太陽と月の晩年の会話(ゲアラハの視点)ーー寒い
体の芯からくる寒さに目を覚ました。
今は初春だ。もう身を震わせるような寒さは過ぎ去った季節。そんな中でこのような芯からくる寒さがくるとすると…
「…もう、そんな時期ですか。」
声が震える。それは寒さからくるものではなく、今身に起きていることが意味する現実があまりにもゲアラハにとって残酷だったための恐怖である。
ーー私たちの太陽が、死ぬ
ソルが、大切な太陽が、死ぬことを体は告げていた。
それは同時に、ゲアラハの死も意味する。
私は一方的に命の手綱を握られている。
月は、太陽がないと生きていけない。つまり太陽の子が死ぬと月の子も死ぬ。道連れだ。
逆に太陽は、月がなくとも生きていける。ゲアラハがどこかでのたれ死んでも、ソルにはなんの影響もない。
自身が死ぬなんてことは別にそんなに恐れていない。いつかやってくることだ。それがもうすぐだと言うだけで。
だけど、私たちの太陽は。あの人が失われるのは、とても怖い。
ソルがいなくなると言うことは、アステルが1人になることも意味する。人間だったヴァルヌス、もといナデシコがいない今、ソルとゲアラハが同時にいなくなるのは耐え難いことだろう。この世に神以外の縁者がいなくなると言うことだから。
ソルはアステルの最愛の人だ。最愛の人が手を離れていく気持ちは、ゲアラハにはわかりかねる。だが、限りなく辛いことだけはわかる。
「…はぁ。考えていても仕方がありませんね。」
自宅のベッドで悶々と思考を巡らせていても解決のしようがない。もとよりこれは解決なんてできない代物だ。考えるだけエネルギーの無駄である。
申し訳程度の朝食を胃袋に詰め込み、あるだけの防寒着を纏って外に出る。これだけ厚着しても寒さが一向に和らがないのは、内側から冷えているからだ。悪寒と一緒の部類である。つまり防寒着なんて意味がない。だが、気持ちだけでも厚着しておかないともっと寒い。
街をぶらぶらと歩いていて、人が極端に少ないことに気づいた。
(…ああ。まだ早朝なのか。どうりで人が少ないはずだ。)
ならちょうどいい。ゲアラハは人と関わるのはあまり得意ではないし、なんならめんどくさいと思う人だ。人が少ないのは好都合である。
「いないとわかっているのに探してしまうのは、月の定めなのか。」
1人ごちる。ソルとアステルは何年か前から旅に出ている。ナデシコをなくして落ち着かないアステルの気分転換にと、ソルが提案したらしい。生憎、ゲアラハはそれについていく理由もないのでここに残っているわけだが。それでも寂しいと感じてしまうのは病気かもしれない。
相も変わらずソルを探して辺りを見回してしまうのはもう癖になってしまっているのだろう。意味もないのに。
ふと、見覚えのある白髪を見た気がした。
気のせいだろうと、見間違いだろうと、そう思った。
「…ソル?」
私たちの、太陽。その名が口をついてでた。
幻覚だろうと、あまりに寂しくて、ついに幻覚症状も出始めたか、と。思ったけど、
「…ゲアラハ」
彼は、確かにそこにいた。
幻覚なんてものでもない。見間違いでもない。気のせいでも、なんでもない。確かに、本物で、ゲアラハがずっと探していたあの太陽で、数年前にここを離れたあの太陽が、そこにいた。
「なんでっ…あなたは…旅に出た…はずじゃ…」
あまりに動揺して、言葉がうまく紡げない。
ずっと、会いたかった。一目でもその姿を見たくて、一言でもその声を聞きたくて、でもあなたが見ているのは私ではないから、愛しているのは私ではないから、探しにいくことも、ついて行くことも憚られる。
彼は、とても苦しそうだった。
それもそのはず。太陽の子は自身を焼かれて死んでいく。その痛みは計り知れない。
月の子は熱を奪われ、凍え死ぬ。太陽の子に比べたら、はるかに楽な死に方だろう。
「…戻ってきたんだ。もう、長くないからな。」
心臓を、杭で貫かれた感覚がした。あなたの口からその言葉を聞きたくなかった。現実を、認めてしまうようで。
「お前も、わかってるんだろ。見てるだけで暑苦しい格好してるからな。」
はは、とソルは笑う。思わず顔を顰めてしまう。笑えるような余裕はもうゲアラハにはない。だが、ソルの笑顔はいつものような光り輝く太陽の力強さは感じられず、蝋燭の炎のような儚げな笑顔だった。
「…わかっていますよ。…ただ、認めたくないんですよ。」
「今更死ぬのが怖くなったのか?」
冗談めかしてソルが言う。少し腹立たしい。あなたを想って気分が沈んでいるのに、なんとお気楽なのか。
「そんなわけないでしょう。私はいつ死んでもいいと思ってますから。私より、あなたが死ぬことが嫌なんですよ。」
ソルは明らかに驚いた顔をした。まさか私がずっとあなたを想っていたことを知らなかったわけではあるまい。何をそんなに驚くことがあるのだろうか。
「お前、そんな顔できたんだな。」
「はあ?」
自分でもありえないような素っ頓狂な声が出た。顔?私の?何があるという?
