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    wang_okawari

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    wang_okawari

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    ルパファン
    ※コミカライズ軸

    ピグマリオンは歌わない ルパンがいなくなった。

     より正しく言えば、帰って来なくなった。
     事実に照らし合わせて更に正確を期すならば、ちょうど一週間前に「しばらく留守にする」とだけ言い残して外泊に向かったのだけれど、行き先の心当たりさえないエリックにしてみればそれはいなくなったこととさほどの違いはなかった。

     寧ろ、希望を持たせている分行方知れずよりもずっと悪質だとさえ思う。暫くとはどれくらいの期間を指すのだろう。
     精々するさ、と羽根を伸ばしていられたのははじめの2日だけで、それ以降エリックはどうにか退屈を誤魔化し続けている。

     エギュイ・クルーズはガルニエ宮には引けを取るもののそれなりの広さがあり、どうやって整備しているのか不規則に配置された部屋の中にはエリックの好奇心を擽るものも少なくはない。大量の書物や資料、おそらくはルパンの戦利品であろう貴金属や芸術品。それらをひとしきり眺めては許される程度に弄り回し、どうにか暇を潰せたのは3日程度だ。つまり、昨日今日とエリックはどうにもならない時間をすっかり持て余していた。

     考えてみれば彼に盗まれて以来二人きりの生活が続いていたのだ。本を読んでは邪魔をされ、考え事をすればすかさずちょっかいを出された。うんざりしていた日々も、失ってみればこれほどに虚しい。それは、オペラ座の地下でひとり暗闇に抱かれていた時には感じたことのない心情であった。

     寂しい。
     遅いぞ、バ怪盗。と口慰みに呟いてみても返る言葉はなく、よく響くテノールが岩壁に反響するのみだ。

     いよいよすることのなくなった8日目、エリックの心にはひとつの疑念が湧き始めていた。
    ルパンの阿呆はどこかで捕まっているんじゃなかろうか。考えたくはないが、あり得ないことではない。何せアルセーヌ・ルパンといえばその名を欧州に轟かせる大怪盗だ。フランス国内は勿論、近隣諸国でも司法のお尋ね者になっていることは疑いようもない。くだらないへま(それこそ、美女に目がくらむか何かして!)を踏んでガニマール警部に花を持たせてしまったか、あるいは――ここまで考えて、エリックは気だるげに横たわっていたソファから身を起こした。

     もしかして、自分は置き去りにされたのだろうか。
     可能性としてはこちらの方がよほど現実味を帯びていた。と同時に、この考えを否定したくなる己がいることにも驚く。

     だって、と口の中だけで言い訳をする。だって、私のことが欲しいと言ったのに?お前が、オペラ座からここに私を連れてきた癖に。

     一度芽吹いた疑いは一瞬のうちに根を張り、七日分の焦燥を吸い尽くしていった。一晩中不安の水を与え続けたそれは、眠れぬまま迎えた朝にはすっかり刺々しい茨に姿を変えている。そして、膝を抱えたエリックの心のいっとう柔らかい部分に容赦のないひっかき傷を作り続けるのだった。



     9日目。
     ちゃんと食べろよと言われた食糧庫にはまだ水も食料もふんだんにある。長く持たせれば半年以上潜伏することも容易だろう。食わず飲まずで過ごすことには慣れていた。この岩場はルパンが隠れ家にするだけあって人里離れた海岸線にあり、闇に乗じる必要もなく陸にあがることだって出来そうだ。そうすれば後はどこへだって自由に行ける。大陸にはまだ見ぬ国も、街もある筈だ。
     けれど、とエリックは考える。だとして、どうするというんだ。今更オペラ座にのこのこ出戻る訳にもいくまい。かといって、他の場所に行ってもこれまでの人生と同じことが繰り返されるだけだ。迫害と孤独。生まれつきの忌まわしい半面がもたらす呪いは、どこへ行っても変わることはない。

     これを醜いと言わなかったのはルパンだけだ。宝石だと称したのは。日の光の下で輝くことができると、そう嘯いたのはあの男だけだった。
     昨夜から姿勢を変えないまま、エリックは頭の中であの夜の思い出をなぞり続けた。
    いつだって遠巻きに眺めるしかなかった煌びやかな舞台。手ずから発声指導をした麗しの歌姫。細い手袋の先は、淀んだ血の色のルビーを歯牙にもかけななかった。代わりに同じ指先が仮面の鍵穴を突く。月光の下で私の手を取った怪盗。世にも美しい男が衆人環視の中で私を欲しいと言った。夢のような夜が、今はもう遠い。

     案外、本当に夢だったりしてな。エリックは自嘲めいた笑いを浮かべる。頭の中には、五日前に読んだある書物の言葉が浮かんでいた。胡蝶の夢。あの一夜は、哀れな怪人の見た愚かな夢だったのかもしれない。
     大胆不敵にも予告状を新聞社に送り付ける怪盗も、愛を囁くように存在を望まれたことも。決して手には届かぬものだ。今時流行らない荒唐無稽な逃亡劇は、どこまでも優しくて悲しい夢に違いない。それもとびきり甘ったるくて現実離れした、幼子が見るような夢だ。

     翌朝、エリックは何も変わらない部屋で目覚めた。ルパンはいない。ふと頭に浮かんだのは、これが夢であっても彼の姿かたちを記憶の限り留めておくべきだという使命感であった。
     もしも目が覚めた時、せめてそれが慰めになるように。エリックは食糧庫の向かいの部屋へ向かう。部屋と言うよりは納谷に近いかもしれない。何に使うのか、多様な工具をかき分けて奥から木箱を引きずり出す。中には、蝋燭が隙間なく詰め込まれていた。

