澄野の彼女(仮)について 同僚の澄野には、ハイスペックな彼女がいる。
そう確信したのは、数ヶ月前のことだった。
バイトの休憩中、澄野がスマホをスクロールしている手元に、ちらりと何かが光った。
右手の薬指に、シルバーのリング。
普段、アクセサリーなんて一切つけない男だったから、余計に目を引いた。
「お前がそういうの付けるの、珍しいな」
「ん?……なにが?」
休憩室のテーブルを挟んで、向かい側から声をかけると、澄野はぱっと顔を上げた。小さく首を傾げているので、「それ」とリングを指差す。
ようやく俺の意図に気づいたらしく、ちらと自分の手元に目を落として、「ああ」と気恥しそうに呟いた。
「もらったんだよ。……折角だし、付けてみようかなって」
────もらった?
俺の中の下世話な好奇心がむくっと顔を出した。
「彼女か?」
「な、なんでもいいだろ! そんなの!」
ニヤニヤしながら聞くと、澄野は途端に赤くなって、ぶんぶんと手を振った。
さっきまでリングを見つめてた目もそうだけど、わかりやすすぎる。……こういうとこが女子にモテるんだよなぁ、と。ちょっとだけ妬ましく思いながら──俺は、そうか、彼女がいるのか、と妙に納得していた。
「ちょっと見せろよ」
「……まぁ、いいけど。壊すなよ」
「大丈夫だって」
少しだけ眉をひそめながら、澄野は右手を差し出してきた。
思っていたよりもごつめのシルバーリング。けど、全体はすっきりまとまっていて、シンプルでかっこいい。俺も、こういうのは嫌いじゃない。たぶん、大抵の男が惹かれるデザインだ。
でもよく見ると、縁に細かい刻印が入っていた。文字のような、模様のようなそれは、どこかで見たような気がする。
アルファベットじゃない、独特な文字の並び。
……いや、まさかこれって───
「おまっ……これ、めっちゃ高いやつじゃねえか!」
思わず指を離して後ずさった。パイプ椅子がガタン、と鳴る。
「え!? そ、そうなのか?」
澄野もびっくりしたように、リングをじっと見つめる。
なんでこいつまで驚いて……って、まさか知らなかったのか?
「知らなかった……。
あいつ、何でもない日にいきなり、すっと渡してきたし……」
何でもない日に、いきなり、この価格帯の指輪を……?
澄野が言う“あいつ”……彼女の輪郭が全く見えてこない。
けど、俺はそのとき、確信した。
澄野の彼女は、普通じゃない。
*
「もしかしてその弁当、彼女の手作りか?」
また別のある日、いつものように休憩室で向かい合って座る澄野に、そう声をかけた。
赤い二段の弁当箱に手を伸ばす、その無造作な仕草を見ながら。
──ハイブランドの指輪を、何でもない日に渡してくる彼女。
その存在を知って以来、俺は密かにその彼女のことが気になって仕方がなかった。
分かっているのは、とにかく只者じゃないということ。しかも、澄野の感じからして、ベタ惚れなのはたぶん彼女の方だろう。
まあ、澄野は害がないというか、突出するところがあるわけではないが、安心感はあるし。そういうところに惹かれる人間はいるのかもしれない。
「まあ、そうだけど」
思考を巡らせていると、澄野はちら、とこちらを見て、そう呟いた。そして、なんでもなさそうに卵焼きを口に運ぶ。
ほんのり焦げ目のついたそれは、色味も形も完璧だ。横にはメインの生姜焼きに、茹でブロッコリーとミニトマト。ご飯は雑穀米っぽくて、紫蘇のふりかけがかかっている。
……健康志向。彩りバランス。完璧な副菜構成。
「金もあって料理もできんのかよ……」
思わず漏らした俺の独り言に、澄野は「あー」と曖昧に笑って、箸を置いた。
「料理は週交代制だけどな」
「え、お前も作ってんの?」
「多少は。一緒に住むようになって、二人で練習したし」
はい、同棲確定。
「彼女……何の仕事してるんだ?」
ずっと気になってたことを、ついに聞いてみる。
すると澄野は「あー……」と呻きながら腕を組み、ちょっと考える仕草を見せてから、視線を逸らした。
「……医療関係?」
出た。
ハイスペ彼女のテンプレみたいな職業:医療関係。
「……お前が合コン来ない理由、やっと分かったわ」
「は?」
「そんな完璧な彼女いたら、そりゃ来ねえよな」
金もある。料理もできる。仕事もしていて、澄野のことが大好き。
もはや現代における理想の彼女像だ。どこで出会ったんだそんな逸材。
「別に……行く必要もないし。不安にさせたくないから行かないだけだぞ」
さらりと言い放ったその言葉に、ああ、彼女はこいつのこういうところに惚れたんだろうな、なんて、妙に納得してしまって。それと同時に、彼女への興味がまた少し膨らんだ。
───医療関係……看護師か?
