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    kairi_kairi0026

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    kairi_kairi0026

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    2025/05/10
    メイドの日らしいのでしばらく公開しときます!
    (紙の本、まだあります🙏)

    去年の11月に出したお話
    学パロ、同い年、なんちゃって音楽モノ。
    何でも許せる方向け、全年齢。
    もちろんハピエンです。
    2024/03/22の23:59まで全体公開します。

    Quasi amoroso キラキラと音の粒が輝いて、目の前が眩しい。
     辿々しさが残る演奏。テクニックなら僕の方が上なのに。
     なのに。
     その演奏はあまりにも衝撃的で。
     バイオリンが——音を鳴らすことが楽しいと謳うあの子の笑顔が、会場の空気を変えていく。
     リズムに自然と体が揺れる。
     客席の誰もがあの子に夢中だ。僕も目が離せない。
     音楽の持つ力の凄さを初めて体感した。
     させられた。
     ステージの上でたった一人、淡いスポットライトに照らされた小さな体が、とてつもなく大きく見える。
     僕もあんなふうに弾けたなら。

     きみの見ている景色を、僕も見てみたい。


     Quasi amoroso

    『ピピピピピピピピピピ』
     
     部屋中にけたたましく鳴り響くアラーム音。ふわふわの、柔らかい羽毛布団に包まれて眠っていた幸せな時間はもう終わりだ。だが、まだこの温もりから出たくない。
     うるさい音を止めようと、布団の端から音のする方向へ右手を出してスマホを探す。しかし、スマホに触れる予定の右手はシーツの上を泳ぐだけで、音の元へ辿り着くことはなかった。
    (ぅるさい……!)
     とにかくスマホを探さなくては。
     枕元に置いたはずのスマホがない、ということは、寝ているあいだに床に落ちたのだろう。ベッドの下に手を伸ばしてみても、指先はラグに触れるだけだった。
    (もう少し寝ていたかったのに……)
     壁掛け時計をチラと見ると、普段起きる時間より三十分も早い。時間的に二度寝できるはずなのに、鳴り続けるアラームのせいでさすがに覚醒してきた。
     諦めて布団から出るか、と体を起こそうとしたそのとき。視線を感じて飛び起きる。
     ベッド脇の、俺の枕元。そこにはアラームが鳴り続けたままのスマホを手に、俺を見ている幼馴染がいた。
    「……っ! りお?」
    「おはよう銃兎」
     俺が起きたことを確認し、無表情でアラームを止めスマホを手渡してくるこの男。
     毒島メイソン理鶯。
     隣に住む同い年の幼馴染で親友だ。
     理鶯は朝に弱い俺をたまに起こしに来てくれる。
     ……ありがたいが心臓に悪い。階段を上る音、部屋のドアを開ける音、そして気配さえも消してくるから。
     軍人である父親の影響を多大に受け育った理鶯。本人も将来は海軍へ入隊を希望している。目標に向かい常に鍛錬を積んでいる彼の行動は、すでに凡人には読めないレベルまで達していた。
    「銃兎?」
    「あぁ、なんでもない」
     
    『ピピピピピピピピピピ』
     
     手渡されたスマホから時間差で設定していたアラームが鳴り出し、慌てて止める。
    「また遅くまで練習していたのか? そろそろ準備を始めないと間に合わないぞ」
     感情をあまり表に出さない理鶯が、心配そうな声で話しかけてきた。
     確かに昨日も深夜まで練習していた。
     といっても、最近はもっぱら楽譜に並んでいる音符を追いかけているだけで……まるで初心者みたいに、運指の反復練習をひたすらやっている状態。
     鳴るのは単なる音の羅列。『奏でる』とは程遠い代物。
     これではダメだと思っていても、指が動かなくなるのが怖くて。弦に触れることをやめられずにいた。
    「まだ余裕はある」
    「……そうか」
     二つの意味を込めて返事をする。勘のいい理鶯は静かに受け止めてくれたが、その表情には困惑の色が見えた。
    「だが……。銃兎がいつまでも起きてこないから見てきて欲しいとおばさんに頼まれたのだが?」
    「っあ……! そういえば日直だった……!」
     指摘されて思い出す。だから今朝、三十分早くアラームが鳴ったんだ。自分で設定したのに忘れていた。
    「そうか。それなら早く用意しなければな。では先に行く」
    「ありがとう、理鶯」
     俺の部屋から静かに出ていく後ろ姿を見送って、ベッドから起き上がり制服に着替える。トントントン、と小走りで階段を降りて、廊下の先にある洗面所で顔を洗ってからリビングを覗くと「おはよう銃兎」とキッチンにいた母さんに声をかけられた。
    「ごめん母さん、日直だったの忘れてた」
     今日はゆっくり朝食を食べる時間がない。
    「トーストくらい食べていきなさい。……はい、お弁当」
    「……ありがとう。行ってきます」
     ダイニングテーブルに用意された朝食のトーストにハムを挟んで口に入れ、鞄と弁当を持って家を出た。
     簡易サンドイッチを食べつつ、早歩きで学校へ向かう。手を洗うため、道中にあるコンビニでトイレを借りた。そして鞄の中から手袋を取り出す。
    (……誰にも会わずに済んでよかった)
     手袋に手を通して、キュッと拳を作る。
     一体いつになったら、俺は自由になれるのだろうか。
     
     職員室に立ち寄って担任から日誌を受け取る。早朝の校舎は静かだ。廊下を進んで教室の扉を開けると、中に一人、先客がいた。窓際の列……後ろから二番目の席に座り、静かに本を読んでいるその人物は、数十分ぶりに会う幼馴染である。
     理鶯は教室に入った俺を一瞥したあと、目線を手元の本に移した。俺は自分の席——理鶯の後ろだ——へ座り、日誌を開いて連絡事項の確認と記入を始める。
     パラ、と紙を捲る音。
     カリカリ、とシャープペンシルが紙の上を走る音。
     二人だけの教室は静かだ。
     俺たちは学校内で必要以上に会話をしない。
     前の席に座っている大きな背中を見ながら思う。
    『高校では……できる限り穏便に過ごしたい。コレのせいですでに注目されてしまったけれど』
     入学式を終えて、帰り道。
     手袋をした手を理鶯の目の前でフラフラと振り、頼んだ。自虐の混じった俺の態度を、理鶯はなんともないというふうに受け流して。
    『わかった。銃兎の望むようにしよう』
     親友同士せっかく同じ高校に通っているのに、登下校も別だしクラスでも絡んだりしない。
     それでも、この背中はすぐそこにあった。俺が目立たないように、存在を隠すように。
     
     こうして今日も一日空気のように過ごして、放課後。
     職員室に日誌を届けて、昇降口を一人出た。
     気分転換も兼ねて寄り道をしようと思っていたのに、少し遅くなってしまった。それでも決めた予定は変えたくないので、家とは反対方向の道を進む。
     
     到着した店の扉を開けると、カラン、と鐘の音が店内に響いた。レジの近くにいる白髪混じりの男性——店主が振り向き、来客が俺だと気がついた彼は穏やかな笑顔を浮かべた。
    「いらっしゃい、銃兎君」
    「こんにちは」
    「ゆっくりしていくといいよ。レッスン室使うかい?」
    「いいえ、今日は楽譜が見たくて」
    「そうかい。なにかあれば声をかけてね」
    「ありがとうございます」
     個人経営の楽器店。
     ここに立ち寄ったのは久しぶりだ。だが、幼い頃からお世話になっているから、店主は今の俺の状況を一目で把握したんだろう。察しのいい人だから。優しいこの人に気を遣わせてしまって申し訳ないな、と思いつつ、俺は楽譜コーナーで目についたものを手にしては戻すを繰り返していた。
     楽譜をみても、イメージが湧いてこない。
     自宅で使っている楽譜には、書き込みがたくさんある。それが俺の努力の証であり、財産であり、誇りだった。
     表情豊かに。
     ここは繋げて。
     力強く。
     歌うように。
    『これが俺の解釈。俺の正解』
     その通りに弾けば間違いないと嘲笑うかのように、過去の自分が指示をしてくる。
     うるさい。うるさいうるさい!
     雑念が覆い、できていたはずの作曲者との対話が困難になり、曲想を見失って。今じゃただ指を動かして、記号としての音を鳴らしているだけ。
     もしかしたら。真っさらな楽譜を見たら。新たな気持ちで、曲に、バイオリンに向き合えるかもしれない。
     そう思って来たのだが、慣れ親しんだクラシックの音符は頭をすり抜けていくだけだった。
     こうなったら……思い切って、今まで弾いたことがないものに触れてみるのはどうだろう。普段自分が弾く機会なんてないような。たとえばポップスのアレンジとか。
     思いついたのはいいものの、平積みされている楽譜のピースたちを前に目が泳ぐ。普段ポップスを聞かないから有名な曲がわからない。聞いたことがある歌なら自分で楽譜に起こせるけれど、タイトルがわからなくてお手上げ状態。こうなったら譜読みして、面白い展開の曲があればそれに決めてしまおう。
     目に入る一曲分のピースを片っ端から手に取り、パラパラと物色している最中だった。いつの間にかチェロケースを背負った男の子が隣に立っている。
     チェロのハードケースはやはり存在感がある。その子はソロ曲を選んでいるようだ。しかも難易度の高い曲の楽譜ばかり手にしていた。パッと見の印象は幼い感じがするのに、背伸びをしているのか、それとも相当な実力者なのか。どちらにしろ挑戦することはいいことだ。謎の上から目線で見守っていると、突然その子が動いた。
    「ちょっと、さっきからなに?」
     俺を見上げてくる男の子。黒い前髪から覗く深い緑色がギリ、と細められ、不遜な態度で俺を睨んでくる。
    「あぁ、すみません。どれも難易度が高いから、なにを選ぶのか気になってしまって」
     目の前のこの子を見てどこか既視感を覚えた。視野が狭かった子どものころは、俺も周りがすべて敵に見えていたっけ。こういう場合は誤魔化さず、正直に事情を伝えて謝ったほうがいい。下手に出ると逆にバカにされていると感じるものだ。……本当に身に覚えがありすぎる。
     俺が自分の非を認めて謝ったことが意外だったのか、男の子は「あっそう。あまり人のことジロジロ見ないほうがいいと思うよ」と楽譜をブンブンと振りならレジに向かい、会計を済ませて足早に店を出て行った。
    「銃兎君? あの子となにか話したのかい?」
     男の子の勢いに飲まれかけ、ぼーっとしていた俺に店主が声をかけてきた。
    「あ、いいえ……少し会話をした程度です」
     俺が答えると、店主がどこか楽しそうに笑った。
    「そうかい。あの子、銃兎君にはどう見えた?」
     人を試すような、そんな笑顔だ。あの子の実力がどの程度か君ならわかるだろう?と暗に聞かれて、俺は所感を正直に答えた。
    「そうですね……かなりのレベル、なんでしょう?」
    「うん、その通りだよ。これから総ナメするだろうね」
    「そんなに?」
    「一度辞めていたからブランクがあるのに、それを感じさせない演奏はすごいよ。兄への当てつけで再開したと言っていたけれど、小さい頃から注目されていた子だからね。……君と同じように」
    「へぇ……」
    「そのうち再会するよ。本選でね」
    「それは僕が出たら、でしょうけど」
     目を逸らして、避け続けていることコンクール
     出たら行けるだなんて、強気な発言をしてしまった。
     店主は純粋に、その未来を楽しみにしている。だけど俺は——スタートラインにすら立てていない。さらに本選だなんてよく言えたものだ。
     自嘲気味に笑って誤魔化すと、察しのいい店主が「ふぅ」と息を吐いて俺の背中をパン、と軽く叩いた。
    「そんなに気負わずに。……その楽譜、買うかい?」
    「えっ……と、買います」
     ずっと手にしたままだったポップスのピース。「買わない」とは口にできなかった。
    「映画のサントラとかもおすすめだよ」
    「……ではそれもください」
     おすすめされたのは一冊の本。映画一本分、使用されたサントラすべてを楽譜に起こしたものらしい。
     会計の最中、店主がうっとりとした表情で映画について語りはじめる。
    「主演はギタリストなんだ。でもバイオリニストでもある。その彼が映画内で奏でる曲の数々が素晴らしくてね。切なくも美しくて、胸を打つんだよ」
    「ギタリストがバイオリンを?」
     本職がギターで、片手間でバイオリンをやっているなら聴く価値を感じない。不快さを隠せなかった俺に「大丈夫」と店主が微笑んだ。
    「彼は幼少期バイオリン奏者だったから、腕は確かだよ」
    「そうなんですか」
     よく知りもしないくせに失礼な態度を取った俺を、店主は気にしていないようだ。やってしまったことが恥ずかしい。俺はいまだに視野が狭いと痛感した。
     気を取り直して、買ったばかりの楽譜の表紙を眺める。
     ギターとバイオリンを自在に操る人の音楽とは、いったいどんな世界なんだろう。
     なんだか興味が湧いてきた。
    (よし)
     この一冊を自分なりの解釈で組み立ててから映画を観よう。俺の解釈と彼の解釈が一致するのか、はたまた見当違いなのか。
     答え合わせが楽しみになった。
     