「ははははははっ!!っはーーー…久しぶりにこんなに笑ったわ。ありがとな」
目の前で大爆笑するソルを半目で睨む。自分の顔でこうも爆笑されるとどうしても気分が悪い。
「なんで私があなたに感謝されなくちゃならないんですか。」
「いやぁ…ちょっと…っう」
ソルが途端に心臓を抑えて顔を歪ませる。
「…場所を変えましょう。もう直ぐ夜明けなんですから、人が増えてきます。あなたも、そんな姿を一般人に見られるのは本意ではないでしょう?」
「っああ。…でも、どこに」
「いい場所を知っているんです。伊達にこの数年間ここに留まってませんからね。」
皮肉に笑うと、ゲアラハはソルを背負う。
「っおい!」
「黙って背負われててください。落としますから。」
「…」
もちろん、落とすなんてそんな馬鹿なことはしないが、こうでも言わないと大人しく従ってくれないだろうから言った。予想通り、抵抗していたソルは徐々に落ち着いてゲアラハの背に身を預けるようになった。
(…熱いな。)
彼の体は高熱を発した時のように熱かった。だが今のゲアラハにはその温度が心地よかった。例えるなら、真冬の日に限界まで冷えた体をストーブで温めるような感じだろうか。普段なら暑苦しくて押しのけてしまいそうな温度でも、今は全部受け入れられる。温度が足りないゲアラハには、ちょうどよかった。
「…冷たいな。」
「ええ。おかげさまで。あなたこそ、かなり熱いですね。」
「…おかげさまでな。」
互いに皮肉りながら目的地に急ぐ。ソルはゲアラハの肩に頭を擡げている。熱すぎる体には、氷のような冷たさが心地いいのだろう。
「…ここは」
「私のお気に入りなんです。滅多に人も来ませんし、景色もいい。よく、考え事とかをするときにくるんです。」
崖のそばにポツンとあるベンチ。海も山も見渡せて、何より朝日が見られる。ここ数年はほとんど毎日ここを訪れていた。ここでひたすら頭を空っぽにしてぼーっとする。すると自分が世界に希釈されて一体化するような、不思議な感覚になれる。それを求めて、毎朝ここに来ていた。
ソルをゆっくりとベンチに降ろそうとして、ふとある考えが降りてきた。
「…!ちょっおまっ」
ソルを横抱きにする。ソルが抵抗するが、聞こえないふりをしてベンチに腰を下ろす。
「こうした方がより温度を感じられるでしょう?」
他意はない。少々顔が近い気もするが気にしている暇はない。
ソルが半目になってゲアラハを睨む。だが反抗する気はないようで、すぐさま目線を外側へ逸らす。
…本当に、このような日々がいつまでも続いてくれたのなら、どれほど良かったか。
後悔はしたりないくらいしてきたはずだ。だけど、でも、この命の終わりが直ぐそこまできていることでより、やり残したことが浮き出てきた。
「…はあ」
「お前、最初はあんまり生に執着がないんだと思ってた。」
ソルの声でハッと我に返り、彼の顔を見る。燃え盛る炎のように赤いその目は健在で、ゲアラハの氷の目をじっと見ていた。
時が、止まったような感覚がした。
何時間も、何日も見つめ合っているような感覚に陥った。実際はほんの数秒に満たないのに。
「言ってることがよくわかりませんね。」
なんとか絞り出せた言葉を投げる。
「そうか?…お前は、俺らのいく先々で邪魔してきたり、助けてくれたり、相対してきたよな。」
ゲアラハのもっと向こう側を見るように、過去を回想している。そんなこともあった。あの頃のゲアラハは天を支配しようとしたり、ちょっかいを出したり、なんやかんやソルたちを助けたりもしてきた。やってることが一貫していなかったが、そういう気分だったので2人も「そういう奴」と括ってゲアラハと接してきた。
「お前、幾度となく死にかけてきたからさ。最初は死にたがってんのかなって思ったんだ。」
「そんなことはないでしょう?人間誰しも最初から死にたがっている奴なんていませんよ。」
「…俺、お前について全然知らねぇなって。思ったんだ。今更感すごいけど。」
「確かに今更ですねぇ。もう直ぐ死ぬんですよ。知ってどうするんですか。」
