よく眠れました 分駐所の入り口から元気よく近づいてくる足音に、志摩はロッカーの前で口元を緩めた。
「おはよー、志摩ちゃん」
「おはよ。元気だな」
「んー昨日、めっちゃよく寝れたからかな」
「そりゃよかった」
ロッカーの扉を閉めて、横に立つ伊吹と向かい合う。言動と同様、表情も溌剌としていた。恋人が元気なのは嬉しい。
「実は昨日、元カレから連絡が来て」
「えっ?」
「何もねぇよ?別れても友だちって奴じゃねーし。浮気されたらもう俺としては別れるしかねーし。あいつの爺ちゃんは好きだったんだけどなー、一緒に暮らしててすげー元気で昔陸上やってたつって、俺の足、速い速いって誉めてくれて、一緒に走るって言い出したことがあったんだけどさ、さすがにそれはやめといた方がよくない?って止めたんだけど、そういやあいつと意見があったのあの時だけかもしんねーな」
いきなり始まった昔話に志摩はついていけなかった。
「ま、待て待て、元カレ?元カレから連絡?何で?」
「やり直さねー?って。いやあり得ないし」
「…それだけ?」
「そんだけ…あっ、じゃなかった」
「は…」
「まだ話の続きがあって、そいつに浮気されてからさー、つい考えちゃうわけ、浮気しねーかなって。いやしてほしいって意味じゃなくて、でー…その連絡の後で志摩も浮気とかすんのかな…って考えてたら…いつの間にか、ふふっ、寝てちゃってた」
「あり得ないんだけど」
「ごめんて。悪い癖だからどーにかしたいんだけど、ついね、つい、想像が、こー、止まんなくって」
へらへらと笑う伊吹を見ている内に顔がきつくこわばっていく。志摩はもう一度繰り返した。さっきよりも強い口調に、伊吹が表情を曇らせる。
「あり得ない」
「…だからごめんって言ったじゃん」
「何で伊吹が謝るんだよ」
「えーもう何なの謝っても許さんてやつ?」
「そうじゃなくて伊吹は謝る必要がないだろ。悪いのは浮気した元カレなんだから、伊吹はひとつも悪くない」
「もしかして志摩、俺の元カレに怒ってんの?」
「めちゃくちゃ怒ってる」
「へーそうなんだぁ…」
「伊吹を傷つける奴は許さない」
「ひえー俺めっちゃ愛されてんね」
「愛してるよ」
久住の件で勝手に相棒を解消しようとしたのは三ヶ月前のことだ。結果伊吹が自暴自棄になって二人揃って捕まったくせに、どの口が言うんだか。特大のブーメランを喰らいながら、こうして生きて気持ちを伝えられる状況に、志摩は喜びを噛み締めた。
「志摩が浮気するとこは想像できなくて気づいたら寝てたんだよね」
「おう」
「すげーよく眠れた」
薄く笑う伊吹の目がいつもよりぬめっているような気がする。
「じゃあ今日もいっぱい走れるな」
「うん。志摩…」
「なに」
「ちょっとだけ、ぎゅってしていい…?」
志摩は腕時計で時刻を確認した。始業時間までまだ三分ある。返事の代わりに両手を広げると伊吹が飛び込んできた。
「あー伊吹が可愛過ぎて仕事したくねー…」
「俺も志摩がイケメン魔人過ぎて働きたくないー…」
「…よし、時間だ相棒」
「おっしゃあ」
ぼやいた後で勢いよく離れる。その頃には普段と同じ目の色だった。闊達としている犬の明るい輝き。視線の先で伊吹が大きく笑った。好きな相手をよく眠らせることができたなんて。志摩はときめいた。こんなに嬉しいことはない。