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    かいこう

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    かいこう

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    闇は去りて/smib
    異動を前に不安がる伊吹

    ##smib

    闇は去りて 異動の辞令が出たのは、つき合って二度目の秋だった。
    「伊吹、伊吹」
    「何、志摩ちゃん」
    「寝るんだろ」
     志摩に言われて伊吹は見入っていたカレンダーから視線を剥がす。
    「うん」
    「まだ起きてるならつき合うけど」
    「寝るって、明日当番じゃん」
     笑みのようなものを浮かべた伊吹は、何か言いたげな志摩の脇をとおり抜けてリビングを出た。日勤を終えてそれなりに疲れているからだで寝室に向かう。リビングの電気を消した志摩が後からついて来た。ベッドに乗り上げると、志摩がベッドの足元を回って反対側に立つ。見つめられているのは分かっていた。大丈夫か、と聞かれないことも。大丈夫ではないからだ。いくら見入っても異動の日がなくなるわけがないカレンダーを凝視せずにはいられないぐらい参っている。そろって上かけに潜り込んで、枕とマットレスの上で体勢のいい位置を探して身じろいだ。ベッドサイドの明かりを一番小さなものに絞る。向かい合わせの状態で見つめ合った。
    「おやすみ」
    「…おやすみ」
     志摩をおいて、瞼を閉じる。顔を隠すように顎を引き、からだを丸めた。来週になったら揃って四機捜から異動になる。違う部署に配属された。異動なんて初めてでもないのに、辞令を受け取った日から、ひどく不安定になっている。不安の根本は志摩だ。これまでのように二十四時間一緒にいられないことが伊吹の心に影を落としている。根拠のない憂鬱だった。今はまだ。これから何か出てくるかもしれない。とにかく今まで、自分たちはべったりと過ごしてきた。志摩も過去、捜査一課に所属していた頃に恋人に振られている。自分たちも、理由は違えど、そういった状況にならないとは言い切れなかった。そんなある種、当然と言える気鬱だけなら、平気だったかもしれない。だが志摩が離れてしまうという想像は、蒲郡の件で負った痛みに結びつき、じくじくと神経を苛んできた。また一人ぼっちになったら、どうしたらいいの。異動が決まってから、伊吹は口にせずにはいられなかった。ならないし、しない、伊吹が嫌と言うまで、そばにいるから。伊吹が問うただけ、そして顔色に滲ませただけでも、弱った性根に教え込むように、志摩は繰り返してくれた。こんなの俺じゃない。らしくない行動を取る自身にさらに打ちのめされたが、初めてのことなのだ。誰かが自分の人生にこんなに密接に結びついてくれたのは。目を閉じた伊吹は顔をしかめた。眠らなければ。明日も仕事だ。寝れば明日になり、その分だけ異動の時が近づいてしまう。葛藤と懊悩の泥に足を取られ、浅い眠りに沈んでいった。段々と、眠っているのか、それともまだ起きていて憂鬱さに圧されているからだをただ横たえているだけなのか、判然としなくなってくる。別れは、ありふれているものだ。この先のスイッチは誰にも分からない。何度会おうとしても手を閉じたまま、背を向けたままの蒲郡に、志摩の姿が重なった。単なる想像に、自分の目か胸から、温かいものが溢れ出ていって、そのせいで手足が冷たくなる感覚に陥る。寝ながら泣いているのか…鋭いはずの感覚が不安の靄に包まれて、何も分からなかった。今からでも抱き合おうか。失った時が怖くて、セックスを躊躇うようになってしまった。志摩は気づかう顔こそしても、煩わしさの欠片すら匂わせない。そんな人を信じられないのか…そんな人だからこそ、別れが恐ろしいのだ。伊吹はさらにからだを丸める。志摩の息づかいに集中してこの気鬱から意識を逸らそうとした。だが上手くいかず、己のつまったような浅い呼吸が耳につく。苦しい、苦しい、こんなに苦しいなら…胸の内側から聞こえてくる声は、しかし自分のそれとは少し違うように思えた。こんなに苦しいなら、忘れてしまおうか。甘ったるい囁きだ。