来栖暁があけちごろうくんを育てる話④髪が乾いてから、少しした頃には時計は九時半を指していた。
『そろそろ寝る時間だな』と言う暁さんに見守られながら、部屋のベッドに入る。
「そういえば、あんまりこういうこと聞くのもよくないんだけど…。お母さんと一緒に暮らしてた頃のものとかは一つも持ってないのか?前に俺が親戚の人達から聞いたときは全部捨てたって言ってたんだ」
「…絵本」
「絵本?」
首を傾げる暁さん。
その隣に置いてあるランドセルを指差す。
「その中に、教科書と一緒に絵本があって。…よく読んでもらってて。他は全部捨てられちゃったんですけど、それだけは僕が持ってたからそのまま残ってて。…大事なものだから」
「…見てもいいか?」
頷く。
暁さんはランドセルを抱えて、中から絵本を取り出す。
「…沢山読んでもらったんだな。何回も開いた跡がある」
絵本を開くと、中から写真が一枚ひらりと落ちた。
…『アレ』も、お母さんと住んでた家から持ってきて、色んな家に行きながらもずっと持っていた、もう一つ。
それを拾って見た暁さんは目を丸くした。
「…これ。吾郎のお母さんか?」
「そうです」
「………そっか。うん。…確かにこれは、大事なものだ」
暁さんは微笑みながら、もう一度絵本に写真を挟んで絵本を閉じた。
「明日、写真立て買いに行こうか。無くさないようにさ」
「…写真立て?」
「ああ。そうすれば吾郎もお母さんも、ずっとお互いのこと見えるだろ?」
こくんと頷く。
「…うん、なら明日に備えてそろそろ寝よう。一人で寝られるか?」
「……大丈夫です」
「分かった。何かあったら隣の部屋に居るから、いつでも呼んでくれ。…じゃあ、お休み吾郎。また明日」
「……おやすみなさい」
パチンと電気を消される。
暁さんは明るい部屋の外に出て行って、バタンと扉が閉められた。
ドアの向こうから、暁さんの足音が遠ざかっていくのが聞こえる。
「……………………」
ベッドは、相変わらずフカフカで気持ちいい。
今までは薄い布団でしか寝たことがなかったから。初めての体験だ。
「(まだどきどきしてる)」
胸の中がずっとバクバクしてて、身体がそれに合わせて揺れている。
落ち着かせようと手を当てても、押し返されるだけで全然落ち着いてくれない。
今までは、叔父さんや叔母さん達が怖くて、寂しい時にそうなった日もあった。でも今日は違う。
「……暁さん」
優しい人だった。
ずっと、最初から最後まで笑いかけてくれて、気にかけてくれた。
僕のものを沢山選んで、買ってくれた。僕がこの家で暮らしていけるように、全てを用意してくれた。カレーも美味しかったし、お母さんの写真のことも大切にしてくれた。
今まで会ってきた大人達はこんなことしてくれなかった。ご飯はいつも少なくて適当なものばかり。服も自分達が不要になったものしか渡されなかった。
暁さんがしてくれたことは今までされて来たことと何もかもが、違った。
……だから。それが、とても嬉しかった。
「………………」
目を閉じる。
耳元でうるさい胸の音のわりに、意識はすぐに閉じられた。
〇 〇
「…いっぱい寝れた」
起きてすぐに時計を見ると、七時になっていた。
窓から見える太陽の光が眩しいけれど、なんだか今日はそれがとても良いものに見えた。
扉を開けて、部屋の外を覗き込む。何の音もしない、太陽の光で明るいリビングと、光が届かなくて少しだけ薄暗い廊下があるだけ。暁さんの姿はない。部屋から出て、リビングまで行ってもそこには誰も居なかった。
次に、暁さんの部屋の扉をゆっくりと音をたてないように開ける。
