カミュ蘭練習開始の30分前。
スタジオの空気はまだ冷たく、照明もすべては点いていない。その中に、黒崎蘭丸の姿があった。
ストレッチを終え、軽く足を鳴らしながらリズムを取る彼の動きは一見、普段と変わらなかった。
だが、その額にはうっすらと汗。視線は定まらず、時折ほんのわずかに揺らいでいた。
「おい」
背後から、低くしわがれた声が飛んできた。
「龍也さん?」
「お前、一人か」
「はい。今日のメンバーだけの全体リハ、まだ全員揃ってないみたいで俺が一番に来ただけです」
龍也は足音を立てずに近づき、蘭丸の顔を一瞥する。
「お前さ、具合、悪いだろ」
「……は?」
「そういう顔してんだよ。何年一緒にいたと思ってんだ」
「……勘違いっすよ。ただ、ちょっと気合い入りすぎてんだけですって」
「ったく、そうやって無理を押し通そうとすんの、出会った時からだよな」
蘭丸は返す言葉に詰まり、唇をかみしめた。
身体が重い。喉が妙に渇いて、頭がぼんやりする。そんなことはとっくに分かっていた。自覚はあった。だが、どうしても今だけは認めたくなかった。
「カミュに連絡する」
「は? なんでアイツなんですか」
「アイツの方が、お前の異変にすぐ気づく。しかも、たぶん今日一番に来る連絡しとくに越したことはない」
「ちょっ、待って――」
「だぁまーれ、大人しくしてろ」
宥めるように龍也はそう突っぱねる。それに対し不機嫌そうに顔を背けた蘭丸に、呆れると強引に頭にタオルを被せそのまま自分のジャケットからスマホを取り出し電話をかけ始めた。
しばらくして、スタジオの扉がじ開く。整ったブロンドの長身、まさしくカミュだった。
「日向」
こちらに気づくなり
「悪いな、呼び出して」
「構わん。黒崎が倒れる前に拾えるなら、それが一番だ」
「本人はまだ意地張ってるけどな」
カミュは一歩、蘭丸に近づいて、すっと見下ろす。
「顔色が悪いな、黒崎。その頑丈な皮だけじゃ、誤魔化しきれなかったようだ」
「うるせぇな。てめぇが来る必要はなかったって言ってんだよ」
「私が来る必要がない状態なら、日向が連絡などしてこない」
「……チッ」
ふてくされるように顔を逸らしながらも、蘭丸の足取りはさっきよりずっと重たかった。
そんな皮肉的なやり取りを呆れ顔で見ていた日向はため息をつきようやく二人の軽く肩を叩く。
「寿と美風には今日の全体リハの中止は連絡してある。だから二人とも乗れ」
後部座席に並んで座ったが道中特別な言葉はなかった。蘭丸の指先が膝の上で緊張しているのを、カミュはちらと見やった。
「おい。今更隠しても、日向にはバレてる。私にもな」
「知ってる……けど、アイツの前じゃ……あんまり見せたくねぇんだよ、こういうのは」
「くだらん」
「うっせぇな。お前もそうだろ。いつも俺の前でだけ、妙に優しい顔してんの」
「ふん……それは貴様が、私の前でしか“脆さ”を見せないからだろう」
龍也がバックミラー越しに目を向ける。
「お前ら、ほんと仲悪いんだか、良いんだか」
「悪くはない。日向にそう見えるなら、それは我々の勝手な“距離”の取り方だ」
「そっか、そっか、それならよかった」
蘭丸の目元が、ふっと緩んだ。
口は悪い。態度も素直じゃない。
けれども肩越しに感じるこの安心感は、確かに二人でしか作れないものだった。
「じゃあ何かあったら連絡しろよ。」
玄関の扉が閉まり、カミュと黒崎だけが残された。
靴を脱ぐなり、蘭丸はその場にへたり込むようにしゃがみこむ。
「なんか、もう無理してたのが全部、抜けてきた……」
カミュは黙って彼に近づき、軽く腕を取った。
「立て。ベッドまで運ぶ」
「いや、いい……歩ける……」
「嘘をつくな。立てていないだろう」
「……っ、……うるせぇ……」
黒崎に抵抗する意が無いのを見抜いてか、カミュはその言葉には何も返さず、そっと肩を貸す。