すこし棘のある言い方になってしまった。というのも、ソルの言葉は結構図星だったりするのだ。確かにソルと出会う前、出会ってから少しの時は生きるのが面倒くさくなっていた。特にもうやることもなかったし、いつ命が終わっても後悔なんて微塵も感じないような生だった。
けど、ソルとあってから変わった。正確には、3人と会って、だが。
人に興味が湧いたのは初めてだったかもしれない。ゲアラハは親にすら興味を示さなかった。所詮他人。他人とは相容れない存在。だから何を話しても無駄だ。そう思っていた。だけど、太陽と星と花は、こちらに興味を持たせてくれた。運命、という言葉はいささかロマンティックすぎるだろうか。実際太陽と月は切っても切り離せない関係にあると決まっているから、運命と言っても差し支えはない。
どちらの子も同じ日に生まれ、何もなければ同じ日に死ぬ。これが定められたことだ。
彼の笑顔が眩しかった。立場上見ることはほとんどなかったが、それでも真冬に降り注ぐ陽光のように暖かくて、輝かしかった。死なせたくないと思った。そのために自分の命を使おうと、最初はそう思った。
だけど
だけど、彼を知るうちに、もっとこの人を知りたいなんて思ってしまった。まだ、死にたくないなんて。そう思った。
だから、彼が死なないように、自分も死なないように、そうやって立ち回るようになった。
日陰者だったゲアラハを日向に引っ張り出したのは、紛れもなくソルだった。
「…おい、ぼーっとしてんぞ。寒すぎて頭回ってないんじゃないか。」
ソルの言葉で長い思考の海から戻ってくる。
「で、さっきの質問の答えだが。」
「お前に後悔が残らないようにしたいからだ。」
目を見開く。どこまでも他人中心な人だ。お人好しにも程がある。ゲアラハのために、ゲアラハを知る。笑いそうになるところをグッと堪える。
「…私に後悔が残るように見えますか?」
見えないなら聞いて来ないだろう。とんだ愚問を投げかけてしまった。
「…お前、笑わなくなったな。」
質問の答えを返してくれない。だがソルなので、話の続きを聞くことにする。
「…そう、ですか。長らく人と会ってなかったからかもしれませんね。」
「嘘だろ。」
「はて、どこがですか?」
咄嗟に惚けるが内心は焦りまくっていた。なぜこの太陽はこうも察しが良いのか。日陰なんて作らせないようにこちらの心を見透かしてくる。無影灯のようだ。
「寂しかったんだろ。」
心臓が焼けたかと思った。こんなに察しが良くなくていいのに。こんな、劣情にも似た感情、空に還るまで持って行こうと思っていたのに。
視界が歪む。何年振りの涙だろう。もうずっと泣いていない。最後に泣いたのはいつだったか。笑いを貼り付けるようになってから、自分の感情を押し殺すようになってから、いったい何年が経ったか。今、やっとその仮面の最後のかけらが外れたようだ。
「…そう、かもしれませんね。」
「うわひねくれてんなあ。素直に認めりゃいいのに。」
フッと笑う太陽。ああ、眩しいや。やはり敵わない。
「羨ましかったんです。ナデシコが。あなたたちと四六時中一緒にいられて、衣食住をともにして、ときに心の支えになりあえる。そんな、そんな存在に、なれたら良かったのに。」
私が、という言葉は彼の手によって塞がれた。ナデシコは、ゲアラハの最初で最後の友人だった。そんな彼女に近づいた理由も、嫉妬だった。
「今までどうしてお前がそんなに俺らに執着するのかわかんなかったんだけど、そういうことか。」
彼が眦の青をなぞるように、親指の腹でゲアラハの涙を拭う。彼は優しく笑っていた。
彼の動きがスローに見えた。気づけば、ゲアラハはソルの腕の中だった。
「こうやって、して欲しかったんだろ。ほんとはアステルもいたらよかったんだけどな。あいつはお前を毛嫌いしてるみたいだから、こういう融通はきかないだろうけど。」
ソルは赤子をあやすようにトントンとゲアラハの背をリズムよく叩く。涙が溢れてくる。もはや止める気すら起きない。
「…しばらく…このままでいさせてください。」
「言われなくてもそのつもりだが。」
「…ふふ」
(あったかいなぁ…)
そっと、ゲアラハもソルの背に手を回す。ソルが静かに息を吐いた音がした。
