クロウとシオンが海に行くだけ「海に行きたいな」
私はシオンさんの言葉に何一つ返さなかった。独り言だと思ったのだ。
「海。ねぇ、クロウ?」
リビングには私たち以外の誰もいなかったから、彼が誰かに会話を求めているのであれば相手は私しかいない。だから「ねぇ、」の時点で彼の目的は私との会話だと理解できたし、知らんふりをしようにも名前を呼ばれてしまっている。
「そうですか」
会話を広げる義理もないから、これ以上発展しないような言葉を意図的に選んだ。いまは仕事をしていたので、あまり脳のリソースを割きたくなかった。
「うん。だから、連れて行ってくれないか?」
「無理です」
「イヤじゃなくて、無理なのかい?」
「見ればわかるでしょう」
このテーブルの八割は私が書類だの報告書だのを広げて占領している。使い古したパソコンは定期的にギュルル、と機械音を出していて、私はシオンさんの方を一度も見ていない。こんな状況で私が仕事中だとわからないほど蒙昧になってしまったのであれば、彼についての報告が必要になるだろう。
しかし、この男はそうではない。人の話は理解しているし、状況だって判断できる。その上で、自己中心的な言動しかしないのだ。
「仕事をしているから?」
「そうですよ。仕事は何よりも大切なんです」
「そうか」
シオンさんが私の後ろにやってきたから、スパイに関する画面だけを最小化する。そこに立たれると片方の仕事が滞るな、と考えていたら、シオンさんの指が画面を叩いた。
「ネットを見て。天気を見てくれないか?」
断る理由はなかったけれど、なんとなく嫌だった。断る理由がなかったから、従ったけれども。
「晴れですね」
「いいね」
ぽん、と私の肩にシオンさんの手が置かれる。さら、とその銀髪が流れ落ちる音と、楽しそうな声が耳音に落ちてきた。
「海に行こう」
「無理です」
「これも仕事だよ」
「それなら、行きます」
私が急に立ち上がったものだから、シオンさんが「おっと」と小さく声をあげた。そのまま愉快そうに笑っている様を横目に、適当にノートから切り離した紙に必要なことをメモしていく。
「海に入るんですか?」
「入らないよ。ただ歩くだけでいい」
そういうものなのだろうか。だとしたらタオルの類はいらないか。靴は変えるべきか。あとは何か、必要なものは。考えに割り込むようにシオンさんが笑う。
「だから、何もいらないよ」
そう言ってシオンさんは私の手を引いた。有無を言わさず、という形容がぴったりなくらい、何をそんなに急ぐことがあるのかと不安になるくらいの強引さだった。
この人の持つ堂々とした、ある種の支配的なリズムがなければ、焦っていたかもしれない。
でもこの人には不安はないし、こんな感傷的な提案もただの気まぐれなのだ。持ち物はなくていい。時間は今すぐに。お腹だって減っていない。
私だって、仕事が出来るのであればなんだっていい。
それでも最後の抵抗として、エンジンがつかなかったらシオンさんには諦めてもらうつもりだった。エンジンは呆気なくついたし、アクセルを踏めば車は私たちを簡単に海へと運んでいった。
海にはまばらに人がいた。
賑わうようなシーズンではないし、賑わうような時間帯でもない。家族連れが二組と学生グループが一組。散歩中と思わしい中年と老人がいた。
「いいね。歩こう」
そう言って、一歩踏み出した彼の足が砂をザク、と鳴らす。見慣れた、硬質で質の良いいつもの靴を履いている。
「……それも仕事ですか?」
「そうだよ。嫌だろう? ここまで来て暇になるのは」
仕事が出来るならなんでもいい──。
そう言ったわけじゃなけれど、この人はそれをわかっている。だから、私がついてくることだってちゃんとわかっていて、こちらを一瞥もせずに歩を進める。私は、一歩後ろを付き従った。
シオンさんはゆっくりと歩いた。時折「ねぇ、」と言って私の存在を確認する。「なんですか?」と聞き返せば、そのたびにどうでもいいことを口にした。近所に焼鳥のチェーン店が出来た話。シェアハウスに何か飾ろうかと思っている話。次は何を刺繍するか決めかねているという話。レイラさんの部屋にあるタンスを新しくしてあげたいという話。それから、私の話。
「困っていることはないかい?」
「大家が思いつきで人を振り回すことですかね」
「楽しそうでなによりだよ」
それなりに歩いて、あと数歩も踏み込めば靴が濡れてしまうというところまで来た。
少し離れたところではズボンを捲り上げた学生たちがふくらはぎを海水に沈めている。後ろを見たら、散歩をしていた老人は座り込んでぼんやりと空を見ていた。
「もう少しで夕暮れだ」
そう呟いたきり、シオンさんはぼんやりと立ち尽くした。なんとなく退屈で、そっと隣に立つ。隣に立ったって、変わらずに退屈だった。
「退屈かい?」
「かなり退屈です」
「そっか」