ソファに座らせ足元に膝をつくと、先ほどまで険しかった筈の表情がふっと柔らかくなる。二人きりの時しか見せない、いつもの顔。
「はぁ、くそ……やっぱお前こういう時だけ優しいよな……」
「優しくしているつもりはない。ただ」
「ただ?」
「貴様がこうやって、私の前で力を抜いてくれるのが、嫌いではないというだけだ」
黒崎は口元をゆるませたまま、カミュの肩に額を預けた。
「……じゃあもう少しだけ、預けさせてくれよ」
「好きなだけ、そうしていろ。今だけは、許す」
カミュの声は、ほんの少しだけ冷たい氷に溶けかけた蜜のように、柔らかだった。ふと気が抜けたように、カミュの肩に頭を預けていた黒崎はそのままゆっくりと瞼を閉じ眠りに落ちていた。
「黒崎」
小さく呼ぶ声に反応もせず、微かに寝息を立てていた。
完全に落ちたか、カミュはそっと彼の身体を抱え上げ、寝室のベッドへと運ぶ。
毛布をかけ、空調を調整する。室温は少し高めに
「汗をかくには、これで十分だろう」
その額に少し濡れた髪が張りついているのを、カミュは指でそっとかき上げた。
こんな時ぐらい強がらずにしんどいと言えばいいものを、とそう言いかけたがあえて言葉にはせず思考だけが優しく滲む。
そのまま静かに寝室を後にする。必要な冷却材や水、着替え、濡れタオルなどを整えるためだった。
「……カミュ……っ……」
寝室の扉に手をかけたとき、かすかな声が漏れた。
「……っぅ、ひ……っ、カミュ……っ……」
その声でカミュの足が止まる。泣いて…?
考えるよりも早く扉を押し開け、荷物を抱えたまま寝室に駆け込んだ。
ベッドの上、黒崎蘭丸はうつ伏せ気味にシーツに顔を押しつけていた。肩が震え、呼吸は乱れている。嗚咽を抑えているつもりだが、止めきれず鼻をすする音が漏れていた。
「……黒崎!」
カミュはベッドに膝をついて彼を起こす。
「どうした、なぜ泣いて.……どこか痛むのか」
目が覚めたのか?熱まで高くなったのか、
「……っ、わかんねぇ……でも……カミュが、いなくて……っ」
腕をまわし、額を自分の胸元に引き寄せる。
「少しの間、物を取りに行っただけだ。置いていったわけではない」
「……ッ、でも……目、覚ました時に……カミュがいなくて……」
「そうか。寂しかったか」
「っ、うるせぇ……!」
カミュはふっと鼻を鳴らすと、優しくその背を撫で始めた。
「よしよし、もう泣くな。私はここにいる。貴様のそばに」
指先が熱を持った頬をなぞる。
「今は、ただ私に甘えていろ。意地を張るな」
「……うん……わかったから、もうちょいだけ……こうさせてくれ」
「好きなだけ、そうしていろ」
静かに部屋は落ち着きを取り戻す。
だがその胸の中には、静かに揺れる愛しさと、決して言葉にしきれない優しさが確かに、あった。
言い訳も、誤魔化しも、もう何も効かない。
ただただ、情けなくて、ただただ、安心して胸の奥が張り裂けそうだった。
「……っ、は……、くっ……う……っ」
喉が狭まる。
涙が止まらないせいか、息がうまく吸えない。
「……っ……?」
鼻で息を吸うと、うまく入ってこない。
喉の奥がきゅうっと締めつけられるみたいで、浅い息だけが、ひゅうひゅうと喉を通っていく。
「……っ、はっ……あ……ッ」
焦って呼ぼうとしたら、声までうまく出なかった。
呼吸が早い。胸が苦しい。
自分の泣き声が耳の中でぐるぐる響いて――身体がついてこない。
これはやばい、と
次の瞬間、腕を強く引かれて、ぐいとカミュの胸に抱き寄せられた。
「……落ち着け、黒崎」
「っ、は……っ、う、っ……!」
「深く、吸え。私の声を聞け」
鼓膜に響く低い声。
それなのに、優しくて、深くて耳に残る。
カミュの手が、俺の背中をしっかり支えてくれていた。
「大丈夫だ、私はここにいる。どこにも行かない」
