顔を徐々に朱に染め、スマートフォンが壊れんばかりにタップして藍曦臣へ画面を差し出した。丸い切り抜きの中に表示された、鼻から下の白飛びした口元。身長、体重、なんセンチ、というよくわからない表記。その隣に、一度聶明玦に連れて行ってもらったラーメン屋さんで見たような言葉が連なっている。ばりかた、やわめ、といった。ばりたち。はて。藍曦臣の中では全く言葉が意味を結ばず、首の角度がより急になる。
「あ、……あなたも! そんな無駄に格好いいんだから顔出しぐらいしていれば……!」
「はあ、格好いいですか。江さんもとても素敵ですよ。フォーマルとカジュアルでは印象が違いますね。一層お若く見えます」
「嬉しくないし、あなた続ける気なのか……!」
「続ける? ……ええと、この後予定もありませんし、江さんのご都合が悪くなければお話ぐらいは……ああ! よければこちらも。家が近いんです」
さっと紙袋を持ち上げる。珈琲店の刻印を見せたつもりが、江晩吟の頬が急にどす黒いほどの赤に染まった。
「は……恥知らず!」
「は?」
ひどい紅茶党だったのか、と慌てる視野のなか、先ほどの男性がぴたりと動きを止めているのが目に留まる。無精髭が生え、髪はぺったりと油で撫でつけられ。人の風采を評する癖は藍曦臣にはないが、伺うようにじっとこちらを見ているさまは少々人を身構えさせるものがある。
目の前の江澄は取り乱し、泣きだしそうにも見えた。けれど頬は健全な赤みを取り戻していてなんだか嬉しい。最初の瞬間こそあの初対面の折垣間見えた危うさがあったが、今となっては、魏無羨の隣にいるときより藍曦臣には可愛い人に見えた。
そう、可愛いのだと気づく。表情が表に出た彼はとても可愛らしい。慣れないからかいを口にしたくなるぐらいに。それがしっかり届いて、彼の表情がまたくるくる変わってくれればいいと思うくらいに。
「……ら、藍曦臣」
「はい」
「あなた、本気か」
「本気……ええ。あなたが他の方を待っていたり、お時間がないというなら引き下がりますが。ちょうどよい午後ですし、わたしひとりでこれを楽しむのはもったいないと思っていたところで」
「……だから! それを! あまりがさがさやるな!!」
そうだ、紅茶党だったのだと紙袋を下げて様子を窺う。江澄は諦めたように鋭い溜息をつき、きっと藍曦臣を睨んだ。目の端が赤くなっていては可愛いだけだと言ったら、目の前のこの人はさらに激高するだろうか。
「あなたにこんな風に声をかけては、魏無羨に叱られるかな」
その名が出た途端、ぴくりと片眉が上がる。なるほど決め手にはちょうどいいようだった。嬉しくなってしまってやにさがる顔を留めもせず、藍曦臣はにっこりと微笑む。腕を取られ、すたすたと歩きだす江晩吟に引きずられるように一歩を踏み出す。ちょうど家の方角ですよ、と湛えようとしたところで、江晩吟の低い声が耳を穿った。
「マッチングアプリなんてろくなもんじゃないな、知り合い避け機能ぐらいついてないのか」
「は……」
何か言葉を返そうとしたところで、ふと。
随分と近い場所で聞こえる人の呼吸に気づく。遠くにいたはずの紙袋を持った男は距離を縮めていて、江晩吟をほとんど睨むような目で見つめ。がさがさと紙袋を鳴らしながら、声を掛けようとしているのか大きく一息を吸う。
少しばかり藍曦臣の耳がいいことを除けば、全ては反射的な行動だった。
