恋願う 10「えむくん、お願いがあるのだけど」
「お休みなら駄目だよ〜。類くん最近ずっと日曜日お休みにしてたから、日曜日じゃないと撮れない撮影溜まってるもん」
「そこをなんとか、時間をあけられないかい?」
「ダメなものはダメ〜!」
むん、と胸を張って小さな体で威厳を主張している えむくんにそっと肩を落とす。
相手側の都合で撮影日が決まっている仕事は、どうしても休むことが出来ない。それは分かっているけれど、天馬くんと会う約束があるからなんとか時間を作らないと…。彼女が僕を恋人に会わせる、なんて言い切ったから、絶対に会う必要がある。まぁ、本当はいません、というオチを期待しているわけだけど…。
そこで、脳裏に昨夜見た写真が浮かんだ。ブレザーにネクタイをしめた高校生の時の天馬くんの写真。僕が普段会っている“彼女”に似た、“男の子”の写真。
(…結局、『天馬司』という生徒は彼しかいなかった)
“そういうこと”なのだと、察してしまう。
僕にフラれた事があるという話も、彼女が頑なに僕のアプローチに頷かないのも、それでいて時折感じる彼女からの熱も、全てこの事が関わっているとすれば納得がいく。
きっと天馬くんは、僕に自分が『男』だと隠していて、『男』だから僕の告白にも頷けないのだろうね。そう考えれば、同窓会の日に拒まれた理由もそういう事だと分かる。好意があるかないかではなく、バレてもう一度拒まれるのが嫌だと言うことなのだろう。
実際、天馬くんが男だと知ってしまった今、彼とどう接していくかを悩んでしまっているのだから彼の判断は正しいのかもしれない。
(もう一度会えば、ハッキリすると思うのだけどね……)
女性だと思ってアプローチをかけていたからかもしれないけれど、正直今はそんなに嫌悪感もない。天馬くんは、存外可愛らしい人だとも思う。女性の様に振る舞おうとして、すぐに素に戻る素直な性格も好ましい。気恥しそうにする姿も見ていて楽しいし、僕への好意が隠しきれていない所も良い。あれ程分りやすいのに必死に逃げようとするものだから、つい意地悪したくなってしまう。本人も満更ではなさそうだからタチが悪い。
そこまで考えて、自分が思っている以上に彼に好感を持っているのだと気付いた。
「…はぁ、確認の必要も無さそうだねぇ」
「ほぇ?」
「いや、何でもないよ。代わりと言ってはなんだけど、次の土曜日は休めそうかい?」
「うん! 土曜日なら大丈夫だよー」
スケジュール帳を開いて予定を確認した えむくんが、土曜日の欄に休みを書き込んでくれている。それを横目に、スマホを取り出した。日曜日という約束だったけれど、その日に休みを取るのは難しい。となれば、別の方法をとるしかない。
(僕の予想が当たれば、多分土曜日にいると思うんだよね…)
―――
(司side)
「とりあえず来てみたが…」
人の通りが多い駅前で立ち止まってから早五分。一歩も動けずに立ち尽くしている。行きかう人たちは皆誰かと共に行動しているか、仕事中だろうことが分かるスーツ姿の者が多い。そんな人たちに話しかける勇気を、オレは持ち合わせていなかったのだと、今更ながらに自覚する。
そもそも学生の頃から人付き合いもそこまで熱心にしてこなかったのだ。趣味と言えば物を作る事で、暁山と付き合い始めたのも趣味が同じだったことがきっかけだ。恋愛に関しても、初恋は神代にフラれてあっさりと終わり、未練がましくもモデルをするあいつを追っかけて未だに想いを捨てきれずにいる。そんなオレが、今更別の恋人を作るなんて不可能に近い。それも、“明日まで”に。
「一日だけ協力してくれそうな相手を探そうと思ってきてみたが、そもそも声がかけられんことには…」
誰かと待ち合わせをしているのだろう、端に一人で立っている男を ちら、と見て溜息を吐く。いつものように女装して駅に来てみたが、思っている以上に気恥しい。そして、そんな恰好で知らない男に話しかけるなど、ましてや女性の様に振舞って誘惑するなどオレには到底できそうにない。
こうなったのも、神代とのあの会話が全ての発端だ。神代とは付き合えないとはっきり言ったにも関わらず、神代がそれで納得しなかったからだ。恋人がいると咄嗟に嘘を吐いてしまったら、神代がその相手に会わせなければ信じないと言うから、会わせると言ってしまった。会わせると約束したのは明日の日曜日だ。平日は仕事で恋人探しなぞできるはずもなく、仕方なく前日ではあるが土曜日の今日恋人を作るべくここに来てしまった。
昨夜暁山にこのことを相談したら、『可愛く近寄って、さりげなくボディタッチすれば簡単だよ』とアドバイスを貰ったが、そんな恥ずかしい真似ができるわけない。
そもそも、神代を騙すために、明日一日だけ恋人のフリをしてもらえればいいんだ。可愛く近寄る必要もないだろう。協力してほしいと頭を下げれば、誰かしら話に乗ってくれるかもしれん。
む…? もしや、事情を説明するなら、女装する必要もなかったのでは…?
