苦くも甘い「なぁ、ライカン。知ってるか?貴族の間では挨拶のかわりに頬にキスするんだぜ。」
荒野のアジトでオンボロの椅子に腰掛けたヒューゴは、なんとはなしに、そんなことを言ってみた。
あの『地獄』にいたときにも、よくそうしていたものだ。……正確には、させられていたというのが正しい。でなければ、誰が進んでするものか。
「へぇ。変わった挨拶だな。」
「お前も社交場に行くなら、練習しなきゃな。じゃないと、とんでもない田舎者だと思われて、盗みどころじゃなくなる。」
「そんなにか?」
「挨拶は大事だって、じっちゃんも言ってただろ。」
まあ、実際の社交場でそんなことを求められる機会があるかは分からない。ただ、この仏頂面で恥ずかしがり屋のオオカミを揶揄ってやりたくなっただけなのだ。
「ほら、ライカン。手本を見せてやる。」
ぐいっとライカンの顎を掴んで、こちらを向かせる。そして、その柔らかな毛皮に頬を寄せて、軽く唇で音を鳴らした。
「わかったか?」
「なんだ、実際にキスするわけじゃないのか。」
「はっ、そりゃそうだろ。家族ならともかく、知り合いとなら口を付けたりはしなくていい。」
「ふぅん……」
分かったような、分かっていないような返事。
思ったよりも反応が薄くて、ヒューゴは内心唇を尖らせた。……面白くないヤツ。
「ほら、次はお前の番だ。」
手を軽く振ってライカンを促す。
オオカミの少年は生真面目そうに頷いて、そっとヒューゴの白い頬に顔を近づけた。
つん、と冷たいものが頬にあたる。ライカンの濡れた鼻だ。
「……ライカン、触らなくてもいいって言ったろ。」
「難しいんだよ、オレの顔では。」
妙に誇らしげに、ライカンは自分のマズルを指さす。
「それに、家族同士ならキスしてもいいんだろ。」
続く言葉に、ヒューゴは顔をぷいと横に背けた。
触れられた頬だけでなく、尖った耳の先まで熱くなっているのが、自分でもわかる。
「好きにしろ。」
「ああ、そうする。」
そのとき勝ち誇ったようにそう言った彼は、なぜか随分とこの『挨拶』がお気に召したらしい。
次の日も、その次の日も……飽きもせず、顔を合わせるたびにライカンはヒューゴの頬にキスをする。
そして、ある朝。
「おはよう、ヒューゴ。」
「ああ、おはよう。」
寝室──とは名ばかりの屋根裏部屋──から出たヒューゴは、いつものように目を閉じ顔を少し傾けて、ライカンからの『挨拶』を待つ。
……けれど、その日はなかなかライカンが動く気配がなかった。
「ライカン?」
不審に思って目を開ける。
目の前に立つ少年は、微笑ましさと照れくささが混ざったような、変な顔をしていた。
「……なんだよ。」
「いや、お前、最初はあんなに渋々だったのになと思って。」
「なッ……!」
言われてはじめて、ライカンからのキスを待っていた自分に気づいて、ヒューゴは目を見開く。
口をぱくぱくと動かすも、いつもよく回る頭は今回ばかりは言い訳を用意してくれることはなく。
「お前が毎日するから……」
「ああ、そうだな。オレが毎日するから、お前もオレがしやすいように待っててくれたんだよな。」
「──っ、うるさい!しないんなら朝食だぞ!」
バッと踵を返して階下に降りようとするヒューゴだが、その逃走は細い手首を掴む大きな手によってあえなく失敗した。
「なんだ!」
「別に、しないとは言ってないだろ。」
至極真面目な声でそう言って、ライカンはヒューゴに顔を寄せる。ライカンより頭一つ低い位置にあるその顔は、不貞腐れた表情をしていて尚、美しい。
──綺麗だ。