沢山の本が置かれた本棚と、大きなパソコンの画面が置かれた机とタンスがある部屋。その中に置かれた僕の部屋のものと同じくらいの大きさのベッドの上で暁さんはまだ寝ていた。
「……あの」
声をかけても動かない。
「………………」
そっと指でツンツンとしてみても、動かない。
「(起きない)」
起こしてはいけない人なのかもしれない。もしそうなら今の僕は悪いことをしている。
部屋から逃げるように出る。暁さんは結局起きてこなかった。
「……これにしよう」
リビングに戻って、棚からカップスープを取り出した。
暁さんからはあるものは好きに食べていいと昨日言われていたので、これを朝ごはんにする事にした。
食事は自分で勝手に作って食べろと言われる家に行ったこともあったから、こういうのは慣れている。
昨日買ってもらった踏み台を使って、水が入ったヤカンを乗せたコンロに火を付ける。
重くて熱いヤカンを持ってカップの中にお湯を入れるのはちょっと大変だったけど、なんとか線までお湯を入れれた。
「……いただきます」
手を合わせてぺこりと頭を下げる。
お湯を入れて柔らかくなったペンネとクリームのスープが美味しい。静かな部屋でもぐもぐと食べ進めていくと、後ろの方から扉が思いきり開かれる音がした。
ビックリして振り向くと、ようやく起きたらしい暁さんと目が合った。
「吾郎お前……!」
ドスドスと大きな足音と一緒に暁さんはこっちに来る。
その顔は、昨日までの優しい顔が嘘のように険しくなっていて。
この顔は今まで嫌というほど見てきた。大人達がこの顔を僕に向ける時、その後に来るものはいつも同じ。
「…っ!」
……怒らせてしまったんだと思った。
胸の中が一気にドクドクとうるさくなる。こういうことは今まで沢山あったけれど、暁さんを怒らせてしまったと考えると、その怖さと不安は今までで一番強く感じた。
暁さんはあっという間に僕の前に立って、怖い顔で見下ろした。僕の顔と、机の上にあるカップスープを交互に見る。
「……それ、お前が用意したのか」
「ご……ごめん、なさ…………」
怖い。どうしよう。
この人にだけは嫌われたくない。
でも怒らせてしまった。
謝っても許してもらえないかもしれない。
この人にまで嫌われてしまったら、僕は───
「……吾郎」
「…っ…」
目線が合うように前屈みになって、ガシッと両方の肩を掴まれる。
咄嗟に目を瞑って、来るかもしれない怒鳴り声や痛みに構えて────
「…………ごめんっ!」
「…………………。え……」
恐る恐る目を開けると、僕の肩を掴んだまま頭を下げている暁さんのモジャモジャした髪が目の前にあった。
「吾郎の朝ごはん、俺が作らないといけなかったのに。俺、朝弱くて…寝坊した」
「………………」
「本当にごめん。明日からはちゃんと起きる!それだけじゃ足りないだろ?なんなら今から追加で作るから!」
「………………」
「ていうかそれ食べてるってことは湯沸かしたんだよな……大丈夫だったか?火傷とかしてないか?」
「………………」
「……吾郎?もしかして、怒ってる……?」
暁さんが顔を上げる。
そこにはさっきまでの険しい顔ではなくて、むしろ不安がっている。僕の心配をしている。
この人は怒ってない。怒ってなかったんだ。
「…………う……」
「ちょ、吾郎!なんで泣いてる!?いや俺のせいか!ごめん!ごめんな!本当にごめん!!」
暁さんは、優しい人のままだった。
それに、涙が出るほどホッとした。
〇 〇
その日も二人で出かけて、昨日とは違うお店に行ったりして色んなものを買って、二人で家に帰ってきた。
絵本に挟んであった写真を暁さんが丁寧に写真立てに挟んで、机の上に置いてくれる。
「うん、絵本に挟んであるよりこっちの方が良い。これでいつでもお母さんの顔見れるようになったな」