「……っ、う……、だって、俺……ッ、なんでこんな、泣いて、苦しくて……!」
「理由などいらん。苦しいなら、私に全部預けろ。何も考えるな。今は、私の声だけを聞いていろ」
「っ、カミュ……」
「そう。私の名を呼べ。それでいい。私はここにいる」
「っ……ぅ、う、っ……は……」
何度も背をさすられながら、呼吸が少しずつゆっくりになっていく。浅く、途切れていた息がようやく胸の奥まで届きはじめた。
「そう、ゆっくりでいい」
カミュの指先が、俺の髪を梳く。
それだけのことで、少しだけ安心できた。
「過呼吸は、熱があるときになりやすい。今だけは、強がるな」
「ん……」
「もう少し、こうしていてやる。お前が落ち着くまで、ここを動かん」
まるで小さな子どもみたいに、カミュの膝の上に顔を埋めたまま、背中をさすられていた。
熱くて、息苦しくて、でもあったかかった。
今だけは、そうさせてほしかった。
「……ありがと」
「礼などいらん。私はただ、お前の側にいるだけだ」
その言葉に、涙がまたにじんだけど、今度は少しだけ優しい涙だった。
「……もう、大丈夫か?」
カミュがそう訊ねたとき、黒崎はまだ涙の痕が残るまぶたを伏せて、こくんと小さくうなずいた。
呼吸はまだ少し浅いが、過呼吸のピークは越えた。
「ベッドに戻る。腕を貸せ」
「……ん」
抵抗する力はなかった。
黒崎は大人しくカミュの肩に体を預け、ベッドに戻る。
カミュは彼をそっと横たえ、毛布をかけた
熱の上がり方が尋常ではない。ふと、手近にあった電子体温計を取り、黒崎の腋下へとに差し込む。
短い電子音が鳴って、数字が表示された瞬間カミュの眉がわずかに動いた。38.9℃、液晶画面に叩き出された数字に焦燥が喉元までせり上がるが、声には出さなかった。
ただ静かに、必要なものを手に取り、淡々と動く。
「そんなに、やばい……?」
「熱は高い。」
「……ん」
目を閉じた蘭丸の額に、冷却シートをそっと貼る。
指先で空気を抜くように、丁寧に密着させていく。
次いで、カミュは冷蔵から取り出してきた保冷剤をタオルに包み、蘭丸の首元に当てた。
「……ッ、ひゃ……」
「我慢しろ。これで熱が抜けやすくなる」
「……冷たいのに、声がやけに優しいな……」
「熱に浮かされているせいだ。気にするな」
「してねぇけど……ちょっと安心しただけ……」
その言葉に、カミュはほんの少しだけ息をついた。
部屋の空調はすでに少し下げているが、それでも体温との差は大きかった。
「水分はあとでいい今は、眠る方が先だな」
「……まだ、起きてていいか……?」
「構わん。だが、目は閉じてろ。」
「……あぁ……」
蘭丸は言われた通りに目を閉じた。そして、ゆっくりと息を吐く。
その吐息は、さっきより少しだけ深く、穏やかだった。
カミュは彼の髪をそっと梳きながら、じっと見つめていた。
「私はここにいる。貴様が目を開けるまで、どこへも行かない」
その声は、もう聞こえていないかもしれない。けれど、まどろみに沈みゆく黒崎の頬には、ほんの少しだけ
安らぎの気配が浮かんでいた。
冷却シートが額に、保冷剤が首に。
身体の中の熱はまだこもってるがさっきよりは、確かに楽になっていた。呼吸も、少しずつ安定してきた。
目を閉じても、カミュの気配がそばにあるのがわかる。髪を撫でる指も、静かであたたかい。
「……カミュ」
「ん」
「……一緒に、寝てくれねぇか」
それを口に出すのに、少しだけ勇気が要った。
俺はいつも強がってて、簡単に頼れるような人間じゃない。だけど今日は、ダメだった。
「お前が隣にいてくれたら、少しだけ安心できる」
一瞬の沈黙のあと、カミュが答える。
「考えてもいいか?」
「ああ」
目を閉じたまま、耳だけで彼の気配を追う。
「シャワーだけ借りる。汗を流してくる」