     真四角の蝋から輪郭を切り出す。引っ掛かりのない顎、男らしい首筋。額は理知的に広く、鼻根は上品な細さをしている。高くつんと伸びた鼻に、薄い唇は不敵に弧を描いている。全体的な線には女性的な柔和さがあるが、弱弱しさは感じない。それが、アルセーヌ・ルパンという男だ。
     ルパン。ルパン。私の夢の男。エリックは一心不乱に蝋を削り、時には溶かしたものを足して伸ばした。

     寝食を忘れ、夢を留めることだけに心を砕き続ける。目を離せばこの美しい男の影すらも見失う気がした。もはや太陽が何度沈んだかもわからない。そうしてようやく彼の胸像が出来上がった頃である。

    「エリック、何してるんだ」
     長い間無音だった空間に、自分以外の生き物が立てる音が加わる。エリックはおそるおそる首をひねった。そこには、今しがた自分が細心の注意を払って掘り出した毛先よりも更に優雅な螺旋を描く前髪を垂らした男が立っていた。

    「…………ル、パン……?」
    「いかにも、俺がルパンだとも」
     男は大仰にポーズをとって見せる。水に落ちた猫のように硬直するしかないエリックの傍を通り抜け、ほとんど自分と大きさの変わらない顔と対峙して言った。
    「なんだ、こんな特技もあったのか。よく出来てるな」
     実物の美貌にはもう一歩及ばないが、と軽口を叩く。エリックは途方に暮れていた。ルパンが、目の前に、いる。頭の中で追い求め続け、もう一度触れるにはその形を自ら掘り出すしかないと思っていた夢の存在がすぐ傍にいた。

    「ただいま、エリック」
     気が付けば手を伸ばしていた。蝋よりもずっと滑らかな肌に自分の指から煤が移り、エリックは畏れ多さに腕を引く。しかし、ずっと力強い指に絡めとられてしまう。
    「どうした、熱烈な出迎えは嫌いじゃないが……」
     ルパンの手がエリックの手首を掴んだ。これ以上ないほど完璧な造形をした眉が顰められる。エリック、と掛けられた声は非難がましい。
    「また食事を抜いただろう。ちゃんと食えとあれほど言ったのに」
     お前はただでさえモヤシなんだから。普段なら聞き捨てならない言葉が降るが、エリックはその内容を正しく理解できる冷静さを欠いていた。未だ現状を把握できない脳が口から勝手に言葉を吐く。
    「……ルパンがいなかったから」
    「寂しすぎて食事も喉を通らなかった?」
     色づいた唇が動いた。くすりと笑う微笑みは春の息吹のようで、その挙動のひとつひとつから目を離せない。名物の菓子を買ってきたんだ、と話を切り替える男に抱えられて初めて、エリックは正気を取り戻した。



    「だからって俺の人形を?」
    「…………うるさいな」
     くつくつと笑う男は見目こそ美しいが、やはり傍にいると鬱陶しい。食卓でエリックを待っていたのは、湯気を立てるポットと焼きたての膨らんだものをそのまま平らに圧縮したようなワッフル、そしてルパンからの詰問であった。
     嘘か真か知る由もないが、これはコーヒーの湯気で柔らかくするんだ、というルパンの言葉通り菓子はカップの上に乗せられている。そのまま食べられれば話題も誤魔化せただろうに。エリックは無実の土産物に八つ当たりをした。中に挟まれているらしきキャラメルの甘い匂いが漂い出した頃には、留守中の失態を洗いざらい聞き出され、エリックは腹立ちまぎれに聞き返す。
    「お前こそ、どこに行ってたんだ」
    「ああ、オルガンを買いにな。腕の良い職人を訪ねていた」

     今日は面食らってばかりだ。アメジストの瞳が見開かれる。オルガンを?買いに?
    「怪盗が、わざわざ金を払って楽器を買うのか」
    「見くびってもらっちゃ困るな。俺は別に金に困ってる訳じゃない。それに、技術や職人には敬意を払うべきだ。もちろん、対価もな」
     まぁ、ここまでの運搬手続きでは少々揉めたが。とルパンは付け足した。

    「さぁ、食べ終わったら部屋を片付けよう。どこに置くのが良いんだ、エリック?」
    「……どうして私に聞く」
     次は金の眼が丸くなる番だった。冗談だろう、とでも言うように大げさに眉が弓なりに吊る。
    「君のオルガンだからさ、他に何がある」
     もう驚くのは飽きた。エリックは顔を顰める。とても信じられない。無理やりにでも眉を寄せていないと、喜びのあまり泣き出してしまいそうだった。オペラ座を後にして以来、記憶の中にしか残っていない重厚な音色が耳に蘇る。私の、と独白めいて呟けばルパンが仮面に覆われた右頬を包んだ。

    「言っただろう、ものには総じて納まるべき場所があると」
     光を浴びてこそ宝石が輝くように、音楽の天使が楽器を持たずしてどうする?そして、天上の音色を奏でる唯一無二の存在は俺の傍にいるべきなのだ。ルパンは後に続く言葉を口にしなかった。尤も、思いがけない歓喜と戸惑いの渦中にいるエリックの耳には届きはしなかっただろうけれど。
     菫色の瞳が輝いていた。細い指先が、今にも鍵盤に触れたいというようにわななく。
     やれやれ、オルガンが届けば最後、また三日三晩飲まず食わずで作曲に没頭するかもしれないな。ルパンは近いうちに遭遇するであろうその時に備えて覚悟を決める。そしてその後にすぐに贈られる、自分だけが聞くことのできる至上の歌声に思いを馳せた。
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