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    春猫🐱

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    春猫🐱

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    恋願う 一話〜五話まとめ。

    一度消してしまったので再掲。
    少しづつ、書きかけのやつを投げ直す予定です‪(՞ . ̫ .՞)"‬

    恋願う1〜5はじめに

    ○類くんが遊び人。女性関係が酷い。
    ○司くんがほぼ女装しております。

    ○年齢操作、捏造色々ありますのでご注意ください。

    ○原作の設定と大幅に色々変えております。
    司くんが眼鏡気弱な真面目っ子。類くんちょっと最低。瑞希ちゃんが類くんではなく司くんの友達。えむちゃと類くんがセットで寧々ちゃんとの幼馴染設定無し、など。


    なんでも大丈夫な方のみお進み下さい。

    全年齢です。際どい所がこの先無くはないかもしれないですが、全年齢です。(大事な事なので二回)

    ハピエン厨なので、ちゃんと類司になる予定です。




    「いらっしゃい、天馬くん」
    「……ん…、ぉ、邪魔、します…」
    「そんなに固くならないでよ」

    する、と滑り込むように手が触れ合い、そっと握られる。その“慣れた様子”に、ほんの少し胸の奥が ぎゅ、と苦しくなった。引かれるままに靴を脱いで家の中に踏み込む。靴を揃える暇さえ与えられず、少し強引に奥の部屋へ手を引かれる。
    終わった。これでもう、この関係もおしまいだ。死刑宣告を待つ囚人のような気持ちで、握られる手を強く握り返す。以前よりもすっきりした雰囲気の部屋は、オレの為に整えられたのだろう。掃除嫌いの神代らしくない気遣いが、今は心苦しい。
    真っ直ぐ誘導されたベッドに、促されるまま座る。雰囲気なんて、あって無いものだろう。神様が居るのなら、今すぐ助けてほしい。

    「…ぁ、の……、神代、くん…?」
    「なんだい? 天馬くん」
    「……ぃ、今更、かも、しれんが…、今夜は、その……」
    「おや、また“お預け”なんて寂しい事は言わないでおくれよ?」
    「ぅ……」

    当然のように却下された一縷の望みも潰えてしまい、退路が完全に絶たれてしまった。
    肩に掛かる長い髪を指で払われ、襟元のリボンがゆっくりと引かれる。ギッ、とベッドのスプリングが軋む音に、心臓が大きく跳ね上がった。冷や汗が背を伝い落ち、視線が泳ぐ。
    くぃ、と指先が顎を掬い、顔を上へ向かされた。真っ直ぐオレを見下ろすその顔が、楽しそうに細められる。

    「今夜は長くなりそうだねぇ」
    「……ぁ、はは…、そう、ですね…」

    意味深な言葉に、乾いた笑いが零れる。帰りたい。今すぐ逃げ出して、何事も無かったことにしてしまいたい。けれど、この状況を作ってしまったのは自分な為、言い訳もできない。色々な意味でドキドキする心臓を手で押え、打開策を模索する。が、そんな時間を与えてくれるはずもなく、にこりと笑う神代がオレの肩を軽く押した。

    「それじゃぁ、まずは脱いでおくれ、天馬くん」
    「…う゛……」

    単刀直入に言われた言葉に、オレは顔を引き攣らせた。

    ―――

    遡ること一年と少し前。
    社会人十年目にして、高校の同窓会が開かれた。学年全員が集められた大きな同窓会だ。当然知っている顔と知らない顔がある。大きな居酒屋を貸し切ったその同窓会は、会が始まって1時間もすれば皆酔ってテンションがおかしくなっていった。当然、オレも相当酔っていたのだろう。会場は突然歌い出す同級生もいれば、踊り出したり泣き出したりのどんちゃん騒ぎだった。そんな中あれよあれよと元同級生の女子達に着せ替え人形よろしく好き勝手され、出来上がったのが周りの女子に負けず劣らずの美少女だった。ウィッグと少し丈は短いもののの着れてしまったワンピース。薄めの化粧にも関わらず映えてしまう自分の顔に、気分が良くなったのだけは覚えている。
    酔ったテンションで調子付いて元同級生達にお酌して回ったのは辛うじて覚えているが、そこまでで記憶が無い。

    「おはよう、天馬くん」
    「………は…?」

    気付いた時には朝になっていて、知らない部屋の中にいた。床はかなり散らかっていて足の踏み場もないその部屋の主は、くぁ、と欠伸を一つしてオレに上着を渡してくる。それを流れで受け取って、呆然と部屋の中を見回した。
    同窓会は、あの後どうなったのか。何故、ここに居る? それに、目の前の男の顔には見覚えがある。派手な藤色の髪と月の様な瞳、オレよりずっと高い身長。脳裏に浮かびかけた低い声音に重ねて、目の前の男が「ねぇ」と声を落とす。

    「早く着なよ」
    「……へ…?」
    「それ」

    それ、と指差されているのは、先程渡された上着の事だろう。視線を下へ向ければ、オレのでは無い男物の大きなパーカーを持たされている。そして、そんなオレの格好は、キャミソールというのだったか? 白くて薄い布一枚と、ショートパンツのみだ。やたらと肌寒く感じたのはこのせいなのだろう。全て昨夜借りた服だと思い出し、次の瞬間、ぶわりと顔に熱が集まった。

    「す、すすすすまんっ…!!」
    「それを着て、今日は帰りなよ。僕の連絡先はこれに書いたから、後で送って」
    「…れ、連絡先……?」

    荷物は玄関にあるから、と短くそう言って、男が立ち上がる。床に落ちている服を着て気怠そうにキッチンへ向かう後ろ姿を見ながら、オレは首を傾げた。
    昨夜着せ替えられた際にオレが着ていたワンピースも、床に落ちているようだ。いそいそと渡された上着を着れば、ふわりと嗅いだことのない匂いがする。洗剤の匂いだろうか? 結構好きな匂いだ。すん、すん、と袖を鼻先に付けて匂いを嗅ぐオレの方へ、男がくるりと振り返る。頭が重たい気がして手で触れると、自分の髪質と違う長い髪に手が触れた。

    「付き合うんだよね? 君の方から告白して、家にまでついてきたじゃないか」
    「………こ、くはく…? 付き合う…??」

    意味が分からない。告白とは、なんの事だ。付き合うと言うのは、男女交際の事か? オレは男だぞ。
    訳が分からず目を瞬けば、長い前髪を乱雑に掻き上げて、男がそっと息を吐く。

    「呼び方は好きにしていいよ。神代でも、類でもどっちでもいいから」
    「……かみしろ、るい…?」
    「門限が厳しいんでしょ? 早く家族に連絡して、帰った方がいいよ、天馬くん」
    「…………ぇ…、は…?!」

    聞き覚えのある名前に、目を瞬く。素っ気ない態度とは裏腹に、優しく微笑むその顔は見覚えがあった。沸騰するのではないかと思う程に一気に顔に熱が集まり、慌てて立ち上がる。
    脳裏に、十年以上前に聞いた『悪いけど』という言葉が突然蘇った。

    「か、かかか“神代類”っ…?!」
    「……君、まさか酔い過ぎて昨夜の記憶がないのかい?」
    「か、帰るっ…!! お邪魔しましたっ!!」
    「…ぇ、…あ、ちょっと……!?」

    ベッドを転げ落ちるようにして降り、慌てて玄関の方へ駆け出す。入口付近に置かれたオレの荷物を掴んで、震えて上手く動かない手で玄関の鍵を開けた。バタンッ、と大きな音を立てて扉を閉め、そのまま廊下を駆け抜けエレベーターに飛び乗った。誰もいないエレベーターの扉が閉まり、ゆっくりと下の階に降りていく。
    ぜぇ、ぜぇ、と肩で息をしながら、その場にへたり込んだ。

    「よ、よりにもよって…まさか“もう一度”神代に告白したのか…?」

    両手で顔を覆い、あぁああああ…、と腹の底から唸るような声を出す。
    忘れもしない。高校二年生の時のあの出来事を、今更鮮明に思い出してしまった。

    人生初めての恋の相手である神代類に告白し、フラれた時の事を。

    ―――

    「消えたい……」

    ぐったりと机に突っ伏すオレの隣で、寧々が思いっきり溜息を吐く。『何があったの?』とオレの様子に気付いて声をかけてくれる寧々は優しいやつだ。高校時代からの仲でもあるので、大体の事情も知ってくれている。話しやすいのもあって、休憩時間だと言うのに誘ってしまった。

    「司、本当に“神代類”が好きだよね」
    「…何がどうしてこうなったのだ……」
    「良いじゃん。付き合う事になったんでしょ? 十年以上想い続けた御褒美じゃない」
    「いやいやいや、“女装したオレ”と付き合ってもらっても全然嬉しくないが?!」

    バン、と机を叩いて苦い顔をするオレを、寧々は呆れたように見やる。
    あの後自宅に帰って気付いたが、同窓会で施された女装姿のままであった。オレの髪色に似せたウィッグと、薄めの化粧は、違和感無くオレを女にしている。元々中性的な顔であったのも相まって、違和感が仕事をしてくれなかった。加えて、身長はそれなりにあるが、神代の方が身長が高いのでそこも誤解されたのだろう。悔しい事に、十センチ以上の身長差があるのだから。

    「連絡はしたの? アンタからしろって言われたんでしょ?」
    「……していない…、出来るわけが無いだろ…」
    「付き合うって話になってるなら、断るにしても付き合うにしても連絡しなきゃいけないでしょ。今なら酔っていてふざけました、で済みそうだし」
    「…それは、そうだが……」

    もごもごと口ごもれば、寧々がもう一度溜息を吐いた。
    連絡先を書かれたメモはある。一応確認もした。確かに『神代類』の名と、知らないアドレスが書いてあった。だからと言って、言われた通りに連絡を出来るはずもない。出来ない。向こうはオレを“女”だと思っているのだから。

    「嬉しくないわけ? 念願叶って、あの神代類と付き合う事になったのに」
    「………寧々は高校の時、なんと言われてオレがフラれたか知っているだろう…」
    「『男に興味は無い』でしょ? 司、相当ショック受けてたから、よく覚えてるわよ」
    「そうだっ! それなのに、酔っていたとはいえ女装して同じ相手に告白するなど、引かれてもおかしくないだろう?!」

    ぶわりと涙が込み上げてきて、咄嗟に両腕で顔を覆う。
    高校一年の時、隣クラスの神代に一目惚れした。当時は盛んな女性との交遊が噂されていてそれなりに悪目立ちした奴だったが、オレとは正反対のその姿が逆にかっこいいとさえ思っていた。憧れの様な想いだったが、確かにそれは“恋”だった。クラスが違った為に話しかけるきっかけもなく、一方的に想いだけが膨れてしまった結果、二年生の時に神代を呼び出して告白した。してしまった。
    人生初めての恋であり、一世一代の告白だったと思う。緊張もしたし、声だって震えていた。それでもオレなりに頑張ったのだ。だが、神代から返ってきたのは『悪いけど、男に興味は無いかな』という断りの言葉だった。

    (今思えば当たり前なのだが、あの頃は周りが見えていなかったのだろうな…)

    女性関係が派手だったから、少し期待してしまっていた。断られる事を想像もしていなかったから、その後は放心してしまっていて、よく覚えていない。ただ、神代の顔が見られなくて、隠れるように残りの学校生活を終えた。きっと、向こうはオレの顔など覚えてもいないだろう。この前の様子からして、名前すら覚えられていないようだったからな。
    はぁ、と深く溜息を吐くオレに、寧々が肩を竦める。

    「その神代類がモデルになってから、ずっと追っかけてるアンタの行動の方が引かれると思うけど」
    「こ、これは純粋にファンとして応援しているのであって、決してやましい想いでは……!!」
    「最悪な振られ方した相手のポスターを、堂々と部屋に飾れるアンタの神経の方がどうかしてるから」
    「ぅぐ……」

    呆れたような寧々の言葉に、何も言えなくなってしまう。
    高校卒業後、神代は正式にモデルとなった。今や雑誌やCMで見ない日が無いだろう程に有名な人気モデルである。女性との交遊も高校卒業後は一切していないという噂も聞いた。
    そんな神代の事を、あんな振られ方をしたにも関わらず諦めきれなかったんだ。否、アプローチをかけるつもりは一切ない。ただ、いつか他の恋をするまでは、陰ながら応援していたいと、そう思っていた。
    それなのに、何故こうなったのか。

    「とりあえず、一回会ってみれば良いじゃん」
    「…そうは言うが、オレは……」
    「で、大人になっても性格が最悪だって分かれば、さすがのアンタも諦めがつくでしょ」
    「………」

    飲み物を一気に飲み干した寧々は、「そろそろ休憩時間が終わるから」と先に席を立ってしまった。相談料として寧々の飲み物代も含めた領収書を手に取って、オレも席を立つ。会計を済ませてカフェを出て、そのまま職場に戻る。

    (……諦め、か…)

    『男に興味は無い』と、そう言われた時点で諦めなんてついている。否、この想いは消えないが、『付き合いたい』とは思っていない。陰で神代の姿を見ているだけで構わなかった。高校の頃のように。だから、接点など無くていいのだが、ここで連絡をせず無視するのも悪い気がしてしまう。

    (服も、返さねばならんしな…)

    あの日貸してくれた上着が、未だに部屋にある。洗濯はしたが、まだ微かに神代の匂いがする気がして落ち着かず、袋に入れてクローゼットにしまってしまったが。それを返すためだけでも、会うべきだろう。会って、あの夜の事を謝罪して、上着を……。
    そこで はた、と疑問が浮かぶ。ずっと気付かないふりをしていただろう、疑問が。

    「……ぁ、あの夜…、一体何をしたんだ…?!」

    ―――

    「こんにちは、天馬くん」
    「…………こ、んにちは、…神代、くん」

    もごもごと口篭りながら挨拶を返せば、神代が綺麗な顔で笑いかけてくる。その顔に、う゛っ、と低い声が漏れた。
    結局、上着を返さねば、という名目で、もう一度神代に会うこととなってしまった。念の為に女装もして、だ。バレる前に謝罪とお礼だけしてこの前のように逃げればいい。返すものを返して、二度と会わなければなにも問題は無い。
    顔を隠すためか頭をすっぽりと覆う帽子を被った神代が、ズラしていたマスク付け直す。すっ、と差し出された手を見て、目を瞬いた。

    「ぁ、上着ですよね…! これです! 色々とすみませんでした!」
    「…ありがとう」
    「それではこれで…!」
    「待ってよ。せっかくだから、お茶でもどうかな?」

    差し出された手を数秒見つめ、“上着を返せ”という事なのだと察した。すぐ、押し付けるように神代の手に上着の入った紙袋を手渡すと、反対の手で腕が掴まれる。眉を下げて軽く首を傾ける神代に、思わず言葉を飲み込んだ。お願い事をする子どものようなその顔に 頷いてしまいそうになるのをなんとか堪えて無理やり笑顔を浮かべる。

    「いえ、急いでますので……」
    「そう言わずに、少しだけ、…ダメかい?」
    「…ぅ……」

    ずいっ、と近付けられたその顔があまりに綺麗で、小さく呻く声が口をつく。滑るように両手でオレの手を掴む神代は、更に顔をオレの方へ寄せてくる。あまりに近い距離感に、心臓が大きな音を立て、顔に熱が集まった。今すぐに逃げ出したいのに、神代がオレの手を離してくれない。「天馬くん」とダメ押しのようにかけられたその声に、頭の中はパニック状態だった。
    じんわりと伝わる手の熱に、ぶわりと体が熱を持つ。気付けば、こくこくと縦に頷いてしまっていて、そんなオレを見た神代は にこりと笑った。

    「それなら、そこのカフェなんてどうかな?」
    「…は、はぃ……」

    あっさりと顔が離され、握られた手が引かれる。なんとも早い切り替えに呆気としつつ、引かれる手に従って神代と共に近くのカフェに入った。
    お洒落な内装と静かな雰囲気の店内を、神代は真っ直ぐ進んでいく。慣れたように奥の席にオレの手を引くと、隅っこのソファー席の方へ手を差し出される。「奥にどうぞ」そう言った神代の声は、優しい声音だった。言われるままに奥の席に座ると、神代が向かい側の椅子へ腰を下ろす。
    メニュー表がテーブルの上に置かれ、ぱらぱらと開かれた。

    「あの日は、無事に帰れたのかい?」
    「は、はい…」
    「それは良かった。連絡も中々来なくて、心配だったんだ」
    「あ……、すま…、すみません…」

    神代の言葉に、反射的に謝ってしまう。
    心配、してくれたのか。あんな風に逃げ帰ったオレを。会いたくないと、連絡を避けていた自分が情けない。昔フラれた事を引きずって、余計な心配をかけてしまった。悪いことをしてしまったな、と一人心の中で反省していれば、神代の指がメニュー表を指さした。

    「このカフェのオススメはケーキなのだけど、天馬くんも一緒にどうかな?」
    「…た、食べます……!」
    「甘いものは好きかい?」
    「そう、ですね…好きです」
    「良かった」

    ふわりと微笑まれ、思わず心臓が大きく跳ね上がる。
    この状況はなんなのだろうか。何故、あの神代類とカフェでケーキを食べるなんて話になっているのか。「チーズケーキが美味しいんだ」と話す神代の言葉に、「では、それで」と短く返す。

    (…まさか、引き止められるとは思わなかった……)

    上着を返して、それでおしまいだと、そう思ったんだ。こちらから引き止めなければ、何事もなく全て終わると。それなのに、神代はオレを引き止めた。カフェでお茶をしようと誘い、あの頃では見ることの出来なかっただろう優しい顔をオレへ向けてくる。
    その瞳に映る自分の姿は、“オレではないオレ”で、胸の奥が ちくっとした。

    (…オレが女であれば、…あの時の告白の返事も、変わっていたのだろうか……)