(なんだか、自分のしていることが馬鹿らしくなってきたな…)
神代と別れるために神代以外の恋人を作るというのは、本末転倒な気がする。男だとバレてはいけないから神代とは付き合えないわけで、そのオレが事情を説明するにしても女装姿で他の男に声をかけるなんて、今更だが変な話ではないか。それに、知らない女が急に話しかけても、怪しまれて誰にも相手にされない可能性の方が高い。それなら、ここで立っていても時間の無駄ではないか。こうなれば、別の理由を考えて、神代にもう一度お断りを…。
「そこの綺麗なお姉さん」
「む…?」
不意にすぐ近くから声が聞え、同時に肩を軽く叩かれた。顔をそちらへ向ければ、見慣れない男が二人立っている。身長はオレと変わらないのか、目線の高さが同じだ。にこにこと人好きの良い顔に、首を傾けた。この二人と、以前どこかで知り合っただろうか? 全く覚えがないのだが…。
目を瞬いて顔をよく見るも、全く思い出せない。黙って記憶を辿っていれば、目の前の男が一歩こちらに踏み込んできた。
「さっきからここにいるけど、お友達でも待ってるの?」
「よければそこの喫茶店で一緒にお茶しない? お友達がくるまででいいからさ」
「…へ……?」
そこ、と言いながら指をさされたのは駅前の小洒落たカフェだ。落ち着いた雰囲気でそれなりに席のある、少し大人向けの外観をした店。若い女性が集まるファーストフードの店とは違い、お客もそこまで気軽に入らないような、静かに話すにはうってつけのようなお店だろう。
もう一歩こちらに近付く男の圧に、思わず一歩後退る。壁際にいたせいで、あまり距離はとれそうにない。そんなオレを挟むように、左右から距離を詰めてくる二人の男に、思わず呆気と口が開く。
(こ、これが本物のナンパというやつか…!)
手慣れたように詰め寄ってくる二人に、感心してしまう。まるで、目の前にお手本が提示されたような気分だ。ただ、これは男性側のナンパの仕方なので、女装したオレがやるには少し難しいものがあるな。しかし、お茶に誘うというのはハードルも低くていいかもしれん。ゆっくりと話をしたいオレとしても、そのくらいの気持ちで付き合ってもらえた方が良いからな。これは是非とも参考にさせてもらおう。
ふむふむ、と頭の中で二人の誘い方を記憶にメモしていれば、いきなり手首を掴まれた。痛くはないが、軽く振るだけでは振りほどけない程度の掴まれ方に、思考が固まる。
「勿論俺らの奢りだから、心配しないで」
「…んぇ…、いや、あの……」
「ほら、行こう」
ぐいっと手が引かれ、断る隙もなく二人が歩き始めてしまう。手を引かれているせいで、オレもついていくしかなく、どうすればいいか迷っている間にどんどん店へ近付いてしまっていく。どの道オレもこの二人のように誰かを誘うつもりではあったが、二人を相手に相談するのは気が引ける。一対一で相談をしたいから、一度断った方がいいだろう。そう思い、足に力を入れて立ち止まった。不思議そうに振り返った男が、「どうしたの?」と問いかけてくる。
「すまんが、他を当たってくれないか? 人を探しているんだ」
「人探しならお手伝いしてあげるよ。一緒にお茶してくれた後で」
「いや、急いでいて…」
「そう言わずに、一杯だけだから」
「おわっ…」
全く聞く耳を持たない二人に顔を顰めれば、もう一人の男に反対の手を掴まれ ぐいっと強く引っ張られてしまう。オレも男だが、二人がかりで引っ張られては、勝てるはずもなく。引きずるように二人はオレを連れてカフェの方へ向かっていく。
このままではまずい。今日中に恋人役を見つけねばならんのに、ここで足止めを食らうのは痛い。いっそこの二人に頼むか…。いや、こう強引な相手に相談を持ち掛けるのは、少々怖い気がする。どうにかして逃げ出さねば…。
んー、と断る言い訳を考えていれば、不意に男達の足が止まった。もう店についてしまったのかと顔を上げると、二人の前に背の高い男性が立っているのが見えた。
