【曦+澄】影絵の憧憬(仮)窓の外の陽はすっかり落ちて、名残のような赤紫が空に尾を引いている。
さっきくちくなった腹がもう減ったような気もしつつ。江晩吟は牀の傍で寝支度を調えている背中をちらりと見た。背中でさえ、まだまだ細っこい自分とは風采が全く違う気がする。白衣に包まれた大きな背中。藍忘機の白衣は辛気臭い喪服にしか見えないが、山を歩いていてこの人が天から登場しようものなら、下りてきたなにがしかの神かと祈るものも多いだろう。気力充溢。あまねく振り撒かれる優しさと慈愛の心。優しいばかりではない、確たる規律を感じさせるその姿。
そこまで考え、口から零れる溜息をどうにか鼻息に変換しながら。江澄はなるべく音をたてないようにこそこそと荷を広げた。
ああ、これが魏無羨との同室なら。いつも通り食ったけど腹が減ったと街へ繰り出して、ちょっとばかり酒も飲んで。明日の戦いに逸る心を誤魔化して、走って騒いで川でも泳いで、ともかくすっきりして眠れるだろうに。
藍曦臣と同部屋は、立場から来る序列と本人に説かれたところで。到底江澄の身になじむものではなかった。
だいたい、未だに隣の部屋との壁が壊れていないのもおかしいような気はしている。さては藍忘機、とっとと魏無羨の腹に一発でも入れて昏倒させたか。全く正しいやりようとしか思えないし、宿の壁が無事なことに江澄としては文句はなかった。あいつは死んでも黙らない。ならば寝かせるか気絶させるしか、あの二の若様が安らぐ方法は無いと思えた。それとも、引っ張られて外にでも繰り出して飯の食いたしでもするか。想像でも難しい。
「江公子」
突然の声に応えることもできず、江澄はぴんと背を正してかの人を振り向いた。一瞬困ったように眉を下げ、口角をふわりと上げて微笑んでくる。江澄がそこらの仙子ならまあまあと帯を緩めて乗りかかりたくなるような。正気を惑わしてくる美しさではあるが。脚の間の茎に僅かに感謝しながら、江澄は慌てて言葉の隙間を埋めた。
「はい……」
「……すまないね、君ならばわかってくれているかと思うのだが、これは私の我儘だ」
「……は」
「魏公子と同じが良かっただろう」
「それは、まあ、気易くもありますので……私は藍二公子のご無事が心配です」
思わず歪んだ江澄の口元を咎めるでもなく、藍曦臣は吹き出すように笑った。そんな姿は初めてで、思わずじっと見てしまう。そういえば年のころがそう変わらないことを思い出すけれどあまりしっくりはこない。藍先生の傍らにいる、もうそんじょそこらの大人よりも権威のある男。彼は断固としてそうであって、でも目の前の彼は目じりをくしゃつかせて笑っていて。声を上げて笑うのが得手ではないのかもしれないと思った。
「だいじょうぶ、忘機は魏公子のことを気に入っているから」
「え」
思わず漏れ出た言葉を掌で押さえながら、整えた牀へ腰を下ろす藍曦臣に合わせ、対面の
牀へ腰かける。微かに軋むのが気になって、そっと指先で木目を撫でた。
年上にはたまにこういうことがある。
ちびどもが本当に怒っているのに、いがみあっているのに、ぶっ殺してやりたいと思っているのに。年下の感情を可愛いものだと読み侮ってくることがある。
阿澄はびっくりして阿羨の頭を打ってしまっただけよね、阿羨は馬鹿にしたのじゃなくって、阿澄と仲良くしたいだけなのよ。幼い時の姉の声が耳の奥底から蘇ってくるようで、江澄はますます歯を食いしばる羽目になった。誤解だ。クソガキなりに殺せるなら殺していたのだ。相手だってそうだ。本当に腹の底から怒って、奪って、殴り合って。最近は魏無羨の方がわけのわかった顔をするのがこそばゆいが、腰ほども背丈がなかったころは確かにそうだった。だからこそ、あいつには命だって何だって預けられる。
「あなたにはすこしわかりづらいかもしれないが、忘機があんなに心を露わにするのは魏公子くらいでね。きっと、惹かれるものがあるのだろう」
それはまったく、クソガキじゃあないか。
言いかけて慌てて口元を抑えながら、それでもふさぎ切れなかったものがすこし零れる。