     それからしばらくはクラシックから遠ざかり、おすすめされた本から一曲ずつ、マスターするまで反復している。
     店主の言っていたことは本当だった。映画のメインテーマであろう表題の曲は素晴らしい。
     美しい旋律。ロングトーンは弾いていて気持ちいいが、曲想は切なく解釈が難しい。
     他の曲も良いものばかりだった。
     ページも半分くらい進んだ頃には季節が変わって、暑かった夏も終わる。少しずつ紅葉が増えてきて、一雨来るたびに気温が下がり、過ごしやすい時期、秋がくる。
     学校のほうは相も変わらず、クラスに馴染まず、距離を保って過ごしていた。高校二年ともなれば進学先も決めなければならないが、音楽から遠ざかるなら高校だけだと覚悟を決めて、希望校を提出した。
     一年半。卒業するまでに、せめてもう一度。
     ……もう余裕はない。
     クラシック以外ならなんとか聴けるものになったが、クラシックを弾こうとするとうまくいかない。
     焦りが少しずつ浸食して、自分を支配していく感覚。
     そんな状況でも一日は二十四時間しかなく、練習に割ける時間には限りがある。
     授業の時間すら無駄な気がしてきた。音楽科のある学校なら、授業の中でも楽器に触れられただろうに。
     時間が足りない。そんななか、生徒全員が参加しなければならないイベントが近く行われる。
     学校祭だ。
     この高校、私立校らしく学校祭は毎年異様に盛り上がる。各教室を使ったクラス展示とは別に文化部も展示があるし、生徒会主体の出店もある。そのほか、趣向を凝らしたステージ発表が名物だった。クラス展示とステージ発表には点数が付き、総合優勝すると打ち上げ代が学校から出るので、生徒の力の入れ具合が半端ない。
     一般公開日の来客数も相当だ。
     どうにか簡単な係になってやり過ごしたい。もしくは担任に事情を話して、理鶯に助けてもらおう。
     
     そんな甘い考えは、このあと簡単に覆される。
     ……とあるクラスメイトの発言によって。
     
     
    「クラス展示はメイド&執事カフェか、お化け屋敷の二択になりました! 最後に決選投票しまーす」
     クラス委員長のよく通る声が、教卓から見て一番後ろにいる俺の席まで届いていた。
     学校祭に興味がない俺にはこの時間も無駄にしか思えない。決まったことに従うだけだし、逃げ道は用意してある。それより早く決めてくれと窓の外に視線を向け、どこかのクラスがやっているサッカーをぼんやりと眺めていた。
    「それから体育館でのステージ発表について! ウチのクラスには二郎君がいるからお任せしたいんだけど……。反対する人なんていないよね?」
    「え、俺?」
    「誰も反対するヤツなんていないって!」
    「軽音部より盛り上がってたもんなぁ、去年!」
    「今年もぶちかましてくれよな〜」
     唐突にクラス中がざわめき出した。話題はクラス展示の決選投票ではなく、持ち回りのステージ発表のことに変わっていたらしい。去年の学校祭、バンド演奏でステージ発表の優勝を獲った当事者——山田二郎がこのクラスにいる。おかげで今年も優勝できると盛り上がっているようだ。
     まぁ俺には関係のない話だが。
    「んじゃ、いっちょやりますか!」
     山田の一言で沸き立つ教室。
    「あ、だけどステージに出るのに条件があるんだけど」
    「条件?」
     出演を快諾した山田から突然条件を持ち出された委員長は戸惑いながら「難しいことじゃなければ……予算とか……」と担任に目配せして助けを求めた。
     山田が突然立ち上がり「大丈夫」と委員長に声をかける。
    「そんな難しくないって」
     言葉を切って、クラス中を見渡す山田。なにを言い出すのかと皆が注目しているなか、ニヤリと笑ってこう言い放った。
    「メンバーは俺が決めていい?」
     ど?と念押しされて、委員長も答えざるを得ない。
    「いい……よね? みんな」
     反対意見は上がらない。「っし!」と気合い一つ、山田は次々と名前を上げていく。
    「んーと、俺がギターで、ボーカルは四十物な。キーボが帝統、ドラムが空却で……」
    「あとはー、入間」
     自分には関係ないと思って聞き流していた山田の話。その口から急に俺の名前が出てきて反応が遅れた。
    (今、俺が呼ばれたか?)
    「……は? え?」
    「入間も参加してくれたらやる」
     突然の名指し指名。
     クラスに馴染んでない俺が?なぜ?
    (ていうかこの男、俺を認識していたのか)
     山田はクラスのカースト上位で、空気でいることに徹していた俺とは真逆の人間だ。サッカーの腕はプロ級でスポーツ万能。でも部には所属せず、助っ人として多数の運動部を渡り歩いている。そのせいか顔見知りが多くて、見目も派手だから女子にもモテる。
     クラスや学年の枠を超え、校内ヒエラルキーのトップとも言える存在。
     そんな男の口から俺の名前が出るなんて夢にも思っていなかった。クラス中が「なんで入間?」「接点あったっけ」「楽器弾けんの? あの手って怪我を隠してるって聞いたけど」などと好き勝手なことを言ってざわついている。
     ステージ発表?冗談じゃない。静かに送ってきた学校生活が壊れる行為だし、なによりも。
     俺が立つべき場所は、学校のステージなんかじゃない。
     ——ホールだ。
     自分の置かれた状況でいえたことじゃないが、これだけは譲れない。無くせない、俺のプライド。
     どうやって断るかと頭をフル回転していると、山田が席を移動してきて、俺の前に立った。
     少しタレ目の……美形の男が俺を見下ろしてくる。
    「エモノはこっちで用意するからさ、頼むよ。一回合わせてみたいんだ、お前と。弦楽器同士……な?」
    「……え?」
     合わせてみたい、って……?
     名指しにも戸惑ったが、もう一つ。
     なにか知ったふうのこの男は一体誰だ。
    「お前はなにを知っている?」
     思わず山田を睨みつける。露骨に嫌悪感を出したのに、山田は『へへ』と誤魔化すような笑みを浮かべ、体を屈めた。そして周囲に聞こえないようにそっと耳打ちしてくる。
    「ここでは言えない色々を知ってるけど?」
    「あ?」
     腹の底から声が出た。自分のことを勝手に把握されているというのは、不愉極まりなかった。
    「んな怒んなって! 出てくれたら説明するからさ!」
     俺の前で両手を合わせてくる山田。
    (そんな態度で絆されるか)
     説明すると言われたところで……芽生えた不信感はそう簡単には拭えないだろう。俺としてはたかだか学校祭のステージにそこまでする義理もない。
    「俺にメリットがない」
    「メリットかぁ……そうくると思ってたぜ」
    「だから、」
    「体育祭! 全員最低一種出る決まりだろ? お前の分は俺が出る。それでどーよ?」
     断る、という俺の言葉を遮って、山田が提案してきたこと。『体育祭』という言葉にげんなりしつつ、心が揺れそうになった。この学校、学校祭だけではなく体育祭も異様に盛り上がるんだった。一人一種目は強制。走るものならなんとかなるが、球技は絶対に出たくない。
     返事に詰まっている俺を、ニコニコと笑顔で追い詰めてくる山田。……どうする、困った。
     そのときだった。前の席、俺たちの話を黙って聞いてた男が後ろを振り向くことなくボソリと呟いた。
    「体育祭はこちらが代わる予定だ」
    「……え?」
     突然口を挟まれて、山田が驚きで目を見開く。
    「お前の出番はない。山田二郎」
    「理鶯……」
     理鶯が俺を庇うように、はっきりと言い切る。
    「あ、毒島はベース。手がでっけぇから余裕っしょ」
     だが山田が驚いた顔をしたのは一瞬で、声をかけられてラッキーといわんばかりに理鶯を指名してきた。
    「む」
     思いがけない飛び火を食らって、珍しく理鶯が驚いた顔を見せた。そんな理鶯をスルーし、山田が俺にまた迫ってくる。
    「一曲だけでいいからさ! なぁ、やろうぜ入間!」
    「……しつこいな」
     そろそろ断る理由を考えるのも疲れてきた。おそらくだが、山田は俺がなにを言っても引き下がったりはしないだろう。諦めが悪いというか。……そういう性格のようだ。
    「じゃーさ、クラス展示の準備、免除とかどう? 俺が変わるし」
    「……」
    「一回練習見にきてから決めてもいいから。考えてみてくんねーかな」
    「………絶対に変わってくれるのか?」
    「おぉ! 男に二言はねーぞ!」
    「なら……一回、練習見てから考える」
    「しゃ! やった!」
     緑色の両目をパッと見開き、笑顔を見せる山田。きちんと了承したわけじゃないのに……そんな嬉しそうな顔をされても困る。
    「練習日決まったら知らせっから、連絡先交換しよーぜ」
     山田はナチュラルに俺からIDを聞き出し、自席に戻っていった。その後ろ姿を眺めながら思うこと。
     学校祭、正当な理由で準備が免除されるなら正直助かる。
     が、その代わりに体育館のステージでバイオリンを弾く。
     のか、俺が?本当に?
     ずっと外さなかった手袋を脱いで、この手で?
     いや、それよりも。
     ……山田がなにを知っているのか確認しなければ。
     
     ▽▼▽▼▽
     
     ……子どもが一人、ベンチに座っている。
     頭を下げて、肩を震わせて。泣いているのだろうか。
     あれは……僕だ。小学生になる前の僕。
     初めて出たコンクールで、自分の出番の前に大切なものを無くしてしまって。探しても見つからなくて、途方に暮れていた僕だ。
     
    (これは、夢——?)
     
     幼い僕に、同じ歳頃の男の子が近づいてくる。
    「ねぇ、これきみの?」
     ベンチに座っている僕に、その子がなにかを差し出した。
    「……あ! そう!」
     差し出されたものを受け取って、ぎゅっと抱きしめる。もう離さない。僕のお守りだ。
     おかあさんが僕のために作ってくれた巾着。中には松脂が入っている。
    「みつかってよかったねぇ」
    「あり、がとう……」
     拾ってくれた子にお礼を伝えようと顔を上げる。そこにいたのは、色違いの目を持った綺麗な顔の女の子だった。
    (あれ? 男の子かな……?)
     衣装はドレスじゃないけど……。長い髪をうしろで結んで、その子が動くたびにリボンがふるふると揺れる。鮮やかな青色がとてもよく似合っていた。
     僕が考えごとをしていると、その子が僕の隣に座った。
    「ね、これってうさぎさん?」
     僕が手にしている巾着には、黒いうさぎが刺繍されている。それを見たんだろう。
    「そう。ぼくのなまえ、かんじでかくとなかにうさぎがいるんだって」
    「ぅわぁ〜すっごい! なまえのなかにどうぶつがかくれてるんだぁ〜! かっこいいねぇ〜!」
    「そう、かな?」
     かっこいいなんて初めて言われた。いつも『おとこのくせにうさぎがすきなんてへん』としか言われなかったから嬉しくなった。
     落とし物を拾ってくれたし、悪い子じゃない。名前を褒めてもらえたこともあって、僕はあっさりとこの子に懐いてしまって。
     いろいろなことを話した。
     同じ教室の子がイジワルなこと。
     でもバイオリンが楽しいから、絶対に辞めないこと。
     それから、好きな曲について。
     話に夢中になりながら、ふとホールに設置されている時計を見る。……もうすぐ自分の出番だ。楽しかった時間はもう終わり。
    「ドキドキしてるの?」
     そろそろ戻らなきゃいけない。それが残念で寂しくて黙っていると、急に顔を覗き込まれた。サラサラの黒い前髪から覗くキラキラとした二色を見て、胸の奥がトントンって騒ぎ出す。あれ、僕……緊張してる?
    「……うまくできるかな?」
    「いっぱいれんしゅうした?」
    「もちろん」
     練習はたくさんした。それはそれは、たくさん。
     自信はあったのに、お守りをなくして怖くなっていた。
     失敗したらどうしよう。おかあさんや先生をがっかりさせたらどうしようって。そんな不安が消えなくて、手の中のお守りをぎゅっと強く握りしめる。すると、固くなっている手の上に、温かくて柔らかい手がふわりと重なった。
    「だったらだいじょうぶ! にいちゃんがね、がんばったじぶんをしんじてやればいいんだっていってたよ!」
    「じぶんを、しんじる…」
    「そう! きみのバイオリン、たのしみにしてるね!」
     僕の演奏が楽しみだと笑う顔には、一切のくもりもなくて。この子の期待に応えたい、よかったよ!と思ってほしい。そんな気持ちでステージに立った。
     ノーミスで弾き切ってステージを見渡すと、割れんばかりの拍手が僕を迎えてくれた。結果、初めてのコンクールで金賞を取ることができた。
     けれども。この日の主役は僕じゃなく。
     満面の笑顔で……ヘマしても気にしない、楽しげな『きらきら星変奏曲』がホール中を虜にした。
     弾いていたのは『自分を信じればいい』と励ましてくれたあの子。そのステージは僕に強烈な印象と衝撃を与えた。
     
