明智がインフルエンザになる感じの主明[十六歳 ~冬~]
「...おぇ...っ...」
狭いトイレの中に座り込んで便座の中に顔を向けながら、喉の奥からせり上がってくる辛くて熱い中身を吐き出した。昨日から何も食べていないから、出てくるのはもはや泡立った胃液だけ。こうしてトイレに駆け込んで胃袋がありもしない中身を戻したのは今日で五回目になる。
嘔吐するのも楽ではないのだ。ただでさえ高熱で意識が朦朧としているというのに、これ以上負担を増やさないでほしい。
電気の一つも付いてない薄暗い部屋の中で、ポケットに入れたスマートフォンの画面を見る。先日送った五日間は家から出れない旨を伝えたメールに対する返事は来る気配がない。呆れられているのだろう。最悪見限られた可能性すらある。年端のいかない子供がインフルエンザにかかろうと心配する素振りもない。もとよりそんな子供に殺人を命じているような男だ。アイツにとっては仕事の完了報告以外のメールなど関心がないのだ。例えそれが実の息子相手であったとしても。
「....ッ、くそ......」
口元から垂れた胃液を手の甲で拭う。生理現象として出てきた涙のせいで視界が見にくい。覚束無い足で立ち上がり、フラフラとした足取りで潜るようにベッドの中に入り込む。
身体が熱い。咳が疲れる。頭がズキズキ痛む。気持ち悪い。吐きそう。息苦しい。
熱のせいで心臓が動悸でうるさい。耳鳴りがずっとする。うるさい。うるさいうるさい。
「...っ...!」
全てを耐えるように、布団の中で丸くなる。
大丈夫。あと二日もすれば症状自体は収まってくるはずだ。こんなの、ただのインフルエンザなんだから。薬も貰った。ご飯は食べてないけど、薬はさっき飲んだから。いつかその効果が働いてくれる。
「(つらくなんか...ない...っ...)」
こんなの今までのクソみたいな生活に比べればマシだ。だって、熱を出す度にグチグチ嫌味を言ってくる大人が誰もいない一人の生活なんだから。学校の授業なんて後からどうにでもなる。心配してくれる人も看病してくれる人も居ないけど、そんなのいらない、元から居なかった。ぼくは、今までもこれからも一人で生きていく。ウイルスごときに負けてたら、アイツに復讐なんて、絶対にできない。
だからつらくない。つらくなんかない。つらくなんか───
「..........っ...」
寝てしまえ。意識を閉ざしてしまえば一時的でも全てから開放される。目を閉じると、未だに乾いてなかった涙が頬を伝って落ちた。
「......さむい......」
それが誰かの声なのか、自分の声なのかも分からない。
意識は、沈むように落ちていく。
「────............」
ぽんぽんと、かなり弱い力で何度も布団を叩く音で意識が呼び戻される。数年前に同じ理由で床に伏せていた日の夢を見ていたようだ。あの時のように身体が熱くて頭が痛い。気持ち悪いし息苦しい。動悸も耳鳴りもうるさくて、気分は同等に最悪だ。ただでさえうるさいのにこれ以上音を増やさないでほしいというのに、不思議とその布団を叩く音に不快感はなかった。 閉じていた重い瞼を上げると、そこには白いマスクを付けたままジッとこちらを見下ろしている同居人の顔があった。視線が合うと「あ」と目を丸くして、マスクの上からでも分かるくらいにそいつは柔らかく微笑んだ。
「...明智、気分はどうだ?」
子供をあやすように掛け布団の上から身体を叩かれている。音の正体はコレが原因だ。せっかく医者に同居人がいるなら隔離しろと言われて自室に引きこもっていたというのに、コイツはそれを全て無為にしてズカズカと部屋に入ってくる。これではなんの意味もないというのに。
「....ゲホッ.....部屋...入ってくるなよ...伝染るだろ...」
「大丈夫。俺インフルなったことないし、マスクしてるし」
「...何がどう大丈夫なんだよ...」
「まあ、最悪伝染っても明智から出た菌ならいいかなと思って」
もはやコイツの考えることは熱で沸騰した頭では理解できそうにない。呆れて突っ込む気力もなくなり、フゥと重い息を吐いた。
「いっそ君もモルガナと一緒に佐倉の家に行けば良かったのに...なんでここに残ってるんだよ...」
「俺が病気の明智を置いてどこか他所に逃げるって?」
「そうだよ...」
せめて飛沫を飛ばさないようにと、蓮に背中を向ける形で寝返りを打つ。モルガナは僕の体調が崩れ始めた辺りから蓮が早々に佐倉の家に預けに行った。伝染した伝染されたのやり取りなんて煩わしいだけ。そんなことならウイルス源の病人なんて見切りをつけてさっさと避難すればよかったんだ。感染してから日が経ったら、それももうできない。この身体からウイルスが消えるまで、濃厚接触者として蓮は一歩もこの家から出れなくなった。
「なんでそんなこと言うんだ」
「こんなものは伝染らないに超したことないだろ...」
「それはそうかもしれないけど、俺まで明智のそばを離れたら誰がお前を看病するんだ」
「そんなの一人でなんとかする...」
蓮が叩いていた布団を頭まで被る。
一人の闘病なんて高校生の時にできた。成人した今なら、もっと上手くできる。蓮が居なきゃできないことなんて、何もないんだ。
「病気の時まで強がるな。ずっと辛そうな顔で魘されてるくせに」
「...............」
「声殺しながらトイレで吐いてるのだって知ってるんだぞ。心配させてくれたっていいだろ」
「........................」
「いい加減、一人で抱え込むのやめろ。一緒に暮らしてるんだから、少しくらい人を頼れよ」
「......そんなの......」
そんなのいらない。
今までなかったものなんかいらない。いらないはずなのに。
「......っ...」
とうとう頭が限界を迎えたらしい。ずっと寒かったせいか、布団越しだと言うのにそっと乗せられた手がやけに温かいと感じてしまった。