告白 当番勤務が重なった日に飲みに行かないかという陣馬の誘いを断り続けてきた伊吹が、二ヶ月ぶりに一平の座卓の隣に座っている。
「それでよ、俺は言ってやったわけだ、こう、がっと取っ組み合って、俺は勤続三十五年だぞって」
「おおー」
「あいつ、強かったよね、ねー?志摩?」
「え、ごめん、聞いてなかった」
「志摩、お前なぁ、俺がせっかく…」
「すいません」
「ていうか、あの日、志摩もいたよなぁ」
酔って顏を赤らめた陣馬が、酒瓶を片手に天井を見上げた。午前九時に終わった当番勤務の後で訪れた一平の店内には、店主と機捜四〇一と四〇四以外は誰もいない。九重の次の相棒である八田が今度結婚するという話から、陣馬の息子とその結婚相手との顔合わせの日の思い出話を披露していた陣馬の呟きに志摩が頷こうとしたところで、伊吹が先に答えた。
「いたよー、俺らはふつーに当番勤務だったもん。メロンパン号も一緒に乗ったじゃん。もー陣馬さん飲み過ぎー」
「まだまだ飲めるぞー…トイレ行ってくる」
意気揚々と拳を振り上げた陣馬が表情をすっと落として立ち上がる。陣馬が店の奥に消えたところで電話が鳴った。三人がそれぞれ自身のスマートフォンを探し出す。
「ちょっと外で話してきます」
「いってらっしゃーい」
四〇四だけになってしまった座卓にもたれて伊吹が手を振った。志摩は落ち着かない気持ちで枝豆に手をつまむ。伊吹はリラックスした様子で口を開いた。
「きんぴら、元気かなぁ?」
「きんぴら?」
「あの日はねー俺にとってメロンパン記念日だから」
「メロンパン記念日?」
「現場にいた子たちに俺が食いたかったメロンパン志摩があげちゃったけど、その後でちゃーんと再注文してくれた記念日ー」
「そんなことあったか?」
「あったの!志摩、覚えてないの?そんなに前のことだっけ?てか、何か今日、ぼーっとしてね?疲れてる?」
「かもな」
嘘だ、倉庫で飼われていた猫も、メロンパン食べたかったのにと不満を露わにしていた伊吹も、本当は全部覚えている。特にメロンパンを再注文したことは強く記憶に残っていた。それまでの関係性だったら、改めて注文していなかったかもしれない。香坂のビルの屋上で生命線なんか見せてくるから、のぼせ上がって、つい甘いことをしてしまった。受け止め損ねた枝豆がころんと座卓に落ちる。拾わずに自分のジョッキをつかむと半分以上残っていたビールを飲み干した。久しぶりにプライベートで伊吹と会う緊張で大して飲んでいないから、少しも酔えない。
「今日は会わないのか?恋人。デートだって陣馬さんが誘ってもずっと来なかったのに」
「あーそれね」
「いい、聞きたくない」
「聞かねーのかよ」
「末永くよろしくやれよ」
「えー何それ」
「悪いけど、先に帰る」
「タクシー呼ぶ?」
「いらない…俺の分の勘定、これで足りるよな」
どことなく心配そうな顔つきの伊吹に大丈夫だと笑ってみせることもできずに財布を引っ張り出した。好きとかー嫌いとかーそういうあれでー…碌に聴取のメモも取っていなかった日の伊吹の声を今日も思い出す。気持ちを言うか言わないか、そういうことも決められずにいたら、あっさり、最近キャッキャウフフしてんだよねーと浮かれた調子で言われた。失恋したと落ち込む資格もない気がする。幸せそうで何よりだと思うしかなかった。
「じゃあ、また、明後日」
「志摩、志摩、ちょっと待って」
店の出入り口まで伊吹がついて来る。
「何だよ」
「今度志摩が元気な時に一緒に飲まない?」
「え、やだよ、今日飲んだだろ」
「飲んだけど!話、できてねーし」
