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    『さざなむ、さざなむ』①
    クレリリで配布した無料配布です。
    半分以上は支部に投稿したものとほとんど同じ内容なので、追加部分を読みたい方は②からどうぞ

    喧騒が去るのを惜しむ大歓楽街の中心で、一二三は今宵の仕事を終えてスタッフ用の裏口から店を出た。まだ点々とネオンが灯る通りに出て辺りを見回すと、角に停っている黒い車がプップーと二回クラクションを鳴らした。煌々と光るハイビームにけたたましいクラクション。その印象だけで彼が待ちくたびれているのがわかるようだった。
     一二三が車に駆け寄るとサイドウィンドウが下がり、運転席に座る幻太郎がハンドルに寄りかかって顔を覗かせる。
    「お疲れさまです。後部座席と助手席、どちらでもお好きな方へどうぞ」
    「寂しがりな子猫ちゃんだ。そんな風に試さなくても助手席にお邪魔するよ」
     助手席に座り、シートベルトをする前にジャケットを脱ぐ。後部座席に畳んでそれを置くと、顔を顰める幻太郎と目が合った。
    「どった?」
    「いいえ。あなたがトンチンカンなのはいつものことでしたね」
    「なになに〜? 失礼じゃね」
     それこそいつものことだけれど。シートベルトを締めてまもなく車が発進した。
    「こんな夜中にさあ、どこ行くわけ」
    「今年の夏は行きそびれてしまったので海に行こうかと」
    「ふーん。どこの?」
     よたよたと歩道を渡る酔っぱらいがいなくなるのを待って幻太郎がハンドルをきる。
    「南イタリアのアマルフィ海岸まで」
     遠いので眠っていていいですよと幻太郎が言うので、遠慮なくシートを後ろに倒した。
    「いいねー。俺っちイタリア行ったことなくてさあ。一生に一回は行ってみたかったんだよね」
    「それは僥倖。さあ目を閉じてください。次に目が覚めたときには白い砂浜とエメラルドグリーンの海がお出迎えですよ」
    「……その心は?」
    「喋っていると気が散るので黙っていてください」
     そうは言うが幻太郎はさして緊張して強張る様子もなく、ただの軽口か本心か判断がつかない。一二三は小さく笑って瞼を閉じた。目覚めたらあの世だなんんてことだけは、どうかありませんようにと願いながら。
     
     
     
     眩しさを感じて、光から逃れるようと身動ぐ。胴体を固定していたシートベルトの締めつけがないことに気づいて一二三は重い瞼を震わせながら開いた。目覚めて最初に映ったのは白い砂浜でもエメラルドグリーンの海でもなく、隣で同じく背もたれを倒して眠る幻太郎の寝顔だった。
    「どゆこと……?」
     ポケットを探ってスマートフォンを取り出し、画面を明るくすると時刻は十一時過ぎ。家にいるときよりも長く眠っていた事実に驚いて身体を起こす。狭い座席をベッドにしていたせいで関節が軋んで、血の巡りが悪い感覚がした。
    「げんたろー、げんちゃろくーん。なあ起きろって。ここどこ」
     肩を叩いて幻太郎を呼ぶ。むずがって手をどかそうとする幻太郎にむっとして、一二三は優しく叩くのをやめて激しめに揺さぶった。
    「わぶっ……は? え? な、なんで、すか」
     がくがく揺さぶられながら幻太郎が戸惑いの声を上げる。閉じていた瞼がしっかり開いたのを確認して一二三はようやく手を止めた。
    「おはよー、てか、もうおそようだよ」
    「おや……本当だ。もうこんな時間なんですね。ふぁ、よく寝ました」
     のそのそと起き上がり、幻太郎が大きな欠伸をした。一二三も起き上がって窓の外を見遣った。トラックや普通車、バスなどが間隔をあけながら、しかしある程度の整頓さを保って並んでいる。
    「サービスエリア?」
    「そうですよ。イチカワサービスエリア」
    「ちっか! 次に目が覚めたら白い砂浜とエメラルドグリーンの海がお出迎えって言ったじゃん」
    「途中で小生も眠くなってしまったんです。急ぐ旅ではありませんし。それにしても仮眠程度にするつもりだったんですがね」
     男二人では少々狭い車の中で幻太郎が腕を伸ばした。
