闇の届かぬ場所 雨が降りしきっていた。
多くの兵が斃れた戦場に。悲しみにくれる天の涙のごとく。
まだ日暮れ前だというのに、厚い雲に覆われた空はすでに暗い。
生き延びた者らの体に雨粒が沁みわたってゆく。
疲弊した彼らの喉を潤し、甲冑の血を洗い流す。
雨は骸と化した兵らの上にも哀しく降り注ぐ。血と水は混じり、土のくぼみに澱み、やがて小さな川となって流れ出てゆく。雨霧のなか、鉄と錆の臭いが充満している。
徐々に日が暮れはじめた。ぽわん、ぽわんと、あちこちに灯るやわらかな焔の玉がある。
鬼火だ。
命尽きた兵らの霊魂なのだろうか。不思議と小雨の中でも消えずに漂っている。おのれの亡骸を偲ぶが如く、中空をしばしさまよって、やがては闇に消えてゆく。冷たい肉体の中にもう戻れぬことを悟ったのだろう。
小高くなった丘の上に立ち、戦場を見渡す一人の影がある。
黒の覆いの付いた外套をまとった、長身の男。
兵に非ず、将にも非ず。
傍観者として戦の成り行きを見守っていた男だ。
騎装の上の黒衣のせいか、魔導士のような佇まいを醸し出している。
男はフードの下の口元を微笑みの形に緩ませた。
戦っていたのがどこの国軍なのか、どちらが勝ったのかなどは、彼には関係がない。
しいて言えば、興味があるのは死した者の数ぐらいか。
男は顔を覆っていた頭巾を脱ぎ、手を虚空に差し伸べた。
とたん小雨の夜空から、きらきらした鱗粉をふりまきつつ集まってくる小さな【影】がある。
【影】らは男の周囲に集い、男の指先に愛おしげに触れて、また飛び去ってゆく。
男の体からは優しい蒼白い気がゆらゆらと立ちのぼっている。
「お前たち、もう魂を狩り尽くしたのか?」
虚空へ飛び去る精霊たちに向けて、男は独言するように語りかける。
闇の神の御子、冥界を継ぐ者、暗黒界の王。彼を表す言葉はさまざまある。
『死の神』・ナシェルである。
死の精霊たちが魂を狩り終えたということは、この戦場でこれ以上の死者が出ることはもうないだろう。生き永らえた者も、命取られた者も、それが宿命だったということだ。
生き延びた者らは夜明けを待って、戦場を離れるはず。
ナシェルは中空に差し伸べた優美な手を袖の中へしまい、踵を返した。長い絹のような黒髪が雨風になびく。フードのふちから雫がしたたる。黒い天馬は、目立たぬよう森の中に繋いできた。
地上界での旅の途中。戦の気配を察知した眷属らに導かれてここへ来た。
どこの国のものとも分からない地上の戦争を傍観し、死の精らが兵士たちの魂を黄泉へと導く姿を眺めた。おびただしい数の精霊らが地平の彼方より現れ、本能のままに業務を遂行した。
夕暮れの沼地に無数の鬼火が舞う光景は、彼の記憶に深く刻まれた。幾度か地上界を旅したことがあるが、少なくとも今まで見てきた中でもっとも美しく幻想的な光景だと思えた。
そう、地上の戦争は彼にとって見物するに足る【娯楽】であることを、彼自身もこのときはじめて認識したのだ。
死の精霊らはナシェルの配下。人の目には見えぬ。はるかな昔、ナシェルが泉下の国に生を受けたその瞬間から、死精族は総じて彼を主神と認識し、従っている。彼らはとくに命令を出さずとも、死にゆく運命の者たちの許をおとずれて、人間の魂を拾い上げる。そうして人間を冥界の門へ導くのが、精霊らの役目。
どんな二つ名で呼ばれようとも、ナシェルの正体は神族で、それも第二世代と呼ばれる若き青年神である。ナシェルは三界に数百億はいるであろう死の精霊族を束ねており、それらをして人間族の寿命を統べる。人間が増えればそれを適度に《間引く》のが役目だ。
ただ、ナシェルはふだんから人間の趨勢などをいちいち気にしているわけではない。精霊たちに、好きなように人間の魂を狩らせているのが現状だ。
神族は、人間界にあからさまに介入することは禁じられているからだ。直接手を下して人間を殺めることも、天変地異などを起こして地上の国々を滅ぼすことも神の世界では『禁止』とされている。
天と袂を分かつ“闇の神族”であり、異端神の誹りを受けるナシェルにしても、それは同様だ。好き好んで人間界に影響を及ぼそうとは思わない。精霊たちの働きぶちを奪うつもりもないから、配下の精霊が多少、魂を狩りすぎようと咎めはしない。人間どもは放っておけば増える。よって基本的には精霊たちの好きにさせておく。
この戦場では数千人の死者があっただろうか?
