おやすみ、善き人よ明けることのない暗闇に浸る神悟の樹庭。
人気の失われたそこに、コツコツと硬い靴音が響いた。
サーシスの領域であるかを象徴するように生い茂る植物たちをくぐり抜けて、彼は学舎の奥深くを目指す。
知種学派の賢人の研究室よりもさらに奥。
足元を照らす松明だけを頼りに、その人影は長い廊下をひたすら歩む。
永遠のようにも感じるその昏い廊下は、それ自体が一種の試練なのだろう。
──迷路というものは、本来は複雑怪奇な道ではなく、一本の長い道であったそうです。
ある日の授業を思い出す。
──その長い道を歩む者に、自らを省みらせるための、ある種の儀式だったのでしょう。
だとすれば、この廊下も生徒に自省を促す迷路といったところか。ここで諦めて帰る者には、「この先」にあるものなど必要もないのだから。
「でも、ごめん。先生。今の僕には必要みたいだ。」
どれほどの時間歩いてきただろうか。
額に汗が滲み出てきたころ、男はようやくその扉の前にたどり着いた。
ノックをしようと手をあげかけて……躊躇する。
自分が息を吸って吐く音が、やけに大きく聞こえる。
あげたままの手が震えている。
「……まったく。どれだけ私を待たせるのですか?早く入りなさい。」
しばらく──あるいは一瞬の躊躇いは、中から聞こえてきた声によって霧散した。
聞き馴染みのある声。
男は弾かれるようにして、扉を開ける。
「っ、アナイクス先生……」
「私の名前はアナクサゴラスです。何度言えばわかるのですか?ファイノン。」
いつもとなんら変わりのない声。
部屋の中、簡素な椅子に座っていたのは、知種学派の賢人その人だ。
「まあいい。ここに来たということは、私を必要としているのでしょう。」
「うん……そうだね、先生。でも、まずは世間話から入ってもいいかな」
「らしくなく」言い淀む教え子に、教師はすっと目を細める。だが、何を言うでもなく肩をすくめるに留めた。
「どうぞ。あいにく、お茶を出したりはできませんが。」
「別にいいよ。そうだな……身体の調子はどう?」
「どう、と言われましても。いつも通りですよ。私の計算は確かなので。」
「さすが先生。……僕たちも順調だよ。残る火種はエーグルだけだ。」
「そうですか。それは良かった、と言うべきなのでしょうね。」
だが、そう語るファイノンの顔は暗い。
──ここに来るわけだ、とアナイクスはため息をついた。
「とりあえず、座ってください。ずっと見上げなければいけない、私の首のためにも。」
「あ、そうだね。じゃあ遠慮なく。」
ギシ……と椅子が軋む音を立てて、男は教師の向かいに座る。
沈黙。
部屋の中まで生い茂る木の葉ですら、息を潜めたように黙り込む。
「……何か話したいことがあって、ここに来たのでしょう。話し相手くらいにはなってあげます。」
「あはは……ごめん。うまく、言葉がまとまらなくて。」
「今は講義や弁論大会ではありません。支離滅裂な文章でも、いいでしょう。」
「優しいなぁ……本当に先生?」
「それはあなたが一番よく分かっているでしょう?」
「うん、そうだね。」
再び少し沈黙して、ファイノンは意を決したように話し始めた。
「先生──アグライアが、亡くなった。」
ぴくり、と理性を送還した者の眉があがる。
「誰の差し金ですか?」
「まだ殺されたとは言ってないよ。」
「カイニスですね。」
「先生、何から何まで当てられたら、報告しにきた意味がないじゃないか。」
「こんなの、推理にもならない。5歳児でもわかることですよ。」
アナイクスは首を傾げる。そんな仕草まで、いつも通り。
「それで、ここに泣きつきにきたのですね。」
「非道いなぁ、先生にも知る権利があると思ったんだけど。」
ファイノンは苦笑してみせた。
その顔を見て、教師は眉を顰める。
「エリュシオンのファイノン。ここはオクヘイマではありませんよ。」
「えっ?」
「ここにいるあなたは、救世主でもなく、アグライアの後継者でもない。知種学派の卒業生、私の教え子。ただの、エリュシオンのファイノンです。……ですから、私の前でそんな道化にも劣る顔はしなくて結構。」