「すまないけど、彼女は僕の恋人だから、その手を離してくれるかい?」
帽子とサングラスで顔は良く見えないが、その声は聞き覚えがある。心臓が大きな音を立て、胸の奥がじわりと熱くなる。男の手に力が入れられ、掴まれた手首がほんの少し痛んだ。その痛みに眉を顰めれば、オレの手を掴んでいた男の手がいきなり振りほどかれる。二人の腕を捻り上げる様に掴んだその男は、口角を吊り上げる様にして笑ってみせた。
「離してくれるかい?」
「す、すみませんでしたっ…!」
低く圧のかかるような声音に、二人の男が一目散に逃げだしていく。呆然とその後ろ姿を目で見送っていると、ぽん、と後ろから肩を掴まれた。びくっと、体が大袈裟に跳ね上がり、錆びたロボットの様にギギギ、と恐る恐る後ろを振り返る。そこには、相変わらず顔が分からない男がにこりと笑顔で立っている。顔は半分隠れているが、帽子の隙間から僅かに見える藤色の髪で、誰だか察してしまう。いや、声を聞いた時から、誰だかなんて分かりきっている。
「偶然だね、天馬くん?」
「…そ、そう、ですね……」
「先程の二人が、君の言っていた“恋人”かい? もしかして、邪魔をしてしまったかな?」
「いえ…困っていたので、助かりました…」
口元だけを見ればにこにこの笑顔に見えるが、声がいつもより低くて恐ろしい。逃がさないと言わんばかりに、神代の手がオレの肩から離れようとしないのが余計怖い。そもそも、何故こいつがここにいるんだ。仕事ではなかったのか。暫く忙しいと、この前の電話で言っていたではないか。もしや、この辺りで撮影でもあったのか。いや、撮影があるなら、SNSで多少なりとも情報が…。って、今はそれどころではなくっ…!
にこにこと口元に笑みを張り付け黙ってオレが喋るのを待っている神代に、逃げられないと悟り、ゆっくりと口を開く。人を探している時に、あの二人に声をかけられ、断ろうとしたが聞いてもらえず困っていたのだと。勿論、ナンパしようとしていたことは伏せて、だ。そう説明をすれば、神代は数秒何かを考えたあと、徐にサングラスを外した。
「その探している人というのは、君の恋人かい?」
「うっ…、いや、その……」
「その可愛らしい恰好で、ナンパでも企んでいたのかな?」
「な、なぜっ……、…あッ…!」
にこりと笑顔で隠していた事を言い当てられてしまい、思わず口が滑ってしまった。急いで手で口を塞いだが、もう後の祭りだ。にこにこと先程よりも恐ろしい笑顔を浮かべてオレを見下ろす神代に、今すぐ逃げ出さねばと思う程の恐怖を感じる。じりじりと詰め寄ってくる神代に、オレも後ろへゆっくりと後退る。が、業を煮やしたのか、神代の腕がオレの腰に回され、ぐっと、体を引かれた。抱き寄せられた時程近い距離に、顔が一気に熱を持ち、心臓が信じられない程早鐘を打つ。
人通りが多い駅前でこの状況はまずい。特に、神代が目立つのは絶対にダメだ。慌てて神代の胸元を両手で押し、「離せっ…」と口にすれば、腰に回された腕の力が一層増した。
「離れてあげる代わりに、僕とそこのお店でお話しようか」
「はぁ…?! 何故そうなるんだ…」
「嫌なら、今ここでキスでもして、君の口を塞いでしまうけど?」
「っ…」
脅しのような言葉に、言葉を飲み込む。そんなことをしたら、困るのは神代だ。ただでさえモデルなんて仕事をしていて目立ってはいけないのに、こんな人の多い所でそんなことをしたら、騒ぎになる。現に今だって、周りの視線が痛い程刺さっているのに、何故こんなにも平然としているのか。
すり、と腰に触れる神代の手が少し上へ撫で上がる。それに引っ張られるように、ワンピースの裾が少し上へ上がったのが感触でわかってしまった。かぁ、と顔に熱が集まり、慌ててスカートの裾をこれ以上上がらないように掴む。
「馬鹿っ…」と小さく悪態をつけば、神代がにまりと目の前で笑った。その顔に、きゅ、と唇を固く引き結ぶ。
