××をあなたに ――インドラ神。
優しい声色で、母は彼に語りかける。遠い昔に捨てたはずの息子へと。
許しを請うように、母は続けた。
――私が貴方の元から去ったのは、けして傷つけようとしたわけでも、ましてや私自身のためでもないのです。
ただ私は、神々から向けられるだろう妬みや嫉みから、貴方を守らんとしただけのこと。
邪竜を殺し、今や貴方の恥じるべき過去は雪がれました。完全無欠たる神々の王インドラよ、我が息子よ。
私は、貴方を愛しています――。
◇
千か月を経て彼がこの世に生を受けた時、彼に産着を着せる者はいなかった。特異な出産を恥じた母は、彼を置いて消えたのだ。母の背中を追うこともせず、彼は自ら衣を身に纏って立ち上がった。
彼の父はその地の主神だった。極上の酒ソーマを手にし、天空と雷雨を支配する神は、強大な力を持って生まれた息子を恐れ、嫌った。
だから、彼がソーマに手をつけた時、父は怒り、しかし息子を手にかける絶好の機会だと喜びもしたのだ。
だが、彼の力はとうに父を圧倒していた。同じ権能を持ったもの同士の争いゆえに、その差は一層はっきりと目立った。黒い雷は肉を焼き焦がし、絢爛な宮殿は血に染まった。
そうして、彼は王を殺して玉座に就いた。
親から愛されることなく育ったその少年を、神々は見放した。
身内殺しの罪を背負った彼に、手を差し伸べる神など、たった一人しかいなかった。彼は住む場所を追われ、放浪することになった。
人間たちはそんな事情も知らず、彼を讃え、祀った。神酒を模した酒を捧げ、彼に祈った。日々の安寧を、豊かな恵みを。
彼はその対価に祈りを叶えた。悪魔を殺し、雨を降らせ、戦いにおいては勝利をもたらす偉大なる神として崇められた。
旱魃を引き起こす邪竜が現れたのは、そんな時だった。多くの人間が死んだ。人々の顔からは笑みが消え、代わりに痩せ衰え、疲弊しきった顔をしながら彼に祈った。人々にできることなど、なにひとつ残されていなかった。
彼の力をもってしても、邪竜を完全に倒すことはできなかった。邪竜は時を過ぎれば何度でも蘇った。ある時は神仙の骨から造られた武器をもって殺し、またある時は友の協力を得て泡で殺した。彼は邪竜を殺し続けた。どんな姿になろうとも、どんな手段を使おうとも。
人々は悪を滅し、水を開放する彼をいっそう崇めた。神々も、彼の力を認めざるを得なかった。
そうして、彼は成ったのだ。天地両界の怖るるもの、その手にヴァジュラ持ちしもの。彼こそインドラなりと讃えられし、神々の王へと。
◇
目を覚ます。
無機質な白い天井が、夜の暗さに染められて藍色に見えた。
廊下から、雨粒が艦の窓を叩きつける音が聞こえる。
インドラ。カルデアに降臨した、インド神話における神々の王。人々に障害をもたらす邪竜、ヴリトラを殺すものであり、マハーバーラタに知られる英雄アルジュナの父親でもある。
酒を痛飲し、性に奔放であり、悠然であり高慢な、神々の王たらんとする彼。そんな姿と、夢で見た幼さを残す青年の横顔が重なった。
あれはきっと、彼の過去だ。
契約したマスターとサーヴァントは、パスを通してお互いの過去を夢で共有することがある。今までも何度か経験してきたそれは、後悔している出来事や、隠したい過去。さらには精神の奥深くに入り込むことすらあった。
その多くは、彼らが秘しているものであり、触れられたくないものだ。おそらくは、今回の夢も。
朝になったら、一番に謝りに行こう。謝って、許してもらえるものでもないけれど。
そう考えて、水を飲みに部屋を出ようと扉を開けると、黒い服を着た長身のサーヴァントが立っていた。
「見たな」
外の稲光が眩しくて、表情が見えない。逆光の中、青く光る瞳がこちらを眺めていた。
「はい」
喉から出たのは、その一言だけだった。
数秒、沈黙に包まれたのち、彼はかすれた声で「そうか」と言った。
目が慣れて、彼の顔が薄闇の中に見える。そこには、何の感情もなかった。
「それならば、すぐに忘れるがいい。取るに足らんことだ。価値も意味もないモノだ。出来ぬというのなら、神が忘れさせてやろう」
強い力で腕をつかまれる。みし、と骨がきしむ音が聞こえた。けれど、そんなことはどうでもよかった。
今、このひとは何を言ったんだ。取るに足らない、価値も意味もない?
一瞬の困惑の後、激しい怒りがわいた。腕に力を込めて振り払おうとしたが、びくともしない。
「放してください」
「なぜだ」
「忘れるなんて嫌だからです」
「人間が神に逆らうか」
「神とか人間とか、関係ありません。オレは目の前のあなたに言っているんだ、インドラ!」
「貴様!」
空気がバチリとはじける。髪の焦げた匂いがしたけれど、引く気なんてさらさらない。こんな脅しが怖いものか。
さきほどまであった、過去を覗いてしまった罪悪感や、謝罪しなければという気持ちは、きれいさっぱり失せていた。
「自分の過去のことを、なんだと思ってるんですか」
そう聞くととたんに押し黙った彼の、空色の瞳を睨みつける。
静寂の中に、雷鳴が轟いた。
去ろうとする彼の手首をつかんで、言う。
「オレがそれを見て、どう思うと考えたんですか」
……長い沈黙が続く。だんだんと弱まった雨の、優しいさあさあという音がよく聞こえた。
彼の手を引くと素直についてきたので、そのまま部屋に入れてベッドに座らせた。オレは床に膝をついて、うつむいた彼と目を合わせる。
何回目かの深呼吸の後、彼はやっと口を開いた。
「……神は、力あるものとしてふるまわねばならん。偉大なるものとして君臨していなければ。そうでなければ。あんなもの…………みじめだ、無様だ。こんなことが知られるなどあってはならない。知ればお前はきっと、おれを……」
絞り出すような声でぽつぽつとこぼすと、彼は唇を強くかみしめた。それを親指でなぞってやめさせる。
「オレはあなたの過去を見て、恥じたり、憐れんだり、失望したりなんか、しません」
顔をそむけようとする彼の頬に、そっと触れた。
「夢の中で、あなたはいつだって輝いていた。雷が降りそそぐ暗雲の中、傷だらけになりながらも瞳を輝かせ戦う姿は、美しかった。他人のために強くあろうとするあなたが、優しい、愛情深いあなたが、オレと出会ってくれてよかった。そんなあなたの生きてきた軌跡が、無価値で無様で、みじめなわけがない」
白くて柔らかい髪を撫でる。あのふたりがいたらきっと、不敬だと怒られてしまうだろうけど。
すると、彼はくつくつと喉を鳴らして笑い始めた。
「……ハ、ハハハハ! 本当に……ふざけたやつだ。この神に説教をする人間など、貴様以外におるまい」
「説教って、そんなつもりじゃ……」
「良い、不敬を許す」
彼は立ち上がると、去り際にこちらを振り向いて言った。
「髪を焦がしたこと、許せよ……リツカ。詫びはこれでよかろう」
「…………へっ!? い、インドラ様、今オレの事なんて呼びました!?」
「くどい! 二度は言わん!」
廊下へと出た彼を追いかける。
夜空に浮かぶ星明かりが、ほんのりと染まった彼の耳を照らしていた。