暗い暗い水の底に沈んでいるような感覚が続いて、息が苦しかった。必死に呼吸をしようとしても、息を吸えば余計に鉛が肺に入り込んでくる重さに覆われる。
初めて味わう苦しさとしんどさに何かが途切れそうになって、その度に遠くの方で声がする。
――ロー
――ロー……!
大好きな人がおれの名前を呼んでいる。音の方向もはっきりとしない呼びかけを頼りに、ただただ足掻いていた。コラさんには、張り詰めた声色のままおれの名前を呼んでほしくない。
本来は、もっと優しく穏やかな響きでおれの名前を紡いでくれるし、彼がおれを呼ぶ声が好きだった。いつだってひだまりに似た笑顔を浮かべる人が、どこか遠くで泣いている気がする。
泣かせたくない、大事な人なんだ。
子供の頃から想い続けて、愛している人。笑っていてほしい人。
泣き続けているコラさんの傍に行ってやりたくて暗闇の中をただただ駆け続けていたら、ある瞬間にふっと水面の上に顔が飛び出す。ものすごく久しぶりに新鮮な空気を感じて、視界が開けた気がした。そんな錯覚を覚えて目を瞬かせると、周りから「ロー!?」「お兄様!!」と大きな声が聞こえてくる。
「? っ……!」
「ロー! あぁ、本当に良かった。やっと目が覚めて……! 一時はどうなることかと」
「ロー、話しはできそうか? ああ、無理はしないで良い」
両親が口々に言うのが聞こえて、父の心配そうな眼差しと一緒に顔色を確認される。この状況に至った経緯についてさっぱり思い出せないながらもどうやらここは病室で、けが人はおれのようだった。身体の節々が痛みを訴え、大ケガを負っていることを伝えてくる。
(なんでおれは、こんなことに……)
思い出そうとしても、意識を失う前のことは霞がかかったように朧げだった。
情報を得ようとベッドの周りを囲む両親や妹の顔を見渡したら「あ!」とラミが声を上げる。
「ロシナンテさんにも教えて上げなきゃ。ちょうど今、休憩に行っちゃって」
涙を滲ませたまま妹は病室を慌ただしく出て行き、すぐに金の髪をした長身の男を連れて戻ってくる。
「ロー……!」
沈んでいた意識の中でもずっとおれに呼びかけてくれていた大好きな人が、ベッドに近づいてくるのをぼんやりと目に映す。
まだ上体を起こせないおれの体勢からも、ほろほろと彼の赤い瞳から透明な雫がこぼれ落ちて行くのが見えた。零れ落ちる涙を拭ってやりたいのに、腕の一つも持ち上げられない今の状況がもどかしい。
普段の状態とはかけ離れたこちらの姿にコラさんの瞳が小さく歪んで、「ロー」とこちらに手が伸ばされる。
「ロー、お前、仕事の帰りに事故に遭ったって……頭を強く打ったらしくて、なァ、おれが分かるか……?!」
「分かるよ、コラさん」
両親の顔も、妹の姿も。大好きな人の名前も思い出も、ちゃんと覚えている。
おれの答えにコラさんはホッとしたように表情を緩めた後、ぐしゃりと綺麗な顔立ちを歪めた。
よかったと絞り出すように呟く声がしてからは、それ以上の言葉を紡ぐことが出来なくなった想い人がすすり泣く音だけが聞こえて来る。
(あァ、コラさん、ごめん)
ひどく泣かせて、悲しませてしまった。
大丈夫だからと告げようとした瞬間、彼の左手の一点に、視線が釘付けにされる。
「っ……!」
あんなにも彼が涙を流すところを止めたいと思っていたのに、氷漬けにされたように動くことも声を発することが出来なくなる。
コラさんと、無音の呼びかけが胸中を滑り落ちていった。
おれの回復を喜ぶ周りの家族たちの反応とは裏腹に、身体の芯が冷え切っていくのを感じる。
おれに泣き縋る表情を覆い隠している、コラさんの左手。その薬指に、おれの知らないプラチナのリングが収まっている。鈍く光る指輪に、じりと胸奥が焼き付く。
なんで、とベッドの上で喚きだしそうだった。
(その指輪、いったい誰が……!)