「あ、タオルと着替え……クローゼットの左に……」
「練習着が一着残っていたのは把握済みだ。問題ない」
「さすが、だな」
ベッドの横にカミュの気配が離れていく。
ドアの閉まる音がして、シャワーの水音が遠くから微かに聞こえた。
……少しだけ、不安が戻りかけたけど、
さっきと違って、ちゃんと帰ってくるってわかってた。
数十分後、戻ってきたカミュはタオルで濡れた髪を拭きながら、寝室の灯りをひとつだけ残して落とした
「おかえり」
「ふん。風呂上がりに出迎えられるのは悪くないな」
「お前、ほんとにたまにそういうこと言うよな」
「意識しているのかもしれん。貴様が、少しでも安心するなら」
そのまま、カミュがベッドに入ってくる。
ベッドが少し沈んで、俺の身体がわずかにそちらへ寄る。
「お前、髪は乾かさなくて」
「一緒に寝てくれと言われて悠長に乾かしている暇はあると思うか。構わぬ、髪の手入れぐらい造作ではない」
カミュの体温が、ぴたりと隣に感じられる。
熱を持った俺の身体に触れないように、でもちゃんとそばにいる距離で。
「……ああ、やっぱり、お前がいると違うな」
「なぜだ」
「ちゃんと眠れそうな気がするんだよ」
「そうか」
「ありがとな、カミュ」
そう簡単に例を言われては
「礼は不要だ。だが」
カミュが静かに、毛布の上からそっと俺の手を取った。
「こうして貴様が穏やかに眠れるなら、何度でもそばにいてやる」
「……カミュ」
目を閉じたら、胸の奥がじんわり温かくなる。
少しだけ身体を寄せて、ぬくもりを感じる。
いつの間にか、眠気がそっと降りてきていた。
「さぁ、ゆっくりと瞼を閉じて眠れ」
「あぁ、おやすみ」
ぴたりと重なった体温の中で、世界はようやく静けさを取り戻していった
部屋は静かだった。
カーテンの隙間から漏れる街灯の光だけが、夜の深さを教えている。今、何時だ。そう深くも無い眠りから目が覚め薄明かりの中で時計をちらと見やる。眠りに落ちて、まだ二時間も経っていなかった。
隣で眠る黒崎の様子を伺おうとした、そのときだった。
「……っ、けほっ……けほっ、く……ッ」
隣から響いた咳き込みに、カミュは瞬時に目を見開いた。
ただの寝言や寝返りとは違う、苦しげな咳の音。
「……黒崎?」
呼びかけながら起き上がり、すぐに隣に目をやる。
身体を強張らせて、蘭丸はシーツを握っていた。
息が浅く、目も朦朧として焦点が合っていない。
頬も額も熱で赤く染まり、喉元から微かな音が漏れた。
「……こぽっ……」
これは吐く、とその一音ですべてを察知する。
カミュは迷わず、ベッド脇に用意していたバスタオルを素早く掴んだ。
「黒崎、頭をこっちに向けろ」
しかし彼は反応が鈍く、意識が飛びかけている。
「……チッ」
すぐにカミュは自分の手で、黒崎の顔を横向きに支え、吐瀉物が喉に詰まらぬよう正しい角度に。
「ここに出せ。大丈夫だ」
声を低く、しかし確かに通るように。
次の瞬間。
「……っ、う、ッ……ぐ……!」
バスタオルの上に、小さく何度か吐き出す音が響いた。
胃の中は空っぽに近いのか、ほとんどが胃液混じりの液体。
それでも身体にかかる負担は大きく、蘭丸の肩が震えていた。
「……よしよし……もういい、出せるだけ出せ」
そのまま彼の背中をさすりながら、カミュは片手でタオルの端を持ち、汚れた部分を包み込む。
黒崎の呼吸が浅くなり、ひゅうっと空気を喉で吸い上げる音が聞こえた。
「大丈夫、吐ききったな。呼吸を整えろ、蘭丸」
「……ッ、ぅ、……カミュ……」
名前を呼ばれたその瞬間、カミュの表情がわずかに緩んだ。
「一人ではない、安心しろ」
黒崎の髪を撫でながら、バスタオルをそっと離す。
「体温も、下がらずか。吐いた影響で脱水の恐れもある。水分を取らせたいが……」