きっと自立した大人の女性って感じで、性格はちょっとキツめ。背も高くて、スレンダーで、つり目の美人に違いない。
くそっ!ずるい。羨ましすぎる。
そんなことをぼんやり考えながら、
このときの俺はまだ、“彼女”の正体を何一つ知らなかったんだ。
そして──その“彼女”に、俺はこのあと、出会うことになる。
*
ある夜、事件は起きた。
その日は、お世話になった店長の最終出勤日で、みんなで送別会をすることになった。
そこに、珍しく澄野も参加していた。最初は酒を断っていたが、場が盛り上がるにつれ、店長があいつのコップに酒を注ぎ、断りきれなかった澄野は、それを飲んだ。オレが見た限りでは、2杯。
それだけで、みるみるうちに顔が真っ赤になったので、さすがに店長を止めた。
──が、もう遅かった。
「あはぁ……あたまがまわる………」
「おい、澄野……大丈夫か!?焦点合ってねぇぞ!」
座布団の上で、ふらふらと左右に揺れる澄野。
視線は斜め上を彷徨って、かと思えば急に伏せて、眠たげにまぶたを閉じる。
誰が見ても──完全に酔っていた。
「らいじょうぶらって!水も飲んでるし……この水へんな味するな」
「おい、それ酒!!」
不思議そうに盃を覗き込む澄野から、それをひったくる。「おれの水かえせ」と手を伸ばしてくるが、子供みたいにぐずるので、酒は手の届かないところに回しておく。マジで、何歳だよ。
「もう帰れ!な!?彼女に迎え来てもらえ!」
「かのじょ?」
こてん、と首を傾げたあと、一拍。
「ああ、そうか………」
その言葉の意味を、ゆっくり思い出すように、ぽつりと呟いた。
そして、みるみるうちに表情が曇り──
「…………おもかげ…………」
ぶわっと涙があふれた。
「は?」
突然、ぼろぼろ泣き出す澄野。
大粒の涙を拭おうともせず、ただ俯いて、嗚咽をこらえるように震えていた。
周囲に、衝撃が走った。
「ううぅ……おもかげに会いたいぃ……」
オモカゲ。それが“彼女”の名前だということは、誰の目にも明らかだった。
「わ、わかった!呼ぼう!オモカゲ呼ぼうな!?ほらLINE開こうぜとりえず!」
「ひっ……うぅ……!うわあああああん!!」
「わかったから!オレが打つから!!泣くな!!誰か!誰かこいつ抱えといて!!」
───もはや災害だ。
俺は泣きながら丸くなる澄野を後輩にパスして、奪い取ったスマホを操作する。
すでにロックは解除されていて、1番上に「面影」と表示されたトークルームがあった。
タップすると、画面にはごく普通の……でもどこか不思議な温度を持った、昨日のやりとりが表示されていた。
【残業何時まで?】
『多分23時頃までかかるから、帰るのは0時過ぎるかな。澄野君は先に寝てて』
【起きてる!】
『夜更かし苦手なんだから無理しなくていいよ』
【録画見てるから大丈夫だって】
『明日の仕事寝坊しないようにね?』
【👍】
【オレ明日の夜送別会だから夕飯一緒に食べれないって言ったっけ?】
『一昨日寝る前に言ってたよ。
あと、分かってると思うけどお酒は飲まないように。
前に散々恥ずかしい思いしたの覚えてるでしょ?』
【飲みません】
【覚えてます】
【ごめんなさい】
『飲んだらまたお仕置きだからね』
【飲まないから!!二度とあれは勘弁してくれ】
【店長には人工天体に来てからかなりお世話になったしお礼もしたいから参加したいんだよな】
『その店長に勧められてもちゃんと断れる?