腕を伸ばして肩を抱き込む。批難たっぷりの目線を受け止めて、長い前髪に鼻を埋めるようにして耳元へ囁く。さて、いい言葉が浮かばなかったのでここで困った。空いた隙間にそっと、歩み寄ってこようとした男を見つめておく。ここでは困らなかった。藍曦臣の顔から笑みが消えるだけで大抵の人は怖いと思ってくれるらしく。この点については忘機も太鼓判を押してくれている。男の風体も。撚れたニットも。紙袋もしっかりと眺めているうちに、怒ったように踵を返してくれたので助かった。
「……お、おい」
「はい?」
「なんだあなた、耳を嗅ぐな。こんな公共の場で」
「ふふ、ほんとうは嗅ぐんじゃなくてなにか気の利いたことを言いたかったんですが、思いつかなかったな」
「……喋るのが得意じゃない、って、メッセージでも言っていたくせに」
「そんなことはすべて忘れてください。私の記憶にもないから」
「はァ?」
「江さん、……不思議なのだけど、私があなたの耳を嗅ぐのは赦してくれるんだね」
「当たり前だろ」
鋭く伸ばされた手に頬を摘ままれ、するりと伸びた指先が耳朶を辿って耳介の内側を愛でるように撫でた。そわり、と浮足立つ衝動に驚く。目の前の江晩吟は全くの。怒ったような仏頂面だというのに。
「あとくされなく一発やるためにマッチングした相手に、耳を嗅ぐのも許さないというほど注文の多い生娘じゃない」
「……あなたの寛大さに感謝するよ、あとくされは……」
「あとくされるなよ、もし魏無羨に言ったら…いや、どうなるんだ、宴席ぐらい開かれそうな気はするな。にしてもあなたもマッチングアプリで知り合いにあったなんて死んでも言いたくないだろう」
「……そうかも、私は元来嘘がつけないから」
「あなたの面構えで嘘つきだったら、アプリなんていらないだろうに……あと、呼び名は江澄でいい。これは、魏無羨の前でも」
江澄は口角を上げて微笑むような顔を作り。紙袋の端をいたずらにつついた。かさかさ、と音を立てるそれを覗き込まれそうになって慌てて引く。跳ねるようにおかしそうに笑うのが耳に心地いいが、どうにも肝が冷えた。
「そんなもの、あなたみたいな清廉そうな人が俺に食らわせようとしてるっていうのもなかなか面白いしな」
正しく痛み分けなんじゃないか、あなたの家はどっちだ、という江澄へ家の方角を指差しながら、藍曦臣は背中に酷く汗をかいていた。致命的な嘘は、断言こそはしていないが。これは。けれど、このままあの男にこの人を連れ去られるわけにはいかない。
ふらりと江澄の顔が紙袋を覗き込むたびに遠ざける。買いたてのマンデリンですよ、と説明したらきっと彼は怒るだろう。気が遠くなるような心地を覚えながらそれでも彼をあの場所へ戻すわけにはいかない。早めの歩調につられて歩きながら、藍曦臣はなるべく遠くの空を眺めた。
◆◆◆
江澄は恋がしたいわけではない。ただ、目の前で魏無羨がなんとも嬉しそうにしているのがどうも悔しいような気持がして。自分の家族が奪われていったような心地がして。気分が悪いのは否定しきれなかった。
不愉快に拍車をかけたのは父の態度だった。まだ、男とくっついてとんでもないわねと呆れたように言う母は落ち着いて見えたが、父は明らかにそわそわとしていた。嬉しそうで、魏無羨に向かって生涯の知己を得たことを讃えた。
自分が得られなかったからですか。
生涯愛するべき人を得た息子は誇らしいですか。
浮かんでしまった言葉は当然喉に詰まるだけで、江澄の呼吸だけを細くか弱くして、なんの役にも立たなかった。せめて、江澄にもいい人ができたらいいと声をかけてからかうような無神経さならどれほどよかっただろうと思う。ただ父が持つ感情は無関心で、無神経とは毛色が違った。江澄もまた、父をからかって怒らせることのできる息子ならばよかったなと他人事のように考えながら、ずっとずっと細くなり続ける呼吸を保った。苦しさで果てられればいいと、思った。
