来栖暁があけちごろうくんを育てる話⑤暁さんのお仕事は、家の中でできることらしい。机の上にあるパソコンを使うんだと言っていた。どういうお仕事なのかと聞いたら「秘密」と言われてしまった。
家は変わったけど学校は変わらなかった。ちょっと遠くなったけど、また転校するより全然いい。
学校から帰ると、暁さんは毎日「おかえり」と言って笑ってくれる。
これまでは帰っても嫌な顔をされるばっかりで、門限ぎりぎりまで外に居たこともあったけれど。
今は暁さんに「ただいま」と言いたくて、「おかえり」と言ってほしくて、学校が終わるとすぐに帰れるようになった。
「明智君、ちょっといいかな?」
暁さんの家で暮らすようになって少しした頃。
手招きする担任の先生の元へ駆け寄ると、茶色い封筒を渡された。
「これ、明智君の住むところが変ったよって校長先生に渡すためのプリントね。お父…じゃなくて、来栖さんに色々書いてもらったら、もう一回先生に渡してもらえる?」
「…わかりました」
「新しいお家はどう?来栖さん、話してみた印象だと優しそうな人だったけど…仲良くできてる?」
先生は元々僕が色んな親戚の家に行っていたことを知っている人だ。色々気にかけてくれて、よくこうしてお話ししてくれる。
暁さんのことも知っている。この前二人で挨拶に行ったときに暁さんが先生と色々話していたから。
「…楽しいです」
「そっか。…前の家にいた時より顔も明るくなったもの。先生も安心したよ。良かったね」
「ありがとう、ございます。……けほっ」
「あら、風邪引いちゃった?季節の変わり目だし、環境も変わっちゃったから身体が疲れてるのかもね。無理しちゃだめよ?」
「はい。…けほっ」
「本当に大丈夫?」
「だいじょうぶです」
「具合悪かったらすぐに保健室行くんだよ?…じゃあ次の授業の準備があるから、またね」
手を振って教員室に向かっていく先生を見送る。
「…けほっ、けほっ」
なんだか頭がぼーっとする。
咳の回数は、どんどん増えていった。
〇 〇
気が付くと、いつも見ている景色が高くなっていた。聞こえる足音と一緒に、身体が揺れる。
ここは学校じゃなくて、学校から家に帰るまでの途中にある道だ。
「けほっ、げほっ…ぅ…」
咳が出るたびに、喉が痛くなる。痛みでぼんやりしていた意識がはっきりしていく。
顔を見上げると、すぐ近くの暁さんの顔があった。…僕は暁さんに抱き上げられている。
「ぁきら、さ…?」
「ん、起きたか吾郎。喋らなくていい。喉痛いだろ」
「…………」
「吾郎が熱で倒れたって学校から連絡があったんだ。だから迎えに来たんだよ」
「…ごめん、なさぃ…」
僕が熱を出した時、親戚の人達は嫌そうな顔をしていたし、お母さんでさえ困った顔をしていた。
きっと暁さんにも迷惑をかけてしまっている。
だというのに、暁さんは首を横に振った。
「むしろ謝るのは俺の方だ。気づけなくてごめんな。…早く帰って寝たいだろうけど病院で薬を貰わないと。もう少し頑張れるか?」
「……ぅん」
「よし、いい子だ」
ギュっと、抱き寄せられる力が強くなった。
ポンポンと背中を軽く叩かれる。身体も熱くて、頭も痛くて気持ち悪い。けれどなんでか、それが気持ちよく感じた。
病院が終わって、家に帰ってきた。
パジャマに着替えて、おでこに冷たいシールを貼ってもらって、ベッドに寝かされる。脇に挟んだ体温計がピピピと鳴って、暁さんがそれを抜き取った。
「…病院で測った時より上がってるな」
「……胸がばくばくする」
暁さんの手が首に触れる。
冷たいわけではないけれど、ひんやりしていて少し気持ちいい。
「熱が上がったから脈も早くなってるんだ」
「みゃく……?」
「心臓のこと。今ばくばくしてるところが心臓って言うんだ。大丈夫。熱が引いたら落ち着くよ」
そう言いながら立ち上がる暁さん。その服の袖を掴んだ。
「……どこにもいかないで……」
掴んだ服をギュッと握りしめる。
暁さんはビックリしたように目を丸くしていたけど、すぐに笑った。