おれ以外のどんな奴が、あんたの左手薬指の場所を奪えるっていうんだ。
いつからだ。コラさんは、いつから指輪を嵌めている?
いつかおれが誓いの指輪を渡したいと願っていたスペースで、仄かに輝く銀色が目に痛い。
どうやらおれは13年以上の片思いを続ける人を、意識を失っている間にどこの馬の骨とも知れない相手に奪われていたようだ。
目が覚めた直後はさすがにおれも色々と混乱していた。検査や医師の診断を受け、落ち着いた後に両親やラミの説明を聞く。彼らの話を繋ぎ合わせたところによると、おれは一か月前に勤務先の病院からの帰り道に、交通事故に遭ったようだった。
信号無視の車に突っ込まれて、数日間は緊急治療室での措置を受けなければいけないほど、一時は危険な状態を彷徨っていたらしい。ICUを出された後も予断を許さない状況は続き、家族とコラさんが常に付き添ってくれていた。
むしろ、医師として働いている両親が動けない時は、コラさんが積極的に対応してくれたと聞いている。
コラさんは、昔から家族ぐるみで付き合いがあるドンキホーテ家の次男だ。小さな頃から面倒を見てくれていて、おれの初恋を奪っていった人。未だにおれの、初めての恋を返してくれない人だ。なのに、彼はおれの知らないところで心に決めた人を作ってしまった……。
事故からの昏睡状態から目が覚めてからおれは延々と、片恋相手の左手で輝くリングを見せつけられている。そして業腹なことに、おれは彼に指輪を送った相手のことを何一つ知らないのだ。
事故前、おれは出来るだけコラさんの隣をキープしていた。彼の視線がおれ以外の誰かに向くのがイヤだったから、子供じみた独占欲を向けていたのだ。でも、おれのわがままをコラさんが嫌がったことはない。
おれと同じ好意を返してもらったことはないけど、コラさんはおれを心からかわいがってくれている。愛してるって、言い続けてくれていた。
だから、おれが望むならコラさんは何でも叶えてくれる。傍に居てほしいと願えば抱きしめてくれて、優しい声がおれを励ます。
ガキのおれにコラさんが歌い聞かせてくれた子守唄の優しい響きや、抱きしめてくれた体温は、今も忘れられない。
彼の優しさに甘えてコラさんのプライベートを独占して、悪い虫がくっ付かないように牽制していた。なのに、たった一か月だけ。ほんのひと月の間おれが目を離していた隙に、コラさんは将来を誓い合う仲の人を作っていたようだ。
自分自身の間抜け具合に、失笑しか出てこない。
(何をやってんだ、おれは……)
どうしても、コラさんが欲しかった。誰にでも優しくて親切な彼の眼差しをおれだけのものにしたいと、初恋を自覚した瞬間から夢見ていたのだ。ガキの頃から抱え込んでいた願いを、最後の最後で手折られた。
目覚めないおれを見守り続けるコラさんの、弱った心を慰める相手でもいたのだろうか。おれの知らないその“誰か”と、この先の人生を共にすると決めてしまったのか。
あァ、なんで……と、腹底にどうしようもなく割り切れずに吹き溜まるマグマのような焦燥が沸く。
想い人を奪われたことを業腹だったし、指輪の贈り主のことを教えてもらえないことも理解できなかった。
コラさんとゆっくり話せるようになったその日に、彼には尋ねている。
「コラさん、その指輪は……?」
「え、あ、これは……」
「それ、誰に贈られたものなんだ? おれの知ってる人間か……?」