行きたくはなかった身内の食事会で会った先方の親族は皆が皆堅苦しかった。これは魏無羨なんて放り込んだらとんでもないことになるぞ、と思いながら。父の後ろへついて挨拶を繰り返し、嬉しそうにしている父の背を見るのもどうも違和感がありそうで、話し相手のネクタイの結び目ばかり見ていた。特に几帳面な結び目で。巻雲紋が刺繍された見事なネクタイにふと顔を上げる。白皙の左側に前髪を流していることを除けば、その面構えは藍忘機そのものに見えた。
酔ったように魏無羨の幸せを寿ぐ父の言葉を縫って、興奮気味に話していた男の調子が少しずつ下がっていく。江澄の顔を見るその目が、どうにも気づかわし気で不愉快だった。
その襟首をつかんで、ネクタイもぐちゃぐちゃにしてやって、釦が吹っ飛ぶぐらい振り回して。俺がかわいそうに見えたかと頭突きでもしてやればずいぶんすっきりする気がした。やけに具体的に想像できて困った。興味なく聞いていても、彼の名前は見当がついた。
藍曦臣。藍忘機の兄で、兄弟ともども象牙の塔の住人だ。浮世離れした美貌の持ち主で、立ち居振る舞いもそつがない。この人は息が苦しくなったりしないのだろうな、と思いながら、江澄はまたネクタイを眺める動作へ戻った。
その後魏無羨に無理矢理引き合わされ、直接話す羽目になり。江澄は奇妙な感覚を覚えた。きっとこの男、もし襟首をつかんでいいか尋ねれば理由を聞くだろうし。振り回していいか許可を求めれば具合を聞くだろう。頭突きしたところで響かない気がした。見ているだけでなぜか腹が立つ藍忘機とは別の、独特の神経の欠損を持っているようで。それが嫌に思えないのが不思議だった。
酔った魏無羨を藍忘機に引き渡して、藍曦臣と別れて店員へ頼み車を呼ぶ。珍しくすっかり酔った父を連れ帰ると母に連絡を入れる。ネクタイを思わず緩め、迎車アプリを使えばよかったと思い至った。椅子へ腰かけさせた父はやや舟を漕いでいた。
胸ポケットから端末を取り出して弄る。特に目的があるわけでもなかった。SNSへアクセスし、興味があるわけでもないことに目線を這わせる。ポップアップしてくる広告が目障りだった。不動産、株、エロ広告にマッチングアプリ。指が引っかかってダウンロード画面へ遷移してしまい、思わず舌打ちする。
「阿澄」
父の声にびくりとして、赤く染まった顔を見る。不機嫌そうだった。何か言おうとする前に、咎めるように。父は深い溜息をつく。
「阿羨の祝いの場だぞ、立ち居振る舞いには気をつけなさい」
「……すみません」
それきり口を閉じる父を見て。目尻の深い皺と、不機嫌そうな眉間の皺を見て取って。江澄は目頭の熱と、静まらない動悸を如何ともしかねた。息がすっかり止まって。でもここで何かこれ以上、みっともないことをするわけにはいかない。鼻を啜り、前を向く。微かに歪んだ視界に手を上げた店員が入り、ようやく車が来たと父に声を掛ける。
聲の震えが気になったが、気にすることはなかった。
父はよく眠っていた。
◆◆◆
藍曦臣が脱いだ上着を預かろうと伸ばした手は、敢え無く空振りした。すたすたと歩み寄りハンガーの方を手に取った江澄は、どこにかけていいかだけを尋ねてさっと上着を仕舞ってしまう。
「女じゃないんだ、そういうのはいらない」
「……ええと、習い性でね」
「あなた、意外と遊んでるのか」
「とんでもない。……そうだね、私が自宅に人を呼んでこうして二人になるのは、忘機ぐらいかな」
「いつもは3Pなのか?」
「江晩吟」