     あれ以降、コンクールであの子の姿を見ることはなかった。特徴的な目をしていたから、名前が分からなくても見つけられると思っていたのに。
     たった一度の出会い。先生方に尋ねても、誰もその後を知らないという。
     あの子は今でも、バイオリンを弾いているのだろうか。
     もし再会できたなら、また僕を励ましてほしい。

     情けない僕を、あのときと変わらない笑顔で。
     
     ○●○●○
     
     放課後の音楽室。学校祭を控えたこの時期、練習狂いの吹奏楽部は近くの市民ホールへ移動し、音楽室は一般生徒に開放されている。
    (市民ホールを貸し切るとかさすが私立校だよなぁ)
     音楽室を開放、といっても、バンド演奏をするクラスが多くて音楽室を押さえるのも一苦労だった。そんななかで、やっと初回の練習日を迎えることができた。
     俺が独断と偏見で選んだメンバー。
     四十物十四、ボーカル。クラス内では目立たず静かだけど、実はヴィジュアル系バンドを組んでいて知る人ぞ知るボーカリストだ。「なんで知ってるんすか?」と怯えられたが、空却が一緒ならって了承してくれた。
     波羅夷空却、ドラムス。寺の息子だから、木魚とか叩いててリズム感はあるだろうと思って選んだ。案の定「なんでだよ!」って怒られたけど、ドラムセットを前にした途端、目をキラキラさせてたし、イケると思う。
     有栖川帝統、キーボード。ピアノの腕を隠している、小さいときからコンクールの上位にいた男。今は祖母と暮らしていて表舞台から遠のいているけど、ブランクがあるわけじゃない。
     毒島メイソン理鶯、ベース。選んだ理由は俺が入間に声を掛けたときに突っかかってきたから。それだけ。だけどまぁ、怪我の功名?というか。毒島はタッパがあって手もデケェし、絶対向いている。家にあったベースを押し付けたら受け取ってくれたしな。やる気はあるっぽい。
     それにだ。毒島がいたら入間も懐柔しやすいんじゃねーか?って思惑があるから、参加してくれると助かる。
     入間銃兎、バイオリン。
     一曲だけとお願いして、練習を見て参加を決めるってところまではこぎ着けた。四十物と空却は「なんで入間?」と不思議がっていた。帝統は「よく声かけたなお前」と俺のアタックに感心していた。
     入間にこだわる理由。それは俺だけが知っていればいい。
     
     持参したハードケースから楽器を取り出して、スタンドに立てかけながらメンバーが来るのを待つ。
     全員が揃うまであと三十分。その前に一人、時間をずらして呼び出した入間は来てくれるだろうか。
     そんな心配をよそに、真面目な入間は指定時間ぴったりに音楽室の扉を開けて入ってきた。中にいるのが俺だけだと気づいたみたい。キョロキョロあたりを見渡している。
    「みんな少し遅れるってさ」
    「……そう」
     俺の嘘に気づかず近づいてくる。入間が椅子に座ってしまう前に俺は動いた。
    「楽器、持ってきたぜ」
    「……用意するって、本当だったんだな」
     どんだけ信用がないんだ、と落ち込みかけたけど、気を取り直してスタンドから楽器を取り、入間に見せる。
    「これ、入間のと比べたらちょっと重たいかもだけど」
     そう言いながら——エレクトリックバイオリンを差し出す。入間はそれを遠慮がちに受け取ると、少し驚いた顔をした。
    「思っていたより軽い」
    「お、好感触? なな、ちょっと鳴らしてみて」
     そう言うと、入間はエレキバイオリンの弦を一音弾いた。
     ポン、という軽い音が鳴るが、エレキなのでアコースティックのような軽快で綺麗なピチカートにはならない。
    「アンプに繋ぐから、ちょい待って」
     バイオリンにシールドを挿してアンプと繋いだあと、弓を渡す。
    「お願いします」
    「……」
     バイオリンと弓を手にした入間が立ち尽くしている。どうしたものかと考えているんだろう。
    「今はさ……手袋取っても俺しかいないじゃん?」 
    「だからそれ、」
    「入間に害を与える人間はここにはいない。俺を信じて」
     俺は事情を知っている。でもなぜ知っているかは説明していない。中途半端な情報開示じゃ、入間の警戒心が緩むとは思えないけど、でも。
     俺は入間の敵じゃない。それだけは信じてほしい。
     と、俺の熱意が通じたのか、入間がバイオリンを顎と肩の間に挟めチューニングを始めた。ペグを回して、二弦を鳴らす。四本の弦の調弦が終わり、一瞬の躊躇いのあと……入間が手袋を外した。
     姿勢を正して弓を構える姿が様になっていて、思わず息を呑む。
    (カッコ良すぎんだろ)
     そして入間は間髪入れず、音階を一つ奏でた。
     アンプを通して響く、力強いストローク。
     たった数音聴いただけなのに、胸がいっぱいになる。
    「……なんか不思議だ」
     俺はすでに感無量だが、入間のほうはエレキバイオリンをまじまじと観察していた。
    「……入間ほどの腕ならアコースティックバイオリンでもバンドの音に負けないとは思うんだけどさ? エレキバイオリンってエフェクターに繋いで音を加工したりとかもできるし、楽しいかなー、なんて」
    「かこう……」
    「入間にしてみたらバイオリンの音を加工するなんて邪道っつーか、冒涜かもしんないけど……どうよ?」
    「まぁ……面白いんじゃないか?」
    「マジ? よかった〜!」
     入間は弦をポンポン、と弾きながら、アンプから響く音を確認している。本当に興味を持ってくれているっぽい。
     クラシック畑の人間にエレキの音の歪みは嫌われるんじゃないかって先入観が、入間の一言で溶けていく。ほっと胸を撫で下ろしていると、呆れたような声が降ってきた。
    「人を誘っておいてなんだよそれ」
    「だってさぁ、お前がバイオリンに真剣なの知ってっから。エレキ渡したら怒られるんじゃないかってちょっと不安で」
    「そうそれ、なぜ俺がバイオリンやっているって」 
    「あー……やっぱりわかんねぇか……」
    「え?」
    「まぁその話はおいおいするから! それよりもさ、エレキ初体験ってことで一曲弾いてほしいなー。……ダメ?」
     事情を知っているという種明かし。今すぐしてもいいんだけど、そうすると俺の秘密も話さなきゃだからもうちょい時間がほしい。話を逸らす目的も兼ねて入間にリクエストをする。いや……単純に俺が一曲聴きたいだけだわ。
     両手を合わせてお願いのポーズをすると、はぁ、とため息が聞こえてきた。やっぱダメだったかな、と恐る恐る入間の様子を伺うと、意外にも機嫌が良さそうだった。
    「………仕方ないな。リクエストはなに?」
     了承をもらえてテンションが一気に上がる。なにがいいか聞かれて、脳直で曲名が口から出ていた。
    「あれがいい! 愛のあいさつ!」
    「……は?」
    「聞いてみたい」
     俺のリクエストに入間は「なぜそのチョイス……」とブツブツ言いながらも、スコアがないから適当な動画で一度おさらいしたいこと、そして所詮は耳コピレベルなのでミスも認めること、ということを条件に出してきた。「そんな条件、飲むに決まってるだろ」って食い気味に答える。
     動画サイトで曲の流れを一通り確認したあと、入間が改めてバイオリンをスッと肩に乗せ構えた。
     一瞬の静寂。右手がふわりと持ち上がり、弓が弦の上に触れた。弓が弦を擦り、滑らかに音を鳴らす。
     ……第一音だけで、俺の背中はブワりと粟立つ。
     一本の芯が通ったような……凛とした姿から奏でられる、ゆったりとした長音のメロデイ。
     普段は手袋で守られている入間の手。白くてしなやかな長い指が今、惜しげもなく弦を弾いていく。そして右手の穏やかな弓の動きがこの小さな楽器を震わせて、言葉より雄弁に、音色で愛を謳う。
    (これが入間の表現するもの
     ……美しい、という言葉はこのためにあるんだな、と鳥肌が止まらない。
    (うわやば)
     ぼーっとその姿に見惚れていると、ふとこちらに目線をよこした入間とばっちり目が合う。
     その瞬間だ。
     ふわ、と入間が微笑んだ。
    (ファンサ、もらっちゃった)
     ……いやたぶん、間抜けヅラして聴き入っている俺がおもしろかったんだろうけど……笑顔を見せてくれるなんて思っていなくて。
     スランプ気味と聞いていたのにそんなのはどこ吹く風。
     いつも教室の隅っこ、誰とも交わろうとせずに過ごしているヤツと同一人物とは思えないほど、演奏中の入間は堂々していて威厳があって……本当にかっこいい。
     トントントンって騒ぎ出す俺の心臓。
     優しい音に包まれて、幸せな気持ちで心は満たされていくのに胸が苦しい。
    (やっぱ俺……入間のことが好きなんだ)
     ずっと大切にしていたあの日の思い出が蘇る。
     入間に対して感じていたものの名前を、今やっと知った。
     

     ▼▽▼▽▼

     言われるがままリクエストに応えて一曲弾き切ってしまった。別に俺の事情について気を遣われたから、とかじゃない。山田の押しの強さはもう知っているし……断りきれないと諦めた。
     そんな言い訳を心の中で唱えたところで、山田の前で演奏したときに感じた満足感を誤魔化すことはできない。
     演奏中、熱っぽい視線を感じて顔を動かしたとき目に映ったもの。どこか惚けたように揺れる瞳、ぽーっと赤く染まった頬、ポカンとだらしなく開いた口。間抜けヅラを見て思わず笑ってしまったが、俺の奏でる演奏がこんな表情をさせたのか、と意識した途端、背中がゾクゾクした。
     左手の運指と右手のボウイングがピタリと合って、最高の音が出せたときの高揚感。あれと同じものを、まさか山田の顔を見て感じるとか、ありえない。でも。
    (……楽しい)
     忘れかけていた『演奏に気持ちを乗せる』という感覚。
     たった一人の聴衆が、俺にバイオリンを思い出させた。
     このまま本来の俺に戻れる?
     いやそんな簡単な話じゃない。
     だけど、先ほどの感覚をもう一度得るには……。
     俺には山田が必要なのか、そうじゃないのか確認したい。
     しかし……。バンドに参加するのは……どうなんだろう。
    「なぁ入間、エレキ……弾いてみてどうだった?」
    「悪くはないんじゃないか」
     どうするべきか考え込んでいると、山田が遠慮がちに声をかけてきた。ぶっきらぼうに答えたが、実際のところエレキの弾き心地は悪くなかった。
    「で……バンドの参加さ、どう……?」
    「それは……」
     参加するかどうか。山田の前で弾いただけで違ったんだ。音を合わせたら、また違う結果を得られるとしたら?
     あくまで自分のため、山田を利用させてもらえばいい。
     
     別に……俺を見つめる緑色に絆されたとかじゃない。
     
     答えを迫られて、思わずイエスと答えようとしたときだった。バタバタと廊下を走る音が近づいてきて、バタン!と勢いよく音楽室の扉が開かれる。
    「ずりぃぞ二郎!」
    「帝統」
     音楽室に入ってきたのはキーボード担当の有栖川だった。
     有栖川は一直線に山田に詰め寄り、胸ぐらを掴む勢いで捲し立てる。
    「俺だって入間のバイオリン聴きたかったし! つーか伴奏させろよ!」
    「はは、わりぃ」
     興奮気味な有栖川と、悪びれない態度の山田。
     ギャーギャー騒いでいる有栖川に呆気に取られていたが、その有栖川の口から出てきた言葉が頭の中をよぎる。
     聞き間違いでなければ、有栖川も俺がバイオリンを弾くことを知っている……?
    「どういうことだ?」
    「「あ」」
     二人が俺に向き直り「やべぇ」だの「あー」だのぼやいている。そして俺に背中を向けて、コソコソ相談し始めた。
    「有栖川?」
     責めるような声で名前を呼ぶ。びくり、と肩を揺らした有栖川だったが、観念したかのように両手を上げた。
    「あ、っと。俺さ、ピアノずっとやってて。前にお前がバイオリンで優勝したコンクールのピアノ部門に出てたんよ」
    「……え?」
    「入間は他の部門に興味なさげだもんなー」
     想定外の話に驚きを隠せない。言葉に詰まった俺に対し、有栖川は「やっと話せたわ」と笑顔を見せた。
    「悪い……」
    「謝んなくていいって! あの頃のお前、周りは眼中にねぇって感じだったし、俺もそうだったし。でもお前は目立ってたから知ってたって感じかな」
    「……そう……」
     ここは音楽科のない私立校で、俺の経歴を知っている人間なんて誰もいないと思っていた。まさかこんな身近に二人もいるとは。そして知った上であえて黙っていてくれたことを知り、少しばかり恥ずかしくなった。
     さて、有栖川の言い分はわかったが、問題は山田だ。
    「山田」
    「お?」
    「お前がなぜ知っていたかをまだ聞いていない」
    「……っと、あー……」
    「山田?」
    「俺の弟がチェロやっててさ。コンクールに出る前に……下見に行った会場でお前を見た感じ?」
    「チェロ……?」
    「そ、そう! 今はコンクールでバンバン優勝しててスゲーんだぜ! おかげで家での俺の立場がさ〜。ってこの話はいいや。とにかくそういうこと!」
    「……」
     腑に落ちない部分もあるが、チェロと聞いて思い当たるものがあったので一応筋は通る。だが。
    「手袋のことも知っている素振りだっただろう」
     ここには敵はいないから、と言い切っていた山田。どこまで俺の事情を、過去を把握しているのか。弱みを握られているみたいで気に入らない。俺がズイ、と詰め寄ると、フイっと山田が目を逸らした。
    「……そのことは、おいおい……」
     その態度にムカついて、思わず宣言してしまった。
    「わかった。バンドに参加する。そして絶対に話を聞き出してやる」
    「え、マジ? やった!」
    「喜ぶな。……逃がさないからな」
    「あ、ハイ」
     パッと目を見開いて喜んで、そして一瞬で真顔になって。
    (飽きない男だな)
     俺の一挙一動を受けてコロコロ変わる表情や態度。それがおかしくてつい笑いそうになるが、ここで笑ったら山田が調子に乗ると思って必死に堪える。
    「がんばれじろ〜! ぶっははは! あーおもろ」
     俺たち二人のやりとりを見ていた有栖川が突然ブッと吹き出した。
    「んだよ帝統!」
    「別になにもおもしろくないだろ……」
     呆れる俺と困惑する山田をおいて、有栖川は他のバンドメンバーが来るまで笑い続けていた。
     