    こんな風に、お茶に誘ってくれただろうか。一時でも、神代の恋人になれたのだろうか。こんな顔で、笑いかけてくれたのか。
    そう思う程、なんだか落ち着かなくなってしまう。雑誌で見た神代類は、女性の理想を体現したかのようなかっこ良さで様々な服を着こなしている。同じ服を着た男性を見かける度に神代との違いを探しては、更に惹かれてしまう。
    こんな想いを抱いていると知られてはまずい。特に、オレが神代と同じ“男”で、女性が神代に抱く想いと同じ想いを持っている、と。それだけは、神代に知られるわけにはいかない。

    「…天馬くん…?」
    「ぁ、…な、なんですか?」
    「……考え事かい?」
    「…そ、うです、ね……」

    気まずくなってしまって、顔をそっと横へ逸らす。
    このままでは、緊張で余計な事まで口にしてしまいそうだ。そわそわとしながら注文したケーキを待つオレの方へ、神代が手を伸ばす。差し出された手に目を瞬き顔を上げれば、神代がふわりと柔らかく笑いかけてきた。

    「手、出して」
    「…ぇ、…ぁ、はい……」

    言われるままに手を出すと、その手が握られる。
    ドキッ、として顔を上げるも、神代は依然として柔らかい微笑みでオレを見つめてくる。まるで、“恋人”に向ける顔のように。
    繋ぐ手はテーブルの上から動かず、何をするでもなく神代の手に包まれたままだ。訳が分からず、神代の手と神代の顔を交互に見やる。じわりと熱くなる顔を じっ、と見つめられるのも、気恥しかった。

    「っ、…あ、の……手、…」
    「嫌かい…?」
    「い、嫌ではない、ですが……、困ります…」
    「何故かな? 僕らはついこの前恋人になったのだから、このくらいは当たり前だろう?」
    「………は…?」

    にこにこと当然の様にそう言った神代に、目が点になる。
    恋人になった、というのは、夢ではなかったのだろうか。いやいやいや、おかしいだろう。何故あの夜だけでそんな展開になるんだ。
    笑顔の神代は、変なことを言ったとは一切思っていないような顔をしている。それで余計に訳が分からなくなり、ほんの少し腕に力を入れて引いてみるも、何故か振り解けない。

    「…な、に…言って……」
    「おや。あの夜、そんな話をしたよね? 君の方から僕を好きだと言ってくれて、付き合おうか、って」
    「っ…?!」

    神代の言葉に、耳を疑う。
    確かに同窓会の翌日にも言われたが、正直同窓会の日の記憶が途中から全く無い。まさか、本当にそんな話をしたのだろうか。酔った勢いで告白をした…? 諦めると決めたのに。高校生の時、自分がどれだけ浅はかだったか思い知ったというのに。
    それなのに、あの夜オレは神代に告白してしまったのか? 神代がずっと好きだったと、打ち明けたのか? それを、神代が頷いたというのもまた信じられない。

    (………結局、女だと思われたから、告白も受け止められたということか…)

    本当に、自分は神代の好みでは無いようだ。と言うよりも、恋愛対象として見られていなかったということだ。ならば、やはり潔く諦めた方がいい。今のままでも十分満足はしているのだからな。
    店員さんが注文していたケーキを運んでくるのが見えて、ほんの少し手に力を入れる。と、それに気付いた神代が手を離してくれた。ホッと一つ息を吐いて、目の前に置かれたチーズケーキを見つめる。

    「……そ、の…、無かったことに、してください…」
    「…………何故だい?」
    「神代、くんとは、…付き合えない…」

    両手を膝の上に置いて、ケーキに視線を向ける。神代の顔を見て言う勇気はなかった。
    正直に言うと、まだ上手く状況が飲み込めていないが、心のどこかで嬉しいと思ってしまった。オレの名前を呼んでくれて、オレと向かい合って話してくれている。それに、手を握られるのも、ドキドキする。だが、これは全て“オレが女である”事が前提でなければならない。
    オレが女だと思っているから、神代は今こうして目の前にいるのだろう。

    「…高校の時に、僕が君の告白を断ったからかい…?」
    「ぇ、…違うっ…! オっ、…わ、私には、神代、くんは勿体ないから…」
    「………」

    眉尻を下げて悲しそうに笑う神代に、思わずほんの少し身を乗り出す。“オレ”と言いかけて慌てて“私”に言い直したが、違和感しかない。神代くん、と呼ぶのも慣れなくて難しい。けれど、接点の無かったオレが“神代”と呼び捨てにも出来ない。女装して女と偽っているなら尚更だ。
    あの時断られた言葉は、確かに衝撃的だった。後先考えずに告白したオレが悪いわけだが…。その事を恨んでいるわけではない。ただ、もう不快な思いはしたくないと、そう思っているだけなんだ。この想いが成就する事は諦めたが、陰でこっそり神代の活躍を見守っていたい。神代を騙すような形で付き合いたいとはどうしても思えないだけで、こうして真剣に向き合ってくれる事は嬉しく思っている。

    「…天馬くんって、普段は眼鏡なのかい?」
    「え……、ぁ、うん…」
    「そうなんだね。それなら、同窓会の日はコンタクトでもしていたのかな?」
    「ぃ、や、……一応、裸眼で…」

    話が急に変わって、戸惑ってしまう。何故、眼鏡の話になったのだろうか。
    中学の頃から眼鏡をかけ始めた。本を読むのが好きだった事と、細かい作り物も趣味でしていたから、目が悪かった。裸眼だと近い距離のもの以外はほとんどぼやける程度に悪い。何となく場所を察してぶつかったりはしないが、眼鏡をかけている方が楽に生活できる。同窓会の日は女性陣がオレに化粧をする際外して、そのままが良いと言われたからそうした。同窓会の翌日、神代の事が最初分からなかったのも、少しぼやけていたからだろう。

    「あの日の天馬くんも可愛かったけれど、眼鏡の君も魅力的だね」
    「んぇっ…?!」
    「あまりに可愛らしくて、ますます本気になってしまうよ」
    「…か、揶揄うでないっ…!!」

    あからさまなお世辞に対して、情けなくも ぶわりと顔が熱くなる。綺麗な顔で微笑まれるのも、聞いた事のない声で“可愛い”と言われるのも、心臓に悪い。“本気になる”とはなんだ?! そういう事を軽々しく言うでない! そんな事を言われたら、勘違いしてしまいそうになる。
    フォークで大きめにチーズケーキを切って、それをフォークで掬い、誤魔化すように口へ運ぶ。が、その途中で手が掴まれ、神代の方へ引かれた。

    「っ…?!」

    オレの使いかけのフォークのまま、神代がオレのケーキを目の前で食べた。目を伏せて、ケーキを一口で食べるその顔に、思わず息を飲む。掴まれた手に伝わる熱と、目の前の光景に心臓が早鐘を打った。
    伏せられた瞳がオレに向けられ、ゆっくりと細められる。数秒が何十分にも感じられるほど、神代のほんの少しの動きに目が奪われて、ドキドキさせられる。ケーキの無くなったフォークが神代の口からゆっくりと離れていく。

    「ご馳走様」

    そう呟いた神代の声音は、何故か甘い響きに聞こえた。
    かあぁ、と顔に熱が集まり、オレの手からフォークが落ちる。カラン、とテーブルの上に落ちたフォークはそのままに、掴まれた手は流れるように神代の手に繋がれる。指と指が絡むような、しっかりとした繋ぎ方に、呼吸すら忘れて固まってしまう。
    目の前で怒っている事が、理解出来ない。まるで夢の様な、ふわふわした感じがする。それなのに、心臓の鼓動は信じられない程早くて痛い。繋ぐ手が熱くて、溶けそうだ。
    気恥ずかしくなり片手で口元を隠せば、神代がオレの手を引いた。

    「本気だよ」
    「っ…」
    「天馬くんの事を、もっと知りたいんだ」

    繋ぐ手の甲に、神代の唇が触れる。
    映画やドラマのワンシーンでしか見ないような光景は、オレの妄想なのではないだろうか。優しいその表情と、じっ、とオレを見つめる月のような瞳に、言葉が出てこない。
    こんな事を言われたのは、初めてだった。

    (……胸が、苦しい…)

    胸の奥がいっぱいで、張り裂けてしまいそうな程苦しい。駄目だと分かっているのに、神代にそう言われてしまうと、頷いてしまいたくなる。好きだと、言いたくなる。もっと知ってほしいと思ってしまう。

    「少しでいい。僕に、時間をくれないかい?」

    寂しそうなその声音に、ぎゅぅ、と胸を掴まれたような気がした。
    駄目だ。これ以上はまずい。断って、連絡先も消さなければならない。男だとバレて引かれる前に、逃げないと…。
    はく、と一度開きかけた口が音もなく閉じる。息を吸って、震える口をもう一度開いた。

    「…す、こし、だけ…なら……」

    零れた言葉は、オレも予想していなかった言葉だった。


    「……か、みしろ、くん…?」

    女性にしては少し低めの声と、大きな蜂蜜色の瞳。大きな眼鏡のレンズを通して僕を見るその瞳に、溜息を吐く。きょとん、とする天馬くんは、きっと僕が何故突然顔を近付けたのかすら気付いて無いのだろう。
    最初は、恋愛慣れしてないから簡単に落とせると思っただけだった。マネージャーから止められていたから女性との連絡先を全て削除し遊ぶのも控えていた。その退屈しのぎのつもりだったんだ。僕の名誉挽回も兼ねて、少し遊んでその気にさせたらすぐ切ればいいと、その程度で考えていたのに…。

    「…はぁあ……」
    「んぇ…?! な、何故溜息を吐くんだ…?!」
    「………そういう所だよ…」

    拍子抜けしてしまう程何も考えていなさそうなその丸い頬を指で摘んで軽く引っ張れば、天馬くんは慌てて僕の手を掴んだ。この少し変わった口調ですら、気が抜けてしまう。世間知らずで、どこか不思議な雰囲気の天馬くんから、目が逸らせない。

    (……やられた…)

    もう一度溜息を吐いた僕に、天馬くんは泣きそうな顔をした。

    ―――

    (…退屈だなぁ……)

    気が向いたから参加してみた同窓会も、撮影で遅れての参加となり着いた時には既に、周りはほとんど出来上がってしまっていた。挨拶もそこそこに空いている席に座って、酔った元同級生達に薦められるままお酒を頼む。お酒には強いと自負しているけれど、今夜はあまり飲まないで、とマネージャーに言い付けられているので軽く飲んでさっさと帰ろう。
    テーブルに置かれたお酒をちびちびと飲みながら、酔ってテンションの高くなっている元同級生達を眺めた。クラス委員だった彼女は随分と綺麗になったものだ。その隣の子は、当時彼女と仲の良かったあの子かな。あっちにいるのは、同じ緑化委員だった子だね。指輪をしているという事は、旦那さんがいるのかな。美人な子だから残念だ。

    (あの頃は、告白してきた子達によく手を出してたっけ…)

    若気の至りというやつだ。どの女子達も少し良い顔で口説いてあげれば、すぐ本気にされた。デートの帰りに良い雰囲気を作ってホテルに、なんて事も繰り返していたので、それなりに悪い噂が流れていたのも知っている。
    それでも、誰かと触れ合う事が、一番の退屈しのぎだった。
    見覚えのある子達を眺めていれば、ふと、知らない女性が視界に映る。金色の髪はふわふわと緩く巻かれていて、白い清楚なワンピースを纏う落ち着いた雰囲気の女性だった。

    (……あんな綺麗な子、同級生にいただろうか…?)

    背は高めで、声も女性にしては少し低い。けれど、薄く化粧を施したその顔はこの会場のどの女性より綺麗だ。どこか幼さは感じるものの、結構悪くないと思った。
    じっ、と見てしまっていたからか、こちらに気付いたその子は僕と目が合うと ふわりと笑いかけてくる。酔っているのか、彼女の顔はほんのりと赤く染まっていた。ふらふらと覚束無い足取りで近付いてきた彼女は、僕の隣にゆっくりと腰を下ろす。

    「…久しぶりだな、神代」
    「……すまないね。久しぶりで、名前が思い出せないのだけど…」
    「んむ…? オレは、司だ。天馬司」
    「…天馬、くん……?」

    少し男のような口調をしているのは気になるけれど、今のご時世そういう女性もいるのだろう。
    ふわりと香る花の匂いに、そう思う事にした。ふにゃふにゃと笑う天馬くんは、差し出した僕の手を握るとそのまま僕の肩に頭を預けてくる。随分と距離感の近い女性だ。お酒の匂いに混じって微かに香るのは、洗剤の匂いだろうか。香水とは明らかに違う強過ぎないその匂いも悪くない。

    「そうだ。以前、神代に告白して、フラれたのだぞ」
    「おや、そうなのかい?」
    「…むぅ、忘れるとは酷いやつだ」

    相当酔っているのだろう、僕の腕をしっかり抱き締めて頬を擦り寄せるその様に、苦笑してしまう。
    こんな綺麗な子なら断る事もないだろうし、十年経ったからと言っても忘れないと思うのだけど…。積極的な子なら尚更だ。それとも、一度抱いた後に飽きて別れた事を言っているのだろうか。その方が十分可能性がありそうだ。
    酔って少々舌足らずな口調も相まって、可愛らしく思えてくる。一度抱いたのなら、二度目も三度目も変わらないだろうね。丁度退屈で早々に抜けるつもりだったから、上手く言いくるめて持ち帰ってしまっても気付く人はいまい。

    「そうだね、僕は酷いやつだ」
    「…ん……」
    「だから、挽回の機会をおくれ」

    腕を抱く彼女の体を引き寄せて、腕の中に収める。目を瞬く天馬くんは、状況に追いつくのが遅れているようだ。飲みかけのお酒を一気に煽り、彼女の方へ顔を寄せる。小さな声音で、「一緒に抜けよう?」と囁けば、彼女は目を丸くさせて固まってしまった。細い腰に手を回し、ゆっくりとラインに沿って掌を撫で下ろす。ぴく、と肩を跳ねさせた天馬くんは、戸惑ったような表情を僕に向けた。

    「君と、ゆっくり話がしたいな」
    「……は、なし…?」
    「うん。少しだけで良いから、ね?」

    優しい表情を心がけて微笑んで見せれば、彼女は躊躇い勝ちに頷いた。

    ―――

    「か、神代…、」
    「逃げないでよ。ここまで着いてきておいて、その気はありません、なんて通じないでしょ?」
    「…っ、……や、…嫌だっ……、は、なせ…」

    酔った幹事に二人分の参加費を手渡して、緊張する天馬くんの腕を引いたまま店を出た。先に呼んでいたタクシーに半ば強引に押し込み、誤魔化しながら自宅へ連れてくる事には成功した。けれど、自宅の玄関前まで来た彼女は、『帰るっ…!』と言い出したのだ。話だけでも、と言った僕に、『門限があるから』と訳の分からない事を言う彼女に痺れを切らし、無理やり家の中へ引き込んだ。
    “その気は無い”なんて、今更言い逃れ出来るはずが無い。酔っていたとは言え、あれだけ体を寄せて誘ってきたのは彼女の方なのだから。

    「面倒だなぁ」
    「ぉわっ…、なっ、……おろせっ…!」
    「はいはい、今下ろしますよ」
    「っ、んぶ……」

    玄関の鍵を閉め、僕から逃げようとする彼女を抱え上げる。細い割に存外重たいな、とぼんやり思いながら、靴を乱雑に脱がせた。自分の靴も脱ぎ、寝室の方へ足を向ける。荷物は適当に玄関にまとめて置いていき、散らかった足元を上手く避けながらベッドわきまで辿り着く。要望通り天馬くんをベッドの上に落とすように下ろせば、彼女は驚いて変な声を上げる。ギッ、とスプリングを軋ませてベッドに乗り上げ、天馬くんのワンピースに手をかけた。

    「僕が好きだった、なんて、嬉しいことを言ってくれたお返しだよ」
    「言ってないっ…! 言ってないっ、」
    「告白してくれたんでしょ? 同じ事じゃないか」
    「っ、…ちがう…、もう、好きではないっ!」

    震える手が、僕の手を掴んで引き離そうとしてくる。そんな抵抗に腹が立って、ワンピースを一気に脱がせた。キャミソールとショートパンツがその下から現れて、かあぁ、と顔を赤くさせた天馬くんの抵抗が一層激しくなる。バタバタと手足を暴れさせる彼女は、必死に首を左右に振り乱して「嫌だっ」を主張した。
    なんだか興醒めだ。思わせぶりな態度で近付いてきたのは彼女の方だというのに、訳が分からない。

    「…どうせ君も、僕の見た目が好きなだけでしょ」

    ぼそ、と零れた自分の言葉に、胸の奥がチクチクと痛む気がした。
    顔が良いから、女性が寄ってくる。誰と付き合ってみても、つまらなかった。その内、付き合うのも馬鹿らしくなってきて、“遊ぶ”事だけを退屈しのぎに選んだ。一時だけ満たされるその瞬間だけを求めて、面倒になる前に他の子に乗り換えては、飽きたら捨てるを繰り返して。
    この子もそうだ。顔がかっこいいとか、そういう理由で寄ってきた内の一人だろう。それなら、他の子と変わらない。

    「夢だと思って、楽しもうよ」
    「……夢でも、神代とは、しない…したくない…」
    「強情だなぁ」

    首を左右に振って、僕を拒もうとする天馬くんの手首を掴む。その手首に一つ口付ければ、彼女は びくっ、と肩を跳ねさせた。戸惑うような瞳が僕へ向けられ、口紅でほんのり色付く唇が「ぃ、やだ…」と声を落とす。随分と警戒されているなぁ、なんて思いながら、キャミソールの裾に手を滑り込ませた。

    「…今の神代は、きらいだ……」
    「………へぇ」
    「もう、諦めたんだ…、今更、…好きには、ならん…」

    そう口にする天馬くんの瞳は、分かりやすいほど熱を宿して僕を見つめてくる。舌足らずな言葉も、うとうとと閉じかけた瞼も、力の抜けていく細い手足も、もう殆ど抵抗出来ないようだ。暴れて酔いがさらに回ったのだろうね。眠たいのか眉間に皺を寄せて瞼をゆっくり閉じかけた天馬くんが、僕の腕を力なく掴む。