悪戯っぽく笑う人を部屋の奥へ招く、洗面所でかわるがわる手を洗って、また不思議な気持ちになった。同じタオルでよいか尋ねて脇腹を小突かれる。これもまた習い性なのだけれど、小突かれた感触が悪くなかったので。藍曦臣は小さく謝っただけで良しとした。
口をゆすいだ彼にタオルを差し出せば、鼻面が近寄ってくる。体の熱がかっと上がり、藍曦臣は当惑した。息が触れ合う距離になって思わずタオルを挟む。むぅむぅと不満を口にしながら、伸びて来た江澄の手が藍曦臣の尻たぶを軽く摘まんで捻った。
「痛い……」
甘えるような声が出て、藍曦臣はまたもや当惑した。家に招いたことに他意はない。どうも危なそうな、確か男女が恋人づくりや一夜の恋をするために使うアプリの名前が出て。やや不審な男性と、江澄が出会おうとしていて。明らかな誤解をそのままに彼を攫った。早々に誤解を口にして、お互い珈琲でも飲んで落ち着いてから別れればいいと思っていたのに。
「可愛いな、藍曦臣」
江澄は笑みを載せず、じっと猫のような目で藍曦臣を窺う。洗面台の柔らかな明かりが瞳に透けて、僅かに浮かぶ紫色をあざやかに藍曦臣の瞳に映した。江澄の掌が今度は胸を這い、厚みを確かめるように形をなぞっていく。
「あなた、ウケの才能の方があるんじゃないか。顔と目が溶けてるぞ、ほら」
鏡を見せようとしてくる江澄の腕から半ば力ずくで抜け、藍曦臣は動悸を収めながらダイニングへ向かった。その間も後ろからぺしぺしといたずらに尻を叩かれる。江澄の揶揄いですこし茎が角度を持ってしまったことが知れれば、とんでもない展開になりそうで藍曦臣は必死に姿勢を整えた。
「キスは駄目なのか、箱入りだな」
「あなたはキスを許すんですか」
「盛り上がれば何でもいい。どうせ下はゴム越しで粘膜接触するんだろ。下をくっつけておいて上は駄目なんて、マッチングアプリで一発やるだけの相手探しをしてるくせに貞淑が過ぎる」
「……わたしは貞淑なもので」
「そうらしいな、だがちんちんはデカい」
「……江晩吟」
「お説教か? あなたはどういう感覚か知らないが、藍曦臣。説教して差し上げたいのは俺の方だ。尻を揉んだらすぐ甘勃起したのはあなたの方だろうが」
「……お気づきでしたか。もう収まりましたのであまり気にしないでください」
「収めるな! なんのために来たと思ってる!」
わあわあと文句を言いだす江澄を抱き寄せ、藍曦臣はふと首を傾げた。絡んでくるかと思った手はびくともしていない。先刻勝手をした掌も伸びてはこない。喚いていた口元も凝り、微かな震えと緊張が伝わってくる。頭の中に閃いた可能性を一旦棚に上げながら、藍曦臣はそっと体勢を変え、前髪を緩く撫でてから額に口づけた。途端にまた体が凝る。
「……大人しくしていて、江澄。わたしも大人ぶりたいんです。あなたにくちづけたりなんかしたら、もうお話どころではなくなってしまいそうで」
「お話じゃなくていい、ヤりにきたんだ」
「わたしのやりかたはそうじゃない。今日は諦めて」
背中を優しく叩き、ソファに腰かけさせる。所在なく垂れた手に手を取って、ひざまずいたまま手の甲に口づけた。少し待っていて、と囁いて台所に立つ。
江澄はびくりともせず固まっていた。それからふと立ち上がり、上着を掛けた棚を開けてスマートフォンを取り出す。なんとはなしに目で追いながら、藍曦臣は珈琲を淹れるか暫く考え、今日のところは、と茶缶に手を掛けた。豆を挽くところから始めるのもいいが、早く温かなものを飲ませたい。
体を丸めて端末の画面を眺める江澄の姿はどうも目に楽しくて、湯が沸くのを待ちながら、藍曦臣は飽かずにその背を眺めた。
