もなか「⋯帰ったぞ」
珍しく帰りが遅くなった坂ノ上は、魂が抜けてしまったような顔でリビングのドアを開けた。空気を読まない、人の都合すら考えない取引先の接待など、ぷんぷんに怒った伴のお迎えがあれば直ぐ様忘れると期待していたがそんなものあるはずがなく。
今夜は早く帰るから夕飯は外で食べようと、今朝伴と約束して出てきたのだ。急な接待で連絡もまともに出来ず、伴からの返信は二つ返事のスタンプのみ。坂ノ上にとっては、最悪の1日だった。
大きなソファで寝っ転がってスマホをいじっていた伴は目線をリビングの扉に向けることもなく少しの無言の後「⋯おかえんなさい」と一言。
取引先への手土産とは別に、伴へのお詫びにと買ってきた和菓子の手提げをダイニングテーブルへ置いてソファに近づく。
「何か食べたか」
「⋯⋯まぁ、テキトーに」
「すまなかったな、俺から誘ったのに」
機嫌はよくないものの、返事が返ってきた事に安堵して伴の足元の空いたスペースへ腰掛ける。スマホに向けられたままの目線を自分の方へ向けたくて「ばん」と何度か呼びかけた。
「拗ねるのもわかるが、せめてこっち見てくれ⋯おい、ば〜ん」
「⋯やめてもらえますか、勝手に拗ねてるとか言うの」
「じゃあなんでこの時間まで起きてるんだ」
「子供じゃねぇんだから別に何時に寝たってアンタにカンケーないでしょ」
「なんだ、待ってたんじゃないのか?」
「思い上がりすぎ」
帰りが遅くなる時、普段なら先に寝室にいるはずが今日は約束を破った当てつけのようにリビングで何をするでもなくゴロゴロしている。坂ノ上が思い上がるのも無理はない。伴が関わること限定で、イレギュラーな事は大変喜ばしく大歓迎なのだ。
「今日も減らない口が可愛いな」
「反省してないんスかその態度」
「むはは!やっぱり拗ねてるな!」
口喧嘩に負けた子供のようにギロリと坂ノ上を睨むと、ようやく目と目が合う。伴は呆れたような、諦めのような溜息を大きく吐くと「それ」とテーブルに置かれた手提げ袋を指差した。
「詫びと言ったら怒るだろうが⋯まぁ土産だ。駅前のデパートでな、伴が食べるところが見たくて買ってみた」
言い方に引っかかりながらも、恐る恐る袋を覗くと高級そうなデザインの小分けの箱に入った和菓子が見える。中身が分からず、手に取ると意外と重さがあった。
「なんスかこれ。匂いもしないし」
「もなかだな」
「高そっスね」
伴は中身が潰れないように箱を開けると、もなかを取り出して珍しいもんでも見るかのようにジィーと見つめる。餡もなにも挟まっていない、ただのもなかのみが透明の袋に梱包されている。
「そのままじゃ美味しくないぞ」
そう言って坂ノ上は更に手提げ袋から箱を取り出すと、伴の前に置く。中には餡子がぎっしり詰まっていて、自分好みの量を挟んで食べられるタイプのもなかだと説明する。
「⋯初めて食べるかも」
「だと思って買ってきたんだ!さ、食べて見せてくれ!!」
さっきまでの抜け殻のような姿はどこへやら、坂ノ上は興味津々に伴の真横へ迫る。それに若干引き気味に、でも好奇心には勝てなくて専用に添えてあったプラスチックのスプーンで餡子を掬うと、そのまま口へ運んだ。
「ん⋯甘」
「口に合いそうか?」
「挟んで一緒に食べればいんですよね?」
味見が済むと今度はひとつもなかを手のひらへ乗せて、くぼみに餡子を詰めていく。その一つ一つの動作や、どのくらい入れればいいのかと悩む瞳や眉間を凝視して満足そうに坂ノ上は微笑む。
「こんなん見てて何がそんなに楽しいんだか」
餡子がはみ出さない程度に敷き詰め、もう片方のもなかを重ねて完成。伴は決して大きくはない一口を開けてもなかを頬張る。水分を持ってかれた唇のあちこちに割れたもなかのカスがたくさん付いて食べづらさを感じるも、さっき餡子だけを食べた時とはまた違う食感と味に思わず舌が唸った。
「ばん、たくさん口につけて⋯可愛いな」
まるでおにぎりを頬張って口周りにいっぱい米粒をつけた子供のような愛しさを感じて、見てるだけで腹が満たされる。普段は常に不機嫌そうな顔立ちをしているが、食事中や情事中の伴は幼い一面を見せるものだからつい坂ノ上も色々と試したくなるのだ。
「食いづれぇ、です⋯けど美味い」
器用に舌先や指で口についたもなかを取っては口に入れ、更にもなかをかじる。気に入ってくれたようで、坂ノ上もニヤケが止まらない。
「ばん、俺にも少しくれ」
「嫌です」
「少しくらい良いだろう」
食べたいんだか食べる俺を見たいんだか──。
伴は仕方なく坂ノ上の分のもなかを適当に作ってやると、口の前へ持っていく。さりげない伴からのあーん♡という行為に戸惑いを隠せない坂ノ上は「いいのか!?本当に食うぞ!?」と何度も尋ねる。これでもかと鼻息を荒らげて。
「いらないんですか?」
「待て!その、あーん♡と言ってほしい」
「気持ちわりぃ⋯なんで食べるのにそんな声出さなきゃいけねぇんですか」
普段の坂ノ上からは想像も出来ないほど変な声を出すので伴は喘ぎ声の方だと勘違いして、物理的に距離を取った。すぐにドラマや映画なんかで見かけるあの「あーん♡」ということは理解したが、どっちにしても伴にとっては鳥肌もの。
「男なら一度はやってみたいものだろう」
「俺にそんなん求めんでください」
「伴がやるから意味があるんだ」
「〜〜ったく、しつけぇんですよ」
坂ノ上は伴が関わることに限り、一度言い出したら下がらないのを知っているので大きな溜息をついた後、もなかを受け止める準備が整っていない口へグリグリ押しつけた。
「ほら、あーん⋯ですよ、坂ノ上さん」
案の定、坂ノ上の口上のヒゲや口周りにたくさんもなかの破片が引っ付き、ボロボロとカスがソファに落ちていく。
「もがが⋯っ、ふぁん!」
「美味しいですか?」
伴の手元でグシャグシャになったもなかを、坂ノ上さんが口をあけてかぶりつく。これはこれで⋯と言いたげな蕩けた顔で目線は伴の顔を凝視している。咀嚼して、喉を鳴らしながら飲み込んで、伴の手についたもなかの破片を器用に舐め取った。
「汚ねえ」
「伴の指だ、汚くないぞ。むしろ美味い」
「俺の指が汚れんですよ!」
伴の文句もお構いなしに、悪態つく唇についたままのもなかのカスを自分の唇で啄むように食べていく。餡子の控えめな甘さが残る唇と唇で、仲直りするかのようにふたり、ソファへ沈む。
「⋯機嫌は治ったか、ドラ猫め」
「次は食いやすいのにしてください」
「ば〜ん♡」
残りの高級もなかは伴が完食して、坂ノ上はその様子を見つめ続けた。