    「……ほかの、ひと、と…」
    「……………」

    すぅ、と眠りにつく天馬くんに、出かけた言葉を飲み込む。
    手を離し、彼女の体に布団をそっとかけた。長い前髪を指で軽く払うと、穏やかな寝顔が現れる。そんな彼女の頬を指でなぞって、強く拳を握り締めた。

    「“他の人”、ね……」

    眠りにつく直前の天馬くんの言葉を小さく呟けば、胸の奥がもやもやとしてくる。
    “僕を好きだった”と言っていたのに、“他の誰かが良い”と言うのか。もう好きにはならないと、そう言った。たった一度、僕が“フッた”から。“諦めた”と。僕を誘っておきながら、僕を拒んだ。

    「……気に入らないなぁ…」

    僕より他の男を選ぶというのが、気に入らない。僕に向かって“嫌いだ”と言ったことも。女性にそれなりにモテる自信がある。顔に寄ってくるだけではあれど、彼女もその一人だろう。
    それなのに、僕の誘いを断った。それが無性に腹立たしい。素直に喜んで、一晩付き合ってくれればいいのに。僕が自宅に招くなんて中々無い事だと、彼女は知らないのだろう。ホテルで済ませても良かったけれど、何故か今夜は気分が良かった。その気分が全て台無しだ。

    「一週間…いや、三日もあれば十分かな」

    適当に取った紙に僕の連絡先を書き込んでおき、彼女の隣に横になる。
    三日で、天馬くんをその気にさせてみせようじゃないか。僕を好きにはならないと宣言した彼女を、僕以外に目移りできないほど本気にさせる。自分から何でも受け入れるように、僕の事に対して盲目的な愛を持つよう仕向けてみせる。そうしたら、“飽きた”と言って手放せばいい。
    楽しみだ。楽しみで仕方がない。僕を好きだと言う彼女が、目の前で泣き出す様を想像して、ほんの少し胸の奥がすっきりする。

    「覚悟してね、天馬くん」

    僕をその気にさせたのは、君なのだから。

    ―――

    「こんにちは、天馬くん」
    「…………こ、んにちは、…神代、くん」

    にこりと笑いかければ、彼女は困ったように顔を顰めた。
    あの日から二週間近く経って漸く連絡が来た。まさかここまで連絡が来ないとは思わなかったので、さすがに腹も立ったけど、そこは飲み込む。僕から連絡先を渡したというのに、連絡するのに何日かけるのか。あのまま逃げられたかと思った。
    『上着を返したいです』という連絡が来て、文面では二つ返事で返した。僕としては文句を言いたかったけれど、言ってしまっては余計に距離ができてしまうから避けた。出来るだけ優しくして、まずは警戒心を解くのが先だろう。

    (…今日は眼鏡なのか)

    同窓会の日は、コンタクトだったのだろうか。今日の彼女はフレームの大きな眼鏡をしている。服装はそれなりに可愛らしいけれど、どこのメーカーの服だろうか。デザインはシンプルだけど、彼女によく似合っている。センスは悪くないのだろうね。
    マスクをつけ直し、天馬くんの方へ手を差し出す。僕の手を見た彼女は、数秒程固まってその目を瞬いた。恋人同士で手を差し出されたら、“繋ぐ”のが一般的だろう。何を考える必要があるのか…。
    そう思いながら待っていれば、彼女はハッ、と顔を上げ、手に持っていた紙袋を僕の手に渡してきた。

    「ぁ、上着ですよね…! これです! 色々とすみませんでした!」
    「…ありがとう」

    恥ずかしそうに頬をほんのり赤らめた天馬くんは、誤魔化すように笑いかけてくる。そんな彼女に心の中で『違うでしょ?!』と盛大にツッコミを入れるも、彼女は気付かない。
    にこり、と笑顔を貼り付けて、仕方なく紙袋を受け取る。まさか、ここまで鈍いとは。もしかして、僕にフラれたという彼女の言葉も、彼女の勘違いだったのではないだろうか? 天馬くんみたいに可愛い子なら、一度くらい手は出したと思うけど…。
    今までにないタイプの彼女をまじまじと見つめていれば、天馬くんはにこりと笑って後ろへ一歩下がった。

    「それではこれで…!」
    「待ってよ」

    早々に離れようとする天馬くんに驚いて、咄嗟に手を伸ばす。彼女の手を掴めば、きょとんという顔をされた。
    まさか本当に上着を返しておしまい、だとは思っていなかった為、彼女の言動に頭が痛くなる気がしてくる。

    「せっかくだから、お茶でもどうかな?」

    眉を下げて軽く首を傾ければ、彼女が一瞬戸惑った顔をした。なんと返すか悩んでいるのだろう。視線が彷徨い、次いで愛想笑いを返される。

    「いえ、急いでますので……」
    「そう言わずに、少しだけ、…ダメかい?」
    「…ぅ……」

    逃げる気満々の天馬くんへ顔を近づけて、その瞳を覗き込む。白い手を両手で掴むと、彼女は頬を赤らめた。どう見ても僕を意識しているのに、何故逃げようとするのか。僕が誘っているのだから、喜んで受け入れればいいのに。たった一夜でも、彼女にとっては幸せな一時のはずだ。
    中々頷かない天馬くんに痺れを切らして、ダメ押しのように「天馬くん」と彼女の名前を呼ぶ。更に顔を赤く染めた彼女は、数秒迷ってから漸くこくこくと首を縦に振った。

    「それなら、そこのカフェなんてどうかな?」
    「…は、はぃ……」

    まさかカフェに誘うだけでこんなに疲れるとは思わなかった。それでも、彼女が頷いてくれたのならこっちのものだ。後はこの顔でその気にさせればいい。
    一度背を正して彼女の手を引く。逃げられる前に、予め調べておいた人が少なくて落ち着けるカフェへ彼女を案内した。
    空席の中から壁側の隅の席を見つけ、真っ直ぐそちらへ向かう。ソファー席なら、この前のように逃げようとしても引き止められるので、自然な態度で彼女をソファー席に座らせた。ここで隣に座ると警戒されるから、向かいの席にとりあえず座る。そわそわと落ち着きなく店内を見回す天馬くんを横目に、メニュー表を広げた。
    事前に東雲くんに聞いておいたこのお店のお勧めは、チーズケーキだったね。

    「あの日は、無事に帰れたのかい?」
    「は、はい…」
    「それは良かった。連絡も中々来なくて、心配だったんだ」
    「あ……、すま…、すみません…」

    肩に力が入っている天馬くんは、僕の言葉に申し訳なさそうな顔をする。
    まさか二週間も連絡が無いとは思わなかった。先程の様子や、今の彼の緊張した様子を見る分では、まだ僕に対して多少の好意は有りそうなのだけど…。それなら、すぐに連絡も来るはずだ。この僕が連絡先を渡したのだから。それなのに、二週間も待たされた。
    それも、『上着を返したいので、お時間を頂けますか?』なんて文で。

    (半信半疑でも、少しは関係を確認しようとか、仲良くなる為の自己紹介とかをすればいいのに)

    彼女の様子を見ても、分かりやすく僕を意識しているはずだ。それなのに、何故こんなにもあっさり距離を置こうとするのか。僕が“付き合おう”と彼女に言ったのに、だ。
    何となくモヤモヤとしてきた自分の感情に気付き、慌てて深く呼吸をして気持ちを落ち着かせる。

    「このカフェのオススメはケーキなのだけど、天馬くんも一緒にどうかな?」
    「…た、食べます……!」
    「甘いものは好きかい?」
    「そう、ですね…好きです」
    「良かった」

    優しく笑いかければ、彼女は肩を跳ねさせ背筋を伸ばす。両手をきっちりと膝に置き、固くなる様が面白い。どこをどう見ても、僕に好意のある女性の態度だ。赤くなった顔をまじまじと見つめ、引き攣りそうになる口角に力を入れる。

    「この店のチーズケーキが美味しいんだ」
    「では、それで」

    僕の言葉に素直に頷く彼女は、逃げるように視線を逸らした。片手を時折胸元に当てる仕草や、分かりやすく深呼吸をしている姿に、つい笑ってしまいそうになる。
    きっと、僕の方から少し触れるだけで固まってしまうのだろうね。

    (この分なら、次のデートの約束でも取り付けてしまえば、クリア出来そうかな)

    『好きではない』なんて言っていたけれど、どう見ても嘘だ。視線を彷徨わせて何か考えているようだけど、このまま優しく接してあげれば、他の子のように擦り寄ってくるはずだ。案外、このままホテルまで着いて来てしまいそうなほど単純な子だしね。
    そわそわとする彼女は、困ったように眉を下げて視線を下へ下げた。何を考えているのかは分からないけれど、そろそろもう一押ししてみようか。

    「…天馬くん…?」
    「ぁ、…な、なんですか?」
    「……考え事かい?」
    「…そ、うです、ね……」

    僕の声でハッ、と顔を上げる天馬くんは、長い髪に指で触れてから顔を横へ逸らした。そんな彼女に、そっと手を差し出す。
    きょとん、と僕の手をまじまじと見つめ、彼女は僕にその顔を向けてくる。そんな彼女に、出来るだけ優しい顔を作って向けてあげた。

    「手、出して」
    「…ぇ、…ぁ、はい……」

    僕の言葉に素直に従って、彼女が手を差し出してくる。その手を壊れ物のようにそっと握った。驚く彼女は、戸惑うように僕を見てくる。“愛おしい”を体現するように柔らかく微笑んで見つめてあげる、それだけで、彼女の顔が赤くなっていく。掌に伝わる熱と、力の入る細い指先、そして熱を持った蜂蜜色の瞳で、彼女の心境が手に取るように分かる。

    (期待していいよ。もっと期待して、“僕に愛されている”と信じ込めばいい)

    そうしたら、彼女の警戒心も無くなって、目的が果たせるのだから。僕の誘いを二度と断れなくなるところまで本気にさせて、もう一度フッてあげる。
    にこにこと彼女を見つめていれば、恥ずかしそうに視線を彷徨わせる天馬くんが、震える唇で声を発した。

    「っ、…あ、の……手、…」
    「嫌かい…?」
    「い、嫌ではない、ですが……、困ります…」
    「何故かな? 僕らはついこの前恋人になったのだから、このくらいは当たり前だろう?」
    「………は…?」

    驚いたように、彼女は固まってしまう。
    その戸惑うような表情が、何だか可哀想で面白い。あの翌日にも確かに言ったけれど、半信半疑だったのだろうね。
    腕を振り解こうとしているのか、彼女の手に僅かに力が入った。けれど、ここで逃がすつもりはない。バレないように手に力を入れて、彼女の手を離さず握り続けた。

    「…な、に…言って……」
    「おや。あの夜、そんな話をしたよね? 君の方から僕を好きだと言ってくれて、付き合おうか、って」
    「っ…?!」

    僕の言葉を聞いた彼女は、信じられないと言いたげに言葉を飲み込んだ。
    残念ながら、半分本当で、半分は嘘だ。彼女は僕を『好きだ』とは言わなかった。『もう好きではない』と、過去形にした。同窓会の会場では、『昔告白してフラれた』のだと、笑い話のように言ってもいた。
    確かにまだ好意はあるのだろう。けれど、それは愛では無いのだと、彼女は僕を拒んだ。

    (酔って記憶が無いから、『嘘だ』とも言えないねぇ)

    あの日、彼女は相当酔っていたし、翌日の様子を見ても分かる通り、彼女にあの夜の記憶は無いのだろう。
    だからこそ、彼女は『違う』と否定できない。僕が襲いかけた事も、それを拒んだ事も覚えていない。それなら、いくらでも嘘を吹き込める。あの夜、彼女を抱いたかどうかも、彼女が僕へなんと言ったかも、僕に都合良く話すことが出来る。
    僕が好きだと彼女に迫られ、半ば強引に体を重ねたのだと嘘をつく事も出来る。まぁ、彼女が処女であればバレるかもしれないけれど、これだけ可愛い子なら、学生の頃の僕が告白されたにも関わらず手を出していないとは思えないしね。

    (どうせなら、彼女が逃げ出せないような内容にしてみようか…?)

    僕の家に強引に着いてきた、とか、僕の方が襲われたということにしてしまえば、罪悪感から多少のお願いは聞いてくれそうだ。見た所、真面目そうな性格をしているから扱い易いだろう。
    ふと、彼女が僕の後ろを見て安堵した。そっと振り返れば、店員が注文したケーキを運んでくるところで、渋々彼女の手を離す。じっ、と机に置かれたケーキを見つめる天馬くんは、僕の差し出したフォークを受け取ると、静かな声で「そ、の…」と切り出した

    「…無かったことに、してください…」
    「…………何故だい?」
    「神代、くんとは、…付き合えない…」

    背筋を正して両手を膝に揃えた彼女は、ケーキをじっと見つめたまま口を開いた。あの夜とは違う、僕と一線を引くような敬語と慣れない様子の呼び方に、腹の奥がモヤっとする。
    ここまで分かりやすい態度をしておいて、まだ拒むのか。彼女が何を躊躇っているのか、よく分からない。

    「…高校の時に、僕が君の告白を断ったからかい…?」
    「ぇ、…違うっ…! オっ、…わ、私には、神代、くんは勿体ないから…」
    「………」

    態とらしく悲しそうな顔をすれば、彼女は身を乗り出して首を横へ振った。尻窄みになる言葉は、嘘のようには聞こえない。一人称も含め、あの夜の話し方が素なのだろうね。言い換えてぎこちなくなっているのが気にはなるけれど、この際どうでもいい。
    問題は、彼女が中々頷かない事だ。存外意思が固い子なのかな。あの夜も、あれだけ酔っていたにも関わらず拒んできたのを考えれば、相当厄介なのかもしれない。

    「…天馬くんって、普段は眼鏡なのかい?」
    「え……、ぁ、うん…」

    それなら、攻め方を変えてみようか。

    「そうなんだね。それなら、同窓会の日はコンタクトでもしていたのかな?」
    「ぃ、や、……一応、裸眼で…」

    突然話題を変えたからか、天馬くんが戸惑い始める。
    そんな彼女に笑顔を向ければ、彼女はほんの少し肩に力を入れた。

    「あの日の天馬くんも可愛かったけれど、眼鏡の君も魅力的だね」
    「んぇっ…?!」

    出来るだけ直球に、彼女を褒めてみる。本音も含んでいるから嘘では無い。同窓会の日に見た天馬くんは可愛らしかったし、今の天馬くんも悪くない。僕を拒む意思の強さも、面倒ではあれど彼女の魅力の一つだ。難しいゲームの方がやる気は上がる。簡単に落ちると高を括っていた事は、この際謝罪してもいい。けれど、諦めるつもりもない。

    「あまりに可愛らしくて、ますます本気になってしまうよ」
    「…か、揶揄うでないっ…!!」

    予想通り、褒められるのに慣れていない様で、彼女は顔を赤らめて少し大きな声で返してきた。口調があの夜と同じという事は、素で返してくれているのだろうね。取り繕う事が出来なくなるほど戸惑っているなら、この接し方が良いのかもしれない。

    (…もう一押し、かな)

    誤魔化すようにケーキを食べようとする天馬くんの手を掴み、その手を僕の方へ引く。東雲くんオススメのチーズケーキは、チーズの香りが口の中に広がって、確かに美味しかった。今度彼にお礼を伝えないとね。

    「っ…?!」

    僕の行動に、彼女は息を飲む。
    掴む手に力が入るが伝わってきて、指先まで緊張しているのだと知れる。
    伏せた目を開け天馬くんを見れば、彼女は赤い顔で固まっていた。熱の灯る蜂蜜色の瞳は、どう見ても僕を意識している。僕に好意を持つ者の瞳だ。
    ふ、と優越感を隠すように優しく微笑んで魅せて、フォークから口を離す。

    「ご馳走様」

    そう呟くように口にすれば、彼女の手からフォークが落ちた。カラン、と音を立ててテーブルに落ちるフォークは気にせず、これ幸いと彼女の手に僕の手を滑らせる。指と指を絡ませるようにしっかりと握って、彼女の目を正面から見つめる。
    繋ぐ手に視線が釘付けになる天馬くんは、戸惑いながら口元を片手で覆った。

    (もっと、僕を意識すればいい)

    『嫌いだ』と言った言葉を後悔する程に。
    他の男に目移りなんて出来ないほど、本気になればいい。僕に言われれば何でも叶えたくなるほど。僕に求められるのが嬉しいと思えるほど。
    僕に愛される事を希う程に、僕に溺れればいい。

    「本気だよ」
    「っ…」
    「天馬くんの事を、もっと知りたいんだ」

    白い手の甲へ口付ければ、彼女は泣きそうな顔をした。
    どこか嬉しそうに、信じられないものを見るようでいて、幸せな夢に浸るかのように。

    (君が僕に溺れてくれるなら、この安い愛の言葉くらい、いくらでも囁いてあげるから)

    僕無しではいられないほど僕に溺れて、僕以外の物を全て捨てでも僕を選んでくれればいい。身も心も全て僕のモノにしてから、二度と忘れられない程心を抉る方法で捨ててあげる。

    「少しでいい。僕に、時間をくれないかい?」

    縋るようにそう問いかければ、彼女は言葉を飲み込んだ。視線を逸らすことも出来ず、揺れる瞳で僕を見つめてくる。
    拒みたければ拒めばいい。君が僕を拒むなら、拒めなくなる程追い詰めてあげるから。

    (欲に負けて頷くなら、最高に幸せな時間を演出してあげる)

    僕に愛されていると思い込むほど、大切に大切に翻弄して魅せようじゃないか。手を繋ぐだけでなく、抱擁も、キスも、全部してあげる。君へ向けた甘い言葉を何度だって囁いて、特別扱いしてもいい。
    そうして、その身体を僕にくれたすぐ後で、後悔する程の“別れの言葉”を君に贈ろう。

    「…す、こし、だけ…なら……」

    戸惑いながらも、消え入りそうな声でそう返された言葉に、僕は口の隅をゆっくりと上げた。

    (司side)

    「また流されてしまった……」
    「……御愁傷様」

    はぁ、と休憩スペースで溜息を吐けば、寧々がオレの隣で珈琲をあおる。
    あの後、神代になんだかんだ言いくるめられ、次の約束まで取り付けられてしまった。上着を返して二度とあの姿で会わないつもりだったというのに。どうしたものか、と眉間に皺を寄せれば、寧々が じっ、とオレの顔を見てくる。

    「そんなに嫌なら、“男だ”って言えばいいでしょ」
    「…ぅ、……それは、そうなのだが…」
    「次のデートで、しっかり別れてきなさいよね」
    「で、でで、デートではないっ…!!」

    呆れたように溜息を吐いた寧々に、思わず声が裏返ってしたう。
    ただ遊園地に行こうと誘われただけだ。人が多い場所の方が案外バレないからと言われ、そこに決まった。ついでに、チケットも貰ったものがあるから、一緒に行ってくれると助かるとか何とか言われて仕方なく頷いたわけで…。
    よく良く考えれば、神代はオレが女だと思って会っているのだから、向こうからすればデートになるのではないだろうか…? 実際にはオレは男で、以前に神代に告白してフラれているがまだ諦めきれていないから、多少の下心があって…。

    (…待て、もしや、…本当にデートなのか…?!)