「ね、可愛いお姉さん。僕とお茶しませんか?」
「…………一杯だけだ…」
「ふふ、ありがとう」
ちゅ、と押し付けるように頬に口づけられ、腕の力が緩んだと同時に神代から急いで離れる。まだ感触の残る頬を手で押さえ、余裕綽々で憎たらしい神代を睨んだ。差し出された手を一度見て、神代の顔を見上げる。楽しそうに微笑むその顔すら綺麗で悔しい。渋々その手を取れば優しく引かれ、先程向かうはずだったカフェに、神代と二人で入った。
―――
(類side)
(危なかった…)
大人しく隣をついてくる天馬くんからは見えないよう片手で額を押える。まさかとは思っていたけれど、本当に“恋人探し”をしていたとは。それも、こんな可愛らしい格好で。シンプルな白いワンピースと薄桃色のカーディガン、ハーフアップに結った髪には大きめのリボンがついていて、どこからどう見ても“可愛らしい女性”そのものだ。お揃いのリボンがカーディガンの裾にもついていて、天馬くんの実際の年齢よりは幼く見える。少し大人っぽい女子高生と言われても不思議はない。
そんな格好でこの人が多い駅前に立っていれば、声をかけられるのは当然だ。
(このまま彼女をホテルにでも連れ込んだら、少しは危機意識を持ってくれるだろうか)
天馬くんは気付いていないみたいだけど、これから向かうカフェの隣の通りを行けば、すぐそこにホテルがある。あの時僕がと目に入らなかったら、そのままホテルに連れ込まれていてもおかしくなかっただろうね。
それなのに、呑気に知らない男二人について行こうとしていた天馬くんが憎らしくなってくる。事情があるにしろ、僕の告白を断る口実にいもしない恋人を作ろうとしている事も、休日に可愛らしい格好で僕以外の男を誘うつもりでいた事も、欲が見え透いたナンパに引っ掛かって連れていかれそうになっていた事も、全て気に入らない。
他の男に取って食われるくらいなら、無理矢理にでも僕が彼女を手に入れてしまえば…。
「…か、神代っ…、もう少し、ゆっくり歩いてくれんか…?」
「……あぁ、気が利かなくて、すまないね…」
後ろから聞こえた声で、我に返る。
考え事をしていたせいで、歩くスピードが早くなっていたようだ。よく見れば、天馬くんは珍しくヒール高いものを履いていた。普段はもう少し歩きやすいパンプスだったのに、今日は随分と気合いが入っているようだ。それが男を誘う為だと思うと、無性に腹が立ってくる。
歩調を天馬くんに合わせれば、彼女はホッと安心したように方の力を抜いた。足が痛いのか、歩き方がぎこちない。僕が急かしたせいもあるのだろうね。繋ぐ手を左手から右手に変え、彼女の体を僕の方へ引き寄せる。よろけるように僕の方へ近付く天馬くんの腰に左手を添えれば、彼女は顔を赤らめた。すぐに離れようとするから、腰に回した手に力を入れて支え、「もっと寄って」と囁くように彼女へ伝えた。
きっと断ろうとするだろう彼女の言葉を遮るように、「天馬くん」と名を呼べば、彼女は困った様に足を止めてしまう。
「足が痛いんでしょ? 支えてあげるから、もっと僕に寄りかかって」
「…そ、そこまでしなくとも、歩けるから……」
「嫌ならお姫様抱っこで連れて行ってあげようか?」
「なっ……?!」
彼女が断りづらくなる言い方をすれば、天馬くんは諦めて僕の方にほんの少し体重をかけて寄りかかってくる。こうでも言わないと素直に甘えてくれないのは寂しいね。もう少し気を許してくれると、僕としては嬉しいのだけど…。
そっと息を吐いて、繋ぐ手を軽く握る。指の腹で手の甲を撫でれば、少し固く感じた。
(…確かに、少し細いけれど男の手だ)
意識して触れば、よく分かる。今まで気付かなかったことが不思議な程だ。外見にすっかり騙されてしまった。天馬くんのどこか幼い性格もあるのだろうけれど。