    「さて、メンバーがやっと揃ったな!」
     有栖川から遅れて数分後に四十物と波羅夷が、二人が椅子に座ろうとする頃、理鶯が「遅れてすまない」と音楽室に入ってきて、山田のいうメンバーが揃う。
     俺はつい先ほど参加を決めたわけだが、どうやら俺以外の五人で何度かミーティングをしていたらしい。ステージ発表が二十五分、転換が十五分だからと、演奏する曲と持ち込む機材について、あらかたがすでに決まっていた。
    「で、最後の曲は俺の希望通りってことで」
     山田は俺が断る可能性を考えていなかったのか、用意していたらしいバンドスコアを皆に渡す。
    (……)
     このイントロ、ほぼバイオリンソロみたいなものじゃないか。
    「山田、ちょっと」
    「お、なになに」
    「本当にこれをやるのか?」
    「そうだけど?」
    「ギターよりバイオリンのほうが目立つじゃないか」
    「……そうだけど?」
     なにが問題?と山田が首を傾げている。
     いや、参加してやってもいいが、目立つつもりはない。バンドに含まれるバイオリンなどアクセント程度の軽いものと思っていた。……ほかの曲に変えてほしい。だが俺の都合を言ったところで山田には通用しない気がして、違う方向から攻めることにした。
    「皆はこれでいいのか? ベースだってかなりテクニカルじゃないか。理鶯は初心者だろう」
    「理鶯は今猛練習してっからなんとかなるだろ」
    「は?」
     理鶯を引き合いに出して申し訳ないと思ったが、口を挟んできたのは理鶯ではなく波羅夷だった。
    「拙僧も理鶯も初心者だ。だがやるからには下手なもん見せらんねぇからな。知り合いの弁護士がドラムとベース経験者だっつーから、今一緒に習ってんだよ」
    「はは、空却ナイス!」
    「ウルセェ! ……やんなら全力だろーが」
    「波羅夷の言うとおりだ。銃兎、心配はいらない」
     味方になってくれるはずの理鶯から「大丈夫だ」という顔を向けられて言葉に詰まる。困った俺はずっと話を聞いているだけの四十物に意見を求めた。
    「四十物は? この選曲でいいのか?」
     急に話を振られた四十物は驚いたようだが、この男も『なにが?』という顔をしていて、俺の意図がまったく伝わっていない。
    「へ? ぼ、僕は文句なんてないっすよ。このアーティストは大好きだし……。バイオリンがないと完成しない曲だから、今回コピーできて嬉しいっす」
    「だよな〜! 十四はよくわかってんな!」
    「ハイっす!」
     山田と四十物が「あの部分がいい」だの「コーラスもいいよな」だのと語り出し、意気投合している。
     ……だめだ、どうやら決定を覆すことはできないらしい。
     その後の俺というと、もう空気だった。
     一曲だけしか参加しない俺は他の曲のことに口出しはできない。話し合いの結果、音楽室が押さえられたら俺を含めて練習をして、ほかに週に二、三度、俺以外の五人はスタジオに入ると決まった。
     今日は顔合わせのつもりだった、という山田の一言でこの場は解散となり、皆がゾロゾロと音楽室を出ていく。
     俺はエレキバイオリンの重さに慣れるために山田から楽器を借りることになった。ハードケースを肩に背負い振り向くと、理鶯が俺の背後に立っていた。
    「帰ろう、理鶯」
     俺の誘いを受けて、理鶯が目を見開く。
    「いいのか?」
    「いい」
     高校に入学してからずっと会話も避けていたけれど。俺たちが実は親しいと周囲にバレてしまったし、だったら普段通りに接したほうが疲れない。
    「一緒に帰ろう」
     もう一度言い直すと、理鶯がはにかみながら俺の肩からハードケースを奪った。
    「ちょっと理鶯?」
    「……持たせてくれ」
    「いやいや、いいって」
     理鶯がハードケースを背負うのをとめようとしたが、ひょいと避けられた。
    「本当はずっとこうしたかった。荷物を持つことくらいなんてことはない。これで銃兎の調子が保てるなら安いものだ」
     真顔でサラリとすごいことを言う。
    「ったくお前は俺を甘やかしすぎだ」
    「そうだろうか?」
    「はぁ……まぁいいか。じゃあ頼む」
     理鶯の申し出を素直に受け入れると、理鶯は俺の通学鞄も当然のように持とうとした。さすがにそこまでは、と理鶯を制しても無駄だった。
    (本当に、過保護だな)
     
     
     学校祭まであと三週間と迫ったある日。
     どこのクラスも準備に追われ、学校全体が浮き足立っている。教室内だけでは作業場所が足りないと、廊下まで人が溢れてどこも騒がしい。
     今日は久しぶりに音楽室が押さえられたと、俺も練習に参加する。前回の練習ではまだそれぞれの完成度にばらつきがあり、完璧には程遠い状態だった。だが俺のバイオリンと山田のギターは噛み合っていたし、有栖川のキーボードで全体の調和は取れていたから、本番までにはなんとかなるだろう。
     山田のギターの腕前は評判通りかなりのものだった。
    『合わせてみたい』と言うほどのことはある。数回だが、バイオリンとギターの音がハマった瞬間があり鳥肌がたった。言ったら喜びそうだから言わないが。
     今日もまたあの瞬間を味わえるのかと期待していた。そんな自分に驚くが、音楽が与えてくる快感には抗えない。
     放課後になり、バイオリンを持って音楽室に向かう。扉を開こうと手をかけると、音楽室から話し声が聞こえてきた。そのまま気にせず扉を開いてしまえばよかったのに、会話の邪魔をするのはな、と躊躇ったのを俺は後悔することになる。

    「なー、二郎」
    「ん?」
     中にいるのは山田と有栖川のようだ。盗み聞きするつもりはなかったのに、知り合いらしい二人がどんな話をするのか気になって聞き耳を立てた。 
    「あんときなんでお前……自分もバイオリンやってるって言わなかったんだ?」
    「へ? ……あぁ。だって今はやってないし」
    「ってもよー。お前も凄かったじゃん」
    「別に凄くねーよ」
    「俺はお前のバイオリン、好きだったぜ」
    「サンキュ。俺も帝統のピアノ、めっちゃ好き」
    「おー、あんがとな。……って褒め合ってキメェ」
    「っははは、確かに」
     ゲラゲラと楽しそうに笑う二人の声が廊下にまで響き渡るなか、俺は扉から一歩、もう一歩と後ずさる。
     
    (山田もバイオリンを……?)
     
     なぜ、それを俺に言わない?
     バイオリンをやっていたことを知られたくないということか?
     
     そもそも、山田は隠していることが多すぎる。
     だけど、そんなことは些末なことだ。
     音は嘘をつかない。
     山田の音は真っすぐで、素直で気持ちがよくて。
     だから俺は、俺は……。
     
     あいつを信用し始めていたのに。
     
     なにがこんなにショックなのか自分でもよくわからない。ただ今は、この場にいたくないと思った。
     気がついたら自分の教室の前にいた。中から女子たちの笑い声が聞こえる。……ここにも俺の居場所はない。
     音楽室に戻ろうか、とウダウダ悩んでいると、ガラっと教室の扉が開いた。
    「あれ? 入間君じゃん」
    「え? 入間君? 今日ってバンド練じゃないのー?」
     俺を認識した女子たちが次々と話しかけてくる。
     女子は苦手だ。話題がどんどん飛ぶし、こっちの都合はお構いなしだから。だけど今はその勢いに飲まれたい。
     ……なにも考えなくて済む。
    「練習まで時間があって。それで……手伝えることがあれば。ペンキ塗りくらいしかできないけれど」
     我ながら白々しい嘘が出た。だが女子たちはそんなことは知らないわけで、俺の申し出に喜んでいる。
    「ほんと〜? 助かる! ここお願いしていいかな?」
     頼まれたのは看板の色塗りだった。かわいらしい文字で『メイド&執事カフェ』と書いてある。文字の周りが白いから、ここを塗るようだ。
    「色はこれ?」
    「そうそう!」
     刷毛たっぷりにペンキを取り、看板に乗せて伸ばす。無心で行える作業はいい。嫌なことを忘れられるから。
     俺の手で彩られていく看板。だんだん楽しくなってきた。
    「ここ、黒で塗ってくれる?」
    「わかった」
     都度指示をもらって、作業は順調に進んでいく。
    「あ、」
    「? 俺、なにか間違えた?」
    「いや違うんだけど、ねぇ!」
     もうすぐ完成、というところだった。一緒に作業していた女子が立ち上がり、周りの女子を集めて話し合いが始まった。どうしたのかと手を止め、作業の再開を待つ。
    「入間君、ちょっといい?」
    「? どうぞ」
    「バンドメンバーはクラス展示の準備免除にしてるの忘れてた。ほら、ステージ発表で優勝してもらわなきゃだからさ、練習が優先! なのに手伝ってもらっちゃってごめん」
     俺が勝手に手伝いを申し出たのに、突然謝られて戸惑う。
    「いや俺は一曲だけだし……」
    「一曲だけとか関係ないから!」
    「そうそう!」
    「だからこっちは大丈夫だよ〜!」
     矢継ぎ早に次々と捲し立てられ、言葉を返す隙がない。
     それにしてもバンドメンバー全員が準備免除とは、そこまでクラスの皆に甘えていいのだろうか。
    (クラスの話し合いすら面倒だったのに)
     山田の勢いに巻き込まれて、誰かと共になにかを作り上げる楽しさを知ったから?ほんの少しでも、クラスの一部として関われたら、なんて思ってしまった。
     らしくない。本当に。
    「……わかった。バンドに集中するよ」
     手に持ったままの刷毛から、ポタリとペンキが垂れ落ちた。女子たちに言われたままを受け入れたつもりで答えたのだが……。
     ——シン、と教室内が静まり返る。
    「あー……うん、でもね」
    「そうだね、うんうん」
    「?」
     皆、含みのある笑顔で頷いている。
     話が見えていないのは俺だけのようだ。
    「入間君にお願いがあるんだけど」
    「なに?」
    「クラス展示のこと、気にしてくれるんだったらさ。当日ちょっとだけ手伝ってくれない?」
     言われて気がついたが、そういえば学校祭当日の当番についてなにも知らされていない。ステージ発表は二日目だが、自分たちの出番まで練習しているわけでもない。要するにやることがなにもない。それはさすがに気が引ける。
    「難しいことじゃなければ」
    「やった! 大丈夫だよ〜! めっちゃ簡単だから!」
     女子たちが嬉々として説明してきた当日の仕事。
    「……え?」
     話を一通り聞いたが、理解が追いつかない。
    「てことだから、よろしくね入間君!」
    「楽しみすぎるんだけど! 早く当日になんないかな」
    「ちょ、ちょっと待って」
     詳細を聞いてから引き受けるか決めるべきだった。
     内容はこうだ。バンドメンバー六人の中で二人ペアを組んで、クラス展示の宣伝のために廊下を歩いてほしい、と。
     別に廊下を歩くだけだ。俺の手袋のことも配慮してくれるという。だが一緒に歩く相手が悪い。
     せめてペアは変えてほしい、そう頼もうとしたときだった。
     ガララ、と教室の扉が開かれ振り向くと、涙目の四十物が立っていた。そして俺の顔を見た直後、ぶわ、と涙をこぼしながら駆け寄ってきた。
    「入間さ〜ん! いたぁ!」
    「四十物」
     涙でぐずぐずの顔した四十物に、俺はポケットからハンカチを取り出して「汚れていないから」と手渡した。四十物は「入間さん優しいっす……」とつぶやき、渡したハンカチは握りしめたまま、涙も拭かずに震えている。
    「集合時間なのに来ないから、探してこいって空却さんにドヤされて……」
    「悪かった。今行くから」
     波羅夷は時間にルーズなくせに待たされることが嫌いという厄介な男だ。俺が時間通りに来ないことにキレて、四十物に八つ当たりしたのだろう。悪いことをしたなと素直に謝り、そして女子たちに「当日のことはまたあとで相談したい」と一言告げて教室を出る。
     