そう呟きながら、カミュは再び黒崎を寝かせ直し、濡れタオルと新しい着替えを取りに一瞬だけ立ち上がる。その前に、彼の額に自分の指先を触れさせた。
「安心して眠れ、黒崎。何が起きても私がいる」
その言葉は、揺らがない誓いのように、夜の闇の中に響いた。
嘔吐はひと段落ついたが、黒崎の顔色はなお悪い。
頬は青白く、唇にはかすかに紫が混じっていた。
水分を取らせなければこのままでは脱水に向かって一直線だ。
だが、黒崎はぐったりとベッドに沈んだまま、うつろな目で天井を見ていた。
「黒崎」
声をかけても、はっきりとした返事はない。ならば身体を抱き起こしてでも水分をとらさなければ。カミュはベッドの上に上がり、自分の足を彼の背後に回すように座り込む。
ゆっくりと、黒崎の上体を抱き起こす。
「動くな。そのまま、私に体重を預けていろ」
「……ん……」
黒崎は小さくうなずいた。
かすかな意識の残るまま、ぐったりとした身体が、カミュの胸元に完全にもたれかかる。
その熱が、布越しにもはっきりと伝わってくる。高い、まだ下がっていない。
カミュは片手で黒崎を支え、もう一方の手で枕元に置いていた水のボトルを取った。
「黒崎。少しだけ、水を口に含め」
「……ん……」
コップを唇にあてがい、少しずつ傾ける。
ごく、という音は一度だけ。
喉が動いた。
「ッ……けほっ……ごほっ、っ……!」
「黒崎?」
「……ッ、ぅ……」
次の瞬間、黒崎が苦悶の顔をして口元を押さえた。
「――!」
カミュは即座にコップを引き、黒崎の顔を横に向ける。
「出せ」
かすかに飲み込んだ水分が逆流し、喉を上がってきた。
黒崎はこみ上げる吐き気に顔を歪め、唇から水を吐き出した。
「……っ、ごほっ、ごほ……っ……すま、ね…ぇ……」
「謝るな。身体が受けつけなかっただけだ」
濡れた口元を素早くタオルで拭き取り、黒崎の頭を自分の肩に預け直す。
「……まだ、飲むには早かったか
「カミュ……俺……」
「気にするな。すぐに落ちく着く」
カミュは黒崎の髪をゆっくりと撫でながら、その背を優しくさすった。
「……なぜ、もっと早く訴えなかった。なぜ、私に頼らなかった」
「お前に、そんな顔見せたくなかっただけだ……」
その弱音に、カミュの喉が詰まる。
ほんの一瞬だけ、感情がにじんだ声で、彼はそっと名を呼ぶ。
「……黒崎」
黒崎の身体が、びくりと小さく揺れた。
「私の前では、遠慮はいらん。強がらずにいろ」
「……ん……もう……情けなくて、見せたくねぇのに……お前、そうやって……」
「情けなくなどない。むしろ、今は素直な貴様の方が、私には愛しい」
「……っ、うるせぇよ……バカ……」
ふっと、かすかな笑いがこぼれる。体温は高い。顔色は悪い。けれど、腕の中で感じる命の鼓動は、まだちゃんとここにあった。
(飲めなかった水は、また後で試せばいい。今はただ、この熱を冷ますことだけに集中すればいい)
「さぁ、もう一度横になれ。私が背を撫でていてやる」
「……ああ」
黒崎の身体をゆっくりとベッドに戻し、額のシートを張り替える。
そして冷えた保冷剤をもう一度、今度は胸元にそっと置いた。
「お前の体温が戻るまで、私は何度でもやる。眠れ、黒崎
「……うん……」
その声はもうほとんど夢の中。
カミュの胸の中で、再び静かに目を閉じた。
黒崎をベッドに横たえ、そっと額を撫でていた。
しかし、落ち着くどころか彼の身体は震え続けていた。
「……ッ、っ…………っ……!」
枕に顔を埋めたまま、黒崎は何度も喉を鳴らしてえずいていた。
実際にはもう吐くものなど残っていない。それでも、身体が止まらない。
背中が小刻みに痙攣し、呼吸は不規則なまま。
「……黒崎……ッ」
カミュの手が、いつもよりも強くその背を撫でていた。
だが効果は薄い。
「……くっ……!」
カミュの眉が歪む。ここまで症状が悪化しているとは……!
