MP5「いらっしゃいませ」
「19時に予約していた潮江だが」
「はい……はい、承っております。こちらへどうぞ」
は??
午後7時、某駅付近、高架下。
半地下になっているその店に足を踏み入れてから、留三郎の頭の中は「は?」の一言で一杯だった。
木製で統一されたテーブルに椅子、通路と棚、西洋の蔵を思わせるレンガ造りの壁をレトロランプのオレンジがかった明りが暖かく照らしている。
店内は空のワインボトルがセンス良くディスプレイされ、奥に見えるカウンターには様々な酒瓶が並び、吊り下げ式のワインホルダーには様々な大きさのワイングラスが見えるように収納されていた。
「こちらへどうぞ」
「ありがとう」
通された席は半個室のようなこぢんまりとしたテーブル席で、テーブルの上にはエジソン電球が輝いて個室を柔らかく照らしている。
ここに通されるまでに見えた席はどこも満席で、大抵が男と女のふたり連れ、もしくは男と女同数のグループ、または女性の数人グループといた様子で、少なくとも男の二人組は留三郎と文次郎のふたりしかいない。
「留三郎?」
怪訝そうな声に名前を呼ばれてハッと我に返った留三郎は、「どうする?」と見せられたメニュー表を見て、「え、あ~そうだな」と中途半端に目を滑らせた。
どうする? ではない。こっちがどうした? と言いたい。
やたらムーディーで洒落た雰囲気の店内には、会話を邪魔しない程度に落ち着いたジャズが流れていて心地よい。生真面目で遊びが少ない文次郎が選んだ店にしてはやけに小洒落て……そう、お洒落すぎる。
……これ、絶対にプロポーズだろ。
留三郎は着なれないスーツの太ももをぎゅっと握りしめ、手汗をピンストライプのスーツで拭った。
国内に複数の支店をもつ株式会社OOKAWAに勤めている留三郎と文次郎は、今年で丁度交際5年目を迎える恋人同士だ。友人としての付き合いは中学に入ったあたりからになるが、長年腐れ縁を続け、大学を卒業する年に文次郎に告白され、今に至る。就職活動中は気まずくなりたくないからとあまりお互いの進捗や希望の会社を詳しく共有し合うことはしていなかったのだが、いざ内定承諾先を発表し合った時はまさか同じ会社から内定が出るとはと、ここまでくると腐れ縁を通り越してふたりして身震いしたものである。
閑話休題。
同じ会社に勤めるふたりではあるが、従業員数数百人を抱える会社の全く異なる部署に所属しているので職場で顔を合わせる機会はほとんどない。繁忙期も全く異なっていて、入社して3年、すれ違い続ける私生活にしびれを切らして留三郎から同棲を持ち掛けたのが去年のことで、一緒に暮らし始めてもうじき1年になる。
文次郎との交際生活……同棲生活はおおむね順調だった。
お互い突発的な残業や休日出勤が発生する仕事内容ではあるものの、子供のころからスポーツや武術を嗜んできた二人は体力だけは同年代の中でもある方だと自負している。激務続きでもふたりで日帰り旅行に出かけたり、一緒にジムに出かけたりとそれなりに楽しく過ごしているし、子供のころから犬猿の仲と呼ばれていた二人だから喧嘩も絶えないが、その分普段から腹を割って話し合えているとも思う。お互い相手に言わないことのひとつやふたつくらいは当然あると分かっているが、そこに敢えて踏み込むような仲でもない。
それに、留三郎は文次郎の作る料理が好きだった。
あれこれ手が込んだ洋食なんかは留三郎の専売特許だが、留三郎は文次郎が作る昔懐かしいような、どこかほっとする家庭料理や和食が大好きだった。「お前の作った筑前煮、滅茶苦茶ばあちゃんちで食べた煮物の味がする」と笑いながら、その味が何より好きなのである。
終電間際まで残業をして帰ってきても、冷蔵庫の中に文次郎が作った夕食があるのを見ただけで、へとへとの身体も元気いっぱいになるというものだ。
文次郎との生活には不満もあるし喧嘩もするが、それ以上に楽しくて、安心できて、落ち着く。そして文次郎もそう思ってくれているだろうという確信がある。
男同士のカップルだ。昨今あれやこれや、様々な配慮が叫ばれる時代ではあるが、それでも苦労は多いだろう。もしかしたらどちらかか両方が転職することになるかもしれないし、今以上に冷たい目で見られることもあるかもしれない。法的に婚姻届を出すことはまだできない。