矢継ぎ早に尋ねた台詞に、コラさんは困ったように言葉を詰まらせて「……そんなことより、お前は早く身体を治せ」と誤魔化された。
あの日から、どんな言葉で尋ねても問いかけても、「悪いけど、ローには教えられない」「お前が気にすることじゃない」と、相手の情報を一つもくれない。
その上、実在を疑ってしまうほどにコラさんの近くにはそれらしき人物が見当たらなかった。会うどころか、連絡を取り合っているようにも見えないのだ。
コラさんが選んだ相手の影も見えないことを不思議に思って、「会わせてほしい」と願っても「……今は遠くに居る人だから、ローには会わせられないんだ。ごめんな」と寂しげな顔をさせてしまった。
おれの願いを断ることがなかったコラさんからの初めての拒絶に、最初は理解が追いつかなかった。
お互いに向ける好意の種類が違っても、おれはずっとコラさんの隣に居た。だから、コラさんの大切な相手に挨拶をさせてほしいと頼むのは、不自然な願いではなかったと思う。なのに、コラさんはずっと首を横に振り続ける。
頼めば頼むほど、コラさんの顔が曇ってしまうのが苦しい。だけど、彼を任せるのに値する人物なのか分からない限り、おれも引き下がることは出来ない。
そして、おれに何も教えてくれないのは、コラさん自身ではなくておれ達の周囲にいる人間も同じだった。
コラさんがおれには何も教えてくれないのならと、まずはおれの家族に聞いた。コラさんはどんな人間から贈られた指輪を身に着けているのか。だけど、両親も困ったように首を振るばかりで、「ロシナンテ君から『ローには何も言わないで下さい』って頼まれてるの」と口を閉ざす。
唯一妹のラミだけが「コラさんのお兄様、それか、ペンギンさんやシャチさんなら教えてくれるかも」とこっそり耳打ちしてくれた。
だが、ラミから言われた相手に尋ねてみても、結果は同じだった。
コラさんの実兄であるドフラミンゴとも、それなりに長い付き合いがある。おれが事故から復帰して特に後遺症もなく快復したことを、ひねくれた言葉選びをしながらも喜んでくれた。
仕事が忙しく殆ど自分の会社に籠っているドフラミンゴの元へ赴けば「命拾いしたようだな」と口角を釣り上げる。
「もう二度とあんな風にロシーに心配をかけるなよ」
そう言って、コラさんがおれの容体にどれだけ気をもんでいたのか教えてくれた。
「毎日毎日お前の病室に足を運んで、自分の方が死にかけの顔をしながらお前の様子を見守ってたんだぞ」
「あァ、分かってる」
二度とコラさんにあんな顔をさせないと言い返せば、軽く頷く。そして机の上で指を組みながら「欲しいものがあるなら言え。快気祝いに贈ってやる」と向けられた台詞に「なら、コラさんの指輪の贈り主を教えてくれ」と即答する。
コラさん本人が言ってくれないなら、彼の家族から相手のことを聞き出したい。
だが、ドフラミンゴも弟のパートナーに関しては何も教えてくれなかった。
「お前が知る必要がない相手だ」
言葉少なに言い切って、フッフと意味深に笑いながら「おら、用事がすんだのなら帰れ。おれは忙しいんだ」と、犬でも追いやるようにおれを追い出す。
最初にシャットアウトされて以来、どれだけ文句を言ってもドフラミンゴは態度を崩さなかった。
弟と家族を溺愛する男がコラさんの交友関係に口を挟まないでいるのなら、それなりに身元はしっかりした相手なんだろう。だからこそ相手の情報が気になるし、教えてもらえない理由が分からない。