流れ出た血が近くの河を赤色に染めた。生き延びた者らの呻き声が雨音に混じっている。
だが、それらの救護もまたナシェルの仕事ではない。
精霊たちの活動に満足したナシェルはさらりと踵を返し、戦場を後にする。
森の泉のほとりでは、繋がれた黒天馬が草を咀嚼しながら彼を待っていた。
「待たせたな幻嶺、行こうか」
首を軽く撫でてやると、翼を畳んだ黒天馬は待たされた抗議も込めてか鼻で小突いてくる。
「こらこら、よさぬか」
千年近い年月を共に過ごしてきた、かけがえのない相棒だ。あるじに対しても全く遠慮はない。
旅の連れは今のところ、この黒天馬と、腰の神剣、そして指輪に封じた魔竜のみ。
今回、他のものはすべて冥界に残してきた。無二の友とて。
愛しき我が王にも久しく逢うておらぬ。募る思いはあれど、今はまだ。
姫を探し出すまでは……。
*
夜空の闇が深まってくると、ナシェルは広大な森の上に出でて夜空を旅した。
偶には翔ばぬと黒天馬の翼が鈍る。
……というのは言い訳で、ナシェル自身もせめて夜間は伸び伸びと幻嶺を速駆けさせたいのだ。こそこそ隠れて、森づたいに旅をするのは苦手な陽光の差す間だけでよい。
雨雲を避けるように飛翔し、雲の上に出てみる。
夜風が耳をくすぐり、ナシェルの雨に濡れた髪を後方へたなびかせる。
フードを外して顔を晒し、上空の涼やかな大気を胸にめいっぱい吸い込んだ。
広範囲に神司を解放し、精霊たちに自分の存在を知らしめる。近づいてきて直属下に入ろうとするのを適度に切り離して、ごく少数の取り巻きのみをふところの内と外に侍らせる。散らされた精霊たちは主神から距離を置き自由行動をとる。人間たちには見えないが、息を吸うのと同じ感覚で神はこの循環を繰り返している。精霊たちと呼吸をあわせ対話する。神司を拡げれば、数百里先のことまで眷属たちが教えてくれる。
これ以上、高度を上げると天上界の連中がナシェルの存在を察知するだろう。ぎりぎりの夜空を駆けるのが好きだった。天の神々の立場からすればこうした領界すれすれの飛行は『挑発的行為』ということになろう。だが月も隠れたこの夜半に、闇神の後継者ナシェルに敵う者などいるはずもない。
気配にうすうす感づかれつつも、誰も追っ手の来ぬ、まさに無敵の時間帯だった。
護衛として随うことを許された魔竜が、指輪から出たがって中で暴れている。永久凍土の蒼氷色をした石の内側で、妖気がうねうねと波打つのが視認できた。
ナシェルは氷の指輪を撫でて吐息を吹きかけ、竜を外に出してやる。
許しを得た氷竜ディルムトは、指輪からたちまち外の世界へ躍り出た。
馬よりもやや大きな飛竜の形状をとって、あるじの周りを回るように並び翔けはじめる。
ナシェルは黒天馬の速度を上げつつ、放恣に翔け回る氷竜を目で追った。
冥界にいるときは子犬ほどの、ほんの小竜の姿をとっていた。とあることで冥王の怒りに触れ、呪をかけられて子犬サイズにされていたのだ。だが地上界へ供をさせるのにそんな小さな姿では頼りにならぬとして、ナシェルが直訴し冥王になんとか原型に戻る許しを得たのである。
本来の姿は、暗黒界のナシェルの居城がすっぽり隠れるほどの巨大な両翼をもつ、古代の氷竜である。
今は、馬より一回り大きな竜の姿をとっている。体の形状はわりと自由に変更がきくらしい。
氷竜は吠えるような声で尋ねた。
「御子よ、何処へ向かっている?」
「精霊らの声の聞こえる方へ」