ああ、これが望んでいたもの。ずっとこうしたかった。自分の想いに目を背け続けて十数年。目を向けて、正直になってみるのも案外悪くない。
心臓の音がどくどくと聞こえる。これは、あなたの音。これは、私の音。生きている、人間の音。
「生きるって、素晴らしいな。」
「なんだ。今更かよ。」
「あなたが教えてくれたんですよ。」
照れくさそうな笑い声が耳をくすぐる。氷のように冷たい私の声を拾うのは、今はあなただけ。炎のように暖かい言葉を拾うのも、今は私だけ。
朝日が2人の人間を照らす。今だけは私たちは普通の人間だ。太陽の子でも月の子でもなく、ただのソルとゲアラハだ。
体温を分け合う。それがとても心地よくて、失ったものを埋めるようで、今から死に向かうことを忘れられるようで。
ーーずっとこのままでいられたら、どんなに幸せだろう。
「そういえば、アステルを家に置いてきているのでしょう?こんなところで私と会っていることがバレたら怒られるのでは?」
言い出したくはなかった。だが、言わなければならなかった。その言葉が別れを意味するとわかっていても。彼には、愛しい人がいる。大切な人がいる。それはゲアラハなんてものとは比にならないくらいに彼にとって大事な人。かつて星から聞いた。2人の出会いは編まれた紐のように確固たるもので、実に運命的なものだったという。
本当はずっとゲアラハのそばにいてほしい。でも、ずっとここに繋ぎ止めているわけにはいかない。ゲアラハにとって、星も太陽も同等に大切なものだ。わざわざ2人の関係を割くなんてことはしたくないし、お邪魔である。そんなことをしたらもっと嫌われてしまう。それだけは避けたかった。
「大丈夫さ。もう長くないことはあいつもわかってる。今更俺のわがままを咎めるなんて無粋なことはしないさ。それに、」
怒られるにしてもきっとお前だけだろうがな、と軽口を叩く声はひどく寂しそうだった。
あまり長くない時を、人生のほんの一瞬に過ぎないことひとときを、もう少しだけ彼と過ごせることが嬉しくて。彼の気持ちは別の人に向いているのに、もう少しだけ彼に気遣われるのが嬉しくて。今だけは彼を独り占めできるのが嬉しくて。ゲアラハは静かに口元を歪めた。この劣情を悟られないように。この穢い感情を見透かされないように。
「…一つ、気になったことが。」
津波のように迫ってくる現実がゲアラハの心を擦る。そういえば、彼は、知っているのだろうか。私たちの命が繋がっていることを。きっと彼なら、ゲアラハのことなんて気にも留めないだろうけど。それでも自分の死が認識されるなら、それはとても嬉しいことだと思う。
「アステルは、私たちが同時に死ぬことを知っているんですか?」
ソルの呼吸が乱れた。それはこの質問の答えを示すことと同義であった。
「…知らないんですね。」
彼の体がこわばる。ゲアラハは静かに背中を叩く。
「…ああ。あいつは、知らない。知らないはずだ。空の神に何も言われてなければな。」
ゲアラハは口を噤む。空の神が何も言わないとは言い切れない。あの2柱…正確には同じ人物だが、蒼天の神も夜天の神もどちらもかなりおしゃべりな神だ。気まぐれに現れては雑談をしに来る。ゲアラハは夜天の神にしか会ったことはないが、寝る直前くらいになるといきなり枕元に現れるのだから心臓がもたない。
「…けれど、あの神がそんなことをするでしょうか。」
ゲアラハの見解としては、夜天の神は少なくともそんな軽率なことはしない。知って何も徳がないことは直接伝えない。やってもヒントを与えるくらいだ。実際、あの神は非常に難解な言葉で事実を婉曲に伝えてくる。もう少しストレートに伝えてほしいものだが、あの神は謎解きが趣味らしいのであれは直しようがないものだと思っている。
「…そんなことをするとは思えないな。何より、俺は夜天の神にはあった事がない。夜天の神については俺よりお前の方が詳しいんだろ。」
「えっ」
初耳だった。なるほど。太陽は蒼天、月星には夜天。アステルの元にも夜天の神が訪れているだろう。