「ありがとう、ございます」
ぺこりと頭を下げると、暁さんは笑って頭を撫でてくれる。
「今日は朝ご飯作ってやれなかった分、夜は豪華にしようか。……吾郎はハンバーグは好きか?」
「……多分」
「よし、じゃあハンバーグで決まりだ」
そう言いながら、暁さんはキッチンに立って料理を始めた。
昨日のカレーも美味しかったから、ご飯を作るのが上手な人なのかもしれない。包丁がまな板を叩く音は、お母さんがご飯を作っていた時みたいにトントンと早かった。
「……………………」
そんな暁さんの後ろ姿をソファーの背もたれに手を置いてずっと見ていると、僕の視線に気づいたらしくこちらに向いた。
咄嗟に隠れようとしたけど間に合わなくて、思いっきり目が合う。
ハハッと笑う暁さんに、少し恥ずかしくなる。
「玉ねぎ切り終わったらあとは肉と混ぜて、形を作って焼くだけなんだ。一緒にやるか?」
「…一緒に?」
「ああ、吾郎が手伝ってくれたらきっともっと美味しくなるよ」
「……………うん」
「座って待っててくれ。もうすぐ終わるからさ」
頷きながら、思った以上に小さな声が出た。
暁さんの視線は僕からまな板に戻っているけれど、しっかり聞いてくれていたらしかった。
」少ししてからお肉が入ったボウルと大きなお皿を持って、暁さんが向かいの椅子に座った。
「こうやって、薄い丸型を作って、手から手にキャッチしながら肉に空気を入れるんだ」
「……こう?」
「そうそう。上手い上手い。それで、最後に真ん中をギュってやって」
「…………ぎゅ」
「うん。…これで完成。あとは焼くだけだ」
大きなお皿に、大きな肉の塊と小さな肉の塊が並ぶ。大きな方が暁さんが作ったもので、小さい方が僕が作ったもの。
お皿に乗せた肉の塊を、暁さんがフライパンに乗せて火をつける。パチパチと油で跳ねながら茶色くなっていく肉を、踏み台で高くなった視界で見守る。
お母さんがご飯を作っている時は足元に立ってその姿を見ていたことはあったけれど、こんなに高いところから見るのは初めてで、見ていて楽しい。
「油、飛んできてないか?」
「うん」
「よし、ならひっくり返すぞ。見てろ」
暁さんはフライ返しで肉をひっくり返す。
ジュウウという音と一緒に、茶色い焦げ目がついた裏面が表になる。
『おおーっ!』と二人で声を上げて盛り上がる。こうしてハンバーグができあがった。
「「いただきます」」
今日は暁さんと同時に手を合わせて頭を下げた。
箸で食べやすいように肉を切って、口に入れる。ハンバーグも給食で出てくるものしか食べたことがないけれど、比べ物にならないくらい美味しかった。
「うん、吾郎が手伝ってくれたおかげで美味しくできたな」
「───」
その言葉が嬉しくて、口元が緩む。
そんな僕の顔を暁さんは見つめている。
「……やっと笑ってくれた」
「え?」
「それに、敬語も取れた」
「……あ……」
そういえば、楽しい気持ちのあまり素で返事を返してしまっていた。
なんとなく恥ずかしくて、頬が熱くなる。
「ハハハ、別に吾郎が楽な方でいいよ。でもちょっと砕けたってことは少しは俺に慣れてくれたって思い上がっていいか?」
「……慣れたって言うか」
「うん」
「暁さんは、お母さんと同じくらい優しいから…安心できて……すき、です」
「────うん」
暁さんは大きく頷いた。
その顔は嬉しそうに微笑んでいる。
「俺も吾郎が好きだよ。もっと吾郎が笑えるよう頑張るから。改めて、これからもよろしくな」
そうして、暁さんはまたニッコリと笑った。
それが僕も嬉しくて、心がポカポカして。
「うん!」
だから、笑って頷いた。
心は、とても久しぶりに晴れ晴れとした気持ちだった。