聞いてきたくせに有益なものは何も返してこない。この人から返ってくるものはないと思っているくらいがちょうどいい。そもそも私だってこの人に何かを捧げているわけじゃない。ただ、こうやって『仕事』をもらって安寧を得ている。
この散歩はどこまでが仕事なのだろう。シオンさんが何も言ってこないのをいいことに、私はスマホをつけた。メールが来ていたので返信をして、ついでにスケジュールを確認して、今日あったことを軽くまとめて、再生数をチェックして、全員の動向をまとめる。報告するようなことはあっただろうか。いくつかピックアップしていく。
成田レオが自伝を書きたがっている。
硝子レイラが新しいゲームを買った。
紅月夜シオンが海に行きたがった。
打ち込んで、最後の一文はどうでもいいと思って消した。どうでもいいことだ。ましてや、私まで一緒に海に行っただなんて。
こんなものは報告してもしなくても、どうでもいいことだ。だったら念のために報告したっていいが、それは躊躇われた。組織にも、誰にも、こんなことを言いたくなかった。
スマホから視線をあげたら、うっすらとオレンジに染まる水平線が見えた。もう少しで夕暮れだと、シオンさんが言った言葉を思い出す。シオンさんに視線を向ければ、彼は私を見て満足げに微笑んでいた。
「ねぇ、気がついたかい?」
「え?」
シオンさんは私を見つめたまま、楽しそうに目を細める。一体何のことだと視線を落としたら、自分の靴が海のふちギリギリまで踏み込んでいることに気がついた。
「な、これは……」
「潮が満ちてきたんだねぇ」
のんきというにはあまりにも悪気のある、ねっとりとした声に後ろを見れば、先ほどまで来た道がうっすらと海に覆われていた。水たまりほどの深さとはいえ、これでは濡れないで帰ることなんてできない。
「……これがやりたかったんですか?」
「ふふ。あーあ、帰れないね」
悪戯が実った瞬間を見届けたからだろう。今度こそ、心底楽しそうにシオンさんが笑う。銀の髪がオレンジ色の陽でキラキラとしていて、精神の貴賤と美というものは一致しないものだと感心してしまった。
「……あなたも濡れますよ」
「濡れるもなにも、帰れないんだって」
「バカなことを言っていないで帰りますよ。これ以上深くなるまえに」
靴と靴下を脱ぐべきか、そのまま踏み出すべきか。この程度の深さとはいえ多少の距離はある。まったく面倒なことをしてくれた。それならタオルを持ってくればよかった。これが仕事の一環でなければ、肩を叩いていただろう。
靴が砂まみれだと車が汚れる、靴と靴下を脱いで戻って、靴下で足を拭けばいいか。
「シオンさんも靴を脱いで……なんですか?」
「帰れないから、運んでくれないか?」
「はぁ?」
シオンさんは両手を広げて私に向けている。三十路の、私よりデカい大人が幼児のように抱っこをせがむ様子に頭痛がした。
「帰れるでしょう。まだこんなに浅いんですから」
「浅くてもダメなんだ。渡れない」
「……これも、仕事ですか」
それなら役目にしてほしい。魔法みたいな言葉で、全部を肯定させてほしかった。
「いや、仕事じゃないよ」
それなのにシオンさんは笑った。唇の片端だけを上げて、何かを値踏みするように目を細めて笑った。
「……仕事だと言って下さいよ」
「どうして?」
「嫌ですよ。こんなことを……自分の意思でやるなんて」
はぁー、と、肺の空気を全部吐き出したら聞いたことがないくらい大きなため息が出た。それを聞いたシオンさんは本当に嬉しそうにくつくつと笑う。この綺麗な顔に傷の一つでもつけば私の気分は晴れるのだろうか。たまに、この人の加虐性につられるように暴力的な気持ちになってしまう。
「……置いていきますよ」
「ダメだよ。置いていかないで」
「なら、仕事だと言ってください」
「それはイヤ」
「……そうですか」
せめて靴を持ってもらえるかと聞けば、それすらイヤだと返される。頭痛を振り切るように腹を括り、シオンさんの前に跪いた。
「うんうん。それでいいんだよ」
ひどく満足げな声が降ってくる。その姿が私の背に回る前に、タックルをするようにして彼の腰を掴んだ。
「お? おお」
「重っ……」
ずしりと、俵のように担いだ体は、ちゃんと成人男性の重みがする。笑いを堪えるように小刻みに震える体をしっかりと抱えて、海に繋がった水溜まりに足を踏み入れた。
「帰りますよ」
せめて靴くらいは無事でいたかったのに、それすら叶わずにざぶざぶと海に入るより他にない。ぐしゃ、という感触と共に靴の中がグショグショに濡れていく。
「ふっ……あはは!」
「楽しそうで何よりです」
「あー……うん、いいね。愉しいよ」
距離にしたら大したことはないが、海水と重くなった砂に足が取られてゆっくりと、ゆっくりとしか進めない。そういう、長くも短くもない時間で、シオンさんは私の背を数回叩いた。
「キミは本当に面白い」
「ありがとうございます」
ここでいきなり落としたらどうなるんだろう。ありよりのありだな。
そんなことを考えていたら、シオンさんが一言「離さないでね」と呟いた。