    ぶわりと顔に熱が集まり、視線が泳ぐ。
    前回は成り行きでお茶をしただけだが、今回は前もって約束をして会うということで…。一般的に男女が二人で出かけるというのは、世に言う“デート”と言うやつなのではなかろうか。つまり、オレは今度神代と遊園地でデートをするということになるのか? 何故そうなった?!
    今更ながらに大それた約束だったと気付き、冷や汗が背を伝い落ちていく。なにせ、あの人気モデル神代類と遊園地でデートだ。分不相応ではないか。

    「……い、今から、断るのは…」
    「無理でしょ。一度受けたなら行ってきなさいよ」
    「そ、そうは言うが、オレはっ…」
    「最後の思い出と思って楽しめばいいじゃん。ついでに“男”だって打ち明けて盛大にフラれてくれば?」
    「ぅぐ……」

    さらりとそう返してくる寧々に、言葉を詰まらせる。
    確かに、騙すのは心苦しいが、一度引き受けた約束を断るのも悪い気がしてくる。デートかどうかはともかく、神代と出掛ける機会なんて二度とないかもしれん。諦め悪く片想いを拗らせてきた自覚もある。交際する気は無いが、この際束の間の夢と思って一度くらいデートとやらをしても許されるのではなかろうか。

    (お茶をした時は、神代の方からやたらとオレの手に触れてきたが、たった一度のデートで手を繋ぐ以上の事があるとも思えんしな)

    女性経験の多い神代でも、そこまで手が早いということはないだろう。ましてや、このオレが相手なのだ。他に綺麗な女性が沢山いて、そういう人達を相手にしている神代がオレに対してそういう感情を持つとも思えん。
    うん、大丈夫だ。人が多いからと理由をつけてデートの日は手を繋ぐのが鉄板だと、以前咲希に借りた漫画で学んだ。手を繋ぐ状況だけ頭の中で予習しておけば、当日慌てることも無いはずだ。

    「そうと決まれば、隣に並ぶ神代に恥をかかせない服を選ばねばっ…!!」
    「…本気になられても困るんだから、程々にしなさいよね」
    「む…、オレを相手に本気になるはずがないだろう…?」
    「………どうだか…」

    何か言いたげな寧々は、それ以上何も言わずに珈琲を飲み切った。そのままガタッ、と席を立ち、カップの乗ったトレーを持ってそれを片付けに行ってしまう。始業時間が迫っていることに気付き、オレも慌てて立ち上がった。
    いくら女の姿をしていても、所詮紛い物だ。所々で男らしさは出てしまうだろう女装姿のオレよりも、神代の目に止まりそうな女性は沢山いる。それなら、たった一度のデートを失恋の記念に楽しませてもらおう。

    (…“男”と明かすのは難しくとも、一度デートをすれば、飽きて相手にされない可能性もあるからな)

    そうであればいい。そしたら、やはりオレではダメだったのだと諦めもつく。

    ―――

    (……もう、来ているのか…)

    物陰に隠れて じっ、と少し先を盗み見る。
    時刻は待ち合わせ十五分前の八時四十五分。待ち合わせ場所は駅の改札を出て五分ほど歩いた場所にある公園だ。駅では人が多いので、少し離れたこの公園を待ち合わせ場所に指定された。十五分前は早すぎたかと思っていたのだが、ベンチで本を読みながら座っている神代を見つけて、思わず隠れてしまったのだ。
    幸い、すぐに隠れたためか、本に集中しているかで、まだ見つかっていない。

    (…脚が長い……、それに、本を読んでいるだけなのに、かっこいい…)

    さすが人気モデル。スタイルが良い。撮影で着ているのかと思うほど私服のセンスも良い。神代は何を着ても似合うと思っていたが、あのような服も着こなせてしまうのか。これは良いことを知った。
    眼鏡と帽子で隠されていても、かっこいいと分かる。現に、通り過ぎていく女性方がちらちらと神代を見ているではないか。あれでは変装になっていない。かっこよ過ぎてどんな変装をしてもバレてしまいそうだが…。

    (ま、待たせているのだから行かねばならんが…、もう少し見ていたい……!)

    こんな風に本物の神代類を見る機会なんて滅多にない事だ。高校の時は時折見に行っていたが、卒業して接点も無くなれば、大勢のファン同様メディアの情報でしか神代を見ることが出来ない。
    それが、同窓会でたまたま再会し、何故かデートをすることになってしまうなどと、誰が予想できるか。
    数日前にお茶をした時は、神代との距離が近くて落ち着かなかったが、この距離なら気兼ねなく見ていられる。あと五分だけ。十分前には声をかけるから、あと五分だけ許して欲しい。

    「…はぁ…、足を組んで本を読む姿がこんなにもかっこよく決まるのは神代くらいだろうな…、うぅ、…そういう所もすごく好きだ……」

    ページを捲る仕草すら絵になる。撮影の時はこんな感じなのだろうか。ずっと見ていられる。いや、さすがに変態過ぎるか…。だが、高校生の時より背も伸びて大人の余裕というか、雰囲気がまた良い。こっそり写真なんて撮ったら怒られるだろうか。…撮りたい。頼んだら撮らせてくれないか…駄目だな、余計に諦められなくなりそうだ。
    じっ、と物陰から眺めていれば、ぱたん、と神代が本を閉じてしまった。腕時計を確認して、ゆっくり立ち上がる。そんな姿すらキラキラして見えて、視線が逸らせなくなる。黙って見つめていれば、神代が歩き出した。すたすたと歩く神代の歩き方すら見本のように綺麗で、じっ、と見つめ続ける。
    そうして気付けば、目の前で神代が足を止めた。

    「なにをしているんだい? 天馬くん」
    「んぇ……?」
    「随分と熱烈に見つめてくれていたようだけど、出来れば僕の隣でその視線を向けてほしいかな?」

    顔を上げれば、ふわりと神代がオレに向けて笑いかけてくる。瞬間、顔から火が出るのではと思うほど一気に暑くなり、慌てて立ち上がった。
    まさかバレていたとは思わなかった。待ち合わせの時間前で距離もあったのに何故バレたのだろうか。いつから気付かれていたんだ?! まさか最初からということは無いよな?! もしそうならば、陰でこっそり盗み見る変態だと思われるではないか?!
    この場から逃げてしまいたくなって、咄嗟に体を後ろへ向ければ腕が掴まれた。ぐっ、と強く引かれ、バランスを崩した体が後ろへ傾く。そのまま背中から受け止められ、少し上から神代が顔を覗きこんできた。

    「逃がさないよ?」
    「っ……」
    「せっかくのデートなんだから、僕にも君の顔をよく見させてよ」
    「…っ〜〜〜〜…?!?!」

    とても近い距離にある神代の顔に、声にならない叫び声が口をつく。
    陽の光のせいか髪も顔もキラキラと輝いて見えて眩しい。少し動くだけで鼻先が触れてしまいそうだ。顔が熱くて、無意識に眉間に力が入ってしまう。情けない顔をしていると分かってはいるが、どうしようも無い。吐息が唇を掠め、ゾクッ、と背が震えた。
    ゆっくりと近付く距離に、慌てて両手で顔を覆った。

    「…………か、勘弁してくれ…」
    「おや、隠すなんてずるいなぁ」
    「…帰してくれ…、もう無理だ……死んでしまう…」
    「まだ始まってもいないのに、帰すわけないでしょ」

    ほら行くよ。とオレの手を掴んだ神代が、歩き出す。ぴったりと神代がオレの隣にくっつき、肩に腕が回された。退路を塞がれたかのような状況に、低い唸り声のようなものがオレの口から吐き出される。助けてくれ。心臓はもう限界だ。
    ふわりと香るコロンの甘い匂いにもドキドキして、ほんの少し眉を下げる。

    (……もう、死んでもいい…)

    容量を超えた幸福感に、じわぁ、と涙が滲んでしまう。
    それを見た神代が戸惑ったようにオレから離れてしまい、ほんの少し寂しさを覚えた。

    ―――
    (類side)

    (泣かれるとは、思わなかった…)

    まさか、この僕が近付いて泣き出す女性がいるとは思わなかった。酷い言葉を言ったつもりもない。ただ、少々強引に彼女を連れ出したけれど、泣かれるほどのことをした覚えは無い。逃げられると察したからこそ、引き止めるためにとった行動が、裏目に出てしまったようだ。
    今は逃げるつもりがないようで、僕の少し後ろからついてきてくれている。これが厄介で、歩調をゆっくりにして隣に並ぼうとしても、彼女も歩調を遅くしてしまうのでこの一定の距離が中々縮まらない。“デート”なら、隣を歩くのが普通なはずだろう。それなのに、この微妙な距離感はなんなのか。

    (せっかく、可愛らしい格好をしてくれているのに…)

    前回のワンピース姿も良かったけれど、今日は袖や裾がふんわりとしたものにショートパンツと動きやすくも可愛らしい服装をしている。全体的に白と水色を基調としていて、落ち着いた雰囲気だ。天馬くんなら、薄い桃色の服も似合うと思うけれど、そういう服は着ないのだろうか。
    バレない程度に彼女の格好を盗み見つつ、そんな事を考えていれば、不意に天馬くんが顔を上げた。

    「あの、…神代、くん…」
    「…なにかな?」
    「………先程、その…デート、と……」
    「おや、君を誘う時から僕はそのつもりなのだけどね」

    盗み見ていた事は気付かれていないようだ。そわそわとし始めた天馬くんは、僕の返答に変な顔をする。なんというべきだろうか。眉間に皺を寄せて怪訝そうな顔をしている。その顔がなんだか面白くて、つい吹き出しそうになるのを必死に堪えた。
    先程まで顔を赤くして戸惑っていたというのに、この反応はどういう事だろうか。僕に興味が無いという事はなさそうだけど、好まれているとも言いきれない。その前までの反応は、どう見ても僕に好意のある顔をしていたと思うのだけど…。

    (まぁ、帰る頃にはそんな顔出来ない程その気にさせるけど)

    遊園地なら人も多くて気が抜けるだろう。加えて、二人きりになる乗り物も少なくない。物理的な距離さえ詰めてしまえば、後は言葉で落とし込めばいい。幸い、天馬くんは僕の顔に多少なりとも好感を持っているようだからね。女性に好まれる外見はなにかと便利だ。

    (本当に、つまらない世界だ…)

    相変わらず数歩後ろを歩く天馬くんは、肩から下げたバッグの肩紐を強く掴む。視線が逸らされ、困ったような声が、「神代、くんは……」と僕の名を呼んだ。
    足を止めると、彼女はほんの少し首を横に倒して僕を見た。一瞬何かを言いかけて、その口が、不格好に弧を描く。

    「いや、やはり、なんでもない」

    そう言って、彼女は先程言いかけた言葉を無かったことにした。
    気にはなったけれど、それ以上僕も追求はしなかった。

    ―――

    「おぉおおおっ…! 凄いな! あれはどうなっているんだ?!」
    「…あれは、足元に風を送る機械があって、そこから花びらを吹き上げることで、あんな風に魔法をかける演出にしていて…」
    「そうなのか?! 神代はなんでも知っているのだな…!!」

    目をキラキラとさせて乗り物から身を乗り出す天馬くんから、そっと視線を逸らす。頬を赤らめ、楽しそうにする彼女は今までと印象が全く違って見える。興奮しているせいか演技も忘れて、きっと彼女の素の話し方なのだろう、どこか男らしい口調で話しかけてくれている。先程までの緊張は何処へやら。目の前の光景にずっと目を奪われていて、僕への警戒心など忘れてしまったようだ。
    それはそれで、少し癪に障るのだけど…。

    「そんなに身を乗り出すと、落ちてしまうよ」
    「ぅおっ……?!」

    自動運転のボートの縁に両手をついて身を乗り出す天馬くんの体をそっと引き寄せれば、彼女が目を瞬かせる。そのまま背中から倒れ込む彼女を抱き留めれば、先程まではしゃいでいた天馬くんの表情が一変する。
    顔を真っ赤にし、戸惑うように眉を下げ視線を逸らす天馬くんに、ほんの少し気分が良くなる気がした。

    「ほら、もっとこっちに寄って」
    「…ぃ、いや、…気をつけるから…」
    「落ちたら危ないよ。僕が支えるから、遠慮しないでおくれよ」
    「え、遠慮とかではなくっ…! さすがに距離が近いっ…!!」

    彼女の腰に手を回して引き寄せれば、赤い顔をした天馬くんが僕の肩を強く押して逃げようとする。
    水中でレーンにしっかりと固定されたボートとはいえ、多少揺れるのであまり暴れてほしくはないかな。予想以上に抵抗する天馬くんに折れて、仕方なく手を離す。彼女は僕との間に少しだけ距離をとって座り直し、赤くなった頬を両手で覆って俯いてしまった。
    二人きりのボートの旅、という雰囲気重視のアトラクションなはずだけど、彼女が相手では上手くいかない。いや、途中までは良かったはずだ。あんなにも楽しそうにする天馬くんを見るのは初めてだから、それだけ楽しませることだできたということになる。そこまではいいけど、恋人らしい雰囲気に持っていくのがここまで難しいとは。

    (こういうタイプの子って、今までどうしていたんだっけ…)

    大抵告白してきた子と付き合ってきたから、積極的な子が多かった。遊び感覚で手を出した大人しめの子も、少し僕の方から甘い言葉をかければその気になって求めてくれていたように思う。今までの子達なら、このくらいで十分だったはずなのだけど…。
    天馬くんが相手では、全然上手くいかない。あと少しのところで逃げられてしまう。反応を見るに、僕への好意は確かにあるはずなのだけど…。

    「…ねぇ、天馬くん」
    「…………な、なん、ですか…?」
    「好きだよ」
    「んぇ…?!」

    ぶわりと顔を赤らめた天馬くんが、信じられないものを見るような目で僕を見る。
    何度も口にしてきたから、自然と口から言葉が出る。女性が好きな言葉は、こういうものでしょ? これなら、天馬くんも僕を意識せざるを得なくなるはずだ。何回も彼女に言い続ければ、その“信じられない”と疑う目も出来なくなるでしょ。
    天馬くんが僕へ“愛”を返すようになるなら、いくらだって“嘘”もつける。想いの籠らない言葉くらい、何度だって囁いてあげる。
    僕の言葉を鵜呑みにして、早く落ちてくれればいい。

    「天馬くんにも、僕を好きになって欲しいから、これからは沢山言うね」
    「…ぃ、ぃゃ…、……そ、れは…」
    「出来れば、帰りに君からも返してくれると、嬉しいな」
    「っ………?!」

    石のように固まってしまった天馬くんの顔は、湯気でも出そうなほど赤くなっている。はく、はく、と言葉も出ないらしい彼女は、金魚のように口を開閉させた。そんな彼女の方へ顔を寄せれば、勢いよく下がられる。
    ガタンッ、とボートが揺れ、水が跳ねてほんの少し中へ入ってきた。座席が濡れたのを横目に、彼女の腕をそっと掴む。

    「嫌かい…?」
    「…ぁ、…ぅ………」
    「もし嫌でないなら、…もう少し近付いても、いいかい?」

    何も言えなくなった天馬くんの方へ、身を乗り出す。
    逃げようとする彼女の腕は離さず、出来る限りゆっくりと近付いた。その分かりやすく『緊張しています』って顔では、誤魔化せないでしょ。僕に言い寄られて“嫌だと思えない”女性の表情。
    今回のデートで十分勘違いすればいい。“僕に愛されている”と。

    「ねぇ、天馬くん。ここからはデートらしく手を繋ごうか」
    「っ、…い、嫌ですっ…!!」
    「……は…?」

    あまりに大きな声で拒絶され、思わず低い声が口をつく。ここまで分かりやすく好意を持たれているというのに、何故こんなにも上手くいかないのか。イラッとした腹立たしさを何とか飲み込み、愛想笑いを貼り付ける。ここでキレたら計画が全て無駄になる。なんとしても天馬くんに僕を『好きだ』と言わせると決めたのだから。
    ゆっくりと息を吐き出し、咳払いを一つして気持ちを立て直す。彼女の方へにこりと笑顔を向ければ、天馬くんは びくっ、と肩に力を入れた。

    「僕としては、少しでも君との距離を埋めたいのだけど、どうしても嫌かい?」
    「そ、そこまでまだ親しくは無いだろう…?! そ、そそ、それに、そういうのはあまり、人目に触れるところでするものでは…!」
    「君は何時代の人間なんだい?」
    「……ぇ…?」