けれど、これからの人生を一緒に過ごしていくのなら文次郎がいいなと思っているし、これもやっぱり、文次郎だって同じように思ってくれているんだろうと思っている。
でも、いくらなんでも、急すぎる。
普段はラフな格好をしている留三郎が、珍しく人事関連の面談だとかでスーツで出勤することになった日。
「たまには外で飯食って帰るか。華金だし、この前いい店見つけたんだよ」
と文次郎に誘われた時は何も考えずOKした。確かにこの店にはドレスコードなどはないだろうが、今いる客は誰もかれも所謂“きれいめ”な格好をしているから、留三郎の普段の通勤スタイルでは少し浮いてしまうだろう。
留三郎は混乱しながらおしぼりを持ってきてくれた店員に礼を言い、おすすめのワインとやらの話を聞き、文次郎と「腹が減ったし肉食いてぇよな」などと言いながら和牛のグリルと、アンティパストのセットやらと、なんかのサラダを頼み、期間限定だという赤ワインを頼む文次郎に「俺も同じの」と言い、そしてオーダーを聞いた店員が笑顔で去っていくのを見送ってから「悪い、ちょっとトイレ」とポケットにスマホをねじ込んだ。
「ん? トイレなら……」
「いや分かる、あそこだよな」
TOILETとやはり洒落た案内板がかかっている方をちらりと見やってから、留三郎は足早にトイレに向かった。
洒落た店はトイレまで洒落ている。
なんかの絵が飾られている個室に入るや否や、留三郎はこういう時に誰よりも頼れる──当事者である文次郎は除き──幼馴染……善法寺伊作の名前をチャットアプリから探し出した。
『悪い伊作ちょっと今いいか』
『なんか文次郎に飲みに誘われたからついてきたらめっちゃ洒落た店なんだけど』
『ここ http……』
いくら幼馴染が頼れるとはいえ、まだ仕事中かもしれないと送った直後に気が付いたが、幸か不幸か既読はすぐについた。
『え、ヤバ。本当におしゃれだね。何かの記念日?』
『たぶん違う。付き合い初めの記念日はまだ先だし、誕生日でもないし、他に毎年祝ってる記念日はないし、他も多分ない』
『マジで心当たりないんだけど、何だと思う。洒落すぎてて怖ぇよ』
文次郎とふたりで飲みに行くと言ったら、大抵は大衆居酒屋だ。ビールジョッキを片手に仕事の愚痴や部屋の掃除をしなければという話をして焼きとんを食べる。それが日常だったのに、なんだこれは。
『う~ん』
『この店の口コミ検索したら“雰囲気めっちゃいいです”とか“プロポーズされた”とか出てきたんだけど。もうすぐ付き合って何年だっけ』
『やっぱそういう感じか!?』
留三郎は個室の中で小さくスクワットした。スクワットをする意味は留三郎にも分からなかったが、どうにも何か身体を動かさないと全く落ち着かない。
『文次郎は雰囲気とか気にしそうだもんね~お前もついに既婚者か~おめでとう笑』
『いやまだ分かんねぇから。違うかもだろ。笑じゃねぇから』
『まぁ、普通にデートかもだけどね。でも普段と雰囲気違うなら何かあるんじゃないかとは思うよ』
『頑張って笑』
「うぉぉぉぉ……」
やっぱそうなのか。伊作が言うならそうなのか。文次郎、まさかお前、そうなのか。
プロポーズは俺からしたかったいやでもそれは向こうも譲らなさそうだしていうか突然すぎるだろもっと匂わせとかしろよアホもんじがよ
脳内で早口になってあれこれ考えるが、あまりトイレに長居も出来ない。他のお客さんの迷惑だし。文次郎も心配するかもだし。
用を済ませて留三郎が半個室に戻ると、既にワインとお通しらしい小皿がテーブルにやってきていた。
「悪ぃ、待たせた」
「いや。大丈夫か? 腹痛いのか?」
「や、慣れねぇスーツで腹冷やしたかもってだけ。もう大丈夫だ」
「なんだそれ」
ちょっと笑った文次郎は、何かを思い出す様にしながら、恐らく店員に聞いたのであろうワインの説明とお通しの鴨肉のローストとポテトサラダの説明をしてくれた。洒落た店は当然お通しも洒落ていた。
乾杯、とグラスを寄せて口の広い大ぶりなワイングラスに口をつける。ふわっと赤ワインの香りが広がって、さほど詳しくない留三郎でも、ちょっといいワインなんだなというのが分かった。