不可解なことに、おれ側の友人であるペンギンやシャチも口を重くした。
「ロシナンテさんから、何も言わないでほしいって言われてるんです」
「ローさんには悪いけど、ロシナンテさんとの約束があるから、おれ達の口からは何も言えません」
そして苦しそうに表情を歪めながら「ごめんなさい、分かって下さい」と頭を下げられる。どうやらコラさんから固い箝口令が敷かれてしまっていて、その指示をきつく守ろうとしているようだった。
何処を向いても八方塞がりな状況に「何でだよ!?」と、目に見えない理不尽を殴りつけたくなる。
どうしておれにだけ、相手のことを何も教えてくれないんだ。肌身離さず指輪を付けているコラさんのことを、ほったらかしにするような奴なのに。
退院するまで、コラさんはずっとおれに付きっ切りで傍に居てくれた。その間、指輪の主が姿を見せたことはない。コラさんも、そいつと連絡を取っているようには見えなかった。
「今は理由があって、近くにいないんだ」
「でも、遠く離れた場所にいても、おれのことをいつでも想ってくれているのは分かってるから」
だから良いんだ。寂しくはない。
言って、コラさんは大切そうにリングの表面を撫でた。腹立たしいことに、指輪の贈り主とおれのセンスは似通っている。そのせいで、本来ならおれが贈りたかったデザインとよく似たそれを、彼は左手薬指に嵌めている。
大らかで、悪く言えば大雑把なコラさんは、あまり自分の持ち物や身なりに頓着しない。ドジな彼はしばしば物を失くしたり落としたりするから、高価なものは持ちたがらない。
物への執着がないコラさんだが、おれの初任給でプレゼントしたジッポライターだけは大切に使い続けてくれている。常日頃から持ち歩いて、こまめに手入れをしている姿をよく見かけた。彼にプレゼントしてから4年の歳月が経って稼ぎも増えたおれなら、更に良い品をプレゼントしてやれるのに。
だけどコラさんは柔らかな笑みのまま「お前が色々やりくりしつつプレゼントしてくれた物だから、おれにとっちゃこれ以上のジッポはありえねェよ」と言って、少し傷の付いた金属の表面を嬉しそうに撫でる。
大事なものに触れる手つきが、まったく一緒だった。おれが贈ったジッポライターも、知らない誰かが贈ったリングも。
指輪が汚れないように定期的に磨いて、投げ掛ける視線には深い愛情が籠っている。
おれ以外にそんな眼差しを向けないでくれと醜い嫉妬が顔を出すのを、抑え込むのに必死だった。
相手が誰であれ、コラさんが選んだ相手におれが文句を言う権利はない。だけど、どうしてコラさんの近くにいてやらないんだ!?という憤りを消せない。
おれだったら、コラさんを置いて遠くに行ったりなんかしない。ずっとそばにいるし、彼を支える。
コラさんが大事にしているリングは、彼に掛けられた枷に見えて仕方がなかった。コラさんの自由と感情を縛って、束縛している象徴だ。
でも、コラさんの交際相手に文句を言っているのはおれだけだ。
ドフラミンゴは何も言わない。
ペンギンやシャチも何も情報をくれなかったけれど、「ロシナンテさんに指輪を贈ったのは、きっと世界で一番あの人のことを愛している人です」と、切なそうな面持ちで言った。
どうやら、祝福されるべき相手ではあるらしい。
(だったらおれに紹介してくれてもいいだろう……!)