「精霊らはなんと言っているのだ」
「女神の居所を私に伝えようとしてくれている。だが困ったことに、それが一方向だけではないようだ。あらゆる方角から精霊らが、女神はここだと呼んでいる」
「精霊らは女神の気配を確と察知しているわけではないのだな」
「そうらしい。もしかしたら命の精霊たちに遭遇して、それを女神自身の神司と見誤っているのやも」
と、ナシェルは馬を翔けさせつつ肩をすくめた。
「命の精霊というのは、地上界のどこにでもいるのだろう?死の精霊と同じように」
「そう、だから困っている。ひとまず精霊が多く集まる場所から手あたり次第に訪ねてみようと思う」
「なりゆき任せの旅というわけだな」
「その言い方には語弊があるな。状況に応じてそのつど判断しているだけのことだ」
軽口を叩きつつ、ナシェルは女神に思いを馳せるようにしばし目を閉じた。
「まあ我は汝についていくだけだからな。目的地があろうとなかろうと、別に構いはせんのさ」
氷竜はのんきにくるくると上空を回っている。彼はナシェルの、女神ルゥへの想いなど理解せぬ。彼にとっては冥界の未来を握る姫といえど、面識のない小娘にすぎぬのだ。
「ところで御子よ、ここいらは紛争地帯なのか? 大きな戦いがあったからか死の精たちがやけに活発だ」
「さあな、知らぬ。私に分かるのは、戦で死者が増えれば冥界がさぞかし賑うだろうということだけだ」
「汝の父が忙しくなるのは好都合だ。そうなればこちらへの注意も散漫になるだろうからな」
氷竜が口角を上げると鋭い牙がチラリと見えた。
「…なるほど確かに四六時中、父に見張られていてはうんざりだ。いっそ行く先々で紛争を起こしてやるとしようか」
物騒な冗談を吐きつつナシェルは馬の腹を蹴った。天馬は両翼をひときわ大きく羽搏かせる。むろん、王の愛情を十分に理解しているナシェルであるからこれは本気の発言ではないのだが、冥王と犬猿の仲である氷竜にはこちらの心の内など伝わらないだろう。
それにしても、我が父の注意がおろそかになったらお前は何をしでかすつもりなのだと、わざわざ魔竜に問いただすのも無粋と思い、口に出すのはやめておいた。
◇◇◇
雨雲が消失したためゆっくりと黒天馬の高度を下げる。雨のあとの夜風はひんやりと冷たく、清々しい。
眼下の広大な森がとぎれ、平地があらわれた。地平のかなたに石畳の街が見えてくる。中規模の都市と見え、丘の上に城や教会の尖塔なども視認できる。
後ろを振り返れば、藍色の闇が地平線の彼方から白い夜明けに侵食されようとしていた。
「もうじき夜が明けるぞ、御子」
ディルムトは空中でくるくる回るのをやめナシェルに身を寄せてきた。
「ああ、分かっている」
「あの街に降りよう。腹が減った、飯を食おう。メシを食って、どこか眠れる場所を探そう」
メシだメシだと連呼するディルムトを、ナシェルは呆れ気味に見上げる。
「人間と街ですれ違ってもいきなり食わないと約束できるか? お前が神族の禁を冒せば、私がとばっちりを受けることになるからな……」
「とばっちりとは?」
「天上界の奴らに目をつけられ追われるということだ」
「上等ではないか。次に会ったら本気でぶちのめすつもりなのだろう。我も手伝うぞ」
「ありがたいが、私としては連中と遭遇戦をすることは旅の主目的とは異なる。やつらとイザコザを起こして旅の続行が困難になるのは避けたいのだ。父にも口酸っぱく、連中との接触は避けるよう言われているのでな」