    「ちょうどいいので腹ごしらえとしましょう」
     先に車を降りた幻太郎を追って一二三もドアを閉めた。夜に見たときは黒だと思っていた車体は実のところ紺色だった。
    「これぞサービスエリアの醍醐味」
     すでにサービスエリア内のフードコートが開いていたので、幻太郎はそこで醤油ラーメンの食券を買い、一二三はかけそばを選んだ。
    「朝からよくラーメン食えんね」
    「もう昼ですよ」
    「寝起き一番によくラーメン食べれんね」
    「あなたと違って小生は若者ですので」
     ああ言えばこう言う。一二三は呆れて茹ですぎで食感が死んだそばを啜った。
     突然いやに大きな話し声が響いて一二三は器から顔を上げた。声がする方向を探して身体を横に傾ける。幻太郎の背後に座るトラック運転手らしいき男が食事をしながら、ハンズフリーのイヤホンマイクで電話をかけているらしい。
    「わかってるよ。ヨウタの誕生日プレゼントはスパイクだろ? サイズは二十二センチだったよな。……え、いまは二十三? また大きくなったのか」
     男は電話口の相手と我が子の誕生日に買うプレゼントの確認をしているらしい。背中しか見えないのでなんとも言えないが、声だけ聞いていると三十代後半から四十代前半に思える。とすると一二三と同じくらいのときに父親になっていたのだろう。家庭を持って退店していった元先輩から最近子どもが産まれたと知らせが届いたせいだろうか。具体性を帯びていてついそんなことを考えてしまう。
    「どうしました? 伸びますよ」
    「最初っからぶよぶよだからモーマンタイ」
     残りの麺を啜る。器の中身が底に沈んだカスみたいな切れっ端の麺と汁だけになった頃。いつの間にかトラック運転手の電話は終わっていて、一二三は申し訳ない程度に浮かぶネギのひとつを箸で摘んで口に運んだ。
     
     
     
     車に戻り、変わらず幻太郎が運転席に、一二三は助手席に座った。アクセルを踏んでハンドルを回す傍らで、一二三は車載のコンポをいじってラジオをつけた。
    「こっからどんくらい?」
    「四十分弱じゃないですかね」
    「ちっか! 休む必要あった?」
    「腹ごしらえができたじゃないですか」
     車はサービスエリアの駐車場を出てふたたび高速道路を走り出した。ラジオからは世界大戦前に流行したポップスが流れている。
    「イタリアはまた今度かー」
    「いつか行けるといいですねえ」
    「いつかっていつ? しわしわのじーちゃんになる前には行きてーなー」
     流れていたポップスがフェードアウトして、パーソナリティの解説がいやにはっきりと聞こえた。幻太郎が何を言っているんだという顔をして一二三を一瞥し、きゅっとくちびるを噛んで黙ってしまったせいだった。
    「メンゴメンゴ! ちょっち間違えた」
    「はあ、そうですか」
     一二三は瞬時に幻太郎との認識の差を察し、話題を切り替えたが、幻太郎も同じく察したかは不明だ。特に言及もなく、一二三が提供した当たり障りのない話題に幻太郎が乗り、大した意味もない会話が続く。
     高速を降りてしばらく走ると、背丈が低い建物が並ぶ町に来ていた。どこからどう見ても田舎だ。たまに見かけるコンビニが中途半端さをかもしだし、ド田舎ほどの解放感はない。気分が変わるだろうかと思い、助手席の窓を下げる。すると、吹きこむ風は潮の香りがした。
     どうやら海が近いらしい。
     
     
     
     車の進行速度がゆるやかに遅くなり、幻太郎がハンドルを右にきって車を止めたのは、『かめのや』と看板がかかった建物の敷地だった。大きめの民家といった外観で、駐車場を囲んで二階建ての建物があり、それらは渡しの廊下で繋がっていた。宿に間違いないだろうが、ホテルや旅館ではなさそうだ。おそらく民宿というものだろう。
    「さ、降りますよ。ここは二世帯のご家族が運営している宿ですから、女性もいます。ジャケットを羽織った方が安全かと」
    「ウィーッス」
     後部座席に畳んでいたジャケットに袖を通して車を降りる。砂利をざくざくと踏んで、幻太郎が迷いなく引き戸を開けた。