料理も当然美味しかった。和牛のグリルにかかっているソースは何だろう、バルサミコ酢じゃないか、バルサミコ酢ってなんだ、葡萄からできた酢で洒落た料理には大抵かかってるやつ。なんてとりとめない話をしたし、生ハムやチーズの燻製の盛り合わせを食べながら、家で燻製ってできるのかななんて話もした。
肉も、野菜も、追加で頼んだリゾットも美味かったし、海鮮のアヒージョもワインによくあった。バケットは香ばしく、チーズは濃厚でとろとろだった。
文次郎と留三郎の間ではちょっとした口喧嘩なら日常茶飯事でそんなものはもはや喧嘩ですらないのだが、それでも珍しいくらい穏やかな時間だった。
なんだか店の雰囲気があまりにもいいので留三郎も仕事の愚痴や上司への呪詛を吐き出す気にはなれず、後輩の自慢や、最近通勤路で見かける猫の親子の話なんかをしたし、文次郎はそれに呆れたり感心したり写真を求めたりしながら、大抵機嫌よく相槌を打っていた。よく考えれば、近頃文次郎のいる部署は勤続年数の長かった人が実家の事情だかなんだかで退職するということで人が足りておらず、文次郎は忙しくしていたし、それと入れ替わりで留三郎の方もトラブル対応で慌ただしくしていた。こうして酒を飲みながらくだらない話をして笑い合うのも本当に久しぶりだったのだと思う。
そんな時間に自分自身の疲れもほぐれていくような気持ちになる反面、留三郎は美味しいはずの料理の味が分からないほどに緊張もしているのだった。
本当にプロポーズだったらどうする。いや、どうするもなにもない。もし、万が一本当に文次郎に結婚の……それに類する申し込みをされたら、断る理由はない。頷く以外の選択肢はないし、そこで変に勿体ぶる必要だって全くない。
だというのに、留三郎の心臓は時々思い出したように不意にはね、ドキドキと高鳴って、全く不整脈を疑いたくもなるような様子なのだった。これじゃ不整脈だ。
「おい留三郎?」
「なんだよ」
「なんだよじゃないわバカタレ。飲み過ぎじゃないのか? 顔真っ赤だぞ」
「そんな飲んでねぇ」
「いや、結構飲んでるだろ。そういやお前最近残業続きだったしな。そろそろ切り上げるか」
「え」
すみません、お水ってもらえますか。なんて店員に聞いている文次郎の横顔を眺める。今こいつなんて言った。切り上げる? 切り上げるって言ったか?
俺まだなんも言われてねぇけど。
「ほら飲め」
運がいいのか悪いのか、テーブルの上にはほとんど何も残っておらず、文次郎が箸で申し訳程度に残っていた生ハムの切れ端やらキャベツの酢漬けをひょいひょいと片付けてしまえば皿の上は綺麗に空になってしまった。丁度グラスを空けたタイミングだったので、酒だって残っていない。
文次郎はさっさと帰り支度をはじめてしまい、留三郎がグラスの中の水を飲み干すと、「立てるか?」なんていつになく優しい顔で聞いてきた。
会計はまとめて文次郎が払って、階段を数段上がればそこはすっかり見慣れた高架下の裏道だった。うっすら漂う排気ガスと下水の臭い、さっきまでのジャズの代わりに聞こえるのは酔っ払いの話し声と線路を走っていく電車の音だ。
「留、歩けるか?」
「歩けるわ。舐めんな」
「そんな赤い顔で言われてもな……」
男二人が手をつないで歩いていても、片方の顔が真っ赤らしいからか、誰にもじろじろ見られない。文次郎に手を引かれながら、留三郎は彼のグレーのスーツの背中をぼんやり眺めた。
華金だからか空いているタクシーはほとんど走っておらず、丁度急行に乗れる時間だから、とふたりはいつも通りの電車に乗り込み、いつもより早い時間で家の最寄り駅についた。
さっさとシャワーを浴びて来いとエアコンの電源を入れる文次郎に急きたてられて風呂場に向かい、シャワーだけ浴びて出てきた留三郎と入れ替わりに文次郎が風呂場に入った。
「…………」
小さいシャワーの音を聞きながら、髪も乾かさずにベッドに横になる。チャットアプリを立ち上げると、伊作の『頑張って笑』が最新の履歴に残っていた。
『特になんもなかった』
『ふつーに飯食って帰ってきた』