コラさんの幼馴染として、知っておきたい。相手の素性や人柄は見極めておきたかった。
おれの思いや焦り、不信とは裏腹に、日常だけが無情に過ぎていく。おれだけが何一つ知らされないまま、コラさんはただ「大事な指輪なんだ」とだけ言って、いつもリングを身に着けている。
直向きなコラさんの姿を見せつけられて、最初は黙っていようと思った。余計なことは、口にすべきじゃない。
コラさんの選択に、おれが何かを言う資格はないんだから。おれはただの幼馴染であり、彼の血の繋がらない弟分でしかない。
でも、ひと月が経ちふた月が経ち、誰かを想うコラさんの横顔ばかりを見せ続けられた所為で、どうしても我慢が出来なくなった。
彼の口を割らせるまで、おれも引かない。
そんな気持ちを固めてコラさんのことを呼び出して、おれの家で想い人と二人きりで向かい合う。本当は彼の家におれが赴こうかと思ったのだが、コラさん自身に断られた。
「あれだけの事故に遭遇して、身体はまだ本調子じゃないだろう? おれがローの家に行くから、お前はゆっくり休んどけ」
会う約束を取り付けた時、電話越しのコラさんはそんな風に優しく言ってくれた。どんな時でもおれを優先してくれるところは変わらない。だけど、コラさんの中の一番は、おれではなくて名前も顔も知れない“誰か”に書き換わってしまった。
それが悔しくて悲しかった。
コラさんにぶつけるべき感情ではないと頭では理解していても、心がついてきてくれないのだ。
「ローの家、久しぶりだなァ」
言いながら、仕事帰りのコラさんがおれの一人暮らしの家の玄関先に姿を見せる。仕事場から直行してくれたのか、スーツのままの格好で「お邪魔します」と言って室内に足を踏み入れた。
ネクタイを緩めながらおれが勧めた椅子に腰を下ろしつつ、「それで、おれに話ってなんだ?」と首を傾げる。
テーブルの上で組まれたコラさんの指には、いつも通りに小憎たらしいリングがすました顔で収まっている。コラさんの長い指に嵌められた指輪に視線を送って「それ」と切り出す。
「コラさんもドフラミンゴ達も教えてくれねェけど、いったい誰に贈られたものなのか、そろそろ教えてくれてもいいだろう?」
「えェ? おい、ロー。またその話か」
問いかけた台詞に、コラさんは少しだけ煩わしそうに表情を歪めた。
「ローは知らなくていいんだって、前から言ってるだろう?」
これまでにも繰り返された返答に、「悪いけど、そんな言葉じゃ引き下がれねェ」と拒絶する。
「指輪だけ送り付けてあんたのことをほったらかしにするような奴、おれは好かねェし認められない」
「おい、ロー!」
いくらお前でも言葉が過ぎると窘められたが、改める気は無い。コラさんを怒らせたり機嫌を損ねたりするようなことになったとしても、何かしらの情報を引き出すまでは粘るつもりだ。
「コラさんにとっては大事な相手かもしれないけど、おれは素性も知らねェ誰かよりあんたの方が大事だ」
だって、ずっと彼のことを想ってきた。コラさんの幸せを願っていたし、彼に幸福を捧げられるのはおれだけだと思っていたのに。
その願いが奪われたのなら、せめてコラさんの気持ちを射止めた相手のことが知りたい。だけど、優しくて頑固な想い人は強情だった。
貝のように口を閉ざす姿に「そうやって、周りの人間にも口止めしたのか?」と、言うつもりのなかった非難の台詞が飛び出す。
お互いの家族も友人も、誰もかれもが「言えない」「彼(ロシナンテ)に口止めされているから」と口を噤んだ。
正直、おれだけが排除されて理不尽だと思うのだが、どうやらみんなコラさんの意見を支持しているらしい。コラさんの依頼に正当性を認めて、彼の意思を尊重している。