    はぁあ、と大きな溜息が溢れ、手で額を覆う。
    このご時世、男女が手を繋ぐなんてよくある事じゃないか。それどころか、こんな状況ならキスの一つをしたところで誰も文句は言わないし、誰だってするよ。今時手を繋ぐだけでここまで緊張されたら、先が思いやられる。

    (というか、酔っ払って腕を組んできたのは天馬くんの方だと言うのに、今更じゃないか)

    あの時の積極性は何処へ行ったのか。あれだけ熱烈に誘っておいて、素面では奥手の照れ屋です、なんて出来過ぎてる。キャラ作りか何かかな。奥手な方が可愛い子を印象付けられる、と打算があっての発言か。そういうのは正直面倒だから、ヤる事ヤってさっさと別れたいのに。
    この茶番にのるべきか、フリだと捉えて強引に進む方がいいのか…。

    「……か、神代、くん…?」
    「…なんでもないよ。無理を言ってすまないね、」
    「ぁ……ぃや、お…わ、私の方こそ、すまない…」

    ほんの少し気まづい雰囲気にはなってしまったけれど、これでいい。
    ここで彼女にさらに警戒されるような事になるよりはマシだろう。あまり時間をかけるつもりは無いけれど、元々は暇潰しなのだから、急ぎ過ぎて台無しにするわけにはいかない。
    嫌なら、嫌だと言えない雰囲気を作ればいい。

    (人目が気になるのなら、次のデート先は人目につかない所でも指定してみようかな)

    彼女の方からしてくれた提案なのだから、断れないだろうしね。
    いつの間にか一周していたようで、ボートが出口に到着し、係員を見た天馬くんはあからさまに安堵の表情を浮かべた、そんな彼女にほんの少し腹を立てつつも、“良い彼氏”の演技で、彼女とアトラクションを後にした。

    ―――
    (司side)

    「ほ、本当に大丈夫だっ…!」
    「遠慮しないで」
    「…っ、……ん…」
    「こんなになるまで、何故黙っていたんだい?」

    足首に触れる手の熱に、心臓が煩いほど鼓動する。助けて欲しい。恥ずかしさでどうにかなりそうだ。
    かかのに近付けられる神代の顔があまりに真剣で、そのかっこよさで胸が ぎゅ、と苦しくなる。顔がいい。溢れそうな“好き”を無理やり押し込んで、両手を胸元で握り締めた。

    「動かないでね。今絆創膏を貼るから」
    「すまない…、神代、くんは…用意がいいのだな」
    「ふふ、こういうのは慣れているからね」
    「そうなのか。モデルというのは大変なのだな」

    慣れない靴で来てしまったので靴擦れをおこしたオレに、神代は素早く気付いて対応してくれた。
    絆創膏まで持ち歩くという配慮の完璧なところすらかっこいい。モデルという職業は、確かに慣れない靴を履く機会が多そうだから、怪我もよくあるのだろう。相当苦労しているのだな。
    足をまじまじと見られるのは少し気恥しいが、せっかく心配してくれているのだから、これ以上迷惑もかけられん。

    (良かった…、暁山に言われて普段より丁寧に脚の手入れをしていたのが幸いしたな……)

    普段から多少スキンケアはしていたが、女装してデートなら念には念をいれるように! と助言してくれた友人に感謝しかない。こんな事で男とバレるわけにはいかないからな。
    そわそわと終わるのを待てば、特に何も指摘されずに神代がオレの脚から手を離した。

    「これで大丈夫かな」
    「あ、ありがとう…!」
    「どういたしまして」

    優しい笑顔でそう返す神代に、胸の奥がまた きゅぅ、と音を鳴らす。
    この優しいところが、昔から好きだ。あの頃は陰で見ているだけだったが、まさか大人になってからこの笑顔を目の前で見られるとは思わなかった。まぁ、心臓に悪いので程々にして欲しいが…。
    まだ男とバレてはなさそうだが、いつバレるのかと冷や冷やさせられる。バレる前にどうにか飽きられればいいのだが、そんな雰囲気すらないのは何故なのか。

    (そればかりか、手を繋ぎたいと言われるとは思わなかった…)

    すでに何回か繋いだ気もしなくは無いが、女性の手との違いに気付かれるわけにはいかない。近付くのも最低限にしたいというのに、何故神代はオレに触れたがるのか…。
    例えオレが女であっても、心臓がもたないので遠慮したい。神代に近付かれて平静を保てる自信なんか全くないというのにっ…!

    「天馬くん?」
    「へぁ…?!」
    「疲れたなら、少し休憩するかい?」
    「…ぁ、いや……そ、うだな…」

    足はもう大丈夫なのだが、精神的に疲れた。あまりに神代との時間が凄すぎて、さすがに疲れた。心臓を一度休ませてほしい。お手洗いだと言って少し席を外すか…。
    そう思い至ったところで、ベンチの隣に神代が当たり前のように座ってくる。それに思わず体を固くさせれば、隣で神代が困ったように笑った。

    「そんなに緊張しないでほしいな」
    「…ぁっ…、す、すまん……!」
    「僕の方こそ、君との時間が楽し過ぎて、連れ回してしまってすまなかったね」
    「っ…!」

    直視出来ぬほどキラキラした顔でそんな事を言われては、何も言えん。
    服に合わせてなれない靴を履いたオレが悪いというのに、謝られては申し訳ない。オレもついはしゃいでしまったから、お互い様だろう。絆創膏まで貼ってもらってしまって、これ以上ない程の神対応と言うやつだ。
    出来れば少々一人の時間が欲しいが、ここで席を立つのは失礼な気がする。

    (…なにか、話題をふらねば……)

    オレに気を遣って、神代は沢山話しかけてくれている。
    楽しめるようにと、明るい話題を。今だって、オレに都合の良いような優しい言葉もかけてくれている。これが女性なら、泣いて喜ぶのだろう。神代にずっと片想いしてきたオレも、今こんな状況でなければ平静を装えていなかったかもしれん。今、装えているかは別として。
    そんな神代の気遣いに甘えてばかりではいられん。オレも、何か話題をふって、神代が作ってくれたこの特別な時間を大切にしたい。が、何の話をふればいいのか、思いつかん。こういう時は、質問が良いのだろうか? 初対面でする質問とは…? 趣味? 特技? 仕事? 全て知っている。
    それなら、なにか、気になっていたこと……。

    「……聞いても、いいだろうか…?」
    「なんだい?」
    「…その…、同窓会の日、……何故、オ…わ、たしは…神代、くんの家に居たんだ…?」

    そう口にして、“あ…”と思った。絶対に、今する話題では無い。
    ちら、と神代を見ると、きょとんとした顔でオレを見ていた。今更かもしれない疑問。そして、聞きたくても中々聞けなかった疑問。あの夜の記憶が、途中から綺麗さっぱり消えている。それを知っているのは、神代だけなんだ。
    かと言って、翌日あんな格好で、更には神代の部屋の神代のベッドで寝ていたのだ。これでは、確認しないわけにもいかない。

    「飲んでいる時に突然隣に来た君が僕を好きだと言ってくれて、帰る際も僕の後を着いてきてくれたから、酔い覚ましも兼ねてお部屋に招いたんだよ」
    「ぅ、…そう、だったのか…、迷惑をかけたな……」
    「僕としては、あの夜の積極的な天馬くんも、かなり好みなのだけどね?」
    「…んぇ……?!」

    膝に揃えた手に、神代の手が触れる。ぶつかりそうな程近い距離に寄せられた神代の顔に、思わず裏返った声が出てしまった。じっ、とこちらへ向けられた柔らかく笑うその顔に、視線が泳ぐ。何故、神代といるとこんな状況にばかりなるのだろう。
    心臓が耳から飛び出してしまいそうなほど煩くて、掌に汗が滲む。月のような瞳に映るオレは、満更でもなさそうな顔をしていた。こんな情けない顔を、神代に見せる訳にはいかないというのに。

    「っ、…も、もう少し、離れてくれんか…」
    「……“嫌だ”と、言ったら…?」
    「…冗談はやめてくれっ……」

    神代の手を軽い力で振り解いて、顔を逸らした。
    ほんの少し体をずらす様にして離れれば、数秒黙った後、神代がにこりと笑ってオレから顔を離す。
    「すまないね」と、そう謝った神代の声音は、落ち着いていたと思う。
    顔が熱い。今日はずっと、この顔の熱が引かない。心臓も苦しいほど煩くて、ドキドキしたままだ。
    落ち着くためにゆっくりと息を吸い、深く吐き出す。そんなオレの隣で、「けれど、」と小さな声が落とされた。

    「冗談のつもりはないよ」
    「…ぇ……?」
    「あの日から、僕は君に振り向いてもらう為に必死なのだから」

    まるで夢でも見ているかのように、オレに都合の良い言葉が躊躇いなく神代の口から発せられる。
    これが夢であれば良い、と思ってしまうほど、オレがずっと欲しかった言葉。
    その言葉を受け取る勇気が持てず、「そろそろ行こう」と、神代の話をはぐらかした。

    「かんせ〜! いや〜、我ながら上出来っ!」
    「流石だな、暁山。どこからどう見ても美少女だ…」
    「自分で言うの? それ」

    まぁ、気持ちは分かるけど。ぽつりとそう呟いた寧々に、瑞希がパッと顔を上げる。「寧々ちゃんもしてあげようか?」と、そう楽しそうに問いかけた瑞希に、寧々はそっと首を横へ振った。鏡の前でくるくると回って自分の姿を確認する司をちらりと見て、寧々は小さく溜息を吐いた。

    「わたしはいい。今日は司が主役だし」
    「寧々用にデザインした服もあるが…」
    「それは着てみたい」

    くるりと振り返った司が、寧々の返答を聞いて嬉しそうに笑う。すぐさま隣の部屋へと駆け出した司を横目に、寧々はソファーの背もたれへ寄りかかった。

    「瑞希は、どう思う?」
    「司さんに出来た、モデルの彼氏さんのこと? 司さんが幸せなら良いと思うよ」
    「……まぁ、なんだかんだあいつも楽しそうだけど…」

    隣の部屋の扉をじっ、と見つめ、寧々はもう一度溜息を吐いた。
    同窓会をきっかけに元同級生と交際を始めた司に、寧々は最初呆れていた。お酒の力で告白し朝帰りしたと聞いて卒倒しかけただけでなく、その相手が人気モデルの神代類と聞いて頭が痛くなったのを寧々はぼんやりと思い出す。学生時代、初恋相手にあっさりフラれて長い間傷心していた司を知っている寧々としては、心配なのだ。悪ノリした元同級生が司を女の子にしてしまったのも原因だろう。古い友人として見ても、司はそれなりに可愛らしい顔をしているのだ。贔屓目に見ずとも、司が女装をすれば可愛らしいと分かる。そんな司が、当時女誑しと有名だった男に、その姿で話しかけたのなら、当然この報告も納得出来てしまうだろう。
    寧々は自分用のグラスを手に取って、中身をゆっくりと喉へ流し込む。そのまま、ちら、とリビングの壁に飾られたポスターに映る人気モデルの顔を、じとりと睨んだ。

    「すぐ別れると思ったのに、ここまで続くなんて聞いてないんだけど」
    「順調なら良いと思うけどなぁ」
    「そうだけど、向こうは司が“女”だと思ってるわけでしょ。バレて司が傷付けられるくらいなら、さっさと別れてほしいの」
    「寧々ちゃんって、司さんが大好きだよねぇ」

    微笑ましい、と言いたげに瑞希も寧々の隣に座ってにこにこと寧々の顔を覗き込む。そんな瑞希から顔を逸らした寧々は、赤い顔のままグラスを傾けた。
    そのタイミングで、ばん、と扉を開け司がリビングに戻ってくる。その手に持った服を見せるように寧々へ駆け寄り、「寧々!」と楽しそうな声で彼女を呼びかけた。

    「こっちが春物で、こっちは今の時期に着やすいやつだな!」
    「へぇ、どっちも良いじゃん。この色の生地、結構好き」
    「そうだろう、そうだろう! 寧々の好みに合うと思って選んだからな!」
    「良いねぇ、着てみなよ! 司さんのデザインはどれも人気あるし、お店でもよく売れるんだよね」

    瑞希に背中を押され、寧々はいそいそと隣の部屋へ向かっていく。それを見送った二人は、ソファーに並んで腰を落とし、それぞれの飲み物のグラスを手に取った。

    「あの春物、今からなら間に合うけど、幾つか出す?」
    「あぁ、そのつもりだ。仕事もあるからあまり数は作れんが…」
    「嬉しいな。司さんのデザイン、ボク好きなんだよね」

    にこにこと笑顔でそう言った瑞希に、司も嬉しそうに表情を綻ばせた。
    瑞希と司が知り合ったのは高校生の時だ。あまり人付き合いをしない内気な性格であった司が、たまたま屋上で趣味である洋服のデザイン画を描いていた際、瑞希に見られたことから知り合った。服の作り方を瑞希に教わり、共に趣味の話で意気投合した事から今のように関係が続いている。司経由で瑞希と知り合った寧々も、度々三人で過ごすうちに仲良くなった。
    瑞希は卒業後、ネットを通じて自作の服を販売し、数年後にこじんまりとではあるがアパレル店を開業した。現在は店も改装して当時より店舗も大きくなり、それなりに名前も知られてきている。瑞希の薦めで、司も自作の服をたまに作っては店の隅に置かせてもらっていた。
    口元に手を当てて、「何着作れるか…」と頭の中で考える司をちらりと見て、瑞希はそっと目を細めた。

    「で? 噂の彼氏さんとはどうなの?」
    「んぇ…?!」
    「何度かデートしてるって事は、それなりに進展したんだよね?」
    「……いや、…さすがに、断ったが…」

    身を乗り出すように問いかける瑞希に、司はもごもごと言葉を濁す。
    瑞希も寧々も、司が人生初の告白をしてフられた時のことをよく覚えている。偏見こそなかったものの、同性であればある程度予想もできた結果ではあるが、それでも二人は友人である司に肩入れもしている。早く忘れてしまおうと慰めたのも二人だ。
    そんな司が、十年以上想い続けて漸く叶えた初恋だ。不安もあれど応援もしたい。瑞希は気恥しそうに顔を逸らす司を見つめて、どこか嬉しそうな友人に口元を綻ばせた。

    「大丈夫? もしかして、もう ちゅーとかしちゃったり?」
    「し、していないっ…! て、手を引かれることはあったが、極力触れないようには、している……」
    「え、なんで?! 付き合っているんでしょ?」
    「……あまり触れてしまうと、男だとバレるだろ…」
    「あぁ〜……、司さん、徹底してるなぁ」

    なんとなく察した瑞希は、片手で額を押さえた。
    学校一女性関係が激しいと有名だった 今や人気モデルの神代類を相手に、ここまで『待て』をさせているのは司さんくらいだろう。とぼんやり思いながらも、真面目でガードの硬い友人に安堵した。寧々が心配しているからと少し不安になった瑞希も、司の返答を聞いて安心する。この分なら、バレることも無いだろう。

    (まぁ、バレたとしても、こんな短期間に何度もデートに誘ってるんだから、向こうも本気だと思うけど)

    同窓会の日は参加していないので、瑞希はその夜の司を知らない。けれど、その後司がデートに行くのだと言った日のメイクは瑞希が担当しているのだ。どこからどう見ても可愛らしい司が男だと気付けるはずがないと、瑞希は自信を持って断言出来る。
    今日も最高に可愛くできたと、満足気に司を見やる。リボンと共に編み込んだ髪も、司が自作した服に合わせた化粧とイヤリングも、どれをとっても満足のいく完成度だ。こんな可愛らしい司を見て、『男に興味は無い』なんて二度と言わせるものか、と瑞希は拳を強く握りしめた。
    そんな話をしていれば、隣の部屋の扉が再び開く。中から出てきた寧々の姿に、二人はパッと顔を上げた。

    「……どうかな…?」
    「おおぉ! 似合っているぞ、寧々!」
    「うん。すっごく可愛い!」
    「…そ、そぅ……」

    恥ずかしそうに顔を逸らした寧々は、自身が着ている服が気に入ったようで、くるくるとその場で裾を翻しては司の仕立てた服を見つめた。そんな寧々を満足そうに見つめる司に、瑞希が顔を向ける。「約束の時間は何時だっけ?」と問いかければ、司は時計の方へ視線を向けた。

    「そろそろだな。迎えに来てくれると言っていたが…」
    「迎えって…?」
    「あぁ、この前遊園地に行った日、帰りが遅くなったから……」

    不思議そうな顔をする瑞希に司が説明しようとしたタイミングで、呼び鈴が鳴らされた。インターホンの画面に映るシルエットを見た司は、バッ、とソファーを立ち上がり小走りで駆け寄っていく。通話ボタンを押し、「ど、どうぞ…!」とすぐさま返答した司に、寧々と瑞希は顔を見合せ冷や汗を垂らす。
    セキュリティのしっかりしたこのマンションは、一階のエントランスで部屋番号を打ち込み呼び鈴を鳴らすことが出来る。部屋の主が解錠し、マンション内に入れるシステムだ。そんなマンションの呼び鈴が鳴らされたという事は、司の部屋番号を知っている相手となる。加えて、デートの日に態々宅配便の予定を入れるはずもなく、先程の『迎えに来てくれる』という言葉も思い返せば、今の相手が誰かなど二人には簡単に予想ができてしまった。

    「い、家の場所を教えちゃったの?!」
    「…いや、この前の帰りに、心配だからとここまで送ってもらってしまったんだ…」
    「司さん、ボク達がいない時は絶対絶対絶対ぜーったい、二人きりになっちゃダメだよ?!」
    「…………? …わ、分かった……??」