何もなかったので何も報告することはない。すいすいとスマートフォンをいじってメッセージを送ると、珍しいことにまたもやすぐに既読が付いた。
『おかえり』
『じゃあ普通にデートのつもりだったんじゃない?』
『文次郎にもデートにおしゃれな店を選ぶ感性があったんだな~』
「……」
……俺が酔ったからやめにしたんだったらどうしよう、と送ろうと思って、やめて、やや失礼な伊作のメッセージに『激しく同意』と返事をしてから、スマートフォンを文次郎の使っている枕の上に放り投げる。
そのままベッドの上で横になっていると、やがて「留?」なんて言いながら文次郎が寝室に入ってきた。パチンと音がしてベッドランプしかつけていない寝室も少し暗くなる。リビングの明かりを消したらしい。
「寝てんのか?」
「起きてる」
「お前髪くらい乾かせって」
「眠いから明日でいい」
「いや明日には自然乾燥しとるだろうが」
あれこれ文句を言っているが、留三郎が髪を乾かしに行く気はないと分かったのだろう。文次郎はため息をつくと、留三郎のスマートフォンを充電器につなげてその隣に横になった。
「とめ」
「……」
「留三郎。おいおまえどうした? 何を不機嫌になってんだ」
「不機嫌じゃねぇし」
「いや不機嫌だろう。店を出たあたりから」
ゲシッ。かかとで背中の向こうにいる文次郎のすねを蹴っ飛ばしてやる。おい。と声の調子が少しきつくなったのを聞いて、留三郎はぎゅっと眉を顰め、歯を食いしばり、それから細く長く息を吐いてごろりと寝返りを打った。
「……」
文次郎の顔が驚くほど近くにある。オレンジ色のランプの明かりは、あの店の明かりよりもずっと暗くて濃い色をしていて、文次郎の案外彫りの深い目元に暗い影を落としていた。
「今日」
「お?」
「なんであんな店選んだんだよ」
「……は?」
「だって普段ふたりで行かねぇだろあんな店。俺ら以外全員カップルとかだったし」
「俺らもそうだろ」
「揚げ足とんなよ」
睨みつけると、文次郎は一層困惑したように眉根を寄せ、それから寝たまま首をかしげるという器用なことをした。
「いや……お前がこの前ワインに興味あるとか言ってから」
「は? 言ったかそんなこと」
「言ってた。お前の上司がソムリエだかなんだかの資格とったとかなんとかで、飲みに連れて行ってもらったんだろ? うんちくがどうこう言ってたぞ。ワイン好きかもとか」
いまいち覚えていなかったが、留三郎の上司が趣味が高じてワインエキスパートの資格を取得したのは事実だったし、その彼に連れられてワインが美味いという店に留三郎と数人の同僚で連れていかれて奢ってもらったというのも事実だった。
留三郎は酒と言えばもっぱらビールかハイボールでワインは好きでも嫌いでもなかったのだが、そこで自分に合うワインを勧めてもらって、ワインも色々飲んでみてぇなと思ったのも事実だった。それを文次郎に話した記憶はなかったが、あの日はそれなりに酔っていたから忘れてしまったのかもしれなかった。
「そんで、この前退職しちまった先輩の送迎会をな、あの店でやったんだよ。うちの後輩が店探してきてくれて。一応俺が幹事をしたんだが、次回使えるクーポンをもらったからワインも肉も美味かったし、お前を連れていくかと思って」
「は? ……そんだけ?」
「そ、それだけじゃ何かマズかったのか?」
「はぁ!? この前行った店で? クーポン貰ったから行ったのか?」
「い、いいだろう別に! クーポンの期限が今月末だったしちょうどいいと思ったんだ! ケチ臭いとか文句を言うな!」
先日退職した文次郎の部署の先輩は女性だし、確か彼の部署にはやたら洒落ている後輩もいたから、もしかしたらその後輩が女性の送迎会にちょうどいい店を探してきたのかもしれなかった。そう思うと、文次郎のチョイスにしては洒落すぎていた店にも納得できる。
思わずベッドから体を起こして文次郎を見下ろすと、彼は留三郎がケチ臭いと文句を言っていると思ったのか、ややバツが悪そうに目をそらしながらも言い訳した。
別に、もらったクーポンを期限内に使いたいと思うのは悪いことではないと思う。幹事は何かと気疲れするだろうし、それくらいの恩恵があったっていいだろう。
問題はそこではないのだ。
「はぁ~~~~~……なら、言え、それを」