    「ごめんください」
     幻太郎が言うと、白髪の女性が奥から現れた。常ならばジャケットを着た一二三は老いも若きも問わず、すかさず女性にあまい言葉をかけるのだが、今回は幻太郎を差し置いて出しゃばることはしなかった。一歩前に出ようとした瞬間、幻太郎が腕で制してきたことのも一因だが、隣の部屋から顔を出しては引っ込めを繰り返している小さな人影が気になってしまったからだ。三、四歳くらいの、頬がふくふくとした男の子だ。警戒しながらも気になるらしく、一二三の視線に気づいて一度姿を隠してしまったが、少しするとまた顔を覗かせる。
    「部屋は二階だそうです。伊弉冉さん?」
    「すまない。まだ寝ぼけているみたいだ。眩しいほどの魅力を携えた君がそばにいるというのに、僕はどうしてしまったんだろう」
    「はいはいそうですか。取り合うのが面倒なのでさっさとそれ脱いでください」
     人間がふたりすれ違うのがようやくと思われる階段を上がり、左手にある襖を開け、畳を踏むなり幻太郎が一二三からジャケットを剥がした。
    「広くね?」
    「大部屋だそうです。奥に小さい部屋もあるんですが、空いていたのでせっかくですし、こちらをお願いしました」
     幻太郎と一二三の部屋は飾り気のないがらんとした和室だった。目測でも二十畳以上ある。一二三が知るホテルや旅館のように、テレビモニターや景色をのぞみながら微睡みを堪能できる広縁があるわけでもなく、ただ広いばかりの殺風景な主室だ。
     畳は使い古され、綻びはないものの、褪せた色をしている。幻太郎はその上に寝転び、手足を大の字に伸ばして、ほらこんなこともできると見せびらかしてみせた。一二三は窓を開けて外の空気を呼び込み、それから幻太郎の隣に座った。
    「これなら喧嘩になっても相撲だろうが、レスリングだろうが、気兼ねなくし放題ですよ」
     想像でもしているのか、幻太郎はふふ、と笑みをこぼした。
    「いざというときには小生が本番仕込みのタイガースープレックスを決めて差し上げましょう」
    「それはフツーに迷惑じゃね!? やめよーぜ。てか、せっかく旅行? に来たんだから、喧嘩する前提はちょっとさあ……」
     つい、なんでも口にしてしまい、さらに相手にも言葉を求める一二三と、嘘で煙に巻いて婉曲的なコミニュケーションを好む幻太郎はこれまで絶えず衝突を繰り返してきた。しかし勝手がわかってきて最近はそれも減ってきたと思っていた一二三は、少々心外だった。裏切られた気持ちだった。
    「おや、すっかりあなたは感情をぶつけてコミュニケーションを取るタイプかと」
    「そーいうとこないとは言わねえけど」
     正しくは感情をぶつけるではなく、感情を伝える方だと自負しているが、訂正するほどの差でもないかと、幻太郎の反論を聞き流した。感情をぶつけるというなら、幻太郎の方がよほど感情的だ。彼は自覚している以上に感情が表情や語調に出る。
     窓を開けていているのに蝉の声が聞こえない。ついこのあいだまで額に汗を浮かべていたというのに、気づけばとうに夏は終わっていた。しんとした余白ばかりの部屋で、一二三は幻太郎の呼吸に耳を澄ませた。屈んだまま目を閉じかけたそのとき、急に幻太郎が起き上がり思いついたように言った。
    「夕食まで時間ありますし、近くのコンビニゆ歯ブラシや下着を買いに行きますよ」
    「最初から泊まるつもりならそー言ってくれりゃあ持ってきたのに」
     適当に買った下着って肌触り悪くて嫌いなんだよなーとぶつくさ文句を言いながらジャケットを取ろうとすると、突然視界が悪くなった。
    「たまたまカバンに入っていました」
     背後から幻太郎が被せてきたキャスケット帽を脱ぎ、振り返ると彼は先に部屋を出て行ってしまった。たまたまだなんて枕詞をつけていたが、十中八九嘘だろう。こういうときにお決まりの「嘘ですけど」を言ってくれればかわいいのに、大抵ネタばらしはしてくれないのだ。一二三は黒いキャスケット帽を被り直し、ついでにベストを脱いで、ウエストからシャツの裾を抜いた。これでいくらか帽子に合う恰好になっただろう。一階に降りる前に手洗い場へ寄り、用を足して階段を降りる。すると玄関前で幻太郎と、先ほど一二三が見かけた男児がなにやら戯れていた。