「…夜天の神はかなりおしゃべりですが、直接的にそういうことを伝えるとは思えません。あと…彼女はそんなことはしないと思いますね。…ナデシコの時のように。」
「同感だな。蒼天の神もまあ似たようなもんだ。あれは夜天の神とは違ってかなり直接的にものを言うが、もとは同じ神だ。俺もアステルにそういうことを言う奴だとは思えない。」
「じゃあ、彼は知らないんですね。」
「そうだ。」
なぜ、言わないんだろう。特に言っても支障はないように思える。特にアステルはゲアラハに対する当たりがきつい。家に凸れば早く帰れと特段苦い薬を飲まされ追い返される。戦う時も明らかに急所を狙ってくる。…まあ後者は当然といえば当然だろうが。何よりゲアラハはアステルが笑ったところを見たことがない。笑うと言っても色々ある。ゲアラハが見たことのある笑みは、皮肉げな笑み、嘲笑、苦しさから出る狂気的な笑み。否定的な笑みしか見たことがない。楽しげに笑う姿を彼はゲアラハの前では決して見せなかった。
「なぜ、言わないんですか。」
するとソルはさも当然かのように
「だってアステルが悲しむだろう。」
と言った。
「え?」
意表をつかれた答えに、ゲアラハは変な声を出してしまった。
あんなに邪険にしてきたあのアステルが?ゲアラハの死を悲しむ?冗談だろうと思った。
「アステル、あいつお前のこと結構気にしてんだぜ。ま、それがライバル意識なのか何なのかはわかんないがな。」
ゲアラハが呆然としていると、ソルがたとえば、と続ける。
「お前がうちに凸してくる時、なんでいつもクソマズな薬があるか知ってるか?例えば、なんであいつがあんなに殺意の高い技を使ってくるか、なんであんなにお前に当たりが強いのか、知ってるか?」
頭の中を見透かされたみたいだ。ゲアラハが答えを出せずにいると
「それは、順番に行くぜ?あいつは定期的に、それもお前が凸してくるだろう三日前には必ずあの薬を調薬してる。お前、月一でうちに来るもんだから、あいつが先にその周期を把握したっぽいんだ。つまりあれは実験の失敗作でもなんでもない、お前が来るからあいつはあれを作ってる。ため息つきながら楽しそうに調薬してるよ。ここ数年俺らはここを離れてたけど、あいつが癖で月一であの薬を作っちまうもんだからさ。俺が飲まされたんだよ。」
情報量があまりにも多い。アステルがゲアラハ用にあの苦い薬を作っていた?それも楽しそうに?信じられなかった。
「飲まされたって…」
旅に出てからも癖でそれを作ってしまうとは…よほど生活に染み付いてしまったようだ。それが少し嬉しかった。自分の行動が彼の生活に残ることが。彼の一部に自分が組み込まれているようで。
それにしても、ソルはあの激苦薬を飲んだと言った。あれは本当に悶え苦しむほど苦い。思い出すだけで懐かしい。
「ああ。あれ、だいぶ前にナデシコが桃国の一番苦い茶だって持ってきた千振茶よりも苦くてさ。お前よくあれを月一で飲めたよな…尊敬するぜ。」
「それは…出されたものを残すわけにはいかないでしょう。」
文頭にアステル、もしくはソルが、という一言がつくが。
「なんだか月を追うごとに苦さが増していってたような気がしなくもなかったですけど。」
「あーーだからか…」
そこら辺はアステルが頑張ったのだろう。自分のためにそんな研究をしていたと思うと笑いが込み上げてくる。
「あーで、次。二つ目。なんであんな殺意の高い技ばっか使ってくるか。」
「あれらには私もかなり苦しめられましたよ…何回死ぬかと思ったか。」
アステルの技はランダム性が高いものが多い。それに加えて星の力も使ってくるので最高にタチが悪い。何回腹を貫かれたか。何回顔に傷を作ったかわからない。
「あれは正直俺も曖昧なんだが…お前、強いだろ。だからさ、多分お前、技の実験台にされてたんだと思うぜ。」
「はあ…」
呆れた声が出た。実験…研究が好きなアステルらしいといえばらしいが、だからと言ってゲアラハを実験台にするのは違うだろう。
「実験台にするのは、あなたやヴァルヌスの方が相応しいのでは?」