そう思った。今まではあまり気にしたことがなかったが、改めて近くで顔を見ていると、このヒューゴという少年はかなり容姿端麗だ。ライカンの心臓が大きく跳ねる。相手に聞こえてしまうんじゃないかと思うほどに。
「ライカン、いい加減にしろ。さっさと朝飯にしようぜ。」
なかなか動かないライカンに痺れを切らして、ヒューゴは手を振り払おうとする。
逃がしたくない──思うより先に、獣の本能が体を動かした。ドン!と大きな音を立てて、壁と己の体躯でヒューゴの薄い身体を挟み込む。
「お前なぁ!」
苛立ちと共に顔を上げたヒューゴは、思いがけない真剣さで迫ってくるライカンの顔に、体を強ばらせる。
「何する気だ。」
「……挨拶。」
「嘘つけ。……俺にキスしたいんだろ。それも『挨拶』じゃない方のを。」
「……。」
沈黙は肯定と同義だ。
なにより、ヒューゴはこういう顔をよく知っている。劣情の炎に燃える、昏く熱い瞳。
どうにも自分のこの顔の造形は他人を狂わせるらしい。この唇ひとつ奪わんとして暴力に訴える兄弟や、金銭で黙らせようとする使用人たちを、あの『地獄』でも嫌というほど見てきた。
普段は真面目で律儀な聖人君子たるオオカミのシリオンとて、所詮は人の子か。
ヒューゴの双眸に、少しの悲しみと諦めが浮かんで、ぎゅっと目を閉じる。
けれども、いつまで経ってもライカンがあと数センチを縮めることはなく。
「……悪い。頭を冷やしてくる。」
代わりに聞こえてきた言葉と共に、彼が離れていく気配がした。
「……は?」
思いがけない結末に、一人置いていかれたヒューゴの心は着地点を見つけられずに宙を漂う。こんなのは初めてだった。
恐る恐る目を開けるも、もうそこに彼はいない。
結局、その日ライカンは夕暮れまで荒野の家に帰ってくることはなかった。
「遅いぞ、ライカン。とっくに夕飯はできてる。」
「ああ……」
フライ返しを手にしたまま腰に手をあてて文句を言うヒューゴに、ライカンは目を瞬かせる。
「お前……びしょ濡れじゃないか。どこ行ってたんだ。」
「……滝。」
「たしかに頭を冷やすとは言ってたが、旧文明よろしく滝行でもしてたってのか?さっさと身体を拭け。家中を雨漏りにする気か。」
バサッと雑に投げられたタオルを手に取って、オオカミの少年は大人しく指示にしたがった。
みっしりと生えた長い毛からは、拭っても拭っても水が滴り落ちてくる。
「ああもう、本当に手のかかるヤツだなお前は!座れ!」
我慢の効かない声が鋭く飛んできて、ライカンは主人に叱られた犬のように反射的に椅子に座った。
その頭を、新しいタオルを握った手がやや乱暴にわしゃわしゃと拭いてゆく。
「ヒューゴ。もう少しゆっくり、」
「やかましい。静かにしてろ。」
数分後。
ようやく完全に乾いた毛のかたまりに、ヒューゴは満足そうに息をつくと、ぐいっとライカンの顔を覗き込む。
「ブラッシングも必要か?」
「いい、自分でする。」
「残念だ。芸術的にしてやったのに。」
ニヤリと笑ったその高慢な顔は、いつも通りのヒューゴそのもので。ライカンは内心ほっとすると、頭を下げた。
「その……朝は、わる──」
謝罪の言葉を口にする前に、ライカンの口をなにか柔らかいものが塞ぐ。見開かれた赤い目に映るのは、伏せられた長い金の睫毛。
──やけに煩く響くのは、どちらの鼓動か。
「……っは、マヌケ面。」
「ヒューゴ、」
「謝るなよ。またキスする羽目になる。」
鮮やかに唇を奪った少年の美しい瞳が、ライカンの心を鋭く射抜く。
「侮るなよ、ライカン。今の俺は、昔の耐えることしかできなかった俺とは違う。今朝だって、お前の隙だらけな包囲なんぞいくらでも抜け出せたんだ。」