     人と物とで溢れている廊下を二人で歩く。音楽室に近づくにつれ人が減り、静かになったところで四十物が「あの、ちょっといいっすか」と意を決した様子で話しかけてきた。
    「入間さん、なにか悩みごとでもあるんすか?」
     そのようなそぶりは見せていないつもりだったが。
    「……なぜそう思う?」
    「なんか覇気が足りないっす。近寄るなオーラが薄いというか、説明ができないんすけど」
    「そんなふうに見えるんだな、四十物には」
    「失礼なこと言ってごめんなさい! ……でも僕だって話くらい聞けますから、頼ってほしいっす!」
     四十物はよく人を見ていて、争いごとが嫌いな男だ。普段遅刻しない俺が時間通りに来ないことを不審に思って、バンドメンバーとなにかあったのかと気になったのだろう。
     優しいな、と思う。
    「ありがとう。……でも大丈夫だから」
    「……はいっす」
     
     会話が終わるころには音楽室に着いていた。ただ謝って中に入ればいいだけなのに、なかなか扉を開けることができない。無断で遅刻したこともそうだし、中にいる山田と有栖川の二人と顔を会わせるのが気まずくて。
    「はぁ……」
    「入間さん、僕が開けますね」
    「あ」
     俺が動けないでいると、横にいた四十物が扉を開けた。
    「お待たせしたっす~!」
     明るい声で中に入っていく。さっきまで泣いていた四十物に気を遣わせてしまった。
    「すまない、遅れた」
     情けない思いのまま続いて音楽室に入ると、波羅夷から「おせぇ‼︎」と怒号が飛んできた。
    「悪かった」
     改めて一言謝るが波羅夷には通じなかった。その場にいる全員が「そんな怒るなって」とフォローしてくれる。
     ありがたいが自分の不甲斐なさに落ち込む。
    (……なにをやっているんだ俺は)
     怒りが収まらない波羅夷を皆が取り囲んで宥めている。原因は俺なのに、遠い出来事みたいだ。
     それは……自分はあの中に入れないから。
     そう思った瞬間、チクリ、と胸の奥に針が刺したような痛みが走る。
    (なんだ、これ)
     ずっと一人でいいと思っていた。そんな自分に芽生えた感情。
     ——疎外感。
     俺は俺のできる、ベストな演奏をするだけだったはず。
     馴れ合いたいわけじゃない。なのになんだこれは。
     こんな余計な雑念に心がとらわれるとか、演奏家としてありえない。あってはならない。
     
     バンドになんて参加するから、心が迷うんだ。
     あぁ本当に……調子が狂う。

     俺以外の全員で宥めたことが相したのか、波羅夷も落ち着きを取り戻し練習が始まった。
    「一曲目から通して全体の流れと時間配分を確認していこう」という話になり、山田から「音のバランスをチェックしてほしい」と頼まれた。ラスト一曲まで出番がない俺は山田の頼みを了承し、音楽室の後方で椅子に座って皆の演奏を見ることになった。
     当日のステージとほぼ同じになるように、アンプや立ち位置を確認して、一曲目からスタート。
     音楽室で練習するのはラストの曲がメインだったから、五人の演奏を客観的に見るのは今日がはじめてに近い。
     波羅夷がドラムスティックでカウントをとり、一音目。五人の奏でる音の圧がまっすぐ俺に向かってくる。
     足癖の悪い波羅夷の力強いバスドラムが腹に響いて、自分の鼓動と混ざり合う。リズム感に優れているのか、ズレのない正確なビートが心地よい。
     もう一人のリズム隊、ベースの理鶯は初心者ということもあり、スコア上で複雑な部分は簡易的なものに書き換えたと聞いていた。だが言われなければ気がつかないレベルにまで上達している。練習を続ければ当日は原曲通りに弾けるのではないだろうか。
     キーボードの有栖川はさすがのテクニックで、音数が減ったベースをカバーしつつ、バンドに華やかさを加えて全体の調和を取る役割を果たしている。……原曲にないアレンジが増えているのは、ともすればやりすぎか。もう少し抑えるようにと言ったほうがいいかもしれない。
     ヴォーカルの四十物にはいつも驚かされる。全体を通してみるとさらに驚きが増した。
     今回セットリストを組んだのは山田と四十物で、往年の名曲に最近のヒット曲、あとはとにかく踊れる曲と、ジャンルもバラバラ。だがすべての曲が四十物の声に合っていた。音域が広く、ファルセットもきれいに響くし、深くて甘さの残る声も出せる。普段の声とのギャップがとにかく凄く、歌を聞けば山田が四十物を指名した意味がよくわかる。
     ……山田のギター。ギターなんて音をかき鳴らすだけの楽器と思っていたが認識を改めさせられた。繊細なアルペジオ、鮮やかなカッティング。クリアなハイトーンに、苦く歪んだ音まで自在に操る。山田は「曲によってギターを持ち変えたい」と言っていたが、ギターごとに得意な音質があるなんて知らなかった(ちなみにステージ上に複数のギターを置けるスペースはないと却下されていた)。
     足元のエフェクターを踏み替えて音を変え、音楽室内に響くギター。コードを響かせて、メロディアスなソロを謳い上げる。演奏中の山田はとにかく上機嫌で、次はなにをするのかと目が離せない。
    『音』を全力で、全身で『楽しむ』
     これが山田の音楽だ。
     五人の生み出すグルーヴが自然と俺の体を揺らしていた。
     ……どこか覚えのある感覚。こちらの感情も演者にコントロールされる、みたいな。
     思い出せそうで思い出せない。
     いや今はそれよりもこっちに集中していたい。
     思わず前のめりになり、知らず指でリズムを刻む。
    『バランスをチェックしてほしい』
     俺は与えられた役割を忘れ、ただの観客になっていた。
     
     五人で演奏する曲の通しが終わり「どうだった?」と聞かれて我に返る。まずい。フラットな目線で答えられない。ここまで音に酔えたんだから、バランスは問題ないだろう。感じたままを五人に伝えると「入間に褒められると怖い」と言われた。なぜだ。いいものはいいと褒めただけなのに。
     不本意な反応をされ納得できないという顔をすると、理鶯だけは「褒められて嬉しい」と素直に喜んでくれた。
    「よーし、じゃあ最後の曲やろーぜ。当日はここでMC入れて入間を紹介すっから、名前を呼んだら出てきてくれ」
    「紹介はいらない気がするが……とりあえずわかった」
     MC中にステージに上がれば事足りるんじゃないかと俺は思うのだが、山田は「紹介は必要!」と息巻いていた。
    (まぁ当日までに説得しよう)
     俺が遅刻したせいで時間も押している。まずは練習が先だとバイオリンを手に取った。
     先発はドラム。イントロからバイオリンがメインでギターが土台を支え、四十物が歌い上げる。ギターソロはなく、バイオリンが前に出る曲だ。
     イントロとアウトロでギターとのユニゾンがある。いつもなら山田のほうを見てタイミングを合わせるが、今日はなんとなく山田の顔が見れないでいた。
    (視線が痛い)
     チラと横目でギターの手元を見て、目線を上げる。感じていた気配そのまま、山田が俺を見ていた。
     それをあからさまな態度で避けてしまった。
     突如ガタガタになるギター、リズムを崩してグダグダになる俺の右手。音自体は外していないが、俺と山田の調和がずれていく。
    (まずい) 
     最後はなんとか持ち直して終わったが、クオリティとしては最悪な出来だ。
    「すまなかった」
    「わり」
     二人同時に謝り、もう一度やらせてくれと頼んだ。
     もう一度、頭から。
     だが。崩れた均衡はその後整うことがなく、何度やってもうまくいかない。埒が開かないと、ドンッ!と波羅夷がバスドラムを一発踏み鳴らした。
    「オイ、入間と二郎」
    「はい」
    「……はい」
     ドスの効いた声で名前を呼ばれて、俺も山田も『はい』としか言えない。
    「お前ら、ぜんっぜん噛み合ってねぇじゃねーか」
    「……あぁ」
    「おう……」
     真っ当な指摘に返す言葉がない。集中しようとすればするほどうまくいかず、山田もらしくないミスを連発していた。なにも言い返せず黙っていると、波羅夷が「ったくよォ」と盛大なため息を吐いて立ち上がった。
    「お前ら二人で話し合え。残りは自主練だ。解散!」
     この一言で練習は強制終了となり、皆が音楽室から出ていく。理鶯が俺に心配そうな目線を送ってきたが『大丈夫だ』となんとか笑顔を作って見送った。
     意図せず山田と二人きり。……空気が重い。とりあえずバイオリンをケースに戻す。と、山田もギターをスタンドに立てかけた。
     手持ち無沙汰になり、気まずさが増す。
     チラチラと山田が俺の様子を伺ってきているのはわかるのだが、こちらから話を振る気になれない。本当は聞きたいことや確認したいことがたくさんあるのに。
    (……あ、そうか……俺は……)
     そのうち話す、という山田の言葉を信じて待っているんだ。馬鹿みたいに。
     静かに山田の顔を見つめる。
     お前はその目でなにを見てきた?
     知っていることを教えてくれ。
     そんな俺の態度に山田が息を呑み、観念したかのように口を開いた。
    「あのさ」
    「なに?」
    「俺、なんかした?」
    「は?」
     なにかしたか?だって?
     むしろなにもしていない。なにも言ってこないから気になるんだろ。
    「あ、そっか。そうだよな。ごめん」
     思っていたことをそのまま言っていたらしい。山田があからさまに落ち込み出した。だが謝るだけで、話をしてくれる様子がない。
    (ああ、もう)
     イライラする。……もう待つのはやめだ。
     じれた俺は矢継ぎ早に言葉を投げつけた。
    「お前もバイオリンをやっていたって本当か?」
    「えっ?」
    「有栖川と話してるところを聞いてしまった」
    「あ、うん。ちょっとやってた」
    「有栖川の言い方だと、ちょっとじゃない様子だったが」
    「……俺は中学に上がる前には辞めてたよ」
     山田は一瞬動揺したようだったが、経験者だとあっさりと認めた。ならば。
    「お前もバイオリンをやっていたから、俺のことを知ってたのか?」
    「……ぁ、」
    「言いたくないならいい。じゃあ俺の手のことはどうやって知った? それだけは今答えてもらう」
     俺が答えを迫ると、山田は自身の指先を絡めながら考え込み始めた。どうやら言葉を探しているようだ。
    「えっ……と……。お前さ、中二の冬以降コンクールに出てないだろ? なんでだろって思ってたら同じ高校にいるしさ。めちゃくちゃ驚いたわ。で、理由を知りたくて調べた」
    「どうやって?」
    「うちの兄貴が萬屋やってて」
    「萬屋は身辺調査もやるのか?」
    「……うん。ツテを借りて俺が自分で調べた」
    「そう。それで?」
     どうやって知ったか手段はわかった。だがそれだけで話は終わらせない。
    「え?」
    「知ってどう思った?」
     山田は多分、俺の身に起こったことをすべて把握しているんだろう。
     きっかけは俺自身にもある。
     自業自得と思ったのか。それとも別の感情を抱いたのか。
     教えてくれ。お前はなにを思った?
     半ば自虐的な俺の質問に対し、山田の顔が真剣なものに変わった。
    「許せなかったよ。お前を傷つけた連中全員。それで……調べてみたら素行の悪さが山ほど出てきたから、匿名で学校に報告書を送りつけた。結果奴らは謹慎になった。俺が俺の自己満のために勝手に報復した。……ごめん」
    「……」
     想像を超えた話に驚きのあまり言葉を失う。
     
     もともと俺は、音楽科のあるエスカレーター式の私立中学校に通っていた。そこでも俺は誰ともつるまず、学校のほかにも長年お世話になっている先生のもとでバイオリン漬けの日々を過ごしていた。
     当時の俺は相当生意気で傲慢だったと思う。周りを格下と思っていたから敵も多く、嫌がらせは多少あったが、弱い者がすることだと気にしていなかった。
     中学二年の冬の頃だ。その年のジュニアコンクールで優勝し、三年に上がる前から外部の名門校へ推薦入学すると進路が決まった。ステップアップとしてこれ以上ない、順風満帆な音楽人生。
     ——それを妬んだ同級生に襲われかけた。
     家の近くだったことが幸いして、通りかかった理鶯が助けてくれなかったら……。俺の手は今頃どうなっていたか。
     未遂だったので大事にもできず、悔しい思いだけが残った。手首を掴まれて、指先に込められた力を思い出すたびに手が震える。素手を晒すのが怖くなって、手袋をするようになった。
     家族の前や親しい人の前ならなんともない。
     バイオリンを弾くこともできる。
     だけど、今までどう弾いてきたかわからなくなって。中学三年次はコンクールを見送るしかなかった。
     先生に相談し、今後を話し合った。
     結果、推薦を断わり、音楽科のない学校で……競争のない世界で休養しつつ、調子が良いときにレッスンに通うという先生の提案を受け入れ、この高校に入学した。
     俺は音楽家としての三年間を捨てた。この先の未来を見据えて。元に戻れると信じて。
     ……まぁ今だにこの有様だが。
     それにしても、山田が俺を襲ったやつらに制裁を加えたというのは本当の話なんだろうか。信じがたい話を聞かされて疑いの眼差しを向けると、山田がふっと表情を緩めた。
    「信じられない? 報告書のコピー見せよっか?」
    「いや、いい」
    「あいつら、しばらくコンクールに出れないぜ」
    「そう……」
     得意げに笑う山田の顔を見ていたら、本当なんだろうなと信じざるを得なかった。しかしまだ複雑な気持ちだ。というよりも、頭の中が混乱していて整理しきれない。
    「入間」
    「なに?」
     思考の海に溺れそうになっていた俺を山田が引き上げた。
    「明日さ、ちょい時間くれ」
    「……わかった」
     なにか吹っ切れたような、カラッとした笑顔の山田。
     俺にまだ言うことがあるのなら、俺には聞く義務がある。
     