    「さむらいはどこからきたの?」
    「某は天保十二年、浅草寺へお参りをした帰りにお地蔵様の前で突然眠くなり、起きたときにはここにおった」
     幻太郎の袴を掴んで見上げている男児は不思議そうな表情で惚けていた。
    「ずーっとずーっと昔の、とっても遠いところからやって来ました」
    「すっごーぉい!」
     言い換えた途端、男児は目をキラキラさせてダンダンと床板を踏みながら飛び跳ねた。まんざらでもない様子で微笑む幻太郎がふと顔を上げて一二三に気がつくと、優しい手つきで男児を足元から引き剥がした。
    「油を売っていた待ち人が来たので、また後ほどお話ししましょう」
     男児は案外すんなりと離れて、母親を呼びながら走り去っていった。侍と話したことを報告しに行ったのだろう。
    「油売ってねーし。トイレ行ってたんだって」
    「そうでしたか」
    「にしても意外だったなー。げんたろーって子ども好き?」
    「小生のイメージを守るために返答は差し控えさせていただきます」
     外は日が傾きかけていた。高い建物がないから拓けて見通しのいい、いかにも中途半端な田舎といった風情の道を歩き、コンビニを目指す。看板が錆びて、いまはもう営業していないと思われる中華料理屋や、草木が伸びっぱなしの空き地を通り過ぎ、十分ほどして東京でもよく見かけるコンビニの外観が見えてきた。幸いレジにいる店員は大学生らしき若い男で、店内にいたのも作業着を来た中年の男だけだった。身構えていた緊張を解いて幻太郎の背後から抜け出す。一番マシそうな下着を選んで、幻太郎が持ったカゴの中に放り込む。
    「さっきの子って宿やってるひとの子ども?」
    「それ以外にないでしょう」
    「最初見たとき座敷童かと思った」
    「ふふ、きれいなおかっぱ頭でしたね」
     店内を半周して、幻太郎が飲み物の陳列された冷蔵庫の前で足を止めた。それから少し悩んで緑茶のペットボトルを手に取った。
    「幻太郎はいつも子どもを楽しませる、いいお父さんになりそー」
     幻太郎が取っ手を早々に離したので、重たい冷蔵庫の扉がバタンと大きな音を立てて閉まった。温度差に内側でガラスが白く曇る。どうしたのかと聞くよりも先に幻太郎はずかずかと酒が並ぶ冷蔵庫まで移動し、一二三慌ててそれに続いた。
    「この先いろいろあったとしてさ、もしもいつか子どもとか、孫とかできたら、俺っちにも抱っこさせてね」
     幻太郎が黙ったまま普段からよく飲むビールの缶を乱暴にカゴの中へ落とした。それからゆっくりとこちらを向いて、無表情の中にどこか怒気を纏った翡翠と視線がぶつかった。一瞬一二三がたじろいだ隙にそれはふいと逸らされ、沈黙をBGMにビール、酎ハイ、ハイボールの缶が次々に投げ込まれていく。
    「ちょっ、んな飲むの!?」
    「いいでしょう。今日はもう運転しませんし、せっかくの旅です。羽目を外したい気分なんですよ」
    「明日酒残っても知んねーよ!?」
    「大きなお世話です」
     来たときよりも大股でずんずん歩く幻太郎を追って、慌てて一二三も飲み物やつまみを手に取ってレジで会計が進むカゴの中に入れた。
    「なあげんたろー! 歩くの速いってー!」
     ビニール袋をひとつ持つと言っても聞かないし、なぜだかわからないが怒らせてしまったようだ。颯爽と進んでいく幻太郎を追いかけて横断歩道を渡り、階段を降りていく。するとそこはもう海だった。一二三は浜の細かい砂に足を取られながら必死にその背中を追った。そのうち幻太郎が防波堤に登って腰を下ろした。
    「なんだよ! どーして怒ってんの」
    「怒っていません」
     もうその声が怒っている。
     袋をガサガサと漁って缶ビールをひとつ選ぶと、躊躇いなくプルタブを開けて中身をあおった。あたりは大分薄暗い。一二三は迷って、しかしこれ以上幻太郎の機嫌を損ねても長引くだけだと判断し、彼の隣に座って袋の中からハイボールの缶を取り出した。昼間の陽光が去って、空気が一段と秋めいていた。アルコールで火照る頬を、潮の香りがする秋風が撫でていく。ひんやりとしていて気持ちがいい。