冷静な筈の思考が警鐘を鳴らす。これは、自己処置でどうこうできる段階ではない、と。
ついにカミュは、低く舌打ちをひとつ漏らした。その瞬間、沈黙を破るように、枕元に置かれていたスマートフォンが光を灯した。
画面に表示された名前を見て、思わず息をのむ。そこには「日向 龍也」の文字。一瞬も迷わず通話ボタンを押した。
「……日向か」
『カミュ。黒崎の様子、どうだ?』
通話の向こうから聞こえたのは、いつもの低く乾いた声。だがどこか、眠気を含んでいた。
『気にかかってはいたんだが、中々連絡出来ずにいてな、すまない。』
時刻を見れば二十三時を差している。カミュも龍也も眠りについていてもおかしくはない時間だ。
「熱もじ上がっては下がってをずっと繰り返している。今、吐き気がひどくなっている様で何度もえずいている状態だ。。水すら戻した」
『なんとなくかけたが、正解だったな。カミュ、黒崎を病院に連れて行こう。お前だけでは限界がある』
『今すぐ行く。お前はそのまま黒崎を見てろ、どうしても駄目そうなら迷わず救急車を呼べ』
「了解した。助かる」
『10分もかからねぇ。着いたら連絡するからもう暫く辛抱しろ』
通話が切れたあとも、カミュの手は背をさすり続けていた。
「もう少しだ、もう少しだけ耐えてくれ」
返事はない。だがその手の中の震えが、ほんの少しだけ緩んだ気がした。
十分で来るとは言ったがそれより早く龍也から連絡があった。インターフォンを取り、部屋のロックの開錠をすると、ほど無くして龍也が部屋へと入ってくる。
「すまねぇ、遅くなった。黒崎の様子は」
「正面に車、回してある」
龍也が黒崎を毛布ごと抱え上げる。カミュは必要な荷物を持ってその背中に着いて行った。抱えた衝撃でうつらうつらとしていた黒崎の目が薄く開いたが、すぐに閉じかける。
「……龍也さん……」
か細い声に、龍也の眉が一瞬だけ動いた。
「いい、もうしゃべんな。すぐ病院行くぞ」
車のドアを開けると、日向はそっと黒崎を後部座席に乗せる。
龍也は黙って運転席に戻りハンドルを握りアクセルを踏み込んだ。
「日向」
「任せとけ。何かあったら言えよ」
夜の闇を裂いて、車は加速していった。
夜道を切り裂いて、車は音もなく進んでいく。
車内には黒崎の浅い呼吸と、時折漏れるかすかな咳き込みだけが静かに響いていた。
運転席のハンドルを握る日向龍也の目は前方に据えられ、カミュは後部座席でじっと黒崎の様子を見つめている。
ふいに、バックミラー越しに龍也がぽつりと口を開いた。
「……悪いな、カミュ」
「何がだ」
「お前にばかり任せちまって。ほんと、すまねぇ」
声は低く、だが言葉の重さはあった。
「俺ももっと早く気づいて、動いてやればよかった。こいつは誰よりも我慢するからな」
カミュは視線を窓に移す。街灯が、窓の外を点々と流れていく。
「私は、私のやるべきことをしたまででだ」
「それが、お前の“グループのため”ってやつか?」
「そうと言われれば分からない、カルテットナイトは、四人で一つ。誰か一人でも欠ければ、成り立たない」
龍也は、苦笑するように息を吐いた。
「アイドルとして立派なもんだ。何か思うことはあると思うが、ファンの前では感情も入れず、よくできてる」
「…………」
カミュは何も言わなかった。
だが、その横顔は夜の影に溶けるように静かで何かを噛み殺しているようにも見えた。
本当は。
胸の奥では、蘭丸の吐くたびに、体が痙攣するたびに、何度も何度も叫び出したくなるほどだった。
メンバーで一緒にいる時間が多い分もっと早く気づけなかった自分を、
強くいられと願ってしまった彼を、
背負わせた責任を、
無意識のうちに押し付けていた現実を全て、悔いていた。
けれど、口には出せない。
それがカミュという存在の、在り方だから。
「ただ、今出来ることをする、それだけだ」
「ああ。お前がいてくれて、良かった」
その言葉に、カミュは何も返さなかった。