    二人の言葉の意味を理解しきれていない司が、首を傾げる。
    突如として増した不安感に、二人は顔を見合せた。いくら司が男といえ、今は女装して相手に会っているのだ。何かあってからでは遅い。向こうは司を“女性”と思って接しているのだから。危機意識の無い司を ちら、と見た二人は、盛大にため息を吐いた。
    そうこうしている間に、部屋の前のインターホンが押される。ピンポーン、と鳴り響いたその音に、司はその場でわたわたとし始めた。自身の服を確認し、瑞希と寧々に「変ではないか?!」と確認する。先程とは違い赤くなったその顔がまた、司の緊張を表している。
    そんな司を見た寧々は、使命感にも似た何かを感じ、玄関の方へ足を向けた。

    「ちょっと、わたしが出てくる」
    「な、何故だ?!」
    「敵情視察」

    ずんずんと玄関へ向かっていく寧々に、司は呆気としてしまう。そんな司を「まぁ、まぁ、」と宥めながら、瑞希は心の中で寧々にエールを送った。
    玄関の扉の鍵を開け、寧々はそっと扉を開いた。陽の光を背に現れたのは、司の部屋のポスターで何度も見た顔だ。大人っぽく髪を軽くまとめ、キャスケットとマスクで顔を隠す類は、玄関から出てきた寧々の顔を見て目を瞬く。

    「えっと…」

    司が出ると思っていた類は、ちら、と部屋番号を確認してからもう一度寧々を見た。司とは似ても似つかない髪色に、愛想笑いを浮かべる。「こんにちは」と挨拶をすれば、寧々はじとりと類を睨むように見た。

    「なにか御用ですか」
    「天馬くんに会いに来たのだけど、ご在宅かな?」
    「………司は準備中なので、もう少しお待ちください」
    「そうなんだね。えっと、君は天馬くんのお姉さんかな?」
    「違います」

    困惑する類に、寧々は低い声音で淡々と返す。じとりと品定めするような視線を向ける寧々を、類も見返す。
    司とはまた雰囲気は違えど、可愛らしい容姿の女性だ。類が今まで遊びで付き合ってきた女性達とも違う雰囲気の女性。司も新鮮な反応で面白いが、この子も面白そうだ、と類はまじまじと寧々を見る。その視線にぞわりと背を粟立たせた寧々は、サッ、と扉に体を半分隠した。
    あからさまな警戒心を向ける寧々に、類がにこりと笑顔を向ける。

    「か、神代、くんっ…!」
    「……!」
    「司…」

    大きな声で類の名を呼んだ司に、類が顔を上げる。振り返った寧々は、司の顔を見てほんの少し眉を顰めた。
    赤い顔でそわそわとする司が、瑞希に背を押されて前へ踏み出す。小走りで近寄ってきた司をまじまじと見つめていた類は、ハッ、と我に返りにこりと笑顔を向けた。

    「あまりに可愛くて、一瞬誰かわからなかったよ」
    「っ……」
    「今日も宜しくね、天馬くん」
    「…ぁ、あぁ……」

    類の笑顔に顔を赤らめた司が、ふいっ、と顔を背ける。
    ショルダーバッグのストラップを強く握りしめ、予め用意していた靴を履く。扉の前で待つ寧々の方へ顔を向けると、「行ってくる」と一言そう言った。寧々と瑞希は司の家の合鍵を預かっているので、帰る時はそれを使って施錠すれば良い。付き合いもそれなりに長く、お互いに気心が知れている。こういう状況も珍しくはないので、何も言わずとも伝わっていた。

    「暁山も、また連絡するな」
    「うん。行ってらっしゃい、司さん」

    ひらひらと手を振る瑞希に、司が笑顔を向ける。そんな司達のやり取りを見ていた類は、ほんの一瞬顔を顰めた。

    (ぁ…)

    玄関の扉が閉まるのを目で見送って、瑞希がホッと息を吐く。鍵が外から閉められ、扉の向こうから「だ、大丈夫ですっ…!」という司の大きな声が聞こえてきた。どうやら二人でなにか話しているのだろう。瑞希は司がとても緊張していたのを思い出して、くすくすと笑った。

    「司さん、嬉しそうだったね」
    「……」
    「あの様子なら、心配いらないんじゃないかな」

    想像よりも仲が良さそうだったと安堵する瑞希の隣で、寧々は怪訝な顔を扉へ向け続ける。一瞬見えた類の顔が、寧々はずっと引っかかっているようだ。司を見る類の、不服そうな表情が。

    「……やっぱり、別れさせた方が良い気がする…」

    ぼそっ、と呟いたその言葉に、瑞希は首を傾げ寧々に近寄った。

    ―――
    (司side)

    「か、神代くんっ…」
    「何かな?」
    「少し離れてくれませんかっ…、さすがに、近い…」

    手を繋ぐのを断ったら、何故か腰に手を回され体を寄せられてしまった。ふわりと香る香水の匂いに、ぶわっと顔が熱くなる。
    冬で良かった。セーターやコートで、体格が多少誤魔化せるはずだ。夏の薄着では、こんな風に触れられれば直ぐに男とバレただろう。神代に触れる体の右半分が熱い。両手がバッグのストラップから外せず、緊張で体がどんどん固くなっていく。
    誰か助けてくれ、と心の中で念じながら、なんとか少しでも離れようと試みる。が、余計に強く抱き寄せられ、叶わなかった。

    「こんなに可愛らしい天馬くんから離れたら、他の男に取られてしまうよ」
    「取られませんからっ…!!」
    「だぁめ。諦めて、僕の彼女らしく腕の中に収まっていてね」
    「っ〜〜〜…!?」

    するりと腰を抱く手がコートの上を滑り、お腹の方へ回される。より一層体が神代に近付き、あまりの状況にじわりと涙が滲んだ。好きだった相手に求められる嬉しさと困惑、恥ずかしさと戸惑いで頭の中はパニックだ。すれ違う人達の視線に、かぁああ、と顔がさらに熱くなり、唇をへの字に引き結ぶ。
    キッ、と睨むように神代を見上げれば、一瞬目を丸くした神代が片手でオレの髪をひと房掬うようにとる。お腹に回される手がゆっくりと下へ滑り、コートの上から太腿を撫でられた。
    じっ、とオレを見下ろす月のような瞳にとうとう耐え切れず、思いっきり息を吸う。

    「神代っっ…!!」
    「………」
    「こ、こういうのは不健全だっ…!」
    「……、…すまないね…」

    大きな声でそう言えば、片手で耳を押さえた神代が、パッ、とオレから手を離す。思わず大きな声を出してしまったせいで、一気に周りの視線がオレたちに集まってしまった。立ち止まる人達の目に、慌てて神代の腕を掴んで引く。
    照れ隠しにしては可愛くないことをしてしまった。いや、神代が恥ずかしげもなく公衆の面前であんな事をするのが悪いのだが…。もしかしたら、これが普通なのだろうか…? いやいやいや、それにしてもオレの心臓が持たないのだからもう少し距離の詰め方を考えてくれ。
    注目する人達が減ってきて、漸くホッと息をつく。もう大丈夫だろう、と足を止めて神代の腕を離せば、その手が神代に掴まれた。ぐっ、と手が引かれ、体が神代の方へ一歩近付く。

    「天馬くん、ごめんね。まだ怒っているかい?」
    「んぇ…ぁ、いや……」
    「あまりに君が可愛くて、不安になってしまっただけなんだ。許してくれないかな…?」
    「…ゆ、許すも、なにも……」

    申し訳なさそうに眉尻を下げる神代の顔に、息を飲む。
    恥ずかしかったというだけで、怒ってはいない。求められるのは、素直に嬉しかったんだ。ただ、状況が状況だから、距離が近いのは困る。
    断るタイミングを逃し続け、神代とのデートも三回目だ。男だとバレずに、『神代とはもう会わない』と言わなければならないのに、中々言い出せずにいる。それもこれも、神代がやたらと距離を縮めようとしてくるからだ。夢なのではないかと思うほど、神代はオレに好意があるかのような台詞を口にする。そんな事は無いと分かっているが、どうしたってその言葉を信じてしまいたくなるんだ。そうしてぐずぐずとこの関係から抜け出せなくなっている。

    (今日こそは、言わねば……)

    もう会わないと。神代は人気モデルで、本来なら女性と気軽にデートなんてしていいやつでは無い。案外バレないから、という神代の言葉通り今のところバレてはいないようだが、それもいつまで続くか分からん。事が大きくなる前に、終わりにした方がいいはずだ。
    それなのに、いざ神代を前にすると、言葉が出なくなる。

    「気付いているかい? 天馬くん」
    「…んぇ……?」
    「後ろにいるあの男性、先程からずっと天馬くんの事を見ているんだよ」
    「は…??」

    ほんの少し顔をオレに近付け、オレの後ろの方へ目を向ける神代が、小さな声でそう言った。顔を上げれば、掴まれた腕を滑るようにして移動する神代の手が、オレの手首に触れる。ゾクッ、と背が震え、息を飲んだオレに、神代はにこりと綺麗に笑った。

    「彼だけではなく、すれ違う男性たちの殆どが、皆天馬くんを見てるんだよ」
    「…なに、言って……」
    「それだけ今日の君は魅力的なんだ。目を離した隙に、他の男に横取りされてしまうのでは無いかと不安になる僕の身にもなっておくれ」
    「っ……」

    掌に、神代の指が触れる。思わず手を払うと、泣きそうな顔がオレへ向けられた。そんな神代の顔から目を逸らし、両手を握り締める。
    オレに視線が集まるなんて、有り得るわけが無い。きっと、変装していてもカッコイイ神代に視線が集まっているだけだろう。全て神代の勘違いで、その内、オレが少し離れただけで神代が女性に絡まれてる、なんて状況に…。
    そこまで考えたところで、不意に手が引かれた。ぴったりと掌が重なっているのを見て目を瞬くオレに、神代が困ったように笑う。「これだけでも、許しておくれ」と、そう言って手を引かれ、何も言えずに唇を引き結んだ。

    (…何故、こんなにも胸が苦しいのだろうか……)

    嘘をついているから? 男だとバレたら、きっとまたフラれるのだろう。『騙すなんて最低だね』と、軽蔑されるかもしれん。分かってはいるが、こんな風に神代と手を繋ぐことが出来て、名を呼ばれて、笑顔を向けられて、嬉しくないはずがない。
    例え、その言葉が本心ではなくとも。

    (ずるいな…オレは……)

    あと少しだけこの時間を続けたいと、どんどん欲張りになる自分にそっと息を吐いた。

    ―――
    (類side)

    (つまらない映画だなぁ…)

    ぼんやりと大きなスクリーンに映し出された映像を見ながら、溜息を吐く。今話題の、女性が好きな恋愛ドラマが映画化した作品。ヒロインは人気女優で、俳優の方はついこの前も話をした若手の後輩。彼がこういう役を演じるとは思わなかったけど、かなり良い演技ができていると思う。今度これをネタにからかってみよう、なんて思いながら隣へ目を向ければ、真剣に画面を見つめる天馬くんが居る。
    相変わらず平らな胸と、露出の少ない服装。けれど、デザインはとても可愛らしい。いつもと違ってリボンを編み込んだ髪型も印象が違って良い。眼鏡越しに見える大きな瞳が戸惑い勝ちに揺れる様を見るのも、結構気に入っている。

    (友だちのレベルも高かったな)

    彼女を迎えに行った時、他に二人女性がいた。きっと友人なのだろうね。姉妹ではないと言っていたし。大方、僕とのデートに向けて、友人にコーディネートをお願いした、というところだろうか。毎回目を引く彼女の可愛らしい服装も、彼女達のお陰なのだろう。相談相手のセンスがいいのかな、デートを重ねる度、新しい姿の彼女に目を奪われてしまう。

    (……今日も、あまりに可愛らしくて、一瞬誰かわからなかった…)

    他の子も可愛いと思って見ていたはずなのに、天馬くんが僕に声をかけてきた瞬間、彼女以外視界に入らなくなった。気合いの入った髪型も、彼女の雰囲気がガラリと変わってとても良い。こういう可愛らしいアレンジは、結構好みなのだと思う。気恥しそうに僕へ声をかけた時の表情も、来るものがあった。正直、手を繋ぐだけに留めたことを褒めてほしい程に。まぁ、それですら彼女は緊張するようだけど。
    男慣れしていないとは思っていたけれど、同い歳でここまで恋愛経験のない子も珍しい。早めに手を付けてしまいたい所だけど、先程の彼女の様子を思い返してみても、まだ早いのかもしれない。
    けれど、長期戦になれば、さすがに えむくんがうるさそうだ。

    (…断れない雰囲気をつくって、無理矢理にでもホテルに連れて行ってしまおうかな)

    いい加減考えるのも飽きてきた。茶番はこれくらいにして、やる事やって終わらせてしまうのもいいかもしれない。仕事に支障が出るのは困るけれど、天馬くんなら他に言いふらすことも無いだろうしね。
    あぁ、けれど、泣かれるのは少し困るかな…。

    (彼女に泣かれてしまうと、調子が狂うんだよね…)

    悪い事をしている気分になるというか、強引に押し進めようとしていた気力が削がれるというか…。彼女が『嫌だ』と泣くなら、もう少し待ってあげてもいいか、なんて気分にさせられる。何故なのかは分からないけれど…。
    それに、恥ずかしそうに俯いたり、戸惑った表情はよく見せてくれるけれど、あまり笑った顔を見せてはくれない。緊張したような愛想笑いは見るけれど、そういうのではなく、彼女のもっと自然な顔が見たい。例えば、この前の時のように、キラキラと瞳を輝かせていたあの顔とか…。
    じっ、と隣に座る天馬くんを見つめていれば、彼女は不意に僕の視線に気付いて顔を上げた。不思議そうに首を傾げる天馬くんに、にこりと作り笑顔を向ける。

    「観ていていいよ」
    「…か、みしろ、…くん…?」
    「僕は、映画よりも君を見ていたいだけだから」
    「んぇ…?!」

    僕の言葉で、ぶわりと彼女が顔を赤らめた。それに気を良くして、手をそっと伸ばす。彼女の膝の上で揃えられた手に触れ、固く握られた指先を一本づつ解いていく。掌を滑らせるようにして合わせ、指と指を絡めて握る。一気に固くなった彼女の体を ちら、と見てから、唇を彼女の耳元へ寄せた。

    「好きだよ、天馬くん」
    「…ひぅっ……」

    小さな悲鳴をあげた天馬くんが、信じられないと言いたげに僕を見る。
    恋愛映画になんて初めから興味は無い。僕はただ、彼女が僕を意識さえすればそれで満足だ。“僕に愛されている”と勘違いして、雰囲気に流され身を任せてくれるのを待っているだけ。僕からの“好き”に、彼女が熱に浮かされ頷く様が見たいだけ。その為に、こんな回りくどい事をしているんだ。
    僕に溺れた彼女を抱いて、僕から“終わり”を突き付けるその瞬間の為だけに。

    (映画どころでは無くなって、僕を意識すればいい)

    繋ぐ手の熱も、肌を掠める髪の擽ったさも、鼓膜をそっと揺らす声も、全て君を意識させるには充分でしょ? 少し身を乗り出せば、キスだって出来てしまう距離だ。僕の言葉でその気になって、天馬くんの方から誘ってくれれば話も早い。上映中は薄暗くて、周りの目も気にならないでしょ? 態々端の席を選んだのも、君のためだよ。だから、欲を出して僕を手に入れてご覧。

    (そうしたら、忘れられない一夜にしてあげるから)

    赤い顔で画面から顔を逸らせずにいる天馬くんが、必死に唇を引き結んで小刻みに震えている。もう一押し、とばかりに彼女の耳へ口付ければ、震える唇が「んっ…」と可愛らしい声を発した。
    きゅ、と両目を瞑って顔を俯かせる天馬くんの手をそっと引き、その手の甲へ唇を落とす。ぴく、と肩を跳ねさせた彼女は、恐る恐る瞼を上げた。

    「…ぁ……」

    何か言いたげに動いた唇が、また きゅ、と引き結ばれる。その様子を じっと見つめていれば、彼女は顔を僕の方へ向けた。涙の膜を張る瞳が微かに揺れ、僕を映す。赤く染まった顔と、何かに耐えるような表情。よく知っている、僕へ向けられる熱の篭った瞳。
    それで良い。そのまま、僕が欲しいと素直になればいい。ここまでお膳立てしたのだから、あと少し勇気を出して手を伸ばしてごらん。そうしたら、この勝負は僕の勝ちだ。
    そわそわとする気持ちを表に出さないよう、表情を取り繕う。そうして黙って見つめていれば、天馬くんが顔をふいっ、と横へ背けてしまった。

    「………帰る…」
    「…ぇ……」

    手が振り払われ、上着を手に天馬くんがそっと席を立った。彼女を通路側にしたのが仇となり、天馬くんはそのまま早足に階段を駆け下りていく。僕も慌てて立ち上がり、彼女を追いかけた。上映中の為、名前を呼んで呼び止めることが出来ない。ほんの少し身を屈めて通路を横断し、彼女は逃げるように扉を出ていった。天馬くんを追い掛け扉を出ると、彼女は早足にロビーの方へ行ってしまう。

    「天馬くんっ…!」

    走って追いかけ、難なく追いついた彼女の腕を掴むと、天馬くんは僕の手を振りほどこうと手に力を入れた。「離せっ…!」と僕を見ずにそう言った彼女の声は、何故か震えている様だった。
    係員と目が合ってしまい、逃げるように彼女の手を引いてロビーを抜ける。タイミングよく開いたエレベーターへ彼女と一緒に乗り込んで扉を閉め、適当な階のボタンを押す。
    それでも逃げようとする天馬くんの手を掴んだまま、彼女を壁際に追い込み、逃げられないよう反対の手を壁について退路を塞いだ。顔を見せようとしない彼女は、そこで漸く抵抗するのをやめてくれた。