心配なんだけど』
【ちゃんと断るよ!】
『浮気もしちゃ駄目だよ』
【するわけないだろ!】
なんだこれ、カップルか。カップルだった。
ていうか酒、禁止されてたのかよ!まじで彼女の読み通り、店長に勧められて断りきれずに飲んでるし……。人が良いってのも考えものだ。
しかもこれ、前にも何かやらかしてるっぽいな。お仕置き、されたのか……一体、何を……。
……なんて下世話な想像を巡らせながら、画面をスクロールして最新のメッセージに目をやる。
【今送別会の会場着いた】
『お疲れ様。お店の名前は?』
【𓏸𓏸ってとこ!からあげがうまい
今度一緒に行くか?】
『いいね、そうしようか。
ちなみに、今日は何時頃に帰れるの?』
トークはそこで終わっている。
そこに、【澄野のバイト先の友人です。送別会で澄野が酔い潰れてしまったので、迎えに来てもらえませんか?】と打ち込んで送信すると、すぐに既読がついた。
「はあ………」
恋人同士のLINEを勝手に覗く罪悪感と、それ以上に胸にこみ上げる“見てはいけないものを見てしまった”感から、思わずため息が漏れた。
ごめんなさい面影さん。
恨むなら俺の隣でダンゴムシのように転がって泣き喚いている彼氏を恨んでください。
「おい、澄野。LINEしたからな。きっと来てくれるから、ちょっとだけ寝とけ」
「おもかげは、たまに怖いけろ、やさしいんら……わらった顔がかわいくて……料理もうまいし……
よるになると、あまえてきて……かわいい……
はずかしくなると……耳が赤くなるんら……」
「あ〜そうだな〜」
ふにゃふにゃの声で、彼女の好きなところをぽつぽつと語り続ける澄野。適当に相槌を打ちながら、この男にかかりっきりであまり手をつけられなかった〆の雑炊に手を伸ばし、口に運ぶ。出汁が効いててうまい。冷めてるけど。
「………あいつがいたから、おれは……
百日間を乗り越えられて……
全部、つくられたものだったって知っても……
おれには、あいつがいるから……生きていけるんだ……」
どこか幸せそうな、でも、その目にはうっすらと涙が浮かんでいた。
(なんだよ……夢でも見てんのか?)
「はいはい、わかったから寝ような」
普段は俺が彼女のこと聞いても適当に流すくせに……こいつ、めちゃくちゃ惚れてるな。
店長も、俺がひそかに狙っていた女の子も、そんな澄野のレアすぎる一面に爆笑したり、写真を撮ったり。
送別会の空気は、この男のせいで、もはや収拾がつかなくなっていた。
*
それから、十分は経っただろうか。
澄野は泣き疲れたのか、話し疲れたのか、そのまま眠ってしまった。周囲には座布団と、涙やら何やらを拭いたティッシュの残骸が散らばっている。
俺も、すっかりくたくただった。酔いはとうに醒めていて、「子育てってこんな感じなのかもしれないな」なんて、ぼんやり考える。
二度とこいつに酒は飲ませない。
心の底から、そう誓った。そのときだった。
───カラン。
入口のベルが鳴った。
まさか。来たのかもしれない。
思わず勢いよく顔を上げた。きっと彼女だ。澄野を心配して、彼女が飛んで来たに違いない。しっかりしててたまに怖いけど優しくて笑った顔がかわいくて夜になると甘えてくるのにお仕置きもしてくれる彼女の姿は、一体どんな─────
「………あれ………」
そこに立っていたのは、女性ではなかった。
若い男だった。
和服を着ていて、髪は目の覚めるような青。
片目に眼帯をしていて、顔にはピアスがいくつも光っている。そして、縦に入ったライン…タトゥー?メイク?
明らかにただ者じゃない空気を纏っているのに、顔立ちは妙に整っていて、遠目にもわかる美形だ。
それなのに、怖い。
思わず視線を逸らした。
あまり、関わっちゃいけないタイプの人間かもしれない。
ざわつく心を押さえながら、気づかれないように澄野の方へ手を伸ばす。彼女が来る前に何かあったらまずい。こいつだけでも隠しておくか───
そんな俺の焦りなんか気にも留めず、男はまっすぐこっちに向かってくる。
(やばいやばいやばい)
なんで?目を合わせたのがまずかったか?金でもせびられる?なんで店員さんも止めないんだよ、あんな危険そうなやつ。どう見てもやばいだろ。
結局俺たちのテーブルまで歩み寄った男は、ある一点を見つめて───
そして、静かに口を開いた。
「澄野君、帰るよ」
「…………んあ……おもかげ……?」
………………は?