「ほう、しおらしいではないか。上位神並みの力を持つこの魔竜ディルムトがついていれば、そこらをうろつく神どもに汝が負けるなど万が一もあり得ぬというのにな? 汝の父は頭がおかしいわりには心配症が過ぎる」
氷竜は冥王をこき下ろし、鼻の頭に皺を寄せた。
「ははは。まあとにかく、街では目だった行動はするなよ」
肯定も否定もせず笑うナシェルを、ディルムトは斜め上空から不満げに見下ろした。
「我慢ばかり強いられるのは冥界も地上界も同じだ。汝と二人きりで、もっと伸び伸び過ごせると思ったから付いてきたのに」
王の目の行き届かぬところへは行けないよ、とナシェルは心の中で応じる。
父は私を見失えば、今度こそ本当に狂ってしまうだろうから。
だから私はこの旅では、なるべく昼間は避けて夜に精霊をつれて行動している。そうすれば王は、いつでも探そうと思えば私の居場所を知ることができるだろう。
ありとあらゆる柵が、うまれてこのかた私と王とを繋いでいる。一時期は発狂しそうなほど恨み、その鎖を断ち切りたくも思えたし、実際糸のように儚く切れかけたこともあったが、今は違う。王が私に手向ける愛は私の存在の礎、魂魄の根源なのだと理解できているからだ。王の愛がなければ私も存在し得ない。力の源を自ら絶って、どうして神が神として存続してゆけるだろう? 私と王とは、口にするのは複雑だがそういう関係だ。主でも従でもなくただの父と子であったなら良かったのに、と苦悩した夜も数知れぬが、それでも自由という名の破滅を択ばず王の鎖を握り続けることを選択したのは私自身なのだ。
ナシェルはそっと片手で胸元の合わせを手繰り寄せた。意識すればいつでも王の束縛を感じることができる。
今も、貴方の鎖は私の胸にある……。
黒天馬の高度を徐々に下げると、早暁の街が視界に鮮明になってくる。煙突から煙が上がる家は少ない。まだおおかたの市民は眠っている時間か。
より近づけばちらほらと窓から覗く、あたたかな暖炉の火。朝の鐘とともに尖塔の小窓から飛び立とうと準備している鳩たちの群れ。
街はずれの小さな森林に着陸し、浅い湧水のわきに黒天馬を繋ぎ終えたころには徐々に空が白んできていた。
「牛とはいわぬ、鴨でも家鴨でもいい。家畜を食いたいがこの姿では街に入れぬというのだろう」
ディルムトは森の中で、ナシェルと同じ身丈ぐらいまで体を縮めながらぼやいた。
「残念ながら人間たちには、竜は馴染みがないのでな。肉がいいのか? 何か街で買ってきてやろう、お前はここで待っているといい」
「だが、汝から離れたら護衛の意味がない」
ディルムトはナシェルから離れるのを良しとせぬ様子だ。根は真面目なのだと思う。
「ならばこの指輪の中に戻ればよい」
とナシェルは指輪の石を示して見せる。
「その中に入るとあまりに退屈で眠くなってしまうのだ。メシを食い損ねる」
「メシの時間になったら呼び出してやるさ」
ほれ、と指輪を突き出すとディルムトはしぶしぶだが了承した。
「じゃあ用意できたらまた呼び出してくれ。人間だろうが何だろうが、外に出た瞬間に目の前にあるものを遠慮なく食うぞ、我は」
「食い意地の張った竜だな。分かった分かった……」
氷竜が小さくなり指輪に吸い込まれるように消えると、ナシェルは黒天馬の幻嶺の首を撫でて告げた。
「日暮れには戻るから、お前はここで休んでいなさい」
◇◇◇