◆◆◆
両親の家に父を連れ帰り、酔っ払いだけ置いていくな、泊まって行けと促す母を宥めて職場の近くに借りた家に戻る。タクシーを待たせていてよかった。
あまりに辛いときは離れていいと、昔魏無羨もいないところでこっそりと囁いてくれたのは姉だった。車の振動に体を任せながら、ネクタイを緩めて引き抜く。離れれば離れるほど、息のできる心地がした。
オートロックを抜けて自室へ戻る。寝室とダイニングキッチンの二部屋がある単身者用の構えは、江澄の小さな城だった。いつでも家庭を持てるように大きいところを借りろと母には叱られたが黙って押し通した。家庭を持つ予定もないと口にすることはできなかった。恋も情も、家族も、今以上の荷物を抱え込むことを望めない。もう十分動けない。父母が老いたときに世話をするのはもちろん江澄だろう。いがみ合う二人を眺めながら三人暮らしに戻る。昔こそ夢のような妻を心に描いていたが、妻や子がいてはかえって不憫かもしれないとここ数年は思うようになった。
そのままにしていたスマートフォンをつけ、ダウンロード画面とあまりにも縁がないアプリの説明を眺める。星ふたつ、機械の使い方を目の前の板で勉強しろと言いたくなるようなくだらないレビュー。ゲイ向けのアプリだと気づくのに時間がかかった。
ダウンロードして、くだらなさすぎる専門用語を調べながら登録情報を適当に打ち込む。成人証明を送る。なにをしたいわけでもなかった。ただ自分を危険にさらしてずたずたに引き裂いてみたかった。
登録したところであまり声はかからなかった。ゲイ好みの体つきでもないのだろうなと思う。ここでも魏無羨のように、男同士であっても輝く美形を捕まえるなんてことには至らない。そもそも運命のように引き合って、離れられなくなったふたりのきらびやかな話は何度聞かされても唾を吐くことしかできなかった。どうも自分はこの面でも彼に及ばないのだと思うと、モテていない画面のスクリーンショットでも撮って父の寝ている傍らに並べてやりたくなる。ダブルベッドの母の居るはずだった空間は今やすっかり空いているので、きっとちょうどいいだろうと思った。
何本か酒を飲みたしながら、ああでもないこうでもない、と服を緩めて写真を撮る。胸元には傷があるのであまり晒せず、腹を捲り上げて下穿きを引き下げる。生白い腹を晒した途端、少し伸びた。
「……変態ばかりだな」
ご同類だと溜息をついて、メッセージを読んでみる。
「あはは、ちんちんのサイズだとか、太さがどうとか、バカばかりだな……」
滲む視野を拭いながらメッセージを開いていく。どうも悲しいわけでもない。きっと飲みすぎたからだと思いながら、蕩けた頭で開いていく。
そのメッセージは異色だった。ハンドルネームを名乗り、年齢を書き、あなたを必ず満たします、とだけ。どうやってです、と返す。送られてきた画像に、江澄は思いきり眉をひそめた。精液らしいものが掛けられた首輪とリード。追い討ちのように同じくローションか何かにまみれた、ひとのものならぬサイズのディルドとバイブ。なにに使うのかわからない責め道具。
「狂ってる」
これを送って人に好いてもらえると思うのか。そんなものを求めているように見えるのか。これを送ってきている男の頭の中の自分もきっと相当に狂人なのだろうと思った。一言も交わしてすらいないのに愚かが過ぎる。
けれど、これでいいのかもしれないと思った。
これぐらい、おかしなやつにばらばらにされて、踏み躙られてみたら諦めがつく。