だったらもう、無理やりだろうが強引にでも彼の態度を崩すしかない。
「コラさん……!」
「……言いたくない」
「だったら、口を開くまではコラさんを家に帰してやる気はない。話をしてもらわなきゃ、おれはコラさんを解放する気は無いからな」
「は? おれのことを軟禁する気か? バカなことを言ってないで、少し頭を冷やせ」
呆れたような表情を浮かべる想い人に、冷たく笑い返す。コラさんこそ、もうちょっとこちらの気持ちを考えた方がいい。
「悪いがおれは本気だよ、コラさん。この部屋で朝までおれと根比べだな?」
「おい、ロー!」
何を気にしているのか知らないが、誰だって良いだろう!? 頼むから、もう放っておいてくれ! と、流石に僅かな怒気を滲ませたコラさんの声がおれの耳朶を打つ。でも、感情を露わにしたのなら、おれの方へ形勢が傾いたということだ。見逃すわけがない。
「何だよ、そういう風に動揺するってことは、本当はコラさんだって不満が溜まっているんじゃないのか?」
「何だと?」
「思う所があるから、おれの台詞や追及を聞き流せないんだろう?」
続けざまに告げた台詞に、コラさんはあからさまに苛立った顔をする。ひどい言い草をしている自覚はあるけど、とにかく今はコラさんから情報を引き出したかった。
その為に、わざと彼の感情を逆撫でるような言葉選びをする。
「コラさんを放っておくような奴と違って、おれならあんたを一人にしない」
「はァ?」
「物を贈るだけなら、誰だってできるだろ。大事なのは、その後の態度や誠意なんじゃないのか?」
コラさんが憎からず思っているだろう相手に、難癖をつけていることは分かっている。でも、好きな相手から目を離して隙を見せた方が悪いのだ。
名前も知らない誰かに遠慮して引き下がるくらいなら、そもそも13年も片思いなんか続けていない。付け入る余裕があるなら、おれは利用する。
コラさんの心が欲しくて更に言葉を続けようとしたところで、「……お前がそれを言うのか?」と、地を這うような声が向けられた。
今までの感情の色とは全く異なる音の響きに、思わず「は?」と聞き返していた。
ただの焦燥や苛立ちではなくて、本気の激情が込められた声色に一瞬何も考えられなくなった。ここまで追い詰める気は無かったのに、おれは知らないうちに彼の逆鱗に触れていたらしい。
固まるおれを、コラさんの赤い瞳がキッと射抜く。
そのまま、信じられない言葉がぶつけられる。
「お前だよ!!」
「……は?」
「だから、指輪の相手はお前だって言ったんだ……! 数か月前、指に嵌めてくれたのはロー自身じゃねェか!?」
「……!」
おれの眼前で大きく張り上げられた、恋い慕う人の悲痛な声。生まれて初めてコラさんから向けられる糾弾の拒絶の声が、思考をぐらりと揺らしていく。
二の句が継げないでいる内に、コラさんの細い声が続いた。
「指輪をくれた翌日に、ローは事故に遭った。そんで、目覚めたときには何もかもを忘れてたんだ……! おれに指輪を贈ってくれたことも、その時の約束も……!」
言って、コラさんの瞳からぽろぽろと涙がこぼれ落ちる。
「ローが何も覚えてないなら、もうおれのことは放っておいてくれ。これ以上、おれを惨めな気持ちにさせるな……!!」
「……ぁ」
大好きな人が発する怒りと悲しみの入り混じった慟哭が、呼び水となる。自覚していなかった記憶の欠落に気が付いて、頭の中で何かのピースがかちりと填まる。
(あ、おれ……)
思い出した。
むしろ、何で忘れちまってたんだ。こんな大事なこと。絶対に失くしちゃいけない記憶を落っことして、おれはどれだけコラさんを悲しませた? どんなに傷つけて、彼の心を踏みにじっていた?