     次の日の放課後。なぜか山田と共に街を歩いている。
    『時間をくれ』というから学校内で話をするものとばかり思っていたから、外に連れ出されて困惑中だ。行き先も告げられていない。
    「どこに行くんだ?」
    「お前もよく知ってるとこ!」
    「……?」
     俺と山田が知っている共通の場所なんてあっただろうか。
     迷いのない足取りの山田のあとをついていくのに必死で、周りの景色が見えていなかった。「ここ!」と言われて気がついた。通いなれた道を歩いていたことに。
     まさかの場所に戸惑っている俺を置いて、山田が中に入っていく。
    「いらっしゃい二郎君。と、銃兎君」
     山田と俺の顔を見て破顔する店主。山田と顔見知りだったことにも、砕けた態度にも驚いた。
    「おっちゃん、奥いい?」
    「どうぞ。準備してあるよ」
    「あんがと!」
     山田は慣れた様子で楽器店の奥にある扉を開き、狭い廊下を進んでいく。廊下にそって並ぶ扉の先はアップライトピアノが併設されたレッスン室なのだが……。山田はそのうちの一つの防音扉のレバーを上げて「入って」と俺を中に促した。言われるがまま、中に入る。
     レッスン室の中には楽譜スタンドが一つ。そのほかに、荷物置き用のテーブルにバイオリンケースが二つ用意されていた。
    「入間ー。俺、便所行ってくっからさ、わりぃけどチューニング任せていい?」
    「あ、あぁ」
    「あとさ、これさらっといて」
    「あぁ。って、え?」
     山田が鞄から一冊のファイルを取り出し手渡してきた。そして俺がファイルの中身を見る前に、そのままレッスン室を出て行く。
     手に残った楽譜をパラパラとめくって音符をさらう。
    (サン=サーンス……俺の知っているものと違う……?)
     アレンジが施してあるのか、ピアノ伴奏と演奏するものとは異なるようだ。というより、ピアノ伴奏部分とバイオリンパートが交互に展開している。
     用意されている二挺のバイオリン。まさか、という戸惑いよりも、弾いてみたいという好奇心が勝った。二つあるバイオリンケースを開けてチューニングを済ませたあと、スタンドに楽譜を立てて譜読みする。
     弾いたことがないわけではないので、初見でもいけそうだ。短い曲だしと、一度頭から通してみた。
    (……おもしろいな)
     俺一人では不完全な演奏。これを二人で合奏したらどうなるのだろう。
     楽譜を一ページ目まで戻してもう一度、と思ったときだ。レッスン室の重たい扉がガチャリと開いた。
     山田が防音扉を閉める。そして「チューニングしてくれた?」と俺に尋ねたあと、バイオリンを手に取った。
     俺が「済んだ」と答える前に、山田がバイオリンを構えた。山田はレッスン室に入ってきてから顔を少し伏せたままで、俺と目を合わせようとしない。
    「山田? どうかしたか?」
    「……構えて」
     俺の問いかけに答えず、山田が弓を持った右手を掲げた。
     そして小さく弦を弾く。
    (……始まる)
     遅れないようにと、咄嗟に体が動いた。
     最初の主旋律は俺。そして山田の高音パートに移行していく。バイオリン同士が奏でるハーモニー。ギターのときとはまた違う一体感。
    (こいつ、うまい……!)
     曲が後半になるにつれ、早まるリズム。クレッシェンドしていく音符と共に、高鳴る心。
    (気持ちいい)
     初めてのデュオ、しかも初見に近い曲で、こんなにも息が合うなんて奇跡に近いんじゃないか。
     
     もうすぐ曲が終わる。
     終わってしまう。
     もっと弾いていたい。お前と。
     なぁ山田。お前は今楽しいか?
     俺は楽しい。
     だから、こっちを向け。
     顔を合わせたら、きっともっと音の中で一つになれる。
     
     思いを込めて山田を見つめた。
     と。
     ふと山田がこちらに顔を向けた。
    (……え?)
     山田の、長めの前髪がサラリと揺れる。
     目を細めて、ふわ、と笑うその両の瞳。
     俺を見つめる、いつもの緑。そのはずが。
     みどりじゃない。
     みどりと『きいろ』だ
    (っ、)
     ゾワっとと一気に背中が粟立つ。
     指先がピリ、と痺れて、一瞬音を外した。
    (指を止めるな。最後まで、弾ききれ……!)
     そう、最後まで。もうすぐ終わる。
     さっきまで終わりたくないと思っていた気持ちが、震えそうな体のせいで『早く終われ』と真逆のものに変わって。
     ギリギリ平静を保って、なんとか演奏を終えた。
     バイオリンをケースに戻して、息を整える。
     手が、指が震えて止まらない。
    「いるま?」
     山田が心配そうな声で俺の名前を呼んでいる。
     振り向いて返事をして、目にしたものを確認したいのに。
     見間違いかもしれない。
     いや、そうじゃなかったら?
     俺の考えが正しかったら?
     わからない。でも。
     音を聞けば……わかる。
    「きらきら星」
    「なに?」
    「きらきら星を、弾いて」
     きらきら星協奏曲。
     あの日、あの子が演奏した曲だ。
     音楽を楽しむということの本質を俺に教えた曲。
     山田がバイオリンを構えて、弓が弦を撫でていく。
     優しい音色がレッスン室いっぱいに広がった。
     音の粒が、文字通りきらきらと輝いて。
     細められるきいろとみどり。
    (なんだってそんなに楽しそうなんだ)
     俺の憧れの音がここにある。
     ずっとずっと、心に残っていた大切な音が。
     
    「ちょ、泣いてんの?」
     演奏を終えた山田が慌てて近づいてくる。
     違う、と横に首を振って否定した。
     泣いてなんかいない。胸はずっと苦しいけれど。
     お前の演奏中、ずっと体が震えていたけれど。
    「入間?」
     ぎゅっと固く握ったままの俺の手の上に、山田がそっとその手を乗せてきた。
     あたたかい体温がじんわりと広がって、俺の強張りをほぐしていく。
    「そんなに強く握ってたら、手を痛めちゃう」
    「……っ」
     山田の手が俺の手をさすって、指先が触れ合った。ゴツゴツして男らしい大きい手。指先が硬い。それは弦を弾く者の特徴。山田の音楽に対する姿勢だ。バイオリンからギターに形を変えても、音楽は続けていた証。
     たまらなくなって、俺は山田の指をキュッと握る。
    「もう一度……きみに会いたかったんだ。ずっと、僕は」
     会いたいと思っていた人がこんな身近にいたなんて。
     驚きと嬉しさとで、感情がぐちゃぐちゃだ。
     山田の顔をただ見つめる。山田も俺を見ている。
     あのときと同じ笑顔で。
    (あぁ……本物だ)
     これはもう、夢じゃない。
     思わず顔を歪めると、山田が俺の指を握り返してきて。
    「俺も会いたかった。……名前の中にうさぎが隠れている男の子に」
    「山田」
    「二郎だよ、銃兎。……やっと会えた」
     きいろとみどりがだんだん滲んでいく。
     会いたいと思っていたのは俺だけじゃなかったと、山田の涙が教えてくれた。
     なんとか一言、声を発する。
    「泣くなよ」
    「銃兎こそ」
     お互いの涙を拭って、笑い合って。やっと果たした再会の喜びに浸る。
    (そうだ)
     オッドアイを眺めながら尋ねた。
    「なぜ隠してるんだ?」
    「え? ……あ、これ?」
    「そう」
     こんなに綺麗な瞳を、どうして?
     山田は少し考えたあと、ポツポツと事情を話し始めた。
    「あのコンクールのあとかな。たいした実力もないうちから、ビジュアル面が先行して目立つのは良くないって親の方針で隠すことになってさ」
     確かにあのときの山田は、拙い演奏ながらも観客の心を掴んでいた。だがあれは見た目だけの問題ではなかったと思うが。
    「それと……小三くらいだったかな。家ん中と外がゴタついてさ。バイオリンは一応続けていたけど、中学上がる前に親がちょっと。それで音楽から完全に離れてたんだ」
     瞳の色を隠して、且つ音楽から離れていたとは。先生にあの子の所在を尋ねてもわからなかった理由はこれか。
    「お前も大変だったんだな」
    「まーな! でもおかげでギターに出会えたし」
    「そうか」
     ずっと隠し事を抱えて生きてきたんだ。相当な気苦労があったはずなのに……当の山田はあっけらかんとしていた。
     が。
    「お前に気づいてもらえない、ってのは悲しかったけど」
     グサリと刺さる一言。同じ高校に通っていて、しかも二年からは同じクラスという近しいところにいて気づかなかったのは情けない。
    「それは……悪かった」
    「しゃーないよ。特徴隠してたらわかんないだろ?」
     いいんだ、こうして会えたから。
     そう山田が笑う。
    「つーわけでさ、今後は仲良くしてくれるだろ?」
    「もちろんだ。今までの態度も謝る」
    「そこまではいい!」
    「よくない」
    「いいってば!」
     知らなかったとはいえ、憧れていた子に失礼な態度を取っていたことに変わりはない。俺が頭を下げると山田が「やめろ〜!」と言いながら頭を抱えて困り出した。
     困り眉がさらに下がるのを見て、思わず(かわいい)と思ってしまった。俺がバンドに参加することを決めたときに感じた気持ちも、あながち気のせいじゃなかったらしい。
    (同一人物なら、そうだよな)
     今はとても晴れやかな気分だ。
     その思いが言葉になる。
    「これからもよろしく、二郎」
    「……おう!」
     
     こうして俺たちの距離は一気に近くなり、お互いを名前で呼び合うようになった。
    「銃兎、メシ行こ」
     二郎はクラス内でも普通に話しかけてくる。
    「わかった。学食?」
    「んー、屋上!」
     二人で昼休みを過ごすことも増えた。
     とある日。その日はバンドメンバーと一緒だったのだが、
    「話し合えとは言ったが、そこまで仲良くなるもんか?」
     四十物の弁当からおかずをつまみながら波羅夷が言う。
     曰く、俺たちの距離感は少し『バグっている』らしい。
    「そーか?」
     俺も二郎も自覚はない。
     皆が生温い顔で俺たちを見ている。特に理鶯ときたら、子どもの成長を見守る母親みたいな笑顔だ。
     わけがわからない。
     仲が良いことに越したことはないと思うが。
     演奏でも息が合うし、なにか問題が?
    「まぁいーわ。当日までケンカとかすんなよ」
    「しないと思うけど」
    「はいはい、ゴチソウサマです」
    「?」