「いっぱい話してたじゃねーか」
「じゃなくてしたい話ができてないの」
「後で陣馬さんに聞いてもらえよ」
「できない」
「何で」
「結婚するーって話してるとこに失恋したって言いにくいじゃん、なー、志摩ちゃん、慰めて?」
「…いやまじで無理」
「つめたっ、志摩、冷たい!」
「しつ、失恋?別れたのか」
「この前いきなり死んだおばあちゃんのお告げで?夢で地獄っぽいところにおばあちゃんが立ってて?それで俺とつき合い続けるのよくないとか言われてそれでよく分かんねーままもうつき合えないって振られた…」
「…その話めちゃくちゃ気になるけど、嫌だ、九ちゃんでも誘えよ」
いよいよ伊吹も結婚の話かと身構えてみれば、真逆だった。それでも志摩はうんと言えない。伊吹と二人きりで自分が何をしでかすか分からなかったからだ。
「えーいいじゃん志摩ー、ねー、俺たち、相棒だろ?」
「相棒という分類から逸脱しそうだから無理」
「いつだつー?何それ」
「物理的に離れたら何もしないで済むから、異動の辞令が出るまで俺は平穏に過ごしたいんだ」
「ひど…そんなに俺のこと嫌いなのかよ」
「好きだよ、好きだから困ってる」
「何がこまんの」
「伊吹にキスしたくて…」
言葉の選択を誤ったせいで伊吹に傷ついたような顔をさせてしまう。取り繕う間もなく口が滑った。よく考えているつもりが、多分、頭のどこかで自棄になっていたのだろう。伊吹と親密な関係を結べる誰かが羨ましかった。声に出したせいで、意識しないようにしていた欲深さが胸に刺さる。
「俺とキスしてーの?志摩とは考えたことねーけど、いっか、してみる?」
そんなことを言いながら顔を近づけてくる伊吹に志摩は咄嗟に、咄嗟に…
「…お前ら、こんなとこで何やってんだ?」
「犬のしつけです…」
「ひでぇ…」
トイレから出てきた陣馬が怪訝そうに足を止めた。志摩は握っていた拳を震わせる。そして自分の足元で腹を押さえて蹲っている伊吹を見下ろした。訳が分からないといった様子で陣馬が脇をとおり過ぎる。直後に外での電話を終えて店の引き戸を開けた八田が出入り口の近くにいる四〇四に驚いた顔をしながら自席に戻っていった。
「勝手にするからだろ」
「してねーし、してみる?って俺、聞いたじゃん…拳じゃなくて口で返事すればよくない…?」
「…ごめん」
「まーいーけど」
「びっくりしてつい…顔の前に急に虫が飛んできたら手が出るだろ?」
「俺は虫かよ」
「例えだ、例え」
「志摩、ほんとに俺のこと好きなの?」
「好きだけど」
「…俺、志摩ならつき合える気がする」
「俺が無理」
「いやだから何で」
「伊吹が俺の気持ちを知ってるという状況に慣れたい」
「はー?」
「改めて告白するから待って」
「それっていつ?ねー、いつ?今?待てない、ねー、ねー」
「…メロンパンの再注文をした時よりは遅くなる」
「覚えてんじゃん!もー何、志摩、意地悪魔人なの?」
「俺こそ地獄に行くかもな」
「そんなこと言ってねーし。こえーよ」
呆れたようにため息をついて膝を伸ばす伊吹に手を貸す。長い生命線が刻まれた手のひらが自分のそれとぴったりと重なった。生きてさえいてくれればと苦い後悔を抱く自分に、最適解を突きつけてくれた男の手は力強い。伊吹がすっと立ち上がっても、志摩は手を離さなかった。不思議そうに首を傾げる伊吹に、唇を舐めて一息で告げる。
「好きだ。よかったら俺とつき合ってほしい」
「うは、めっちゃ早い、志摩のそういうとこ好きだわー、いいよ、つき合う、いっぱいキャッキャウフフしようぜー」