呆然と目を見開くおれの前では、コラさんの激情の吐露が続いていた。
「おれは、一番近いところでお前の成長を見守れていたら、それだけで充分だったんだ。なのに、なんでかローはおれに惚れちまって、勝手に口説いて勝手に告白して……随分前からローに振り回されてばっかりだ!」
言って「なのにお前は……!」とコラさんの声が張り詰める。
「事故のせいで、その記憶を全部どこかに置いてきちまった! おれに告白したことも、指輪を渡してくれたことも! っ、忘れちまったんなら、だったらもう、ローを手放すしかないって腹を括ったっていうのに……!」
ローはちっともおれの思った通りに動いてくれないと、擦り切れそうな声が落ちていった。
項垂れるコラさんの傍らに慌てて歩み寄れば、乱暴な力で振り払われる。
触るな! と叫んだ声は悲痛な色に塗れていた。おれがコラさんに与えてしまった傷の深さを感じさせる音の響きに、胸奥が引き絞られる。
おれに向けられている怒りよりも何よりも、傷ついた人の心に近づきたい。慰めなくちゃいけない。無理やりにコラさんの身体を抱きしめながら、必死に言葉を紡ぐ。
「コラさん! 頼む、おれの話を聞いて」
「おれはもう、ローと話すことなんかない……!」
「コラさん……!」
なァ! と追い縋った声は、冷たく撥ね退けられた。
いつでもおれに向き合ってくれていた人が見せる拒絶の強さが、彼の絶望を表している。
でも、おれはまだやり直すことが出来る。おれの希望を、コラさんは捨てないでくれていた。
どんなに苦しんでも追い詰められていても、コラさんが手放さないでくれていた指輪。触れた途端にコラさんの気配が尖ったのが伝わってきたけれど、半ば無理やりにあの日の言葉を口にする。
「『コラさんが指輪を外さないでいてくれる限り、おれも一生あんたを愛してる。この指輪が、おれの想いの証明だ』」
「……!」
だからコラさんがおれに向ける気持ちが無くならない限りは、外さないでと願ったのだ。おれの願いをコラさんは守り続けてくれていたのに。
言わなくちゃいけないことはたくさんある。だけど今のおれの胸中には、ごめんなさいという拙い言葉しか思い浮かばなかった。
「ごめん、コラさん。おれから言い出したことなのに、あの時誓ったはずなのに、忘れて……あんたに一人で背負わせて」
コラさんに想いを告げた時、彼は歳の差によるすれ違いや心変わりの可能性に怯えて、すぐには頷いてくれなかった。だから、絶対にコラさんだけを想い続けると誓うために、おれは指輪を贈ったんだ。
そんな大事なことを忘れてしまったことに心から悔やめば、「本当に?」とコラさんのこわごわとした眼差しが向けられる。
「ロー? お前、もしかして思い出して……」
問いかけられた声に、大きく頷いてみせる。おれの顔を見上げたコラさんの双眸からは、更に涙が溢れ出た。ひくりと喉を震わせる人を抱きしめて「ごめん、本当に悪かった」と囁くと、無言で首を横に振られる。
抱き締めた掌の下からは、コラさんが身体を震わせる振動が伝わってきた。
悲しませたことも寂しさを抱かせたことも申し訳なくて、ただ謝ることしかできない。
「コラさん、ごめんな。すまない。謝ってすむことじゃないけど、これからちゃんと償っていくから」
「……事故に遭ったのは、ローのせいじゃないだろ」
「でも、その所為で誓いを破りそうになった」
「記憶喪失も、ローの責任じゃねェよ。こうやって、ちゃんと思い出してくれた」
「でも、思い出すまでに時間がかかって、コラさんを泣かせただろう?」
おれの意識が戻ってきたからずっと、おれの記憶に残っているとおりの姿や態度を貫いてくれた。本当はとっくに恋人同士になっていたし、将来も誓い合っていたのに。
記憶のことはどう転ぶか分からない。事故の影響でただの幼馴染時代に戻ってしまったおれの状況を尊重して、口を閉ざす道を選んでくれた。
言いたいことも問い詰めたいこともたくさんあったろうに、秘密を一つも表に出さずに隠し通してくれたんだ。
薄情なおれを詰る権利はいくらでもあったのに、彼はそれを選ばなかった。何も言わずに寄り添う道に進んで、周囲に口止めさえした。
彼の覚悟と悲痛が胸を軋ませる。