ただ静かに、横でカミュの肩に頭を預けたまま眠る黒崎の胸が上下するのを見つめ続けていた。
龍也の車は、やがて夜間救急の灯りがともる病院の前に滑り込んだ。
「診断としては……脱水と高熱、そして過度の嘔吐による疲弊が重なっています。正直、このまま帰宅は推奨できません」
そう診察をする医者の言葉に、カミュはわずかに眉をひそめた。横でベッドに横たわる黒崎は、すでに検査を終え、点滴に繋がれていた。意識はありぼんやりではあるが医者と二人の会話の様子を伺っている。
「……大丈夫だ。少し休めば」
「黒崎」
そのかすれた声を、龍也がぴしゃりと遮った。
「お前がいくら大丈夫って言ってもな、医者が帰すなって言ってる時点で、もう無理なんだよ」
「……けど、病院、嫌だ……」
熱に浮かされた顔で、黒崎は微かに眉をしかめた。
その声には、いつもの鋭さも反抗もない。ただ弱々しさだけがあった。
「誰だって好きじゃねぇよ。俺だって病院なんざ嫌いだ」
「龍也さん……」
「でもな、今日は言うこと聞け。お前は、限界越えてた。分かってるだろ?」
沈黙が落ちる。黒崎の指先が布団の端をわずかに握りしめる。
「……はい」
その言葉に、龍也はようやく軽く頷いた。
「一晩だけだ。明日、朝一で迎えに来てやるから」
その声は強くも優しかった。カミュも、病室の隅から一歩踏み出す。
「ならば、私が今夜は付き添う。病室には一人では――」
「カミュ」
龍也が遮るように振り返る。
「お前、明日も仕事だろ?朝からレコーディング、って言ってたな。でも今から帰っても寝る時間ほとんどねぇぞ」
「……だが」
「スケジュール、事務所から、俺の方から掛け合ってみる。昼からにずらしてもらえるように頼んでみるさ」
カミュは口をつぐんだ。
確かに、仕事を飛ばすわけにはいかない。
「お前が黒崎を心配しているのも分かる、その思いが黒崎にはもう十分伝わってる。だから、今は俺に任せろ」
「…………」
カミュは、ベッドのそばまで歩み寄り、黒崎の手にそっと触れた。
「黒崎」
「ああ、聞いてた。お前が龍也さんと一緒に迎えに来てくれるんだろ?」
「当然だ」
かすかに、黒崎の唇が笑みに緩んだ。それを確認し、カミュは一歩退く。
行くぞ、とカミュに言い聞かせるように龍也が背を向ける。カミュも最後にもう一度、黒崎を見やってからその背を追った。
ドアが閉まる直前、ベッドの上の男が小さく呟くのが聞こえた。
「……ありがとな、龍也さん。カミュ……」
その声が、病室にぽつりと残された。
朝の病室に差し込む光は、夜の不安を薄めてくれるように柔らかかった。
ベッドに腰掛ける黒崎は、昨夜の嘔吐と高熱の痕跡を残しながらも、幾分顔色がよくなっている。
点滴はすでに外され、窓の外をぼんやりと眺めていた。
そこへ扉が静かに開き、先に入ってきたのは日向龍也。
続いてカミュが姿を見せた。
「黒崎」
「ああ、龍也さん。カミュ」
黒崎は微かに笑って言う。
「もうだいぶ身体は楽になったぜ、多分」
「“多分”は信用できん。貴様の“平気”がいちばん危ういんだからな」
龍也が呆れたように言うと、黒崎は少しだけ気まずそうに目を伏せた。その隣で、カミュは無言で黒崎の表情を見つめ続けていた。
「顔色は昨日より良い。吐き気も止まったか?」
「お前、第一声から俺の容体ばっか見てんのな」
「当然だ。迎えに来たのは、それを確認するためでもある」
「ほんっと、お前ってやつは……」
黒崎が苦笑混じりに呟いたそのとき、龍也が、ふと肩越しにカミュを見て言った。
「そういや、カミュ。お前の今日のスケジュールだが全部オフにしたからな」
「……は?」
カミュが一瞬、聞き間違いでもしたように怪訝そうな顔で目を細める。
「だから、“全部”だ。打ち合わせも撮影も、昼からのレコーディングも、全部だよ」
「……なぜ勝手に」
「“勝手に”じゃねぇ。“当然”だろ」
龍也はそう言ってから、黒崎に目をやる。