    「暗くなってきた」
    「すっかり日が沈むのも早くなりましたね」
     ぐい、と底に残った残滓を飲み干し、幻太郎が二本目のプルタブを開ける。炭酸が抜ける音が微かに響く。
     一二三はちびちびと一本目を飲みながら、徐々に幻太郎が臍を曲げた理由に検討がつきはじめていた。アルコールが半分ほど胃に収まったそのとき、ふと過ったのは昼間に交わした車中の会話だった。いつかと言うけれど、イタリアの海に行くならいつになるのか。しわしわの老人になる前がいいと口走った、その直後の沈黙。
    「さて」
     いつの間にか二本目も空けたらしく、空洞の音を立てて缶をコンクリの上に置き、幻太郎はぴょんと防波堤から砂浜に降りた。周辺は真っ暗だ。すぐにでも幻太郎を見失ってしまいそうで、一二三は中身が残る缶を置いて同じく防波堤を降りる。
     革靴の中に砂が入り、地面の感触でなんとか砂浜の上を歩いているとわかるが、夜闇に覆われて海と砂浜との境目が見当たらない。うるさいくらいの風と、それから打ち寄せる波の音。その響きで距離を測るしかなかった。ゆらゆらと幻太郎の後ろ姿が暗がりに溶けていく。薄墨で描いた絵のようになっていく背中に向かって、一二三は声を張った。
    「暗れーし危ねえって!」
    「ここね、夏は学生がよく花火をしているそうです。宿にも部活の合宿で学生がひっきりなしに泊りに来るそうで」
     幻太郎の声がところどころ波の音にかき消されながら海辺に響く。一二三は幻太郎を見失ってしまっていた。幻太郎がそこにいることの確証は脈離のない話をはじめたその声だけだった。
    「でー? それがどったのー?」
     風と波に消されてたまるかと叫ぶ。
    「夏はさぞや賑やかであろうと思うのです。ですが夏が終わり、若者の笑い声も、明滅する火の花も消えて……きっと海が淋しがっているから、あなたの声を聞かせてやってくれませんか」
     その直後、一際大きな風が吹いた。合わせて波の音も激しくなる。轟々と風に耳を塞がれながら、一二三はすう、と息を吸って肺を膨らませた。
    「げんたろー!」
     そして幻太郎の名前を叫んだ。語尾が裏返っても気にせず、何度も名前を呼ぶ。絶対に見つけて、捕まえてみせる。息を潜め、影も見えない中で幻太郎を見つけることは困難で、しかたなく幻太郎の名を繰り返し呼び、海に声を聞かせてやる。砂浜の上で幻太郎を探し彷徨っているうちに靴の中が砂でいっぱいになる。声が枯れてしまうのではと思ったそのとき、ようやく砂浜と波の境に立つ幻太郎を見つけた。
    「だー! やっといた!」
    「意外と時間がかかりましたね」
    「幻太郎が気配消すからっしょ」
     砂を踏みながら一歩ずつ近づいていく。
    「あんさ、幻太郎が怒った理由、たぶんだけどわかったよ」
    「ほう」
    「その前に、昼間にイタリア行くならしわしわのじーちゃんになる前がいいって言った話、思い出してほしーんだけど」
    「覚えてますよ」
     幻太郎に近づきすぎる前に一二三は足を止めた。この話を打ち明けるなら、彼の表情を見るのは少し怖かったからだ。
    「俺っちも自分で言って、無意識にずっと先の未来にも幻太郎がそばにいると思っててびっくりしたんだよね」
     幻太郎はなにも言わない。波の音だけが相槌を打っていた。
    「あんときげんたろーってば、ぽかーんとしてたじゃん? で、傷ついてる自分にも驚いたし、やべー! ってなった」
    「……」
    「幻太郎が怒ったのも同じっしょ? 俺っちが子どもとか孫とかできたら会わせてって言ったら怒ったのは、幻太郎の中にある俺っちといる未来を否定されたから……だから怒ったんだよな」
     緊張と叫びすぎで喉がカラカラで、声も掠れてしまっていた。一二三は努めて笑みを作り、俯きかけていた顔を上げた。
    「俺っちたちはお互いに自覚してないところで、とっくの昔に自分たちの未来に相手がいると思ってたんだって。でも相手もそうであってほしいって望んでなかったから、すれ違って悲しくなってた」
     一二三のイタリア旅行には幻太郎が一緒にいて、それが老人になるほど先のことになったとしても変わらなくて。