「どこにも行かないよ。でも、薬を飲むためには何か食べないと。キッチンに行かなきゃ用意ができないんだ。分かるだろ?」
「………うん」
「すぐ戻ってくるから大丈夫だ。… 食べたいものはあるか?」
「…りんご…」
「分かった。そのままじゃ食べるの辛いだろうから、掏って来るよ」
こくんと頷くと、暁さんは頭を撫でてから「待ってろ」と笑って部屋から出て行く。
……その後ろ姿が、一瞬お母さんに見えた。
それから、暁さんが持ってきてくれたリンゴを食べて、薬も飲んだ。
咳が止まらない。頭も痛くて、ずっと気持ち悪い。何度も咳が出て、苦しくなってくる。
あまりにも苦しくて、寝てられなくなって、起き上がった。
「げほっ、けほっ……ぉえっ…」
「あっ…!」
胸の中から一気に上って来た何かが、口から溢れる。
喉が痛くて、また咳き込む。ゆっくりと目を開けて見ればさっき食べたリンゴの欠片が液体と一緒に布団にベッタリとくっ付いていた。
「……っ…」
吐いてしまった。
せっかく暁さんが用意してくれたのに。
布団も汚してしまった。同じことをして『汚ねえな』と言われたことがある。暁さんも同じことを思ってるかもしれない。
「ごめ…なさ……げほっ…ぅっ…」
「…大丈夫。吐いても怒らないから。まだ出そうなら出していい」
背中を撫でられながら、ビニールが被さったお風呂の桶を出される。
それを持って、覗き込むように見ればまた口から液体が溢れ出てくる。
涙が止まらなかったけれど、暁さんは背中を撫でてくれながらずっと、何度も「大丈夫」と言ってくれた。
〇 〇
流石に嘔吐物が付いた布団に寝かせるわけにもいかないので、場所を自室に移した。
寝かせた隣で横になれば、「うつしちゃう」なんて言われたけれど、どのみちそばを離れる気はなかったから同じ部屋の中にいるのなら距離なんかどうでもいいだろう。
そういうことを分かりやすいように言ってやれば、謙虚すぎる彼はまた申し訳なさそうに目を潤ませていた。
そんな吾郎は今、高熱と嘔吐に見舞われた上に泣いたりして流石に疲れたらしく完全に寝入っている。
寝顔は安らかだが呼吸は浅いまま。時折咳き込むこともある。
汗ばんだ首筋に触れると、寝ているのもあって脈拍はさっきよりかは落ち着いているようだ。少しは熱も下がっているのかもしれない。
「………………」
この子は、何かあると俺が怒っていると思ってすぐに謝るくせがある。恐らく、たらい回しにされてきた家がどこもかしこもそうならざる得ないほど劣悪な環境だったのだろう。胎児のように丸くなって寝ている姿がそれを物語っている。そうやって寝るのは防衛本能が現れているからだといつか読んだ本で見た。
暮らし始めて少しは心を開いてくれたように見えるが、心の芯から染みついたトラウマはそう簡単に拭えない。
そういうものから解放してやりたかった。そのために、今ここに『俺』が居るのだから。
「でも、お前と出会った世界を捨ててまでこんなことしてる俺を、お前はなんて思うのかな。……なあ、明智」
赤く火照った柔らかい頬を撫でる。
それを答えてくれるであろう『彼』は、もう居ない。
〇 〇
夢に出てくるお母さんは、いつも泣いていた。
いつも誰かが帰るのを待つように、でも、いつまで経っても開かない扉を見つめていた。
「 」
何かを呟きながら泣いているお母さんを、僕はずっと見ていることしかできなくて。
同じ夢を何度も見るけれど、お母さんが何を言っているのか僕には聞こえなかった。
「 しさん……」
けれど、時が経つにつれ、お母さんの言葉が少しずつ聞こえるようになっていった。
「(人の名前、なのかな)」
目が覚めると、見慣れた天井がある。この天井を毎朝続けて早いもので三年が経った。最初は慣れなかったけど流石にもう慣れた。
使い始めた時に比べれば少しだけ身体を預けるスペースが増えたベッドは、それでもまだ大きい。もう少し身長が大きくならないとピッタリにはならないのだろう。
部屋を出ると、ジュージューと油が跳ねる音が聞こえる。顔を洗ってリビングに行けば、いつものように暁さんがキッチンに立っていた。