「お前が黒崎のことで頭いっぱいになってるのは見りゃわかる。だけどな、俺はそれを“問題だ”とは思っちゃいねぇ」
「…………」
「お前がそんなことでミスするようなヤワな奴じゃないってのも、ちゃんと知ってるさ。だが」
カミュが黙って視線を返すと、龍也の声は少しだけ優しくなった。
「お前自身も、もう少し休んでいいってことだ。お前にも、休息は必要だろ。休め」
病室の静寂の中で、その言葉が染み込むように響いた。カミュはしばらく何も言わなかった。その鋭い青い瞳が、黒崎へと再び戻る。ベッドの上、弱った顔で、でもその分だけ素直に「頼る」ような目をしている黒崎。
目を伏せ、ほんのわずかに息を吐く。
「了解した。では、今日の私の予定はお前の看病に充てよう」
「なにカッコつけてんだよ」
黒崎がぼそりと呟き、龍也がふっと笑った。
「口の悪さも戻ってきたな。」
龍也が背を向け、手続きに向かう中。
カミュは立ったまま黒崎のそばに寄り、静かに言った。
「黒崎。貴様も、今日はもう仕事の顔をするな。一日だけ、私の前では素直にいろ」
「誰ができるかよ」
そう言いながらも、黒崎の指先はカミュのジャケットの裾を、そっと握っていた。それが、今日という休息の形だった。
玄関の鍵が開け放たれる音がして、涼しい風が室内に入り込んだ。
退院したばかりの黒崎は、病院の処方薬と一緒にベッドに腰を下ろす。
「……はぁ、やっぱ自分のベッドが一番だな」
「そう言うのは、もう少しまともな顔色になってからにしろ」
後ろから続いたカミュが、ため息混じりに言葉を返す。
すでに上着は脱いでシャツの袖をまくり上げており、明らかに“世話をする気満々”の姿勢だった。
「まずは、薬を飲め。その前に体温を測る。病院の医師もしばらくは経過観察を、と言っていたな」
「ちょっとは休めって言われたんじゃなかったのかよ、お前」
「私は私のやるべきことをやっている。貴様の世話が、今の私の休みだ」
「お前ほんと、疲れる奴だな」
黒崎が呆れている横で、カミュはすでに体温計を手にして差し出している。
「黙って測れ」、
「はいはい……ったく」
体温を測る間も、カミュの視線は一瞬たりとも逸れない。
カップに注がれた白湯、用意された軽い食事、雑炊の香りが、部屋に広がっている。
「お前がこれ作ったのか?」
「当然だ。毒味も済んでいる。拒否する理由はない」
「いや……そうじゃなくて、うまそうだなって」
「ふん、口ほどにもないことを言う」
「……うるせぇよ」
照れ臭そうに体温計を差し出すと、カミュは無言でそれを受け取る。
眉がわずかに動いた。
「……まだあるな。だが病院にいた時よりはマシか」
「だろ? だから……あんまガミガミ言うなっての」
「“無理をし始めるサイン”には見逃せない変化が多い。貴様は口で言うほど回復していない」
「ちょっとは信じろよ」
「信じているから、こうして見ている」
その言葉に、黒崎は一瞬だけ黙り込んだ。
それでも、横で薬を丁寧に取り分けてくれる姿。
食事の温度を確認してから「熱くない」と渡してくれる姿。
濡れタオルで手を拭いてくれる手つきの優しさ――
全部、言葉にしなくても、伝わってくる。
「……カミュ」
「なんだ」
「……ありがとな」
カミュは、わずかに手を止めた。
「礼など必要ない」
「それでもお前がここにいてくれて、良かったと思ってる」
「……そうか」
ほんの少しだけ、カミュの声が柔らかくなる。
そのあと、何も言わずに雑炊の椀をそっと差し出した。
「食え。冷める前に」
「はいはい、っと……」
口ではそう言いながらも、黒崎の頬は少しだけ赤く染まっていた。
熱のせいではない。それは、彼自身もわかっていた。
その後、食事を終えた黒崎は再びベッドに横になり、
カミュはそばに座ったまま、読みかけの本を手に取る。
何も言わない。
ただ、そばにいる。
それだけで、静かな安心がそこにあった。
きっと、今夜もまた、彼は夢の中でこの腕に守られるのだろう。