    「…ねぇ、何故逃げようとするんだい?」
    「………ぉ、……私は、…神代、くんの期待には、応えられん…」
    「……僕が焦り過ぎたのなら、謝るよ」

    ふるふると左右へ力なく首を振る天馬くんが、手の甲で目元を擦るのが見える。
    また、泣かせてしまった。その事実に、胸の奥がざわざとして落ち着かなくなる。いつもなら、相手を泣かせたくらいで動揺なんてしないのに、何故天馬くんに限ってはこうなのだろうか。最終的には彼女を泣かせるつもりで近付いているのに、こんな事で動揺するなんて変だ。
    それなのに、どうすれば彼女が泣き止むだろうかと、必死に考える自分がいる。壁についた手をそっと彼女の頭に置き、恐る恐る髪を撫でた。

    「君には、笑っていてほしいな。好きな子に泣かれては、悲しいよ」
    「……もう、いいっ…」
    「…天馬くん?」

    御機嫌を取ろうと顔を覗き込めば、彼女は涙で濡れた瞳を僕へ真っ直ぐに向けた。キッ、と睨むように僕を見る彼女は、僕が掴む手を振り払った。

    「無理に“好き”だと言わないでくれっ…! オレは、これ以上神代の期待には応えられんっ…!」
    「………天馬、くん…?」
    「…言わねばと思っていたんだ…。もう、二人だけで神代には会わないっ…」
    「……なに、言って…」

    バレた。
    天馬くんに、僕の計画が全て気付かれてしまった…? 適当に彼女と付き合って、その気にさせた後フって後悔させるという僕の仕返し。それが、気付かれた…?
    ド、ド、ド、ド、ド、と今までにないほど心臓が早鐘を打つ。どう誤魔化せばいいのだろうか。いつもなら、いくらだって言い訳が浮かぶのに、何故か思うように頭が回らない。涙を流す彼女に胸の奥が痛む気がして、そっと顔を逸らした。
    ここで終わりたくないと思うのは、まだ目的を達成していないからだろう。逃がしたくない。

    「…連絡先はしっかりと消すから安心してくれ。世間に言いふらすつもりもない」
    「………天馬くん、僕の話を聞いてよ。全部誤解で…」
    「お前を好きだと言ったのも、全て無かったことにしてほしい。…もう、神代に会いたくない」

    タイミング悪く、エレベーターがどこかの階に止まった。ポーン、と音をさせて扉が開くと、そこは駐車場のようだった。俯いたまま動こうとしない天馬くんは、ポケットからスマホを取り出すとアドレス帳を開き始める。その画面が見えて、咄嗟に彼女の手を掴んだ。

    「か、神代…?!」

    ぐっ、と強く掴んだまま腕を引き、エレベーターから降りる。駐車場は薄暗く、人も少ない。殆ど人が来ないだろう端の方へ彼女を引っ張り、大きな柱へ彼女を押し付ける。
    戸惑う彼女からスマホを取り上げ、僕はそのまま彼女の顔を上へ向かせ無理矢理唇を押し付けた。

    「……っ、…ふぁ、……な、に、して…、っ、ん…」

    顔を背けて逃げようとする彼女を押えつけ、再度唇を塞ぐ。
    正直、何も考えていなかった。こんな事で彼女を引き止められるとも思っていない。言い訳になるとも思えない。それでも、逃げられるくらいなら、逃げられないようにしてしまいたかった。
    呼吸を奪うように強く唇を重ね、彼女の腰へ手を伸ばす。僕の方へ引き寄せ、重ねた唇を ぢぅ、と強く吸った。ぴく、と肩を跳ねさせた天馬くんは、赤い顔のまま瞳を瞼の裏へ隠してしまう。力の抜けた彼女の手がぶらん、と落ち、急に僕の方へもたれかかってくる。それを受け止めるようにして抱き締め、唇をそっと離す。彼女は肩で息をしながら、涙の滲む瞳で僕をぼんやりと映した。

    「…っ、ぅ、……く…」

    ぼろ、ぼろ、と彼女の瞳が涙の膜を厚くさせる。大粒の涙が溢れ落ち、堪えきれない嗚咽が彼女の口をつく。両手で顔を覆った天馬くんは、僕の目の前で泣き始めてしまった。そこで、ハッ、と我に返り、慌てて彼女を抱き締める。

    「あ、ごめんっ…、…泣かないでおくれっ…!」
    「……す、好きでもないのにっ…、キスなんか、するなぁっ…」
    「…っ……、そ、れは…」

    彼女の言葉に、ドキッ、とする。心臓が冷えていくような感覚に、無我夢中で天馬くんを抱き締めた。
    “好きだ”と言った言葉が嘘だと、彼女にバレてしまっている。それなら、ここまでだと割り切って、今すぐ彼女を残し帰ればいいはずなのに、このまま一人にさせたくないと思ってしまっている。
    泣き止ませるための上手い言い訳が思いつかなくて、抱き締めた天馬くんの背を優しく撫でて宥めた。

    (…僕らしくない……)

    女性なんて、みんな一緒だ。誰が相手でも構わない。面倒くさくなったら、別の女性と遊べばいいだけだった。代わりならいくらでもいる。天馬くんにしたのは、ただの暇潰しだったのに。
    目の前で泣く天馬くんの顔を覗き込んで、額を触れ合わせる。またキスをされると思ってか、天馬くんは僕の口を手で塞ぐと逃げようと暴れ始めた。それを押さえ込むようにして抱き締め、「もうしないから」と咄嗟に口にした。

    「君が望まないなら、もう何もしないよ」
    「…っ、……嘘だっ…!」
    「君が逃げないと約束してくれるなら、僕も君の許しが出るまで君に手は出さないからっ!!」
    「ッ…」

    自分で何を言っているのか分からなかった。
    勢いのまま、彼女を引き止めることだけを目的に言葉が口をつく。天馬くんが泣くほど嫌だと言うのなら、無理矢理襲うような真似はしない、と。そう言ったのだと自分の言葉を理解したのは、天馬くんが呆気と僕を見つめた時だった。僕の言葉が信じられないと、目を丸くさせて僕を見つめる彼女に、「だから、」と言葉が続く。

    「もう少しの間、僕の彼女でいておくれ」
    「………、…」

    ね? とダメ押しのように首を傾げて問いかければ、彼女は少しの間考えてからゆっくりと頷いてくれた。
    逃げるのをやめたのか、ほんの少し僕の方へ体重がかけられる。ふわりと香る甘い匂いは、天馬くんの匂いだろうか。悪くないその匂いにそっと目を伏せ、彼女の体を一層しっかり抱きしめた。予想以上に細い体は、心配になってしまう。こんなにも流されやすく、簡単に相手を信じてしまう。そんな天馬くんが、心配で仕方ない。

    「……だが…、オレは…」

    何かを言うか悩む様子の天馬くんが、僕の服を強く掴む。
    気が動転しているのか、口調を取り繕うのを忘れているようだ。相変わらず男のような話し方に、つい口元が緩んでしまう。ぽん、ぽん、と軽く彼女の背を叩いて宥めながら、「天馬くん」と名を呼んだ。
    そっと顔を上げた天馬くんの方へ、取り上げたスマホを手渡す。両手で受け取った彼女は、目を瞬くともう一度僕の方へ顔を向けた。

    「とりあえず、近くのカフェでお茶でもどうかな?」
    「……ん…」

    こく、と頷く天馬くんに安堵して、腕の力を抜く。一瞬躊躇ってしまったのは、きっと、彼女がまた逃げ出すかもしれないと不安になったからかもしれない。
    予想は外れ、彼女は落ち着いたのか逃げずに体勢を立て直して、僕から顔をそっと逸らした。手に持ったスマホをしっかりと握って、緊張気味に。
    それに苦笑して、ゆっくりと彼女へ手を差し出す。目を瞬く彼女は、僕の手を見て首を傾げた。あまり強引に事を進めようとすれば、また泣かせてしまうだろうから、今は天馬くんに合わせてあげないと。

    「君と手を繋ぐのは、許してくれるかい?」
    「………それくらい、なら…」
    「ありがとう」

    そっと僕の手を取る天馬くんに安堵して、優しくその手を握る。大丈夫、時間はまだあるのだから。長期戦になる事は望んでいなかったけれど、この際致し方ない。今更、彼女を逃がす気はないからね。
    下へ下がってしまったエレベーターの呼び出しボタンを押して、隣に並ぶ彼女を ちら、と盗み見る。肩に力が入る程緊張する天馬くんは、僕と手を繋いでいるにも関わらず一歩分距離を取っていた。警戒だけはされているのだと知れて、先は遠いな、と再認識させられる。

    (まぁ、待つと言ったのは僕だから、約束は守らないとね)

    あと一ヶ月や二ヶ月くらいなら、感の鋭いマネージャーもなんとか誤魔化せるだろう。先程の彼女の言葉の意味も確認しなければならないけれど、今日はもうこれ以上拗らせるわけにはいかないから、また次のデートまでお預けかな。なんとかこの関係を繋ぎ止められただけでも良しとしよう。早まって手を出しては逃げられる、というのも、覚えておかなければね。
    そんな事を考えながら、彼女と繋ぐ方の手に力を入れた。絶対に逃がさないと、そう想いを込めて。

    (…本当に、僕らしくないな……)

    彼女にバレないよう自嘲して、扉の開いたエレベーターに彼女と乗り込んだ。

    (司side)

    重ねられた手の熱を、今も鮮明に覚えている。
    『好きだ』という神代の声音と、オレへ向けられる視線、距離の詰め方も、勘違いだと思えなくなってきた。同窓会の日、酔ったオレが神代を誘ったのだと言われたが、最後まではしていないのだと思う。そうでなければ、さすがにオレが“男”だとバレているだろう。バレていないという事は、そういう事なのだと、ゆっくり落ち着いて考えれば気付けた。何故、未遂なのかは分からんが。
    ただ、ずっと気付かないふりをしてきたが、神代はオレと恋人になりたいわけではないのだろう。映画の途中で手を掴まれて、何となく察してしまっ。

    (……無駄に期待させたのは、オレの方だ…)

    優しい奴だと思う。学生の頃と変わらず、無理強いをしてこない。オレが同意するのを待ってくれているんだ。そんな事は、絶対にないのだが…。オレは、神代に大きな隠し事をしているのだから。

    (…やはり、オレを女だと思ったから、交際しようなんて言い出したのだな……)

    女性関係が激しいと、学生の頃散々聞いてきた。見かける度に違う女子と一緒だったから いつも不思議だったのだが、そういう事だったのだろう。
    興味もない映画に誘ってきたのも、オレが女だと思っていたから、女性に人気の映画を選んだのだろうな。存外あの映画はオレも楽しめたが、クライマックス直前で手を握られるとは思わなかった。ドキドキだってした。暗闇の中、周りに見られたら、と気が気ではなかった。神代の声音が蜂蜜の様に甘く聞こえて、オレを見る月のような瞳に吸い込まれるのではないかとも思った。
    同時に、あの瞬間 神代に求められているものが、わかってしまった。

    (デートで映画は鉄板だからだと思っていたが、あんな戦法があるのだな…)

    女性慣れしているというのは、なんとも恐ろしい。一瞬、男だと隠しているのも忘れて、流されたくなってしまった。望まれるままに受け入れて、もっと求めてほしいと。そんな事をしたら、初めて告白した日と同じ結果になったのだろうな。
    神代の期待には、応えられない。オレは、“男”なのだから。そういう目的で神代がオレを選んだのなら、早い内に打ち明けた方が良いのだろう。そう思って、『期待には応えられない』と切り出したのだが、それ以上が言えなかった。別れたいと言うのが精一杯で、“男”だと打ち明けられなかった。

    (…本当に、ずるいな……、オレは…)

    打ち明けるのが、一番神代の為になるというのに。嫌われたくないと、思ってしまう。オレがいつまでも隠しているから、神代にあんな事まで言わせてしまったというのに。“待つ”なんて、オレには勿体ない言葉ではないか。待たせても、オレは神代を受け入れられないのに。いや、オレと言うより、オレが男だと知れば、神代が受け入れてはくれないだろう。騙したのかと、怒るに決まっている。

    「…………はぁあ…」
    「司さん、また悩んでるの?」
    「いい加減別れなさいよ。メールで『男だったんだ』って送れば、顔も合わせなくて済むから楽でしょ」
    「…それは…そうかもしれんが……」

    溜息を吐いたオレに、寧々と瑞希が顔を見合わせる。
    それが一番手っ取り早いのだと分かっている。面と向かって話す勇気はないし、言う前に流されてしまうから今もこの状況なのだ。それなら、会わずに打ちあけるのが確実だろう。だが、必死に『もう少し』と言ってくれた神代の言葉が、嬉しかったんだ。オレも、許されるならもう少しだけこのままでいたいと、思ってしまった。

    「まぁ、あれだけしつこく連絡を寄越していたのに、もう二週間も連絡が無いなら、向こうも司に飽きたって事でしょ」
    「う゛……」
    「い、忙しいだけかもしれないよ? ほら、人気モデルなんだから撮影とかあるでしょ…!」
    「その割には、三週間連続で司をデートに誘ってたじゃん」

    ぐっとカップを傾けて中身を飲み切った寧々に、何も言えなくなる。暁山の気遣いも、今は少し辛い。
    映画の日からすでに二週間と少し経つが、頻繁に来ていた神代からの連絡があの日を境にぱったりと途絶えた。必要かと思うほど内容が特にないメッセージや、朝と夜の挨拶とかも全てだ。
    本来なら神代は忙しいはずなので、これが当たり前なのかもしれんが、突然連絡が来なくなるのはやはり気になってしまう。暁山の言う通り忙しいだけだとは思うが、寧々の言葉も否定出来ん。

    (…オレが拒んだから、面倒になったのだろうか……)

    神代が何を望んでいたかを知って、もう駄目だと思って『別れたい』と言った。それを引き止めたのは、他でもない神代の方だ。期待には応えられないと言ったのに、『待つから』と、そう言ってまでオレを引き止めてきた。それなのに、今更嫌になったのだろうか。待つなんて言っておきながら、それが面倒になったか。それとも、新しい女性が出来たのか。どちらにしろ、あの神代から二週間も連絡が無いということは、ここまでだと言うことなのだろう。

    (呆気ないな…)

    同窓会の日から、約一ヶ月。短い期間ではあったが、初恋の相手とデートをするという幸せな夢だった。女装しながら、という隠し事だらけの交際だったが。だからこそ、こんな中途半端な幕引きが丁度いいのかもしれん。
    元よりあの日を最後にと思っていたのだ。連絡がなくとも構わないだろう。

    (……キスも、神代からしたら、慣れていたのだろうな)

    全て初めてだらけのオレと違い、神代は経験者だ。あの時のキスも、きっと意味なんてなかったのだろう。オレを引き止める為だけに、流れでしただけで…。オレだけが、こんなにもドキドキさせられただけで、神代はなんとも思ってないのだろうな。
    この気持ちの差ですらもどかしいのだから、これでいいではないか。

    「司…?」
    「……この際、新しい恋を探すのも、悪くないかもしれんな…」
    「…良いじゃん。そうすれば?」

    眉尻を下げていつもより優しく笑う寧々に、安堵する。
    暁山はどこか戸惑っていたが、言いかけた言葉を飲み込んでしまった。オレの選択を、否定しないでいてくれるつもりらしい。それが有難かった。

    (ファンとして追いかけるのは続けると思うが、私用で会うのはやめた方が良いだろう)

    スマホを取り出して、通知がないのを確認する。
    二週間前から連絡が来なくなったメッセージ欄を確認して、一瞬迷ってから、『ありがとうございました』の文字を打ち込んだ。大きく息を吸い込んでから送信ボタンを押した。
    そのまま止まらずに、設定から着信拒否を選択する。『設定しました』の文字を見て、スマホを机に置いて詰めていた息を吐き出した。

    (…これでもう、神代とも会うことはない……)

    ―――
    (類side)

    「天誅っ!」
    「ぅ…」

    ぱしん、とハリセンで頭を叩くえむくんが、両手を腰に当てて胸を張る。そんな彼女に、僕は頭を上げられなかった。

    「あたしとの約束を破って、新しい女の子とデートしてたって聞いたよ?」
    「……………………そうです…」
    「類くん、モデルさんになるから女の子と遊ぶの禁止ってお約束、忘れちゃった?」
    「…………すみません」

    可愛らしい言葉使いとは裏腹に、圧が重い。怒らせると怖い僕のマネージャーである鳳えむくんは、どこから情報を得たのか相当御立腹の様子だった。
    昨日、天馬くんとデートしたのがバレてしまったようだ。ぱし、ぱし、とお手製のハリセンを鳴らしながら、うーん、と首を捻っている。

    「イメージが悪くなるから、めっ、て言ったのに」
    「…はい」
    「相手の子も可哀想だよ。類くん、本気で恋愛なんてしないのに」
    「……すみません…」

    僕より二つ歳上の彼女は僕の大学の先輩で、父親が会社の社長を務めている。その縁があって、モデルという職業につくこととなったのだ。彼女を敵に回すのは僕にとってもよくない。それは分かっているけれど、長年の癖というのは中々抜けないものだ。暇潰しのように女の子達と遊ぶ癖のついた僕には、難易度の高い約束だろう。それでも、えむくんに前回怒られてからは気を付けていたのだ。天馬くんに手を出したのも、しばらく遊んでなかったからで…。

    (…そういえば、今回は天馬くんだけで十分暇潰しになったね)

    普段なら他の子にも同時に手を出していたけれど、僕も成長したようだ。
    天馬くんと連絡はこまめに、といっても、僕から一方的にではあれどメッセージのやり取りはしていた。休憩時間を見計らってこっそり電話もかけてみたりして、僕なりのアプローチもかけた。まぁ、天馬くん相手では中々上手くいかなくて困っていたわけだけど。その間、他の子を相手にしようとは思わなかった。どうしたら彼女が僕を意識するのかと、そればかり考えては色々行動にも移した。僕にしては珍しい事だ。

    (まぁ、昨日は勢いもあったけどキスまでは持ち込めたから、ここからはそう時間もかからないかな)