外套のフードを目深に被り、目立たぬように街を歩いてみる。夜が明けた通りには俄かに活気が出始めていた。教会広場に市場が立ち、農民や商人が馬車でやってきては荷下ろしをはじめている。百里も離れた戦場で、昨夜多くの兵の命が失われたことはまだ市民の話題になっていないようだ。もしくは自分の知らぬ間に国境を1つか2つ跨いだのかもしれない。少なくとも戦時下特有の緊迫度はこの街からは感じられなかった。
大きな都市ではないが、雑踏にまぎれて身を隠すには十分だ。
ディルムトに何か腹いっぱい食わせてやり、夕方まで宿の清潔な部屋で睡眠をとるというのはどうだろう? 昨夜は雨に打たれたので、湯で身体を洗いたいというのもある。
「お兄さん? 林檎どう」
通りすがり、瑞々しい赤い果実を差し出しながら市場の女性が微笑む。果物屋の店主のようだ。若く元気がよい。
ナシェルは人間の言語も主要なものは概ね理解するし、民族や国がいくつもあってそれぞれ違う通貨を使用していることも知っているが、この街で現在有効な貨幣までは知らなかった。ひとまず袂に入れていた小銭入れの巾着を差し出して女性に問う。
「この中に入っている貨幣で買えるかな?」
奇妙な返答に、市場の女は怪訝そうにしながらも巾着の中身を覗き込んだ。異国の通貨ばかりだが銅貨もあれば銀貨もある。
「たぶんコレぐらいで買えるだろうさ」
果物屋の女はちゃっかりと大きめの銀貨を1枚つまみあげた。女の記憶が正しければそれは西の大国の1ドリュー銀貨のはずだった。麦粉が1か月分は買える価値がある。
「ではその銀貨で林檎をもらおうか」
ナシェルが林檎を受けとり齧りながらその場を離れようとすると、女は慌てたように呼び止めてきた。
「お、お兄さん待ちなって! さすがに冗談だよ冗談。林檎1個がドリュー銀貨と同じ値段なもんか。10カゴ買ってもおつり出るよ、多分…」
女が照れくさげに銀貨を返そうとしてきたのでナシェルは困惑して手の中の、きれいな歯型のついた林檎と見比べた。
「そうなのか」
「ドリュナン銅貨1つで充分さ。お兄さんお金の価値のこと全然知らないんだね、そんなんでどうやって旅してきたのさ? あたしもボッタくりって言われたくないから呼び止めちゃったけど、ほんとに知らないなら黙ってもらっときゃよかった」
果物屋の女はナシェルに巾着を開けさせて銀貨と銅貨を交換し、ついでにフードの下からナシェルの顔を覗き込んできた。あまりの美貌に目を丸くし、顔を赤らめる。
「林檎、カゴごと持っていきなよ。世間知らずのお兄さん」
赤面した女性に押しつけられた取っ手つきの果物籠には、新鮮なリンゴが更に3つも入っていた。
「こんなにたくさんもらっていいのか?」
「この銅貨でカゴ盛り1個ぐらいだよ。ちなみにこの辺の宿屋なら、さっきの銀貨で1泊は泊まれるからね。もうぼったくられるんじゃないよ」
女性は自分を棚に上げて苦笑ぎみに、界隈でのおよその貨幣価値を教えてくれた。この会話でナシェルは街の物価が比較的安定しており、治安もそこそこよさそうだと悟った。
ナシェルはフードの下で唇を微笑みの形に持ち上げ、その言語のなまりのない発音で「ありがとう、お嬢さん」と言ってその場を去った。
「……ディルムト、ところでリンゴは食えるのか?」
『汝、ふざけるなよ。肉が食いたいと我は言ったであろう』
指輪の中から唸り声がそう応じた。竜が食べないなら自分で食べるしかない。
(続)