「別に構わんだろう、言っても言わなくても」
変わる。大いに変わる。この数時間の留三郎の気苦労は何だったのだ。その気苦労が勝手にしたものだと言われようと何だろうと、気苦労に変わりはない。
今度は脱力して文次郎の上にのしかかるようにしてベッドの上に倒れ込むと、留三郎の様子が想像していたものと違ったのか、文次郎は戸惑うように留三郎の肩をそっと押した。
「なぁ、何だって不機嫌になってたんだよ。なんかしたかよ、俺が」
「なんもしてねぇのが問題なんだよアホ文次」
「はぁ?」
「…………プロポーズでもされるのかと思った」
「……は?」
「だってそうだろ! お前普段あんな小洒落た店なんて選ばねぇし! わざわざ俺もスーツ着てる日だし! あんな半分個室みたいな席通されてなんかあるのかなとか思わねぇ方がおかしいだろ!」
がっしと文次郎の肩を掴み返してまくしたてる。ぽかんとしている文次郎の顔を見下ろしていると、自分がとてつもなく恥ずかしいことを言ったのではないかという気がしてきて、留三郎は唇を噛んだ。
「い、いやお前……」
「うるせぇ口開くな」
「いや、あのだな」
「開くなって言ってるだろ馬鹿文次殴るぞ」
「やめんか! ……あのな」
聞きたくない。勝手に期待してから回った恥ずかしい男にかける言葉などないだろう。いっそ指をさして笑ってくれ。
留三郎が有言実行とばかりに拳を固めると、文次郎は「やめんか」と顔をしかめてその拳をぎゅっと握り、
「プロポーズは、付き合いはじめての5年の記念日にすることでお互い何となく納得してるもんじゃなかったのか」
等とのたまった。
「は?」
今度は完全に初耳である。思わず留三郎が睨みつけると、オレンジ色のランプに照らされても分かるほどに顔を赤くしながら、文次郎も負けず劣らず凶悪な顔で留三郎を睨みつけた。
「いや、なにそれ知らん」
「……5年の記念日は絶対に予定を入れるなと話したよな」
「言ってたな」
「それで、ちょっといい飯食いたいとか、それだったらどっかホテル泊まるかとか、そんな話もしただろ」
「……したかも」
「鴨じゃねぇんだよアヒル野郎」
そういえばそんな話もしたのだった。留三郎が気になっていたホテルにあるフレンチレストランに行こうかだとか、だったらそのホテルにそのまま泊まれたら最高だとか。何かの雑誌でも紹介されたと言っていたからレストランの予約開始日に予約を取ると言って……そういえば予約はもうとったのだろうか? 取れたと言っていたような、言っていないような……
「そういう話をしていたから、うっすらお互いの間で共通認識があると思っていたんだが」
「いやねぇだろ。そもそもなんだよプロポーズの共通認識って。普通ねぇだろプロポーズに事前協議は。そういうことは先に言え! 報!連!相!」
「なら今するが5周年の記念日にレストランとホテルの予約を無事に取れたからそこでプロポーズするからな! 覚悟しやがれ!」
「おうおう受けて立とうじゃねぇか! 精々舌を噛まないように気を付けるんだなァ!」
電気を消して、倒れ込むようにベッドに横になった。
「……」
「……」
「……なぁ」
「何も言うな」
「無茶いうなよ」
後ろから文次郎の熱い腕が腹に回ってきて、留三郎はぐぅと呻いた。
「お前俺にプロポーズされんの期待してたのかよ」
「殺すぞ」
その声が暗闇の中でもはっきりわかるほどに楽しそうだったので、留三郎はもう一度踵で彼のすねを蹴り飛ばしておいた。先ほどよりも強く。
「落ち着けよ。……なぁ留」
「おい待て文次。今何言おうとしてる」
「何ってお前、そりゃあ」
嫌な予感がする。慌てて身体を反転させた留三郎は、予想の通りにやにやしている文次郎の口元をバチーン! と盛大な音を立てて塞いだ。
「待て。お前ホテル予約してくれたんだろ? レストランも予約したんだよな? だったら待てよあと三か月ないだろ」
「ここまで言ったら待つ意味ほぼないだろ」
「いやあるだろお前、色々」
ムードとか、雰囲気とか。
「よく考えたらホテルの最上階で夜景見ながらってのよりこっちの方が俺ららしいかもな」
俺ららしいってなんだよ。逃げ腰になった腰を、文次郎の熱い手のひらが掴んだ。