    逃げる彼女を引き止めるのに必死で、ほぼ無意識にしていたけれど、結果としては悪くない。あんなにも泣かれるとは思わなかったけど。彼女の反応を見ると、もしかしたら、初めてだったのかもしれない。戸惑っていたようにも見えたし、照れているようにも見えた。僕に少なからず好意は持っていそうなので、彼女も嫌悪感はなかったはずだ。それなら、言葉で言いくるめて今後機会を増やしていけば、次に持ち込めるはず…。
    落ち込むふりで えむくんのお説教を聞き流していれば、机の上に置かれた僕のスマホを彼女が手に取った。そのまま彼女の上着のポケットへそれがしまわれてしまう。

    「暫く類くんはスマホ没収です!」
    「え…、いや、えむくん、さすがにそれは…!」
    「お約束を破った類くんが悪いんだよ? 反省するまで返さないから」

    ぷい、と顔を背けたえむくんに、開いた口が塞がらない。僕の向かいの席に座った彼女は、そのままスケジュール帳をぱらぱらと捲り始めた。「次のお休みの日も、自宅謹慎だからね」と酷な命令が下る。約束を破ったのは僕だけれど、えむくんは僕の母親か何かかな? と思う叱り方だ。ちょっと面倒くさい。

    「…せめて、一言連絡を入れるのは駄目かい? 暫く忙しいから連絡が出来なくなる、と」
    「だ〜めっ!」
    「お願いだよ、えむくん。彼女に心配をかけたくないんだ」

    反省するまで、がいつまでなのか分からないけれど、ここまで毎日連絡を入れていたのに数日連絡をしなくなれば、天馬くんが心配するはずだ。…と思いたい。もしその間に天馬くんから連絡が来たとしても、返信ができないのは困る。今まで彼女の方から連絡は来たことがないけれど。それでも、スマホは天馬くんとの唯一の連絡手段とも言える。先に一言断れば、彼女も数日連絡がなくても待っていてくれるかもしれない。時間をかけて天馬くんと距離を縮めてきたんだ。ここで台無しにしたくない。
    目を丸くさせるえむくんは、黙ったまま僕を見返してくる。そんな彼女の返答を、そわそわと落ち着かない気持ちで待つ。と、えむくんがそっと首を傾けた。

    「珍しいね。類くんがそんなことを言うの」
    「…ぇ……」
    「だって、いつもなら『まぁいっか』って、相手の子が怒っても気にしないでしょ?」
    「………そう、だったかな…?」

    はっきり返すえむくんに、今度は僕が目を瞬いた。
    言われてみれば、確かにそうなのかもしれない。連絡手段が無くなれば、あっさり『ここまでか』と諦めていた気もする。元々本気で相手をしていたわけではない。暇潰しに恋人ごっこをして、飽きたらおしまいのつもりだから。代わりなんて沢山いるし、正直誰でもよかったのだと思う。それは、天馬くんも同じで…。
    ふっ、と脳裏に天馬くんの顔が浮かんで、息を詰める。僕の目の前で、ぼろぼろと泣き出した天馬くんの顔。

    (……泣かれるのは、困るな…)

    彼女が泣く姿を見るのは、なんとなく落ち着かなくなる。僕の前で笑うのかと問われるのも、返答に困るけど。彼女は、僕の前ではほとんど笑わないから。いつだって、困った顔か戸惑った顔をしていると思う。恥ずかしそうに顔を赤らめて、僕から一歩下がろうとする。
    そんな彼女を見ると、何故だか“引き止めなければ”と思わされるんだ。

    「類くん、どうかしたの?」
    「………ぁ、いや、…なんでもないよ」
    「…とにかく、類くんは暫く女の子と接触禁止です!」
    「う゛…」

    再度突き付けられた罰則に、低い声が口をつく。
    これは、説得するのに時間がかかりそうだ。一度決めたら、えむくんは中々折れないと知っている。出来るだけ早く反省を示し、彼女からスマホを返してもらう他ないね。

    (それまで、天馬くんが待ってくれると良いのだけど…)

    数日連絡が無いだけなら、天馬くんも忙しいのかもしれないと察してくれるかな。そうだと思ってくれたらいいのだけど。
    はぁ、と溜息を一つ吐き、僕はスタッフに呼ばれ撮影スタジオへ足を向けた。

    ―――

    「…さ、三週間……」

    カレンダーの日付を見て、もう駄目なのではないかと背を冷たいものが伝い落ちていく。
    中々許してくれない えむくんに、ここ数日は毎日の様に頭を下げている状況だ。色々と理由を作って頼んでみているけれど、一向に首を縦に振ってくれない。仕事用のスマホはあるけれど、天馬くんの連絡先はそっちに入っていないので連絡が取れない。こっそり会いに行こうにも、えむくんの監視が全然隙を見せてくれなくて家からも出られない。
    このままだと、せっかく積み上げた関係が振り出しに戻ってしまうかもしれない。

    (……もう、諦めようかな…)

    初めから本気で付き合うつもりはなかったんだ。えむくんに頭を下げてまでスマホを取り返して、今度は天馬くんに頭を下げるのか。たかがゲームの為に? 僕を拒んだ仕返しの為だけに、天馬くんに気を遣って、終われば手放すのか。それなら、ここで彼女の攻略を諦めて、他の子を探す方がずっと気楽でいい。天馬くんと違って、僕に本気になれる可愛い子とか…。

    (…それは、なんだか詰まらないな)

    天馬くんが相手だと、頭を抱えることも多い。照れたり恥ずかしそうな顔はするけれど、近付くと逃げてしまう。手を繋ごうとすれば振り払われるし、好きだと言えば泣かれてしまう。キスしたら怒って、待ち合わせ場所で待っていれば物陰から じっと僕を観察しているような、変な子だ。意識されているはずなのに、僕から離れようとする彼女が腹立たしくて仕方がない。だからこそ、こんなにも必死に引き止めようとしてしまうのだろう。僕から手放すと決めたからこそ、僕を受け入れてもらわなければ困るから。
    ふと、最後に会った日の天馬くんの怒った顔を思い出し、握った手に力が入った。

    (………彼女に、会わなければ…)

    何故か、そう強く思ってしまった。涙の滲む顔で僕を拒んだ彼女に、今すぐ会いに行かなければ、と。
    タイミング良く電話をしに席を外していた えむくんが部屋に戻ってきた。「お待たせ! 類くん」と笑顔の彼女は、自分のスマホをポケットにしまうとスケジュール帳を取り出す。

    「今日の撮影はここまでだから、この後はお家に帰って休んでね。明日は朝早くから移動しなきゃいけないから、六時には迎えに……」
    「えむくん」
    「ほぇ…?」

    掛けていた上着を羽織って、えむくんの前に立つ。僕より背の低い彼女は、不思議そうな顔で僕を見上げた。

    「僕のスマホを返してほしいんだ」
    「……類くんがあたしとのお約束を守ってくれるならいいよ」
    「…申し訳ないのだけど、それは出来ない」

    出来るだけ真剣な顔で彼女にそう返すと、えむくんもいつになく真剣な顔付きになった。
    えむくんと約束をしたのは、主に僕の女性関係に関して。遊びで女性と関係を持たない、というのが、マネージャーである彼女のお願いだ。モデルという職業に対し、そんな不誠実な性格が明るみになれば世間の評判が下がるというのが大きい。まぁ、僕が本気で誰かを愛したことがないと伝えた時にえむくんが怒っていたから、きっとそれがきっかけなのかな。相手の子が可哀想だ、と。
    そんな彼女の優しさを無視するような事をしている自覚はある。それでも、僕は今、出来るだけ早く天馬くんに会いたい。

    「会いに行かなければならないんだ。絶対に、僕がモデルの神代類だとバレないように気を付けて会いに行くから。それが駄目なら、せめて一言、待ってほしいと伝えるだけでも駄目かい?」
    「…会うお約束をしてるの?」
    「それはしていないけれど…」
    「それなら、相手の子が会いたいって言ってたの?」

    えむくんは、多分天馬くんを知らない。どこかで僕が女性と会っていると聞いただけなのだと思う。約束を破ったのは僕だから、彼女が怒るのも無理は無い。そう簡単にスマホを返してくれるとも思えない。
    それでも、天馬くんを諦めようとは、どうしたって思えなかった。

    「どちらかと言えば、僕が引き止めることに精一杯なんだ。会いたいとも、向こうは思ってくれていないのかもしれないね」
    「…」
    「それでも、彼女が誤解しているかもしれないなら、会って話しがしたいんだ」

    嘘は言っていない。
    引き止めようとしているのは確かだ。誤解して怒っているかもしれないと思ったら、会って話さなければならないと思ったのも本当だ。後々に僕の方から振るつもりではいるけど。
    まぁ、天馬くんは僕に会いたくないのかもしれない。最後に会ったあの日も、連絡先を消すとまで言われてしまったほどだ。僕が引き止めなければ、彼女はすぐに僕から離れようとしてしまう。
    ゾッ、と背が冷たくなった気がして、身震いする。そうだ、彼女にもう少しだけ付き合って欲しいと言ってはいるけれど、彼女が待っていてくれる保証なんてないじゃないか。こうしている間にも、天馬くんは僕から離れる気でいるかもしれない。

    「……やっぱり連絡より直接会ってもう一度話をしないと…」
    「…………類くんは、その子が好きなの?」
    「…ぇ……」

    えむくんの言葉に、思わず目を瞬く。
    天馬くんの話をしていたはずだ。つまり、“その子”は天馬くんという事になるのだろう。僕が会いに行こうとしているから、そう思ったのだろうか。そんなはずは無い。僕は、天馬くんが僕を拒んだから、他の子達のように僕を好きにさせて、それで…。
    遊園地での楽しそうな顔をした天馬くんが脳裏に浮かんで、言葉を飲み込む。『違う』と言ったら、えむくんがスマホを返してくれないかもしれない、なんて言い訳めいた言葉が頭を過ぎる。

    「類くんが女の子と遊びでお付き合いするのは駄目だけど、本当に恋をするなら、あたしは応援するよ」
    「………」
    「スマホは返すね。類くんがそんなお顔するくらい大事な人なら、今度あたしにも紹介してほしいな!」
    「……そう、だね…」

    手渡されたスマホを受け取って、えむくんから顔を逸らす。彼女を傷付ける為に付き合っている、なんて、えむくんには言えない。けれど、今更計画を諦める気にもならない。今は、ただ彼女と逸早く連絡を取り、顔を合わせて話がしたい。
    スマホの電源を入れて、ゆっくりと起動する小さな機械をそわそわとした気持ちで見つめる。「車を出してもらうね」と部屋を出ていったえむくんに軽く返事をすれば、画面がパッ、と光った。

    「…通知……!」

    明るい電子音と同時に、スマホの画面にいくつかの通知が表示される。もういいや、と思った女性とは連絡を取らないようにしているし、しつこく連絡をしてくる子の連絡先は着信拒否にしてしまうから、今私用で連絡が来るとすればマネージャーのえむくんか、後輩と、友人、それから……。
    見慣れてきた『天馬くん』の文字を見付けた瞬間、心臓が大きく跳ねた。日付は数日前だ。ロックを外し、急いでメッセージアプリを表示する。『ありがとうございました』の文字に首を傾げればつつも天馬くんの名前をタップすれば、ぽこん、とメッセージの他に一文が表示される。

    「……メッセージが、送れない…?」

    相手から受信を拒否されたという通知文に、思考が停止する。最後に送られたメッセージは、確かに『ありがとうございました』と感謝を告げるものだ。同時に、別れの挨拶にも等しい。

    (待って、まさか、…怒っているとか…?)

    連絡をしてくるな、という意思表示? 態々引き止めたのに…、彼女も頷いてくれたのに…。たった数週間連絡出来なかっただけで、連絡手段を断ち切られた? そんなにもあっさりと、彼女は僕との縁を断ち切るのか。
    頭がガン、ガン、と殴られたかのように痛む。どうすればいい。たった数週間でメッセージでの連絡が取れなくなっているなんて、誰が予想できるだろうか。携帯を解約した? そんなはずはない。ただ僕の連絡先を着信拒否にしただけだろう。ブロックされたということは、いくら送っても彼女には届かない。
    それなら、今の僕が取れる手段は一つだ。

    「類くんお待たせ! 家まではタクシーで……」
    「えむくん、ちょっと出かけてくるよ」
    「え?! る、類くん…?!」

    部屋に戻ってきたえむくんの隣を走り抜けて、僕は衝動のままにスタジオの控え室を飛び出した。

    ―――
    (司side)

    「うぅ…、寒い……」

    風が冷たくて耳が凍りそうだ。長いマフラーをぐるぐる巻きにして口元まで覆ってみるも、寒さは変わらない。ポケットのホッカイロもこまめに触り過ぎて今は全然温かくない。今日に限って残業があったためにいつもより遅くなってしまった。加えて、足りなかった材料を買うために寄り道もしたので空は真っ暗だ。夕飯は鍋にでもしよう、と家の冷蔵庫の中を思い出していれば、スマホが震えた。
    通知欄には寧々の名前がある。

    「…雪が降るかもしれないから暖かくしろ、か…」

    寧々らしい気遣いのメッセージに、つい くすりと笑ってしまう。
    今夜は雪が降る予報だったのか。どうりで寒いわけだ。夕飯は鍋で正解だろう。豆乳か、キムチか、味噌か…。何にしようか考える時が一番楽しい。お風呂も沸かして、暖房もつけて、寧々の忠告通り暖かくしよう。
    食事と風呂を済ませたら、暁山に渡す服の仕上げをせねばな。マンションのエレベーターを降りて、ポケットから家の鍵を取り出す。やることを順番に頭の中で思い浮かべていれば、廊下の先に人影があった。

    (……お客さんか…?)

    オレの部屋の前で立つその人影に、目を瞬く。身長の高いそいつは、呼び鈴を鳴らしても家主が出てこなかったので待っていたのだろう。片手に持ったスマホをじっと見つめている。帽子と眼鏡、そして口元まで隠したマフラーで顔は分からないが、多分背の高さからして男性なのだろう。配達だろうか? と首を傾げつつ近寄れば、そいつがオレに気付いてこちらを見た。帽子に手をかけたそいつが、ゆっくりとそれを外す。数メートル離れてはいるが、帽子の下から現れた藤色の髪に目を疑う。

    「天馬くん」
    「…かっ、…かか、神代…?!」

    聞き覚えのある声と、見慣れた笑顔に足が止まる。
    オレの方へ近寄ってくる神代は、眼鏡を外すとオレに向かってふわりと笑いかけてきた。

    「話がしたくて、会いに来たんだ」
    「…っ……な、なんで…」
    「連絡出来なくてすまないね。仕事が立て込んでいて、会いに来られなかったんだ」

    後退るオレの腕を掴んだ神代が、目の前まで来る。
    逃がさないとばかりに腕が引かれ、流れるように抱きしめられた。思わず悲鳴が出そうになるのを必死に抑え込み、両手で神代の体を押す。が、力が強くて全く抜け出せない。

    「は、離してくれっ…! こんなところを誰かに見られたら…!」
    「それなら、逃げないと約束しておくれ。君に逃げられたら、どうしていいか分からなくなってしまうよ」
    「…なに、言って……」

    そこで、はたと気付いてしまった。神代のコートだけでなく、触れる手や顔が氷のように冷たい。今夜は雪が降るかもしれないほど気温が低いというのに、まさかオレが帰るまでずっとここで待っていたのだろうか? いつから、待っていたんだ。こんなにも冷えるほど、長時間外にいたのか…?
    オレを抱き締める神代に、叫び出してしまいたいほど緊張している。だが、その緊張よりも“心配”する思いが勝った。

    「と、とにかく、オレの部屋に…!」

    ぐっ、と神代を押して何とか抜け出し、鍵を使って玄関の扉を開ける。と、そこで漸く自分の姿を思い出した。

    (待て待て待て、オレは今、男の姿なんだが…?!)

    ギギギ、と錆びたロボットのように神代を見れば、柔らかい笑みでオレを見る神代は不思議そうに首を傾げるだけだった。奇跡的に、バレてはいないようだ。コートとぐるぐる巻きにしたマフラーのお陰だろう。ウィッグを被ってはいないが、マフラーで髪が隠れていると誤解してくれているのかもしれん。
    この寒さの中神代を待たせるわけにはいかない。だが、部屋に入ればマフラーを脱ぐ他ない。ならば、神代をここで待たせて急いで女装をすれば、バレないかもしれん。けれど、その為に神代をまた寒空の下で待たせるのか? それに同性とはいえ、好いた相手と二人きりというのは…。
    頭の中で様々な思考が混ざり合う。追い返す、という選択肢は選びたくない。頼んではいないが、体が冷えるほど長時間待ってくれていた神代を、話も聞かず追い返したくは無い。少し話をするくらいなら、寧々達も許してくれるだろうか…。

    「へ、部屋の片付けをしたいから、少しだけ待っていてくれっ…!」
    「…ぁ、うん……」
    「十分、いや、五分で片付けるからっ…!!」

    バンッ、と扉を閉めて、急いで靴を脱ぎ部屋の中へ飛び込む。ガサガサとしまっていたウィッグを引っ張り出し、頭から被った。コートを脱いで、鏡の前に立つ。さすがに会社帰りとはいえ、男物のスーツではバレてしまうだろう。ゆったりとしたニットのワンピースをハンガーから外して袖に腕を通す。以前暁山から貰ったタイツに履き替え、リビングへと駆け込んだ。テーブルの上のコップを片付けて、ソファーの上を軽く整える。棚に飾った神代の写真集やらはカーテンで隠せば、とりあえずは大丈夫だろう。
    大きく深呼吸を三回して、気持ちを落ち着かせる。よし、と拳を握り締め、玄関の扉をそっと開けた。

    「ま、待たせて、すみません……」
    「いや、急に押し掛けた僕が悪いから」
    「……どうぞ…」
    「お邪魔します」

    中へ促して、扉を閉める。念の為鍵はかけ、靴を脱いだ神代をリビングの方へ案内した。
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