ついそちらに足先を向けたくなるような。忘れる、忘れるって誰を…ぼんやりとした問いかけに、隣で眠る男の笑顔が脳裏に浮かんだ。幻ではない涙の温度が、眼球の底を濡らす。そんなこと…咄嗟に浮かんだ拒絶が心の奥から沸き上がるものにうやむやにされ、頼んでいないのに、一瞬、志摩を忘れた自分という、恐れも喪失感も抱いていない、溌剌とした自己からもたらされるぞっとするような甘美さが、強引に、意識に捻じ込まれた。どっぷりと嵌る。抗いたいのに、からだは勝手に脱力し、力強い安寧が、眉間の皺や食い縛っていた口元を緩ませた。あ、あ、やばい、このままじゃ、引きずられる。迫る気配から逃げたくても、まるでカタツムリだ。ああ、捕まる。その瞬間、隣で眠っていたと思っていた志摩が勢いよく起き上がった。すぐ近くにいるのに、シーツを何枚も被らされたかのように、気配が遠い。起き上がった志摩が、静かに身じろいだ。肩に触れられる。優しい、いつもの手だった。名前を呼ぶつもりが、喉に泥がつまったかのように声が出ない。志摩が肩に置いた手に、体重をかけてきた。距離が縮まる。産毛に触れるか触れないかの位置までやって来た唇に、耳がくすぐったさを覚えた。志摩が言う。
    「出て行け、今すぐ」
     柔らかいのに鋭い声音だった。するすると滑り落ちていく耳孔が切れやしないかとひやりとしたが、声はただ、滑らかに表皮を撫で頭の深いところまで落ちる。何のことだ。そう聞く前に、口が動く。そうしようと思っての行動ではなかった。
    「…分かった」
     聞き覚えのあるような、まったく知らないような、そもそも人語でないような、何とも言えない声が、唇から、垂れるように這い出ていく。涎かと思ったがそれよりもずっと量も重みもあった。ずろりと声が出きった後でこめかみに温かい唇が押し当てられる。よく知った感触に戸惑った心が整えられるようだった。薄い皮膚を何度もついばまれて、久しぶりに、気持ち好さが芽吹く。さっきのは一体何だったのか、聞きたいのに、いつの間にか寝入っていた。翌朝、目覚めると、向かい合わせの状態で、志摩に緩く抱き締められている。伊吹は胸に回された志摩の腕をそっと持ち上げて、上体を起こした。唇の端から垂れていたよだれを手の甲で拭う。一晩経ってみると、昨日あったことは、まるで夢だったかのように、曖昧としていた。カーテンの隙間から窓の外を見る。晴れているようだ。志摩の頬にひとつキスを落とすと、ベッドを出て、手足を伸ばす。もうそこには、気鬱のおもりはなかった。着替えて、ランニングに出かける。
    「ただいまぁ」
    「遅かったな、朝飯、できてる」
    「ありがとー何か気分よくってさぁ、いつもよりいっぱい走っちゃった」
    「よかった」
    「んー?何が?」
    「何か…楽しそうで。シャワー浴びてくれば」
    「そうする」
     昨日までの欝々とした態度とは一転しているだろうに、志摩は何も言ってこなかった。昨日のあれは何だったの。尋ねようとしたのに、言葉が出てこなくなった。あれって何だっけ。伊吹はぱちぱちと目を瞬かせた。ランニングでかいた汗が、つう、と首筋を流れる。テーブルに朝食を並べ終えた志摩が首を傾げた。
    「どうかしたか?」
    「えっと…いや、何でもない」
    「本当に?」
    「うん」
    「ならいいけど」
     思い出そうとすればするほど、昨日のこと、そこに繋がる昨夜までの鬱屈が、どんどんと遠ざかっていき、やがて見えなくなって、思い出せなくなる。誰にも追いつけないスピードで、昨日から今日にやって来たようだった。心から抜け落ちた寂寞の代わりにそんな爽快感が胸をつく。
    「突っ立ってると遅刻するぞ」
    「あ、やべ」
     仕事を思い出すと、志摩と離れなければならないことへの寂しさが薄いもやのように胸にこみ上げてきた。だが風呂場へと追い立てるように背中を押されれば感情の陰りはまるで逃げるように消えていく。何から…振り返った先の志摩のまなざしは今日も優しかった。愛情をふんだんに含んだまなざしに、心底安堵する。そうやって触れてくれる人の手によって、ひとまず闇は払われたのだと、伊吹は静かに理解した。
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