腰も確かに細いけれど、女性の体格とは違う。最初に会った時に胸がないと感じたのも、あながち間違いではなかったようだ。そわそわと落ち着きなく辺りを見る天馬くんは、この状況にかなり緊張している様だ。男とバレるか気が気でないのか、はたまた僕が隣に居るからか。後者だと嬉しいのだけど、どちらとも言いきれないのは、彼女、いや、彼の態度だろうね。
(……まさか天馬くんが男だとはねぇ…)
世の中不思議な事もあるものだ。実際に確認して漸く納得がいった。卒業アルバムを見ただけでは半信半疑だったけれど、もう疑いようがない。この髪も、よく見たら所々傷んでいるし、少し違和感がある。女装だと分かってしまうと、こうも見え方が変わるものだとは。
きっと、面と向かって『君、実は男でしょ?』と言ったら、僕の話も聞かずに逃げられてしまうのだろうね。
(それは、困るなぁ…)
追うつもりだけれど、まず“逃げられる”のはいただけない。どうにかして、逃げられない状況を作りたいのだけど、どうするのがいいか。彼が男だと気付いてしまったけれど、暫く彼には内緒にしておいた方がいいかもしれない。まずは対策を考えないといけないから、今は時間が欲しい。
けれど、このままでは僕から離れるために予想もしない事をされてしまうかもしれない。そうなる前に、まずはどうにかして彼を丸め込む必要がある。
そこまで考えたところで、カフェの前まで来ていたことに気付いた。それなりに人が中にいるのを見て、ふむ、と口に手を当てる。
「混んでいそうだから、別のお店へ行こうか」
「…む……? 座れないほどではなさそうだが…」
「この店の裏に、良いお店があるんだ。せっかくだからそこへ行こうじゃないか」
「……そう、なのか…?」
にこりと笑顔を作って、天馬くんを言いくるめる。どこか訝しげに、けれど素直に着いてくる天馬くんに、彼の今後が心配になってしまう。まぁ、今はそのちょろ…扱いやすい単純な性格が有難い。
こっちだよ、と彼の腰を引いて、店の横の通りに入っていく。危機感を覚えてもらうためにも、良い経験になるよ。そんな風に心の中で呟いて、すぐ裏のホテルに天馬くんを誘導する。
と、建物の立て看板を見た彼は、ギョッとした顔で足を止めた。
「ちょ、ちょっと待てっ…!」
どう見ても喫茶店の入口ではないことに気付いた天馬くんが『進まない』という意思を体で体現してくる。そんなに簡単にはいかないか、と思いつつ、僕は作った笑顔を貼り付けて天馬くんを見返した。
「おや、どうしたんだい?」
「どうしたじゃないっ! どう見ても『HOTEL』と書いてあるではないかっ…!!」
「安心しておくれ。この建物の三階にはこの辺りで有名なカフェもあるんだよ」
「そ、そうなのか…?」
この辺りのナンパ男が使うお決まりの嘘だけど、天馬くんはあっさりと信じたようだ。“勘違いした”という事に顔を赤くさせ、恥ずかしそうに俯いてしまっている。その反応もまた危険だということを、彼は理解していないのだろうね。
無人のロビーで機械を相手に手続きを済まし、「はい、乗って」とエレベーターに連れ込む。なんの手続きだったのか不思議そうに聞いてくる彼に、「受付は一階なんだよ」と適当な嘘で誤魔化し、三階のフロアでエレベーターを降りた。
「このフロアの一室がカフェなんだよ」と言って借りた部屋の前へ彼を案内する。先程機械から受け取ったルームキーで鍵を開けると、そこで漸く彼も違和感に気付いた様だ。逃げようとする彼のお腹に腕を回して「大人しくしててね」と一言声をかけて部屋の中に一緒に入る。扉をしっかりと閉めて鍵をかければ、騙されたと気付いた天馬くんが腕の中で暴れ始めた。
「帰るっ!!」
「はいはい、奥に行こうねぇ」
「騙すなんて卑怯ではないかっ…! こんな事をする奴だとは思わなかった!!」
「先程の二人に同じ事をされても、そう言えるかい?」
「っ…」