「魏無羨もそうなのでしょうね。藍二公子に付きまとっている姿は、幼いころに可愛い仙子に水鉄砲で水をかけたり、嫌がる娘の頬をつついていた時とそっくりです。そのうえでまあ甘ったるい声を出す……」
口に出しながら、いや本当にそうだな、と胸に落ちる。あの甘ったるい声。江澄との会話では一度も聞いたことのない声色で、最初は思わず魏無羨の顔を眺めまわしてしまった。ぎっちり深くなった藍忘機の眉間の皺に同調すらしたものだった。
しんと静かになった藍曦臣に気づき、江澄は思わずまた背を正した。明らかに言い過ぎた。口が悪い上に毒があると、父に叱られたことは一度や二度ではないというのに。
藍曦臣は目を円くして、口をわずかに開いている。暗くなった室には月明かりがさして、この場に不釣り合いなほどに美しい人を絵のごとく描き出す。その口元が僅かに緩み。目元がきゅうと下がっていった。
「君もそう思うか、ふふ、嬉しいものだね」
「……は、い」
「眩しくてね」
「はあ」
「羨ましいんだ。ああ、夜に紛れて忘れてほしいけれど。私は少しだけ、忘機が羨ましいんだ。あんな風に心をかき乱されるような出会いが。物語のようだと思わないか、江公子」
どう答えたかは良く憶えていない。
きっと、当たり障りのない生返事には違いがなかった。
美しい人が焦がれているものが。煌めくような出会いが。自分という人間を物語の外へ締め出すのが当たり前になっているこということも。江澄には幼いころからありふれた事態であったから。こればかりは、慣れていたのだった。
◆◆◆
酒を注ぎに来た使用人をそっと掌で制し、江晩吟は宴の席から立ち上がった。
宴はたけなわをとうに過ぎて、べたべたとした酒飲みが延々と続いている。権謀術数もどこへやら、転がった酔客を眺めながら宛がわれた室へ戻る。
立ち上がってようやっと、自分がすこし酔っていることに気づいた。あたりからどう見えていたかは知らないが気分は良かった。金凌が見事に清談会から連なる宴を仕切り。目立った騒動も起こらず。若者の意見もみな才気を感じさせるものばかり。古い世代の宗主らも文句のつけようがない。新風を感じさせる爽やかな時間だった。
もう十年ほど自分が年を食っていれば、すぐに隠居をしてもいいと思えるほど心地が良かった。若い世代にはこうしてどんどん伸びて行ってほしい。江晩吟のように、血に浸されて足搔き、四肢を折り取られながら腹で進むような、腥い成長は過去のものにすべきだった。
かつて小さな蓮池があった場所を通りかかる。あの頃の蓮はもう少し大きい池へ移されたらしい。金凌を抱いた姉が、嬉しそうに教えてくれたことを思い出す。
あの人ったら、衣を泥で汚して、でも衣が泥で汚れたなんてはじめてみたいな様子でね。小さな子みたいにそのままお部屋へ上がろうとするから、わたし、阿澄や阿羨が小さな頃みたいに叱ってしまったの。そうしたらね。
その当時は馬鹿野郎だなと思っていて。
今はその姿が、姉と一緒に近くの廊下に描き出せるほどに瑞々しい過去に見える。姉の声が目を潤ませる。どうやら少し、酒を過ごしたようだった。目頭を押さえても留めきれない涙がするりと零れ落ちる。抗えず顎を濡らしていくのも、喉の奥が熱くなるのも。今日ばかりは爽やかな心地に呑まれるようで気持ちが良かった。
姉上、阿凌は大きくなりました。
きっと俺より賢くなります。少し性格が難しくて、嫁とりには苦労しそうだが。
橋の欄干が水面に映って揺れている。蓮の花も葉もないそこに、語り掛けるように。そうしたら届く気がした。
「……死ぬのですか」
突然聞こえた声に、江澄はぎっと眉間に皺を寄せて振り返った。掌でざっと顔を拭い睨み付ける。潤んでいても夜の白衣はえらく目立つ。恥ずかしさと苛立ちと、あまりのわけのわからなさに任せて、江澄は躊躇いなく男を睨みつけながら口を開いた。
「死ぬわけがあるか! なんだあなた、いよいよ頭がおかしくなったのか」
「……ああ、その深さでは死ねないね」
「物騒な物言いを撒き散らすなら私を巻き込まないでいただきたい。藍宗主。あなたはどうだか知らないが、誰もかれも死にたがっているわけじゃない」
