愛をあげるうつくしい手を持つ人だ。幼心にそう思っていた。父の手は美しくて、だからあんなに美しい人形を作る事が出来るのだと信じていた。一体一体――一人一人を大切に、己の心を切り分けて与えるような、そんな禁じ手を使っているとしか思えない程、父の作る人形達は美しくて、豊かな心と眩い笑顔を持っていた。
アルジュナはとある店の店長を務めている。取り扱いはただ一つ、観用少女という生きた人形だ。主人を待って微睡むその人形達を、叶うなら幸せな出会いの元に送り出したい。アルジュナの願いはそればかりで、人形達がただの世話係としてしかアルジュナを見ていないのだとしても思いは変わらない。変わらないけれど、一際強くそう思う人形達はいる。
マガヴァーンという観用少女の作り手がいる。どれも極上という評価の冠を被り、最高の質に似合う最高の値で取引される。特徴は観用少女たちの愛情深さで、観用少女はどの作り手でも持ち主にだけは天使のような笑顔を向けるものだが、マガヴァーンの観用少女は時に主人を狂わせる程の愛をただ一人だけに注ぐのだという。
ショウウィンドウに座らせていた観用少女を下げる。不幸な偶然が重なって店に戻って来た人形だ。あまりに買い手がつかないので彼女の王子様がすれ違ってはくれないものかと置いてみたが、今日もこの観用少女は微睡んだままだ。丁寧に寝床に運び、幾重にもカーテンを下ろしてアルジュナは観用少女達の寝室を後にする。おやすみの挨拶を残して店を施錠し、夜が更ける前にアルジュナも自分の寝室に辿り着くべく帰路を進んだ。
家には灯りが点いていて、果たしてどちらかと思いながら扉を開ける。この家で夜遅くに灯りがついている時は、集中しているか飲んでいるかの二択だった。
「ただいま帰りました、……父様?飲んでないのですか?」
「よく戻った。酒よりオルタが離れなくてだな、」
それは父様がオルタに離れて欲しくないからでは、とは言わない。そんな事はきっと父が一番理解している筈だ。――筈だと信じたい。
アルジュナの父、インドラは、マガヴァーンの名で観用少女の職人をしている。その一方血族で受け継いで来た財閥を組み換えとある企業の社長としても腕を振るう多忙な日々を極めている。それでも夜は必ずアルジュナと暮らすこの家に帰って来るし、本当は夕食を共にしたがっている事もアルジュナは知っている。たまの穏やかな朝食を、どれだけ憩いにしているかも把握していた。
アルジュナが観用少女に係わる職業を選んだのも勿論インドラの影響だ。尊敬する父の仕事はずっと見て来て、アルジュナは何時からかインドラの作る観用少女達を自分の目で判断した相手に渡したいと思うようになって行った。マガヴァーンの、インドラの観用少女達を――自分の妹達を幸せにしてくれる人を自分で見極めたい。だからアルジュナはインドラの反対を聞かずにあの店で働いているのだ。もっともインドラの反対した理由もあの店は家から遠いだろうというものだったので、反対する者は皆無だったとも言えるのだが。
「ただいま、オルタ。父様を見ていてくださってありがとうございます」
「あ、アルジュナ……?」
オルタはインドラの膝の上からアルジュナに手を伸ばした。小さな体を抱き上げると、ふわりと甘いミルクの匂いに混ざってハーブと果実の香りがした。
インドラの膝の上でインドラの望みを叶えていたオルタは観用少女だ。観用少女、と言うにには少々語弊があり、インドラはオルタを観用「少年」として作った。観用少年、と言うか、生きた人形にするつもりは無かったらしいが。インドラはただ人形を作っただけなのだ。就職して会う時間が減った息子の、幼い頃の姿の人形を。そうしたら気付いたらそれはただの人形では無く、マガヴァーンの手がけた世界唯一の観用少年になっていた、という次第である。
「オルタ、今日は入浴したのですね。相変わらず懐かしい香りです」
「……おまえはその香りを好いていただろう」
「今も好きですよ。ただ観用少女は甘い匂いがする方が好みなようで」
「そのように甘い香りで不便は無いのか」
「不便ですか?特には……ああ、御心配無く。私腕っ節には自信よりも自負がありまして」
「知っているが、それだけでは排しきれん不便があるかもしれんだろう」
心配性の父親が年頃の娘に向けるようなそれを迷いなくぶつけてくるので苦笑する他無い。いつまでも、今までも、これからも、インドラにとって自分はずっと大切な可愛い子供なのだと、アルジュナは知っているのだ。愛情深いマガヴァーンの観用少女、その生みの親が薄情である筈が無い。あれだけの愛を注げる観用少女の作り手なのだから当然だ。それにそんな論拠が無くても、インドラがどれだけ自分を大切に愛して慈しんでいるかは、この人生こそが証拠だった。
「……そうですね、交通機関が混んでいたりすると流石に危機があるやもしれません」
「ああ!?あ、いや、そうだな。やはりあの店は辞めてもっと近くで働いたらどうだ?近所の花屋とかどうだ?」
「いいえ、店を辞めるつもりはありません。ですが交通手段には一考の余地があるかと」
アルジュナの考えを読んだオルタが喜んだ様子で抱き着いてくる。幼い頃の自分はもう少し恥ずかしがっていたようにも思うが、まあインドラから見れば何もかもが愛らしかったに違いない。それにオルタが可愛いのはアルジュナも同じだった。オルタはアルジュナの弟なのだから。
「信頼できる運転手の送迎があると、私も父様も落ち着いて安心もできる通勤になるのではないでしょうか」
「そうだな……少し待て、すぐに運転手を探して」
「ところで父様仕事を辞めてみては?」
「はあ!?」
インドラが社長業をしているのはアルジュナを養うためで、そのアルジュナが職を得た今必要は無くなったのだ。元々アルジュナはインドラの観用少女職人の仕事は好きだったが、未だ財閥の流れの残る企業の仕事は好きじゃなかった。そちらの仕事の方が余程インドラを切り刻んでいるように思えてならなかったのだ。自分のためなのに自分のせいで迷惑はかけられないと思っていたが、もう言えるとアルジュナは判断した。
暮らし慣れたこの家と、インドラとアルジュナとオルタの家族、そして互いの望んだ職業。これらが守られる事だけが自分達の幸いだ。アルジュナがわかっているのだから、偉大な父はとっくに察している筈である。
「私の夢は、私の店を父様の観用少女でいっぱいにする事ですよ」
腕の中のオルタが強請ってくれたので、インドラはオルタごとアルジュナを抱きしめる事が叶った。アルジュナの店はいつしかマガヴァーンの観用少女の専門店となり、多くの妹達の出会いを笑顔で見送るようになったのだった。