伊藤彦作の話 僕が願うことは、唯一つ。
どうか、この夢が永遠に続きますように。
どうか、どうか…
伊藤彦作の話
「彦ちゃん、イエーイ!」
そのアイドルグループのオーディションの合格発表を聞くや否や、前田利家が隣に立っている伊藤彦作に向き合ってハイタッチをする。彦作も「利ちゃん、やったね!」と、ハイタッチに応じる。
前田様、だぞ。そのお方は。僕なんかがおいそれと口を利けるお方ではない。北陸方面軍の大将の一人、前田利家様なんだぞ。
彦作の脳裏にはそう呟くもう一人の自分がいる。
でも、彦作の体は、はしゃぎながら、その『利ちゃん』と談笑している。
これは、何だ?これは、一体何だ?
彦作は不思議な気持ちで、内側から外側の景色を眺めている。
周りにいる人たちは、皆知っている。旧知の小姓仲間たち。だけど、自分の知っている小姓たちとはちょっと違う。蘭丸くんはもっと若いし、堀様や、長谷川様と僕は同じように過ごせる立場じゃない。だけど、みんなが違和感なく、このよく分からない世界に馴染んでいる。
僕だけがおかしいのか、彦作はずっとその感覚から抜け出せない。
彦作が知っている世界は、もっと単純で、血生臭い世界だった。今の世界から見れば、そう人はそこを『戦国時代』と呼ぶのだろう。
だったら、この世界は何なのだ?アイドルグループ『うつけ坂49』、これは一体何の冗談だ?
収録を見守る信長と目が合う。あの信長も彦作が知っている信長とは少し違う。彦作の主君の信長は、もっと…
その信長は彦作の方に体を向けると、彦作を見て、ゆっくりと首を横に振る。そして人差し指をその唇に当てた。
「余計なことは言うな」それは、そう伝えているように彦作には見えた。
信長から彦作が呼ばれたのは、その収録の直後のことだった。
「彦作、お前に頼みがあってな」
この世界での、信長は小姓たちに一定の距離を取る。そして、とても冷たい。
それはうつけ坂の楽屋でも話題に上る。ただそれは『蘭丸くんには優しいのに』という愚痴を伴うものに過ぎないのだが。
それくらい、「この世界」の信長は蘭丸贔屓に徹している。それはグループ内に派閥を生むくらいに露骨だ。
「頼みとは何でしょう?」彦作は尋ねる。
「うつけ坂が蘭丸派と反蘭丸派に別れてるのは知ってるな?」
…それはあなたのせいでしょう?とはさすがのこちらの世界の自分の口からも言えないから、彦作は曖昧に首を縦に振る。
「お前には、反蘭丸派側のスパイをして欲しいんだ」
「え?」
しまった、頭で考えるよりも先に声が出てしまった。信長はそんな彦作を一瞥すると、言葉を続ける。
「…お前の妹な、順調に回復するぞ」と。
それは彦作には強烈すぎる一撃だった。
…それは、だって…
それは、あの世界の話じゃないか…
「彦作、あの時代の記憶があるのは多分お前だけだ」
そんな彦作をよそに信長は言葉を続ける。
「この世界はオレの罪滅ぼしのようなもんでな、多分。オレもどうしてこうなっているのかは正直よく分からんのだ。ただ、いずれオレたちは元の世界に戻る。それまでは、この平和を楽しんで欲しかったんだけどな。何故かお前だけ覚えているようだったからな」
夢じゃなかった。自分の違和感の方が正しかった。
彦作は足元から震えがくるのが分かった。それは自分が「おかしかったんじゃないか」と思っていたことが肯定されたからではない。信長様は分かっている。そのことが恐ろしかった。信長様は、あの世界の自分がこの後どうなるのかを分かっている。
彦作は、自分の違和感の正体を探るために、この世界で色々知りすぎた。
そして知ってはいけないことまで、勿論知ってしまっていた。
ただ、それが、自分の現実と繋がるのかどうかの確信はなかった。ただ、今それは確信となってしまったのだ。
信長は確かに言った。「罪滅ぼし」だと。
彦作は、思わず膝から崩れ落ちる。
自分が知っている信長様は、恐ろしい人だったけれども、小姓たちにはとても優しい人だった。その主君がこの世界ではとても冷徹だ。それは、もしかして…
「もしかして、信長様が、蘭丸くんにだけ優しくするのは、僕たちに嫌われるためですか?」
ずっと聴きたかったことが口から出た。
「僕たちがあなたを嫌えば、あの日のあなたに自分の命を捧げなくなるかもしれないからですか?」
声が震える。きっと、蘭丸は何があっても命を張って信長を守るだろう。それは信長がどんな態度を取っていても変わらない。
だけれども、他の小姓ならば、気が変わって主君を見捨てるとでもこの人は思っているのだろうか。
「信長様と僕の二人が、この記憶を持ってあの時代に帰れるなら、時代を変えることだって…」
「それはダメだ」彦作が言い終わらない内に信長が断罪する。
「それは歴史が許さない。それに、多分、オレもきっと今の記憶はなくしてしまう。あの時代に戻ったらお前ら小姓たちからも今の記憶はなくなってしまうはずだ」
だったら、この時代で信長様が嫌われてしまう必要もない。だから、ここにあるのは、信長様の自分たちへの罪悪感なのだろう。
彦作は、立ち上がり、信長を見据えて言う。
「スパイ、引き受けます。あなたの命令に従わない選択は僕にはありませんよ」
それは、あの時代に自分の病気の妹に良い医者をつけて治療してくれた主君だからだけではない。
「信長様。あなたが今この時代でどんな悪あがきをしても無駄です」彦作の目には少し涙が浮んでくる。
「僕たち小姓は何があっても、あの日、あの場所のあなたを助けますから、僕たちはあなたが思っている以上にあなたのことが好きですよ。僕たち小姓を舐めないでください」
この時代の自分だからこそ言える言葉も添えて信長に返す。
「そうか」
いつものように鷹揚に笑う信長の目尻があの時代の信長と同じだったことを彦作は見逃さなかった。
僕が願うのは、一日でも長く、この世界が続くこと。
そして、一日でも長く、みんなで楽しく過ごせること。
僕たちの未来は決して明るくないことを僕は知ってしまったから。
それはとても、しんどいことではあるけれど。
僕しかできない仕事を得た僕は果報者なのだと思う。
それが、スパイという仕事であっても。
この世界でみんなが楽しくあるために、そのためのスパイでいようと僕は決めたのだ。