「…………はは、本当に先生にはなんでもお見通しみたいだ。」
青年は両手で顔を覆った。ひと呼吸後に現れたのは──悲しみと怒りに震える、年相応の多感な青年の顔だ。
「勝手すぎるよ、先生も、アグライアも。モーディスやトリアン先生、キャストリスさんだって……みんな、いつの間にか覚悟を決めて、自分の責任を果たしてる。」
背を預けあった戦友、机を並べて学んだ学友、教え育ててくれた師匠たち…………別れはいつだって突然で、覚悟できていないのはいつだって自分だけ。
──置いていかれるのは、いつだって自分だけ。
「仲間ですら守れないで、何が救世主だ!」
静かな部屋に、慟哭が木霊する。
ひとしきり泣いて……泣いて。
やがて、背を丸める青年の頭にそっと手が触れる。
「あの『金織』は、分かった上であなたを私に預けたのでしょうね。」
「せ、んせい?」
「あれは、あなたを完全な神性の器だと言うが……私からすれば、あなたも一介の人間にすぎません。全ての存在の魂は……それが植物であれ、人であれ、タイタンであれ、等しくただの『種』なのですから。」
いかに完全な器であろうと、人である以上「完璧」とはなり得ない。これは、浪漫と理性が合意していることであった。
──浪漫は完全な器として導き、理性はただの人として導く。
「完璧でなくとも良い。ただ、『より善い人』でいなさい。人の心を真に動かせるのは、強大なタイタンでも、冷徹な半神でも、ましてや復讐に駆られた独裁者でもない。ただの、『善き人』なのですから。」
善こそが、最も尊い人の美徳である。
これもまた、浪漫と理性の合意するところだった。
「アグライアも、僕の善意を信じると言っていた。」
浪漫の半神からの最後の手紙を思い出す。
──あなたは無条件の善意を以って、凡人の不完全さの中に隠された最も高貴な美徳を見出すことができる。
「ふん。化物も、人を見る目だけは確かなようですね。」
アナイクスは鼻を鳴らした。
口を尖らすその顔に、ファイノンもようやく心からの笑いを漏らした。
「はは、先生。拗ねた子猫みたいになってる。」
「誰が猫ですか。せめて大地獣にしてください。」
「大地獣ならいいのか?」
思わず目尻からこぼれる涙は、先程までの名残なのか、笑いの涙なのか。
…………少なくとも、肩の重荷がすこしだけ軽くなったのは事実だ。
「……ありがとう。先生。」
「あなたが勝手に立ち直っただけでしょう。」
「先生が謙遜するなんて。明日は槍が降るな。」
「それだけ減らず口がたたければ大丈夫ですね。」
再び音を鳴らして、ファイノンは椅子から立ち上がる。
「先生、朝までここにいてもいい?」
「お好きにどうぞ。」
ファイノンは椅子をいくつか持ってくるとアナイクスの横に置いて、彼の膝に頭を乗せるようにして椅子たちの上で横になる。
「枕にしていいとまでは言っていないはずですが。」
「ダメなのか?」
「駄目とも言っていません。」
また鼻を鳴らす音。
ファイノンは満足したように、瞼を閉じた。
白銀の髪を、白い指が静かに撫でつける。
「先生、今日は本当に優しいな。」
「いつもは優しくなくて悪かったですね。」
「痛っ!頬をつねらないで、ごめんってば。先生はいつも優しいよ。……そうじゃなければ、『あなた』を残したりしないだろ。」
「別に。『これ』はあくまでも実験の産物ですよ。」
『アナイクス』は本人そっくりに肩をすくめて言った。
「ただ、そうですね。出来の悪い『私』を遺すわけにはいかなかったので、限りなくアナクサゴラスに近くなるように力を尽くしました。」
「うん、ものすごい再現度だ。僕が保証する。」
「ですから……こうしていたいのは、『私』の意思であり、アナクサゴラスの意思でもあります。」
幼子をあやすように、精巧な機巧は青年の髪を撫でる。
「──おやすみなさい。ファイノン。トリスビアスの言葉を借りるならば、『また、明日』。」
『あの時』、さようならは言えなかったから。
今は。
「おやすみ、先生。『また、明日』。」