     ……本当に意味がわからない。
      

     ○●○●○  
     
     ついにきた学校祭初日。
     朝から俺たちバンドメンバー全員は教室の一画に集められ、女子からそれぞれ紙袋を渡された。
     中身は今日の衣装だ。クラス展示の宣伝のために、これを着て廊下を練り歩くことになっている。ガサガサと中身を取り出して、受け取った衣装を高く持ち上げた。
     俺が『着るならこっちがいい』って決めたやつ。
     ちなみに俺のせいで銃兎以外はみんな同じ衣装だ。それを報告したとき、みんなブーブーと不満を言ってきたけど、衣装を着た自分たちを想像してゲラゲラ笑って、んで「おもしろいならいーわ」って最終的なゴーサインを出したのは空却だった。
    「とりま着替えるか!」
     全員が制服から衣装にチェンジ。銃兎だけ付属品が多いから時間がかっていて、着替え終わるのを待った。シャツのボタンを留めて、仕上げにタイを結んで白手袋をはめたあいつが振り向いた瞬間……ため息が漏れる。
    「か、かっけぇ~~~!」
     はーズルい。銃兎の正装を見るのは中二のコンクール以来だったけど、あの頃から比べて背も伸びてるし、顔つきだってキリッとして男らしくなってるわけじゃん?その顔面に燕尾服だぞ?かっこ良くて当然なんだよなぁ……。
    (あークソ。めちゃくちゃ似合ってる)
     語彙力をなくした俺が「かっこいい」「似合ってる」を連呼していると、銃兎はしつこいと言いつつも満更ではない様子で「お前はかわいい……んじゃないか」と言った。
     ……かわいいって、あんまり嬉しくない。
    「うーん。かわいいのは毒島じゃね?」
    「あんなガタイのいいメイドがいてたまるか」
    「だよなぁ……。毒島の顔ってかわいい系だからいけるかなーって思ったんだけど……。でも似合ってない?」
    「……」
     そう。銃兎以外のみんなはメイド服。執事の衣装は銃兎一人だけだ。
     メイド服といってもクラシックスタイルで清楚な感じかつ、男の特徴を隠すようなデザインにしてもらった。スタンドカラーで喉仏を出さないとか、スカート丈はロングでゴツい足は見せないとか。こうして出来上がったワンピースは、女子たちの『女装させるならとことんやる』というこだわりが詰まっていた。
     全円スカートっていうらしいこのスカートは、くるくる回ると揺れが綺麗に出る。メイドの要であるエプロンは、肩部分のフリルを大きめにすることで肩幅を誤魔化す役割を果たしていて。
     俺のオタク知識を総動員してリクエストした甲斐がある。着心地もいいし、これは衣装担当の女子に感謝だ。
    「足がスースーする」
     そう言いながらも不満の声はひとつもない。
     ……結構気に入ってんじゃん、あいつらも。
    「あ」
    (いいこと思いついたかも)
    「どうした?」
     俺が発した言葉に銃兎が反応し、そしてみんなが「なんだ?」「どーした二郎」って俺に注目した。ここぞとばかりに力説する。
    「客寄せだけに衣装着るのもったいなくね?」
    「まぁ……確かに?」
     帝統が俺の意見に同意した。
     よし、イケる。
    「せっかくならこれ着てライブやらん?」
    「は?」
     銃兎があからさまに嫌そうな顔をしたので、俺はすかさず賛成してくれそうなヤツに話を振った。
    「なー十四! どう思う?」
    「え⁉︎ いーんすか? この服、ヴィジュ系メイクが映えると思ってたんすよ〜! やりましょう‼︎」
     賛同者が増えた。このまま意見を通すぞ!と思っていたら、空却から待ったがかかった。
    「ドラムが叩けねぇ」
     確かに叩きにくいかもしれない。真っ当な意見だ。だけど俺も引く気はなかった。
    「……スカートめくれば?」
    「バカか!」
    「下にジャージ履けばいいじゃん」
    「お前が引かないことだけはわかった。ったくしかたねぇな」
    「やった」
     空却が了承したならもう決まりだ。あとは毒島だけど、と毒島の顔色を伺う。相変わらず表情が読めない。
    「本気なのか?」
    「マジ。毒島も似合ってんぜ? 武闘派メイドって感じで」
    「そうか」
     これはオッケーと捉えていいっぽい。
     さて、問題は銃兎だ。さっきから文句を言いたくてたまらないって顔して俺を睨んできている。
    「みんないいってさ。銃兎は燕尾服着慣れてるんだし、演奏に支障ないだろ? なんか問題ある?」
    「……恥ずかしいだけだ」
    「銃兎はいいじゃん女装じゃないし。メイクもなし! なーいいだろ?」
     な?っと両手を合わせてお願いする。最近の銃兎は俺に甘いからきっと大丈夫だ。多分。
    「……はぁ……わかったよ……」
    「っしゃ!」
     ほらな。
     ということで、銃兎は執事、俺たちはメイド服でステージに立つことになった。
      

     ▼▽▼▽▼
     
     二郎の思いつきで俺たちはクラス展示の衣装を身に纏い、ステージに立つことになった。
     俺の出番はラストまでない。ステージ下手袖で出番を待つ。
     去年活躍した二郎が出てくるということで、開始前から体育館内は混み合い、女子たちの歓声が飛んでいる。ここまで熱気が届く感じが、変な緊張感を生んでいた。
     準備が整い、二郎が音響担当へ合図を送る。ステージ上のライトが点灯され、スポットライトが五人を照らす。
     
     ドラムのカウントから一曲目が始まる。
     最初から皆飛ばしていた。
     四十物の声の伸びがいい。喉の調子も良さそうだ。
     波羅夷は結局スカートのままドラムを叩いているが、集中していて気にするのを忘れているようだ。
     理鶯は淡々と職人のようにベースを弾いている。本番までにスコア通り仕上げてきた理鶯。ストイックさはここでも発揮されていた。
     有栖川もノリノリで今日もアレンジが過剰だ。だが全体のバランスを崩すことはない。場慣れもしているし、安心して見ていられる。
     二郎のギター。皆を煽りながら、コーラスもこなしている。時折り見せる真剣な表情と楽しそうな笑顔のギャップに、女子たちが黄色い声を上げていた。
     誰をも魅了する二郎の演奏。楽器が変わっても本質は変わっていない。それを改めて見せつけられて。
     敵わない。俺にはできない。……俺の憧れ。
     そんなお前の隣に立つ日が来るなんて。
     今日、俺はどんな演奏をするのだろう。
     お前に身を任せ、思うがまま弾けたなら。
     俺はなにか、変われるのだろうか。
     
    「2ーDです! よろしく!」
     五人で演奏する四曲が終わって、二郎のMCが始まった。
     二郎が喋るたびに、波羅夷がドラムで合いの手を入れ、ステージを見ている生徒たちが笑ったりツッコミを入れたりして盛り上がっている。
    「んじゃメンバー紹介すっぞ〜!」
     ステージ上手からメンバー紹介が始まった。
     ベースの理鶯。
     センターうしろ、ドラムの波羅夷。
     その隣がキーボードの有栖川。
     フロント、ボーカルの四十物。
     そして下手、ギターの二郎。
     自分の紹介を終えた二郎が話を続ける。
    「今日の衣装、どう? 全員似合ってると思うんだけど」
     ボーカルの四十物がその場でくるりと一回転すると、拍手と歓声が上がった。
    「ありがと! 俺たちのクラス、メイド&執事カフェやってるんで遊びに来てな!」
     ステージ下からは「行く」だの「行ったよ!」と声が掛かった。昨日廊下を歩き回った甲斐もあり、クラス展示のほうも盛況だった。このステージ発表でもクラスに貢献できたならなによりだと思う。俺としては少し不本意だが。
    「それで今日はみんなメイドの衣装なんだけど、執事はどうしたって思ったやつー!」
     確かに!と皆が爆笑している。笑いを取れて二郎もまんざらではない、という顔だ。
    「ははは、だよな。てことで俺たちの執事を紹介します。……入間銃兎!」
     なんだその紹介は、とツッコミを入れたい。が、そんな状況ではない。
     二郎がステージ下手袖で待機している俺のほうに体を向ける。
     早くこいよ、と満面の笑みを浮かべて。
    (ったく、感情が外に出過ぎなんだよ)
     燕尾服の裾をたなびかせて俺がステージに出ると、体育館内がざわめき出した。昨日二郎と二人でクラスの宣伝をしたから、ある程度認識されたはずなのに……やはり「なんで入間?」という反応だ。今まで自分がとってきた校内での態度を思えば、皆の戸惑いは当然と思えた。
     ステージ下を一瞥し、アンプ横にセットしてあるバイオリンを取ろうと手を伸ばす。そのときだ。
    「銃兎」
     ちょいちょい、と二郎が手招きして俺を呼んだ。
    「どうした」と近づくと「ちょぉ手出して」と小声で言われた。意図がわからないが言われるがまま左手を差し出す。
     二郎はピックを自分の口に咥え、自由になった手で俺の左手首に触れた。そして、執事の衣装である白い手袋に指先を入れて……スッと手袋を剥ぎ取った。「ん」と次は右手を出すように促される。両の手袋を脱がされてあらわになった俺の手。大事なもののように、二郎がキュッと優しい力で握ってくる。
    「……ブチかまそーぜ」
    「そのつもりだ」
     ステージに出てからずっと、はやる気持ちを抑えていた。
     ここにいる全員を、俺の音でねじ伏せる。
     評価を覆させてやる。
     場違いだなんて思わせない。
     人前に立つことで蘇る、俺の音楽家としてのプライド。
    「始めよう」
     準備は整った。バイオリンを構えて波羅夷に合図を送る。
     ドラムとギターの音を皮切りに、ラストの曲が始まった。
     
     最初の四小節。
     俺のバイオリンがアンプを通して体育館全体にに響き渡る。五小節目からはギターとのユニゾン。絡まり合う二つの音。完璧なイントロを経て、四十物のボーカルが皆の心を掴んだ。Bメロからまた俺のバイオリンが入り盛り上がる展開。サビ部分で四十物がステージの前方に身を乗り出し、二郎も皆を煽る。二度目のサビのころにはステージ真下にかなりの人数が集まり、押し合いが始まっていた。
     そしてギターソロならぬバイオリンソロパート。
     ここはギターとの掛け合いがある。
     俺の音をギターが下から支えてくれる。
     二郎を信じて、俺は俺の音を出すだけだ。
     チラ、と横目で二郎を見ると、ばっちり目が合ってしまった。
    (見過ぎだバカ)と目を細めると、二郎が笑った。
     ——あぁ……楽しい。
     ソロ明け、Dメロを経てブレイクが入る。そのタイミングで、二郎がコーラスマイクを掴んで叫んだ。
    「手ぇ上げろ!」
     その言葉を受け、沸き立つステージ。ラスサビ、四十物の伸びやかなビブラートで締めたあと、アウトロに入る。
     ここからは俺の独壇場だ。
    (聴け、俺の音を)
     右手が軽い。左の指が軽快に、自在に動く。
     もっと、もっともっと。
     音に酔いしれて踊り出せ。
     ステージ前の人だかりを俺も煽る。ステージ下は熱狂の渦で、皆が熱い眼差しで俺を見ていた。
     突然女子たちが悲鳴を上げる。
     二郎が俺に近づいてきたからのようだ。
     二郎と向かい合い、音を交わす。一体になる音が心地よくて脳が蕩けそうなほど気持ちいい。
     
     こんな感覚は初めて味わう。
     知らない景色を見せてくれた二郎。
     俺に影響を与え続ける存在。
     これからもずっと、共に奏でたい。
     最高の音楽を。
     様々な感情を込めて、二郎を見つめた。
     
     くしゃくしゃの笑顔から、同じ想いを感じる。 

    『今、心の底から音楽が楽しい』
     
     全員でアイコンタクトを取り合う。
    (これでラスト……!)
     締めくくりとなる最後の一音を鳴らして、弦から弓がゆっくりと離れていって——。
     微かに残る余韻のあとの静寂。そして生まれる新たな歓声。「アンコール!」という声に混じって、俺やメンバーの名前が叫ばれた。持てる力をすべて出し切った俺は脱力していて、周りの喧騒は遠くの出来事のように見えていた。自分の心臓の音がうるさすぎて、なにも聞こえない。
    「銃兎!」
     二郎に名前を呼ばれてハッとする。振り向くと、興奮で顔を赤く染めた二郎と目が合って。その直後、二郎が両手を広げて飛びついてきた。
    「マジ最ッ高! めっちゃ気持ちいぃ‼︎」
    「バカ、危ない」
     抱きつかれるところだったのを寸前で止めた。
    「楽器が壊れたらどうするんだ」
     俺が諌めると、二郎は口を尖らせて不貞腐れた。膨らませた頬を指で潰しながら「ほら撤収」と一言告げる。
     と、どこからか突然甲高い悲鳴。
    「?」
    「お前らなぁ……」
     呆れた顔した有栖川と目が合った。
    「撤収は俺らでやるから、お前ら早く行け」
    「なんで?」
     二人も抜けたら機材を運ぶのが大変になるのに、有栖川はなにを言っているんだ。二郎も意味がわからない、という顔をしている。
    「このバカども! 女子に囲まれる前に体育館から逃げろって言ってんだよ!」
     二郎の背中を波羅夷が蹴飛ばす。
    「イッテェな!」
     背中をさする二郎の前に四十物が立ち、二郎の肩にかかっているギターストラップに手を伸ばした。
    「イチャイチャするのはステージ降りてからにしてほしいっす」
    「あ、わりぃ」
    「その通りだぞ銃兎」
    「は?」
     四十物と理鶯に責められる意味がわからない。
     二郎がなにに対して謝っているのかもわからない。
     戸惑っている俺の腕から理鶯がバイオリンを奪うと同時だった。二郎が駆け寄ってきて俺の手首を掴んで引っ張ったのは。
    「あとは頼んだ! 行くぞ銃兎!」
    「え? っちょ、ま……っ!」
     半ば引きずられる形でステージ脇に連れていかれる。
    「ちゃんと走れって」
    「無茶言うな!」
     強引に引っ張られたら、普段運動しない俺は簡単に転ぶ。待ってくれ、と頼み込むと「ごめんて」と二郎が俺から手を離した。
    「銃兎、ほら」
     改めて二郎が手を差し出してくる。俺は躊躇いなくその手を握った。すると二郎が満足げに微笑んだ。
     手を引かれ、走る。
     繋いだ部分がやたらと熱い。
     体育館の裏口から外に出て、出店で賑わう校庭の人波に紛れて校舎に入った。混み合う廊下を人目も気にせず一気に走り抜けるが、どこまで進んでも人がいる。
    「どこ、まで、いくん、だ」
     この逃避行(?)はいつ終わるんだ。そろそろ体力の限界が近い。切れ切れの息で話しかけても二郎は振り向かない。
    「二郎……っ」
     なんとか名前を叫と、やっと二郎が答えた。
    「音楽室!」
     練習場所としていつも使っていた音楽室。確かにそこは使われていないし誰もいない。逃げ込むなら最適だ。
     