ひょい、と彼を横抱きに抱え上げ、履いていた靴を適当に脱がせる。暴れる天馬くんを落とさないよう中へ入れば、少し狭いけれどそれなりに綺麗な部屋が出迎えてくれる。ダブルベットが一台と小さめのソファーがあるだけの簡素な部屋を見て、天馬くんの体が突然強ばる。そんな彼をベットの上にそっと下ろし、組み伏せるように彼を跨いで上に乗り上げた。細い手首を掴んでシーツの上に押さえつければ、涙目の天馬くんが首を左右に振る。
「は、なして、くれ…」
「僕が助けなければ、今頃ここに君と居たのはあの二人だよ」
「っ……、…」
「もう少し、自分の身の安全を考えてくれないと、心配で目が離せないよ」
僕の言いたいことが伝わったのか、申し訳なさそうに彼の表情が曇る。あまり怖がらせたいわけではないから、このくらいにしておいてあげようかな。
震える彼の手を解放すれば、天馬くんの表情が安堵の色を浮かべる。「すまん…」と小さく謝る天馬くんに、僕はそっと肩を落とした。
そんな簡単に僕を信用してはいけないというのに。今この状況になっているのも、僕を信用したからだ。この状況を作ったのも僕で、今この場で天馬くんにとって一番危険な人物も僕なのだと、彼は気付いているだろうか。きっと、彼は気付いていないのだろうね。
薄らと涙の滲む目尻を指の背で拭い、「僕の方こそ、すまないね」と、怖い思いをさせてしまった事を謝罪した。ふるふると首を横へ振ってくれる天馬くんに、ほんの少しホッとしてしまう。
「天馬くんにナンパは向いていないから、今後は二度としないでおくれよ」
「………」
「それと、もう恋人探しは諦めて、僕を選んでよ」
彼の目尻に口付ければ、天馬くんは困った様に顔を顰めた。なんと答えるか、悩んでいるのだろう。視線が逸らされ、彼の唇がもごもごとし始める。そんな姿さえ愛おしいと思う僕は、本気で彼に落とされたのだろう。
男だと確信しても、嫌悪感はない。むしろ他の男に触れられているのを見て、どれ程心を掻き乱された事か。相手の男に腹が立ち、愛想笑いをする彼に胸が痛み、離れてしまうのではと不安に駆られた。二度と離したくないと、そう思う程惹かれている自分を、彼には知っていて欲しい。
「何があっても、君だけを大切にすると誓うから、どうか絆されてはくれないかい?」
「………だ、だが…」
「勿論無理強いはしないよ。けれど、君が今日みたいに僕の想いを試す様な事をしたら、僕も我慢が効かなくなると知っていておくれ」
「…んっ……」
言い淀む彼の唇に触れるだけのキスをして、じっと、正面から琥珀色の瞳を見つめる。分かりやすい程熱の篭もるその瞳が、薄らと涙の膜を張る。
彼の中では、どんな葛藤が繰り広げられているのだろうか。一思いに彼の秘密を知ってしまったことを打ち明けたら、彼はどんな顔をするのかな。それで素直に頷いてくれるなら、それでもいいかもしれない。けれど、この秘密を彼が隠したいと言うのなら、僕はいくらだって見て見ぬフリを続けてもいい。それで君が隣にいてくれるなら、その方がずっといい。
「…ん、……ん、…んんっ…」
固く閉じた唇に何度も僕のを押し付けて、手探りで見つけた彼の手を握る。指を絡めるように繋げば、恐る恐る彼の方から握り返された。
作り物の髪に指を差し入れ、そっと梳く。いつか、ありのままの彼の全てに触れてみたい。薄い化粧ですらも邪魔に思えて、キスを装って自分の唇で彼の口紅を拭う。赤い口紅が掠れて、彼の口元が汚れていく。
その様を見下ろすと、言い様のない興奮を覚えた。
「……か、みしろ…?」
とろりと熱で溶けた瞳が、獣の様な僕の顔を映す。仄かに欲が滲む彼の瞳に、ごくん、と口の中の唾液を飲み込んだ。
「一時間、ゆっくり楽しもうか」
ここなら邪魔も入らない。人目も気にしなくていい。僕とのキスが好きな彼にとっては、絶好のシチュエーションだろう。
一時間は少し短い気もするけれど、彼が頷くのにそう時間はかからないはずだ。
「ね、天馬くん」
僕を煽った君が悪い。そう心の中で囁いて、抵抗もしない彼の唇を塞いだ。