「……え……? す、澄野……、この人……」
「おもかげ…らんでいるんら…?」
「呑気だなあ……。
キミが約束を破って飲酒したせいで、私が回収に来る羽目になったのに。
───ほら、立って」
男……“面影”と呼ばれたその人物はそう言うと、澄野の腕をとり、自分の肩にまわさせた。
澄野はまるでそれが当然であるかのように、するりと身を預け、そのまま首に顔を埋める。
「ん……ふふ、おもかげのにおいがする………」
「ちょっと、外だよ?」
戒めるような口調だが、声色にはわずかな恥じらいが混じっている……ように感じた。
「てれてるんだろ……ほんとにおまえはかわいいなぁ……」
ぐり、と男の首筋に頬を擦り寄せた澄野の声は、聞いたことがないほど甘く、とろけたような響きを帯びていた。
この男との関係も、澄野の態度も、ふたりの距離感も──すべてが謎だらけだった。
それでも俺は何も言えず、ただ呆然と彼らを見つめていた。
「……キミのためを思って言ってるんだけどな。
あとで思い出して、死にたくならないようにさ……」
呆れたように、でもどこか満更でもなさそうに。
男は小さくため息をつき、澄野の顔から指をそっと離す。
──その指先に、きらりと光るものがあった。
右手の薬指に、太めのシルバーリング。
よく見れば内側に彫られた刻印は、
以前、澄野がつけていたものとまったく同じだった。
「───……あ……………」
その瞬間、脳内でバラバラだったピースが一気に噛み合う。
「……ねえ」
不意に声をかけられ、肩がびくりと跳ねた。
見ると、青髪のあの男が、俺をまっすぐ見つめていた。
「キミ? 連絡くれたの」
「へ!? あ、そ、そうっす」
「そっか。ありがとう……助かったよ」
にこ、と微笑む。柔らかい笑みなのに、なぜか視線を外せなかった。
不思議と、同じ男のはずなのに、綺麗だなんて思ってしまって。ほんの少しだけ緊張してしまう。
「うちの澄野君が、迷惑かけちゃったみたいで……ごめんね」
──うちの、澄野君。
ぐっと喉が鳴った。
「い、いや……全然……」
「家で、ちゃあんと叱っておくからさ……。
これからも、“バイト先の同僚”として、仲良くしてあげてほしいな」
耳元で囁き混じりに告げられたその言葉には、微笑みと一緒に、奇妙な強調が混じっていた。
にこっ、と確かに笑っているのに、目の奥がまるで笑っていない。
背筋がすうっと、冷たくなる。
「はい……」
思わずそう返すのが精一杯で、俺はそれ以上、何も言えなくて───
男は、自分の肩に回された澄野の手を、上からそっと包むように支えた。
そうして頬笑みを浮かべたまま、2人は静かに、店を後にしたのだった。
残された俺たちは、呆然としたまま顔を見合わせた。
「今の……誰?」
「彼女じゃなかったの?」
「えっ、距離近くなかった……?」
「え、じゃあ、澄野って……」
ざわざわと飛び交う声。けれど、もう誰も確かめようとはしなかった。
思い返せば、最初から妙だった。
何度話しても彼女の写真は見せてくれなかったし、何より、澄野の口から「彼女」なんて言葉を、俺は一度も聞いていなかった。
──澄野には、ハイスペックな“彼女”がいる。
……俺は、ずっとそう思い込んでいた。
でも、違った。
たぶんそれは、“彼女”なんて言葉じゃとうてい太刀打ちできない、パートナーだった。
頭の中はまだ整理がつかない。
正直、本人に聞きたいことは山ほどあるし、何か言える立場でもない。
ただ───
「……まあ、幸せそうだったし、いいか」
ぽつりとこぼしたその言葉は、誰に向けたわけでもない。
けれど、妙にしっくりと胸に落ちてきた。
そう思えた自分に、少しだけ安堵しながら、
俺は散らかったグラスを片づけるのだった。
*
そして翌日、澄野は初めてバイトを休んだ。
本当の理由を知っているのは、たぶんこの職場で、俺だけだ。