そう言うのは身内でやるもんだろう。わざわざ半分敵対していたゲアラハにやるものじゃない。それは自分の手の内を自分から公開していくようなものであって、非常に危険だ。ゲアラハがアステルと殺し合いになった時はどうするつもりだったのだろう。
「いや、言ったんだ。俺も。俺が試してやろうかって。ナデシコも言ったんだよ。やろうかって。でもあいつ、ゲアラハじゃないとダメだって聞かなかった。」
なんでわざわざゲアラハだったんだ。
「俺らだと、アステルは絶対にやらないって言った。きっと傷つけたくないっていうのも多少はあっただろうけど、模擬戦じゃ意味がなかったからだろうな。俺らじゃ絶対手を抜くってことがわかってるからさ。本気で戦えて、尚且つ強いやつで、知り合いで、アステルが死ななそうな人って言ったらお前しかいないだろ。お前はあいつの命を奪うなんてことはしないし、戦いとなると本気でやってくれる。…まあ、遭遇率が高かったってのもあるか。お前で通用すれば、そこらのやつなんて余裕で勝てるからな。お前を実験台にするのは、お前を信頼してたからだよ。」
あと、例に漏れず、技を考えてる時アステルは楽しそうだった、とソルが付け加えた。
「…信頼。されていたんですか。」
「ああ。お前なら死なないっていうことも多分わかってたからだ。でも、お前を殺すつもりで技は作ってたと思うぜ。」
そういえば、アステルと戦っている時、ゲアラハは彼の顔をまともに見れていない。避けるのに必死になってそこまで意識が及ばないからだ。
(…もしそうなら、彼は、あの時笑っていたりしたのでしょうか。)
非常に惜しいことをした気がする。もうこの先アステルと戦うことはないだろう。というか、ゲアラハが戦えない。一度でも彼の笑顔を見てみたかった。そんなことを考えてももうおそい。覆水盆に返らず。時間は戻ってはこない。
「で、最後。なんであんなにお前に対して当たりが強かったか。ま、お前は大体見当がついてるだろうが一応教えとくぜ。」
彼はへへ、と少し照れくさそうに笑い、続ける。
「多分な、俺だ。」
「でしょうね。」
見当も何も、最初からそうだとわかっていた。
ゲアラハはソルとアステル両方に対して異常な執着心を抱いていた。愛に似ている、だけれどもかなり歪んでいて歪なそれは、名前がつけられない感情だ。ソルはこれに気づいていた。自分とアステル両方にゲアラハはなぜか執着していると。だがアステルは違った。アステルはゲアラハがソルに執着しているのだと思っていた。太陽と月、という二つの関係から、半ば固定観念のように「月が太陽を奪おうとしている」と思ったのだろう。
「嫉妬、だろうな。あとは牽制か。あいつは俺が取られまいとかなり必死に抵抗してたみたいだが、あいにく自分にもそれが向けられていることに気づかなかったんだ。全く、自分について鈍感なのは何年経っても変わらないんだよな。」
やれやれとソルが少し大袈裟に言う。
確かにアステルは自分に無頓着だ。怪我をしても他人を先に気にする。なんなら自分が怪我をしていることに気づかないことだってある。体の構造が自分たちと違うところもあるだろうが、それでも鈍い。ナデシコやソルが幾度となく呆れていたことを思い出す。
「…彼女の墓には行きましたか。」
2人が旅に出るきっかけとなった彼女。ゲアラハの唯一の友人であった彼女。ゲアラハは彼女の遺言通り、いつも花を供えている。彼女は無類の花好きであった。彼女と友人だったのはたったの三年だったけれど、その日々はとても楽しかった。花見も、天体観察も、年越しも、4人で一緒に過ごした。生きていれば4人で酒を飲み交わしながら他愛もない談笑をしていたのだろうかと、何回も思った。
「…ああ。行ったよ。お前がずっとみててくれたんだろ、あいつのこと。綺麗な梅の枝もお前が刺したんだろ?」
「…ええ。梅は、いつだったかに彼女が『今年は梅を見ていない』って言っていたので。きっと毎年見ないと気が済まないのかと思いまして。」
あれは確か彼女が足を骨折した時だったか。家を出られない彼女のために、ゲアラハが梅の枝を持って行ったものだ。
「…ありがとうな。あいつは本当に花への愛が凄まじいから。外出するといっつも花を買って帰ってくるんだ。だから、家はいつも花の匂いがしてな…」