「おはよう吾郎」
「うん、おはよう。暁さん」
踏み台がなくても洗面台もトイレのスイッチも押せるようになったくらいには背は伸びたけれど、それでも暁さんの身長には全く届かない。聞けば175cmもあるらしい。僕はまだ140cmだから、まだまだ遠い。
「朝ご飯もうすぐできる。ちょっと待っててくれ」
「お皿、白いやつでいい?」
「ああ、ありがとう。大丈夫だ」
食器棚から出したお皿に、暁さんが焼いた目玉焼きを乗せていく。
オーブントースターから出したトーストをもう一つのお皿に乗せて、朝食の完成だ。
「「いただきます」」
そして、いつものように二人で手を合わせて頭を下げた。
「今日は行きたい場所とかあるのか?」
「うん。本屋に行きたい。欲しい本があるんだ。プレゼント、それがいいな」
「……いいのか?折角の誕生日なのに、ただの本で」
「シリーズものだから全巻買ってほしいんだ。お小遣いじゃ買いきれなくて」
「まあ、吾郎がそれでいいなら。じゃあ後で本屋に行こう」
「やった!」
アハハ、と二人で笑い合う。
……今日は僕の十二回目の誕生日だった。
〇 〇
暁さんと二人で大きい本屋に足を運ぶ。
あの作者さんのシリーズはそれなりに人気作だから、特設のコーナーが作ってあった。
そこにある、欲しかったシリーズを全冊棚から持ち出した。
「……ミステリー?」
「うん。図書室に同じ作者さんの本があるんだけど面白くて。主人公の探偵が事件を解決していくんだ。こっちも推理しながら読めて、物語の中で真相が明らかになる時が読者側の答え合わせにもなるの」
「……へえ、吾郎も推理しながら読んでるのか?」
「うん。今のところ、全部推理通りの真相だった」
「吾郎はドラマもよく一緒に推理しながら見てるもんな。……元々素質は普通にあったんだ」
「……? そしつ?」
「いや、こっちの話。……これで全部なのか?」
「うん、全部」
「よし、じゃあレジに持っていこうか」
あっちだ、と指差す暁さんにこくんと頷く。
一緒に会計に並んで、店員さんから紙袋に入ったそれを受け取る。取っ手を持つのは手が痛くなりそうだったから、両手で抱えた。嬉しさが勝つので全く重さなんて感じない。
「こんな場所で言うのもなんだけど、誕生日おめでとう。吾郎」
「……うん。ありがとう」
暁さんにこうして誕生日を祝ってもらえるのは今年で三回目になる。最初におめでとうと言われた時の驚きは今でも忘れられない。
親戚の家をたらい回しにされていた頃は誕生日なんていつも以上に嫌味を言われるだけの日だったから。お母さんが居た頃ぶりに祝われたことが嬉しくて、あの時も泣いた気がする。思い返すと恥ずかしいけど、同時に良い思い出だ。
「それにしても、そんなに気に入って見るとなんだか気になってきたな。俺も今度読んでいいか?」
「ほんとに?言ってくれれば図書室からまた本借りてくるよ」
「ああ、それは良いな。頼むよ」
「うん!」
本屋を後にして、ついでに食材などの買い物を済ませて帰路につく。
今日の夕飯はカレーだと言われた。まだ昼過ぎだから、夕方までしっかり煮込むのだろう。暁さんのカレーは美味しいから、楽しみだ。
「それにしても、吾郎ももう十二歳か。背も伸びたし、そのうち身長越されそうだ」
「どうかなあ。暁さん、大きいから」
「俺はもうこれ以上は伸びないから。きっと吾郎の方が大きくなるよ」
「それだったらなんとなく、暁さんに勝った気になれるね」
「ははは、生意気なやつ」
「あはは!」
道中にある桜の並木はすっかり花が散って、緑の葉っぱだけのものになっている。
暁さんはそれを見上げながら、薄く笑った。
「……中学校に上がってから、男の子は一気に背が伸びる。それを見越してサイズは大きめなのを買うんだ。だから吾郎も、制服を買う時はそうしような」
「うん」
こくんと頷くと、暁さんは空いた手で頭をワシワシと撫でた。
次に、この桜の木に花が咲く時。
僕は、小学校を卒業して、そして、中学生になる。
そうしたら、夢の中のお母さんが誰を呼んでるのか分かる日が来るのかもしれない。