「おれにぶつけちまえばよかったのに。なんで覚えてないんだ、指輪のことをさっさと思い出せって」
「……記憶のことはどんな風に変化するのか、誰も手が出せない領域だって言われた。ローはそもそも自分の記憶の欠落に気が付いてなかったみたいだから、下手に刺激もしたくなかったんだ。ローが思い出さずにいるなら、それもそういう運命だったのかなって」
言いながら、コラさんが少しだけおれの方に身を寄せてくれる。強張っていた肩の線が落ちて僅かに凪いだ気配に、こちらも抱きしめる力を少しだけ強くした。恋人の存在や気配に意識を向けると、おれの腕の中で安堵のため息が聞こえる。
小さな声で「ロー」と愛おしそうに呼んでもらえるのに甘えて「コラさんは」と、問いかけていた。
「コラさんは、指輪を外そうとは思わなかったのか?」
出来れば否定してほしいと思った質問を、コラさんは肯定する。
「そりゃ、おれだってずっと悩んでたよ……これを付けたままじゃ、ローの記憶に悪影響を与えるんじゃないかって怖かったし。それに、肝心なことは覚えてない癖に、ローはこれの贈り主に固執してるし」
悩んで、ローの為にも外すべきじゃないかって、ずっと迷っていた。でも、外せなかった。
だって、と震える声が言葉を紡ぐ。
「ローが言ってくれたから……! おれが指輪をしていたら、ずっと愛してるって。お前の手を取るのが怖いって言ったおれに、ローは指輪と約束をくれた。あの時のローがまだどこかにいるんじゃないかって、未練がましく縋って……!」
張り詰められた声が切なくて、ぎゅうと恋人の身体を引き寄せる。おれに抱き縋りながら言葉を失ってしまった人に、「もう二度と、約束を破ったりしない」と許しを乞う。
「愛してるんだ、コラさんを。指輪を渡した自分に嫉妬するくらい、おれはコラさんのことしか見えてない」
泣かせたことも、怒らせたことも、一生かけて償っていく。どんなに複雑な感情を抱えても、おれの傍に居てくれたコラさんみたいに、今度はおれがあんたに寄り添うから。
必死に告げた声に対してコラさんの嗚咽が僅かに大きくなったのを聞きながら、ただただずっと、愛しい人の身体を抱きしめた。
*****
「ろぉ……ごめ、もぅ……」
甘く濡れた小さな声が途切れて、おれに散々貪られた人の身体がシーツへくったりと沈む。露わになった肌のあちこちに鬱血痕が刻まれていて、おれの背中もひりひりと痛みを訴えた。
おれが失くした記憶を取り戻してから一週間が過ぎていて、久しぶりにコラさんと深い夜の時間を過ごした。
この一週間の間におれの家族やドフラミンゴ、ペンギンやシャチ達にはいろいろと迷惑をかけてしまったことを二人で謝りに行って、けじめをつけたことでようやく元通りの恋人として過ごすことが出来ている。
ドフラミンゴからは『二度目はねェぞ』とくぎを刺され、ペンギンとシャチの二人から本気で泣きつかれた。おれとコラさんの板挟みになって、相当なストレスを与えてしまったらしい。
我慢強くて自分を犠牲にしがちな恋人は、おれとの約束や秘密を全部抱え込んだまま沈黙を選んだ。
『無理に働きかけて、ローの心身に何か支障をきたしたら嫌だ』
『そんな危険な賭けに出る位なら、ローは忘れたまんまで良い。おれはあいつの記憶を刺激することは望まない』
そう言って陰で苦悩していたコラさんだが、指輪を外すことだけは出来なかった。自分の痛みに鈍感で、何を置いてもおれを優先させるコラさんの薬指に在り続けたリングが、切なくて愛おしい。
そういう人だから、おれは好きになった。
色んな願いや償いを込めて抱いた人は、いつもよりも感情を露わにしておれの身体に傷をつけてくれた気がする。
疲れて眠ってしまった人の頬には幾筋もの涙の跡が残されていて、それが全部快楽の証なら良かったのに、多分、きっと違う。
「コラさん……」
泣かせてごめん。一人にさせてごめん。
もう絶対に、こんな泣かせ方はしないと誓うから、これからもおれにコラさんを愛させてほしい。
思いながら口づけた横顔が微かに緩んでくれたことに安堵して、眠る恋人の隣に潜り込んだ。
この先二度と一人で泣かせる夜は与えたりしないと彼の寝顔へ密かに誓って、目を閉じる。軽く握りしめたコラさんの左手には、今夜もプラチナのリングが小さな光を返していた。