細かい理由は江澄にすらわからない。ただもう諦めたい。体もなにもかも汚して、すべて諦めたいだけだった。
メッセージに返信する。住まいを尋ねてなるべく早く会える日を設定する。外部SNSのアカウントを教えることだけは断って、つつがなく日程調整を終えた。知らず溜息をつきながら、座っていた床を撫でてソファに顔を埋める。楽しみなのかと言われればきっとそうだ。早くその日がくればいい。そうして、早く終わればいいと思った。
◆◆◆
ソファの傍らで少し戸惑っていると、隣に座れと座面を叩かれる。お言葉に甘えて、藍曦臣はマグカップを二つ並べてから隣へ腰かけた。テレビはつけていない。テーブルの上に放られたスマートフォンも沈黙している。江澄の手がテーブルの上に伸び、マグカップを持ち上げて口元へ運んだ。熱さを確かめて、ふうふうと冷ましながら少しずつ口へ運ぶ。
「藍曦臣」
「はい」
「あなた、本当に俺を抱くのか」
「……ああ、ええと」
「違うな。俺なんかが抱けるのか」
「江澄?」
隣を見れば、江澄はじっと藍曦臣を眺めていた。何か考えているようで、いないようで。虚ろな眼差しの向こうに緊張を嗅ぎ取る。大胆に距離を縮めようとしていたさっきまでの様子とはまるで異なっている様相に、藍曦臣は自然と頬を緩めた。江澄の眉根が寄る。
「本気で言ってるんだ」
「本気が嬉しい、……その、私が受け取っていいものではないのだけど」
「じゃあ抱かないのか」
「いいえ、その。わたしは悪いことをしました。はっきりした嘘ではないけど、あなたを騙しました。どうか叱ってほしい。……けれどね、江澄。わたしはとても虫がよくて、自分でもこんな風に思ったことはなかなかないのだけど、……い、いきなり抱こうとは思いませんが、その、あなたと距離を縮めたい……」
「本当に虫がいいな」
江澄はマグカップを置き、端末へ手を伸ばす。画面を点けて藍曦臣の手元へ放った。メッセージ画面に長い文章が映し出されている。おぞましい内容だった。江澄をこうしたい、ああしたいと書き連ねられた欲求の最後に、死に至るような拷問すら書き連ねられている。罵倒を最後にブロックされた通知が届いており、藍曦臣はほっと溜息をついた。
「住所を教えたりは?」
「おい藍曦臣、先に俺に謝れ」
「先に謝りました。個人情報は渡していない?」
「渡していない、あなたみたいな世間知らずじゃないんだ」
「こういう人と会うあなたのほうがよほど世間を知らないでしょう、……傷つけられていたら、どうする気だったんですか!」
「こんなクズになりすますあなたの方がどうかしてるだろう! いいか藍曦臣、俺は謝れと言ったんだ!」
「あなたを騙したことは謝ります」
「セックスの相手を奪ったことは?」
「あなたが傷つくのをを未然に防いだと言ってください!」
「でもあなたは俺の意見を聞かなかった!」
目と鼻の先まで江澄の顔が近づいているのに、気付くのに時間がかかった。それは致命的だった。重なった唇から伝わる体温と言葉の意味が全くかみ合わない。江澄の手が頬を包み、一度離れた唇がもう一度重なる。
「……どうして」
「あなたは正しくない、藍曦臣。……なあ、あなたのもっているつまらない正義のためだけに、俺を部屋まで連れ込んだと言わないでいてくれるか。どうせ、優しさが持ち前だろう」
「江澄」
「……ひどいことをしてほしい」
「できません」
「俺とセックスはできない?」
「……あなたにひどいことはできない」
「あなたは誰にでも、ひどいことなんてできないんだろう」
「いえ、……ああ、すこし意味が違う。江澄。わたしはその、……童貞、なんだけれど」