ソルの声が震えている。彼ら2人にとって妹のような存在だった彼女。彼女を亡くした時のソルの心情はどのようなものだっただろう。アステルがあまりに取り乱していたため、ソルは終始アステルを宥めていた。ゲアラハはそこまでしかわからない。だけど、ソルだって本当はそうしたかったはずだ。
「…辛かったら、泣いていいんですよ。」
かける言葉は、これしか見当たらなかった。見つけられなかった。
「お前がいえたことじゃないだろ。」
背中に回された手がぎゅっとゲアラハの上着を掴む。本当にソルは強がりだ。戦闘でも日常でもいつもそうだった。絶対に大丈夫じゃない場面でも、大丈夫だと言い張っている。物語の主人公が現実にいたら、きっとこんな感じなのだろう。心配ばかりかけさせる人だ。
「私がいえたことではありませんが、あなたが泣いてるとこは見たことありませんよ。」
ナデシコの時だって、必死に涙を堪えていたけど、泣いてはいなかった。それどころじゃなかったと言うのが現実だろうが、それ以外だって一度も見たことがない。
本当に利他主義な人だ。まさに太陽、自分よりも他人を優先する。
衆人には聖人と崇められるそれは、本人にとってはどれほど辛いことだろうか。他人を気にするあまり、自分の感情まで手が回らない。
彼は、一体どれほどの感情を不完全燃焼で終わらせてきたのだろうか。
彼が真に自分の気持ちを出せた時はあったのだろうか。
ゲアラハには到底理解はできない。ゲアラハは聖人ではないし、利他主義でもない。彼の気持ちは彼にしかわからないし、彼の痛みも感じてやることもできない。
「もう少し、自分を大切にしてみてはどうですか。」
絞り出すように言った。言ってから思った。遅すぎる、なんて。
時間はあったはずなのに。彼らが旅に出る前も、彼女が生きていた時も、薄らと感じていたではないか。ソルの激情を見たことがない、なんて。
「…今更かよ。」
はは、と乾いた声と共に彼はポツリとこぼす。
「今際の際だぞ」
「今際の際だからです」
彼がこちらを見上げ、苦虫を噛み潰したような顔で囁く。
ゲアラハだって痛いほど感じている。手遅れ、だなんて。でも、せめて、今だけは。
「彼の前で出せなくても、愛する人の前でこそ出せないものを、最期くらい出したって罰は当たりません。」
最期、一生の終わりでさえ他人に気を遣う必要なんてない。少なくともゲアラハはそう思う。そんなの、誰のための人生なんだ。最後の最期まで他人で頭がいっぱい、自分の気持ちを幾度となく押し殺して、終わりを迎えても消化されることのない感情。
「は、はは…」
彼の声が震える。ぽつ、とゲアラハの服に雫が落ちる。ソルは、真にソルになった。
ぽつ、ぽつと、朝露が垂れるような独白を、ゲアラハはただ聞いている。
俺は、みんなが思うほど楽観的でも、明るいわけでもない。ましてや、無条件で他人を救えるヒーローでもない。…なかった。
太陽の子っていうのは、勧善懲悪、救世済民、皆の憧れの的であり、まさに太陽のように輝かしい功績だけを残す者。利己的なものとか、邪な心とか、そういうのは、「ソル」には相応しくない。
…そんなの、無理だ。そんな完璧な人間なんてこの世に存在するはずがない。もしそんな人間がいるなら、そいつはきっと自分を捨てたやつ。自分の苦労なんてどうでもよくて、ただ人を救うためだけに生きてるやつ。
なら、その「ソル」ってのは人々が勝手に作り上げたまやかしだ。たぶん、歴代の「ソル」もそんなにいいやつばっかじゃなかったと思う。でも伝承ってのはいいとこだけを掻い摘んで伝えるもので、そのほかの部分なんてどうでもいい。
先代の「ソル」が何を好きだったかも知らない。どんな性格で、何が嫌いだったかも知らない。知ってるのは、常に人々を助けるために奔走していたこと。それと…街を守るため、魔物に1人で立ち向かって死んだこと。
みんなが先代について俺に語った。お前も先代のように立派な人になれ、と。
無理だ、って思った。最初は。そんなこと、俺がやる必要も、やる意義もない。でも周りの意見は無碍にはできない。やるしかなかった。