     音楽室の扉を走ってきた勢いのまま力任せに開けて中に入る。バン、と大きい音を立てて扉を閉め、二郎がガチャリと内鍵をかけた。
     息一つ切れていない二郎と、はぁはぁと息切れしている俺。扉付近から窓際へ移動し、そのまま床へ座り込んだ。二郎も俺の隣に同じく座った。
     窓の外から笑い声が聞こえる。
     音楽室内は静かだ。それがむず痒くて、なにか話題を探す。
    「楽しかったな」
    「うん」
    「盛り上がったな」
    「うん」
    「……なにか言えよ」
    「うん」
     頷きしか返さない二郎に焦れてその顔を覗き込む。
     顔が赤い。……走っても息切れしていなかったのに。
     熱を帯びた緑に、俺が映っている。
    「二郎?」
    「まだ興奮してる」
     きらきらと潤んで輝く瞳。
     あれだけの演奏のあとなんだ。俺だってまだ夢心地で現実味がない。心がふわふわしている、というか。
    「思い出すだけでドキドキする。あんな景色は初めてで」
    「……それは俺もだ。お前が見せてくれた」
    「銃兎」
     コンサートホールで観衆を前に演奏するときの景色とはまったく異なる、観客の熱狂が真っすぐ向かってくるステージは初めてだ。リアクションがダイレクトに伝わることで、こちらのテンションも上がって。相乗効果で、今までにないほど音が乗っていた。
     あんな演奏、またできるかと言われたら……わからない。それほどまでに完璧で、最高のパフォーマンスだった。
    「俺を誘ってくれて、ありがとう」
     感謝の気持ちが自然と出た。お礼を言われると思っていなかったらしい二郎が目を丸くして驚いて、そして嬉しそうに微笑んで。
    「なぁ、もっと興奮すること……してもいい?」
    「……え?」
     前髪が触れるほどに近づいて、視線がぶつかる。
     徐々に高鳴っていく心音。
     心拍数が上がっているのは、走ったあとだから。
     本当に、それだけ?
     目の前で、両のみどりが揺らめいている。
     二郎の隠されたきいろを想って沸き立つ衝動。
    (……ス、したい)
     と、思ったその刹那。
     ふわりと柔らかいものが一瞬、唇を掠めていく。
    「じ、」
     名前を呼ぼうとしたけれどできなかった。感触を確かめるように触れる唇に阻まれたから。
    「興奮した?」
     してやったり、とニヤニヤ笑う二郎。
    「……お前は?」
     先を越されて悔しくて、質問に質問で返す。
    「してる」
     二郎はあっさりと認めた。そしたら俺も認めるしかない。
    「俺も同じだ」
     二郎の髪に指を差し入れ、そっと引き寄せた。
     半開きの唇をこじ開けて、情を交わす。
     いまだに続く胸の高鳴り。
     この熱はきっと、冷めることはない。
     
     唇を離して、あいだの銀糸がぷつりと切れる。
    「……お前の顔、ヤバいな」
     改めて至近距離。まじまじと見ると化粧がケバくて、二郎の整った顔が見れないのがもったいないなと思った。
    「ちょ、ひでぇ!」
    「怒るな」
    「怒ってねぇし」
     これは絶対に怒っている。素顔の二郎がいいなと思っただけなのに、言葉が足りなかった。きちんと説明したら許してくれるはずだけど、素直に言えない。
     口下手なのは簡単には直らない。だったら行動するしかないと、触れるだけのキスをした。
    「機嫌直った?」
     ダメ押しにと、上目遣いで聞いてみる。
     すると、二郎が俺の背中に腕を回してきた。
    「直ってねぇから……もう一回?」
     イタズラっぽく笑う二郎。
     疑問系なのがおかしくて、笑みが溢れる。
    「な、笑うなよ!」
     笑うな、なんて無理な相談だ。こんなにかわいいのを前にして。そう二郎の耳元で囁いて、真っ赤に染まる二郎の顔を覗き込む。「バカか」と照れる二郎と笑いが止まらない俺。くつくつと笑い続けていると「ったくよぉ」と二郎も笑い出す。
     ひとしきり笑って、ふとした瞬間。
     二郎がパチパチと瞬きを繰り返し、目を伏せる。
     それを合図にもう一度、二人の距離が重なった。
      
     自分には関係ないと思っていた学校祭。
     そこで俺はかけがえのない大切なものを取り戻した。 
     会いたかった人に会えた。
     新しい友人ができた。
     自分の演奏を思い出した。
     
     ありがとう……僕の初恋のきみ。
     全部ぜんぶ、二郎のおかげだ。
     

     ○●○●◯
     
     大盛況で終わった学校祭から三ヶ月が過ぎた。
     あ、ステージ発表の結果?そりゃー当然優勝でしょ。
     おかげで俺たちのクラスは二年ながらに総合優勝して、打ち上げ代を学校からゲットした。
     で、その打ち上げのときに、バンドメンバーから転換時の苦労話を散々聞かされた。俺と銃兎についてのフォローが大変だったって。
     だって逃げろって言ったのお前らじゃんって反論したら、空却に殺されそうになった。……ってのは置いといて。
     学校祭後、銃兎は学校中で知らない奴はいないってくらいの存在になった。毒島が普段ガードしているけど、毒島も派手な見た目だから余計に目立っている。
     だけどもう外野の視線とかは気にしないって。
     手袋はまだ外せないみたい。これは徐々に慣らしていくって言っていた。
     銃兎がバイオリンやっていること、みんな知ってるし。手を守るためって理解も広がっている。いい傾向だ。
     
     で、その銃兎だけど。
     これからどんどんコンクールに出る、と練習に励んでいた。俺はたまに練習を見学させてもらっている。
     俺の反応を見ると調子が上がるって。なんか嬉しい。
     次の日曜日にも規模は小さいながらコンクールがあるって張り切っている。俺も見にいくのを楽しみにしていた。
     
     そして迎えた日曜日。会場は市民ホール。
     コンクールのプログラムは事前にホームページに記載されていた。出場者の情報も。だからだろうか、銃兎が久しぶりに出てくることを知った人たちでホールは満席に近かった。復帰が注目されて、プレッシャーにならなければいいけど。
     なんて心配、銃兎には不要だった。
     タキシードを身に纏って、颯爽とステージに現れた銃兎はその立ち姿だけで観客を虜にする。
     バイオリンを構え、弓を掲げた瞬間から目を離すことなどできなかった。
     奏でる音、一音でも聞き漏らしたくない。
     超絶技巧と言われる曲目を軽々と弾きこなす点は以前から変わっていない。変わったのは演奏中の表情だ。
     以前は悪く言えば仏頂面。テクニックはあるし、聞かせる演奏ではあるんだけど、ちょっと怖かった。
     だけど今は……。
     なんなのあれ。表情が柔らかくて、演奏も情緒たっぷりで……音に艶があって。
     パガニーニの……24番をあんな楽しそうに弾くか普通?
    (余裕ありすぎじゃん)
     バイオリンが楽しくて、好きでしょうがないって全身で表現している。会場全体が銃兎の変化にざわついていた。
    (余裕で金賞だろうけど……さらに注目されんだろーな)
     銃兎が活躍して有名になるのは嬉しい反面、ちょっと寂しい。……距離ができてしまいそうで。
    (俺の銃兎なのに)
     ステージ上の銃兎が輝けば輝くほど、胸はときめくのに心が痛い。以前まで……遠くから眺めているだけで満足していたのに。触れることを許されて俺は欲張りになってしまった。
    (余計なことを考えるな。集中)
     今はまだなにも考えたくない。
     ただこの音に包まれていたい。
     演奏が終わって、立ち上がり拍手を送る観客。
     コンサートじゃないのに、スタオベとか。
     そう思いつつ、俺も立ち上がって銃兎に賛辞を送った。
     と、ステージ上の銃兎がホールを見渡している。そして客席にいる俺と目が合った瞬間だ。
     演奏中とはまた異なる、優しい微笑みを俺に向けて。そして小さく弓を二度振って、ステージ脇にはけていった。
    (ちょ、破壊力ありすぎっしょ……)
     思わず椅子に座り込み、顔を両手で覆い隠した。
    (あー……好きだ)
     たったこれだけのことで再認識させられる。
     さっきまでの不安もぶっ飛んでしまった。
     そうだ。俺がブレなければそれが正解。
     俺の気持ちは、ずっと変わらない。
     
     銃兎の金賞で幕を閉じたコンクール。ホールのロビーで銃兎を待つ。しばらくして、バイオリンケースと荷物を抱えた銃兎が関係者入り口から出てきた。
    「お疲れ! おめでとう」
    「ありがとう」
     ねぎらいの言葉をかけて「荷物ちょーだい」と、遠慮する銃兎からバイオリンケースと鞄を預かり持つ。ホールを出て連れ立って歩きながら、今日のコンクールについて感想を伝えた。
    「燕尾服かと思ってた」
    「そこまで格調高いコンクールじゃないからな」
     そう、今日の衣装は燕尾服じゃなかった。あれ似合ってて好きなんだけどなぁ。でも今日の衣装も。
    「タキシードもめちゃくちゃ好き」
     衣装の入っている鞄を持ち上げて、演奏中の銃兎がいかにかっこよかったかを力説する。銃兎は俺の話をニヤニヤしながら聞いていた。なんだよその得意げな顔。ってそんな顔させてんのは俺だったわ。
     ちょっと言いすぎたかも、と思ったときには遅くて、銃兎が俺の腕をぐいっと引っ張り、距離が近づいた。
     銃兎の翡翠色した瞳が俺を真っすぐ射抜く。
    「惚れ直した?」
     からかいが半分入っている銃兎の言葉に、俺は真剣な顔で返事をする。
    「うん」
    「……素直なやつ」
     俺の反応に銃兎は一瞬目を丸くしたあと、フッて笑った。照れているのがわかって嬉しくなる。今なら調子に乗っても大丈夫かもしれない。
    「素直な俺が好きだろ?」
     我ながら自意識過剰。でも間違っていないって確信した。
     だって銃兎がめちゃくちゃ楽しそうに笑ってんだもん。
     なあ、俺が好きだろ?銃兎。
    「……っは! そうだな!」
     銃兎が腹を抱える勢いで大笑いしている。笑いすぎって思うけど、言質取ったし、今はこれでいいっか。
     バイオリンと鞄を持ち直して、また二人で歩き出す。
    「あー俺も弾きたくなってきたな〜」
     銃兎の演奏を見てからずっと、胸が高鳴っている。そしてウズウズしていた。俺もあんな演奏をしたいって。俺の言葉を受けて、銃兎が瞳を輝かせた。
    「バイオリンデュオ? だったらバルトークはどう?」
    「んー、それも魅力的だけど……俺はやっぱギターがいい」
    「この流れで?」
    「この流れで!」
     そこはバイオリンだろ、って不満を露わにする銃兎。
     今の俺じゃ銃兎の相手、満足に努められないから。でもギターなら銃兎の演奏に十分ついていける。
     それにさ、バイオリンとギターだって、相性よかっただろ?
    「銃兎」
    「ん?」 
    「セッションしよ!」
     
     絡まり合うリズム、重なり響きあうユニゾン、追って追いかけるシンコペーション。
     想像するだけでもう楽しい。
     形は違えど、弦は弦。
     なぁ銃兎。
     最高に気持ちいい音楽を奏でようぜ。
     これからもずっと、二人でさ!

     
     Quasi——ほとんど〜のように
     Amoroso——優しい 恋の 愛情を込めて
     

     
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    MOURNING2021年にTwitterのネップリ企画『#銃二を旅行に連れていく』に参加させていただいた際の作品です。主催のあこさま、楽しくてステキな企画をありがとうございました!
    銃兎のお誕生日祝いも兼ねた作品だったのでちょうど一年後の今日、2022年5月30日にWeb再録させていただきます。当時ネップリして下さった皆様、再録本で読んで下さった皆様、本当にありがとうございました。
    Deep Blue ♯銃二を旅行へ連れていく~オーストラリア・ケアンズ編~※Attention※

     これは未来の銃二がオーストラリアのケアンズを旅するお話、
     DRB出場メンバーのあれこれは全て円満解決済みの平和な世界です。
     二人の旅先の情報やダイビングのあれこれに関しては広い心で見守って下さい。

     さあ、二人と共に絶景の海へ!


    Deep Blue


     約七時間のフライトを経て到着したのは、オーストラリアのケアンズ空港だ。耳につく雑多な言語とそこはかとなく漂ってくる日焼け止め独特の酸化した脂のようなにおいに、異国の地へやってきたことを思い知らされる。
     預けていた小さなトランクをピックアップして到着ロビーに出ると、ド派手な柄シャツにハーフパンツ姿でもうすっかり現地に馴染んだ二郎が私を出迎えてくれた。健康的に日焼けした肌と相変わらずの人懐っこい笑顔が眩しい。
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