「……うん」
「会うのが二度目なのに、……弟の夫君の、義兄弟と言えるあなたと。セックスがしたいと思っています」
「うん」
「マッチングアプリ、とあなたから聞いてね。……駅前で格好の似た男を見て、わたしはあの人に、あなたを渡すまいと思いました。また嘘を吐いたね。……なにかから守ろうとしたなんて格好をつけて。わたしは、ただあなたを奪いたかっただけ……」
乗りかかるように覆い被さった江澄の首を抱き寄せ、唇を重ねる。目を閉じようとしてうまくいかず、ぼやける視界の中で緩んだ目線が絡み合う。舌を出し、慣れないままに絡み合わせて、息苦しいのに離れられなくてきつく抱きしめ合う。
「俺はあなたのものになってしまうのか」
「江澄、……それはきっと少し違うかな、誰のもの、というよりは、わたしとあなた、少しずつ……差し出し合って、赦しあえればいいと思います」
「俺が得であなたが損する」
「わたしには逆に思えるよ、……きっとそんなものなんでしょうね」
「……恋をしたことは」
「ないよ、……きっとこれがそうなのかな、突然なんですね」
「よくあることのように言うな、これが恋なら、もう事故の類だろう」
「でももうあなたと離れたくない。……触れていたい、奪った自分を褒めてやりたい。ねえ。紙袋には何が入っているはずだったの」
「……………いやだ、言わない」
わたしのに入っていたのは珈琲豆です。珈琲は好き、と尋ねてくる男が貪欲に唇を狙って来るのを許しながら、江澄も彼の尻に手を伸ばす。ほたほたとした柔らかな肉はいまや硬く引き締まり、太腿に明らかな硬さを持ったものを押し付けられて思わず息を吐く。吐息が熱を帯びることが不思議だった。男に性欲を抱かれることがあったとしても自分にはないと思っていたのに、なかなかに適当な判定をする身体だと面白くなる。
「言って」
「言わない」
「あなたのスマートフォンをお借りすればわかりますか」
「最悪の彼氏だな」
「彼氏、……ふふ、素敵ですね」
「今のは失言だ、リップサービスだ」
「いいえ、わたしは少しだけ耳がよくて、今のあなたの鼓動も、声の迷った様子もよく聞こえているんです。聞かせて差し上げたいくらい……そう、スマートフォンをお借りして、ついでにあのやっかいなアプリも消しましょう」
「最初からとんでもないな……」
「マッチングアプリなどされるから……」
「俺のせいにするな!」
藍曦臣の方から唇を塞ぐ。江澄は抵抗をせず、柔らかな舌で唇を開けるようにつついて誘う。素直に開き、あからさまに舌を絡める。荒れてくる呼吸が耳に心地よく。触れている感覚は身体を昂らせる。江澄の指先が下肢に伸び、茎を掴む。あ、と声を上げながら、藍曦臣は咎めるようにゆるく、甘く目の前の唇を噛んだ。
「そうはいってもね、全部あなたのせいかもしれませんよ、江澄」
「おい、差し出しあうんだろう。……見得を切ったのはあなただろう」
「ええ。なので、わたしとあなたのせい。お揃いですね。嬉しい。……ねえ、あのアプリは消したいです、消させてください」
「後で消す……なあ、人肌が思ったより気持ちいいんだ、今はこれをさせてくれ」
「その物言いはあまりにずるいな、江澄……」
脳の大事な部分が蕩けて、判断力を失っている気がするとどちらともなく口にしながら唇を重ねる。触れるたびにおかしくなるし、温かいと感じるほどに愛しくなってくる。江澄が吐き捨てるように、自分も童貞だからこのおかしさに抗えないと口にすれば。藍曦臣は心から頷いて固くなった茎を摺り寄せながら、まるで困ったように、唇をついばみながら眉をひそめた。
◆◆◆