いつの間にか、協会では「さすが太陽の子だ」だの「やはり太陽の子は英雄だ」だのもてはやされるようになった。嬉しくはなかった。どんなに頑張っても、どんなに功績を上げても、それは「俺」への賛辞じゃなくて、「太陽の子」への賛辞なんだ。
「俺」自身を見て拍手を送ってくれる人は、誰1人いなかった。
いつもの彼の様子からは到底感じられないような、底知れない闇を感じた気がした。
彼は、いつも自然体で過ごせていたわけではなかったのだ。
常日頃から「太陽の子」というフィルターを通して見られ、ボロを出すことが許されない。
まるで、自分ではない誰かをずっと演じているような…
「幻滅したか?」
ぐしょぐしょになった顔を、彼はゲアラハの服で勝手に拭う。泣き腫らした赤い目をこちらに向けながら、答えが分かりきっている問いを投げかけてきた。
答えはもちろん
「いいえ」
返答を聞いて、彼は安心したように微笑み
「だろうな、お前ならそういうと思った。」
と呟いた。
「お前は、2人とおんなじだ。俺を俺として見てくれる。みんなみたいに『太陽の子』っていうレッテルを貼らずに、一個人のソルとして見てくれる。」
語尾が、消えるように、蝋燭の火を吹き消すようにすうっと小さくなった。
どうやらだいぶ消耗しているようだ。呼吸が荒い。ゲアラハは彼をさらに引き寄せる。
2人の命は、もはや風前の灯火に等しかった。
「もう、時間のようです。どうやら私たちは長く話しすぎたようですね。」
けほ、とゲアラハは咳をする。わざとではない。
ゲアラハの体も、もう限界が近い。末端の感覚がなくなった。雪に長時間手を突っ込んでいるような冷たさだ。ソルを抱えて家まで帰れるかも定かではない。
「…ああ。もうそろそろ、お迎えが来るみたいだ。それぞれのな。」
彼は夜が明けた空を見ながらつぶやく。
ゲアラハは、最後の力をなんとか振り絞り、ソルを抱えたまま立ち上がる。
「無理すんなよ」
最後までゲアラハの心配をしてくれるソルに、もはや嬉しさを通り越して呆れが出てくる。
しかしそんなことは表に出さず、一歩、また一歩と踏み出し、足元がおぼつかない状態で星と日の家に向かう。
街の喧騒が耳に入る。我々が一緒にいることへの驚嘆、もうすぐ命尽きるであろう我々に対する悲嘆、さまざまな反応が視界に映るが、頭の中には入ってこない。
腕の中の彼は、冷たさを求めてゲアラハに擦り寄ってくる。ゲアラハは、それに応えられるだけの余裕がなかった。
愛しい愛しい2人の家の前まで辿り着いた。もう、2人とも限界だった。扉を叩く力すら、もう残ってはいなかった。
仕方なく、ゲアラハは彼を抱えたまま扉にもたれかかる。ぼすっ、という音がした。自分と、彼の質量でなった音。もう、眠くて眠くて仕方がなかった。彼を持っている感覚すら、もうほとんどなかった。立っていることすら不思議なくらいに、もう、何も感じなかった。
内側から、ゆっくりと扉が開けられた。アステルだ。ああ、アステル…
「…ソル、ゲアラハ。」
会って、早々に涙を溜めるアステル。そんなに、目に見えるほど我々は終わりに近づいているのだろうか。
ゲアラハは、ゆっくりと、呂律の回らない口を動かす。
「彼の、そばにいてあげてください。もう、長くはありません。」
視界を頼りに、ゆっくりとアステルに彼を託す。
もう、自分はここにいる必要はない。
アステルに、ゆっくりと、微笑んだ。
彼は、ゲアラハに向かって、こう言った。
「お疲れ様。ありがとう。ソルと、一緒にいてくれて。」
初めて、彼の心からの笑顔を見た。
おぼつかない足取りで、彼の元に寄る。
震える手で、彼らを軽く抱きしめる。
「こちらこそ、ありがとうございます。私と、一緒にいてくれて。」
そのまま、彼らの顔は見ず、踵を返して自宅への帰路を辿った。
もう、身体中全ての感覚は消え失せていた。自分が立っているのか、座っているのか、倒れているのか、それすらもあまりわからなかった。
何より一つ言えることは、
寒い
それだけだった。
最期の時は、思いの外あっけないものなのだと、ゲアラハは理解した。
そして、ゆっくりと、目を閉じた。