     幻太郎はこの先も一二三といるつもりだったから、女性の伴侶を得て子どもや孫を授かる未来を描いていなかった。
     ふたりとも一緒にいる未来を信じきっていたのに、無自覚で、だから相手にも同じ未来を考えていてほしいと願うまでに至っていなかった。
    「どうなるかなんてわかんねーけど、いまは俺っちも、幻太郎もずっと一緒にいたいって思ってるんだって、それだけ共有できたらさ、すげーうれしい!」
     笑っていると不安も恐れも追い越して前へ進める気持ちになってくる。一二三は止めていた足取りを再開し、幻太郎に手を伸ばした。
    「よっと……つっかまえた」
     風に舞って暴れる着物の袖ごと抱き込んで、ぎゅうぎゅうに抱きしめた。
    「さっきはごめんな」
    「いえ……いいんです。小生もすみませんでした」
    「しょーがねえって。なんもわかってなかったんだからさ」
     肩口に埋めていた額を上げて幻太郎の頬に触れる。ビール二本分、あるいは感情の昂りの分だけ幻太郎の頬は熱くなっていた。その熱が潮風に冷えていた指先をじわりと温める。
    「伊弉冉さんのそれも、小生のこれも、どちらも夢物語だ」
    「いーじゃん。想像は自由だって、物語書いてる幻太郎の方がよくわかってるっしょ」
    「……望んでいてもいいのですか」
    「いいんじゃん? 俺っちはすげーうれしいよ」
     いつかは消えてしまう。いつでも消えてしまえる。そんなふりをして一二三に名前を呼ばせなければ、均衡を保てなかった幻太郎の心ごと腕の中に閉じ込めたくて、一二三は回した腕に力を込めた。
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    n_onfz

    MOURNING『さざなむ、さざなむ』②潮とアルコールのにおいを浴室で洗い流し、宿で用意された夕食で腹を満たした。広間と言うには狭く、それこそ学生寮の食堂のようなダイニングで目玉焼きが乗ったハンバーグとトマトのサラダ、遠慮がちに玉ねぎが浮かぶコンソメスープ、なんの変哲もない白米を食べた。海辺の宿だから魚介を期待していたのだが、随分と家庭的なもてなしであった。味は特別美味しいわけでも、不味いわけでもなかった。それこそ学生のときに行った宿泊学習で食べた食事と味の印象が似ている。
    「んー正直俺っちが作ったハンバーグの方が断然うまいね」
    「凝り性で、手間ひま掛けるのが半ば趣味のようなあなたの料理とは趣が異なって当然でしょう。あの場で言わなかっただけ評価します」
    「さすがに言わねーよ?」
    「初対面で小生の服装を馬鹿にした前科があるのをお忘れで?」
     外出中に押入れから出されていた布団を広げて敷きながら幻太郎が一二三をじとりと睨んだ。なにかとうっかりした発言をするとこの件を持ち出してくるのだ。一二三にとってはとうの昔に過ぎたことなので、蒸し返されるたびに理不尽を感じる。
    「まだ言う!? もーいいじゃん」
    「それを言えるのは小生だけです」 4949

    n_onfz

    MOURNING『さざなむ、さざなむ』①
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     一二三が車に駆け寄るとサイドウィンドウが下がり、運転席に座る幻太郎がハンドルに寄りかかって顔を覗かせる。
    「お疲れさまです。後部座席と助手席、どちらでもお好きな方へどうぞ」
    「寂しがりな子猫ちゃんだ。そんな風に試さなくても助手席にお邪魔するよ」
     助手席に座り、シートベルトをする前にジャケットを脱ぐ。後部座席に畳んでそれを置くと、顔を顰める幻太郎と目が合った。
    「どった?」
    「いいえ。あなたがトンチンカンなのはいつものことでしたね」
    「なになに〜? 失礼じゃね」
     それこそいつものことだけれど。シートベルトを締めてまもなく車が発進した。
    「こんな夜中にさあ、どこ行くわけ」
    「今年の夏は行きそびれてしまったので海に行こうかと」
    「ふーん。どこの?」
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