「私は死にたくはない」
「……そうか、そうか。清談会の間あなたが黙っていてくださってなによりだ。とっとと隠居でもなさればいいだろうに」
「忘機が」
「は」
「忘機が旅に出てしまったから……」
「呼び戻せばいいだろうが」
「魏公子と結ばれて……」
「あなたの都合も宛がえ、そうして死にたいなら死ねばいいし、隠居したいならすればいい。俺が死にたがっているように見えて、死ぬか聞くほどの勇気があるならなんでもできましょう」
「私は死にも隠居もしたくは……どう、どうなのだろうか…………」
欄干を越えかねない、幽鬼のような白い塊をなんとか橋から遠ざけようと。江澄は衝動的に腕を引いた。どうやらそこまで歩く気がないのが異様に厄介で。苛立ちながら引きずりおろす。これを門から出して置物とはいえ清談会へ配置した姑蘇藍氏はいかがなものかと思うが。確かに置物として役目を果たし、じっと座っていたことだけは覚えているから始末が悪い。
藍曦臣は観音堂での決着の後、閉関修行に入った。
そこから何度か修行を中断してこうして公の場へ顔を出してはいるが、修行が修行になっていないことはある程度の修為を持つものならば容易に理解できる。
要は魂を引き抜かれたようなものなのだと、江澄は理解していた。
藍忘機にとっての魏無羨が、藍曦臣にとっては金光瑤だった。
裏切られて、裏切ったと罵られ。最後に崩落寸前の建屋から引きずり出された時の藍曦臣の紙のような顔色を見れば多少のことは察せられた。死にぞこなったのだろうと。贅沢だと思った。時を選んで死ねた者など、江澄の周りの大切な人々の中には一人もいなかった。
まあそこから薄らと気にかかってはいたのだけれど。こうして関わってこられては、ついでにとげを突き刺しても文句は言えまい。
「委細自分でお考え下さい。どうせぼうっとしているのだろうが、それでやっと十人並みだろう」
「江晩吟」
「なんだ」
「……あなた、私に対して失礼では」
「ハッ、死ぬのか聞くほうが失礼だとは思わないのか。俺が怒っているとも思わない?」
「……それはすこし、……失礼だったかもしれない」
「今のあなたと喋ってもまったくかいがないな、……くそ、俺はいい気分だったんです。それはおわかりいただけるか。それをあなたに台無しにされた」
「……でもなんだか、小さく見えたから」
「おい、失礼なのはあなたの方だな、今ので決まったぞ」
「泣いてらしたから。……あの時も泣いていた、ああ、……申し訳ない、私の中であまりに、……死に近い記憶だから、整っていないのやも」
「観音堂ですか」
藍曦臣は項垂れ、また歩く気をなくしているようだった。手を離せば一日だってここに立っていそうで呆れる。頬はやつれて目元は落ちくぼみ、掴んだ腕からも骨っぽさばかりが伝わってくる。
「あれは壊れた。……金光瑤とあなたの間になにがあったか俺は知りませんが、少なくともあの場所はもうない。魏無羨と藍忘機は旅に出て乳繰り合っているし、金如蘭は見事に仙門に威容を示した。俺は変わりありませんが、……皆勝手に生きている。だからあなたも勝手に生きて、死ねばいい。そうして迷っているのが心地いいなら、あと二十年ほどやったところできっと俺たちはまだ死なないでしょう。それも悪くない」
「江宗主」
「一人で部屋にお戻りになれますか」
「……ええ、その…………」
「ああ、そうだ」
江澄は膝を打ち、思い切り眉をひそめた。
「俺は勝手なことを言いましたが、今日この場では死なないでいただきたい。澤蕪君の屍の世話を金凌にさせたくはないのです」
藍曦臣は目を見開き、口をわずかに開いて。
その姿がくっきりと、月の光と灯に描き出され、どうも芝居じみているなと江澄は首を傾げた。美しいのもたまに間抜けになる。風流が響かないこの身には余計に滑稽に見えた。
物も言わずに頷いた人が歩き出すのを見送る。
水面に蓮の影は終になく、死のうとは思わないが死を思ったことは確かに事実ではあったので。痛くなった耳を撫でながら、江澄はその場を後にした。
◆◆◆