たしかに心に刻まれた傷口が開きかけたのは事実だが、同時に、昔に迫られたときとは違って嫌悪感からくる吐き気がなかったのもまた事実で。
むしろ……
「……お前なら、構わないと思った。」
「それは、どういう、」
「言わせるな。あとその申し訳なさそうな顔もやめろ。俺が欲しいのは憐れみや同情心じゃない。」
気高い少年は、胸に手をあてて誇らしげに笑う。
レイヴンロック家の忌み子でも、人を誑かす悪魔の子でもなく、一人のヒューゴ・ヴラドとして。
「俺が、自分の意思でお前を選んだんだ。お前はどうする?」
「オレは……」
ライカンの手が、そっとヒューゴの腰を引き寄せる。さながら、ダンスに誘うが如く。
「ヒューゴ、キスしてもいいか?」
「よく出来ました。」
そして、時は流れ。
「ヒューゴ、キスしたい。」
「ダメだ。貴様、執事ともあろう者が少しも待てないのか?数分前に仕事が終わるまで待てと言ったはずだぞ。」
ナイトガウンに身を包んだヒューゴは、邪魔をするように前に立つライカンをしっしと邪険に追い払う。
「僭越ながら、宜しければ私がお手伝いさせていただきましょうか。ヒューゴ様。」
「良いわけなかろう。画廊のほうの仕事じゃないんだぞ。誰が進んで番犬に手を差し出すものか。手酷く噛まれて終わりだ。」
「オレは噛んだりしないぞ。」
「そのセリフをよく覚えておくんだな。朝、お前の噛み跡を誤魔化すのがどれだけ大変か。」
うろうろと歩く先々についてくるオオカミは、さながら飼い主に構って欲しい犬のようだ。
……この調子では、本当に仕事にならない。
ヒューゴはため息をつくと、ポケットから一枚の金貨──によく似たチョコレートを取り出して、ライカンによく見えるようにして口に含んだ。
「いいか、ライカン。俺は今、チョコレートを食べた。」
「そのチョコレートの補充ならさっきしておいたぞ。礼はいらん。」
「どうりでなかなか減らないと思った……そうではなく!」
いつの間にかセーフハウスの菓子の残量まで把握されている執事の『有能』っぷりに、家の主は苦虫を噛み潰したような顔になる。
「チョコレートってのは、イヌ科には猛毒なんだ。当然、オオカミのシリオンであるお前にとっても危険な毒だ。だから、これが溶けてなくなるまではキスはお預けだ。」
これで暫くは大人しくなるだろう……そう勝ち誇るヒューゴ。しかし、予想に反してライカンが引き下がる気配はない。
「ヒューゴ、お前はひとつ勘違いをしている。」
「何だと?」
「たしかにチョコレートはイヌ科にとっても、もちろんオレにとっても毒だが……」
ギシッと鋼鉄の足が音を立て、ヒューゴの目の前に柔らかい毛皮の壁がそびえ立つ。
恭しく、けれども有無を言わせない力強さで、ライカンの手がヒューゴの身体を引き寄せて。
どちらからともなく、互いの唇が重なった。
ぬる……と侵入してきた長い舌が、ヒューゴの口内に広がる甘さを上書きせんとばかりに舐めとってゆく。
「──ライカン!」
珍しく慌てるヒューゴに、ライカンは軽く笑った。
「致死量というのは、摂取した犬やシリオンの体重に比例する。コインチョコの一枚や二枚程度、オレには問題ない。」
「なっ……」
「もうお前の口の中にチョコレートはない。だから、好きにしていいんだよな?」
「好きにしていいとは、一言も──!」
抵抗虚しく、ヒューゴは食い尽くさんとする勢いの口付けに溺れる。甘く蕩けさせるようなそれは、昔つけられた傷を埋めるように丁寧で、執拗で。
「悪いヤツめ……」
「お褒めに預かり光栄だ。」