夕暮れの記憶今年で大学3年生となるアキラ。
今年度の下期は、必修科目の関係で火曜日にだけ6講があり、どうしても帰るのが遅くなってしまうのだった。初回のオリエンテーションを終え、同級生への挨拶も程々にそそくさと帰路につく。
いつもならもうとっくに帰宅しているような時間帯、家から最寄りのバス停を降りる。通学のため大学から少々離れた安いアパートを借りているのだが、3年目となるともうすっかりこの辺りも見慣れたものだ。
晩夏を思わせる、少し涼しいような、けれどもまだ湿気を帯びたような…なんともいえない不快な風が、アキラの頬をなでる。日照時間は日に日に短くなっており、家々の連なる風景は夕暮れに照らされ真っ赤に反射し、黒く長い影を落としていた。
アキラの住むアパートからほど近い距離、右手には小さな公園があり、必ずその横を通る必要があるのだが…この時間帯なことも相まって、子供たちの影もないそこはどこか不気味な雰囲気が漂っていた。
───さっさと通り過ぎてしまおう。
そう早歩きでいると、突然、近くで人の気配のようなものを感じた気がした。……不思議なことに、話し声はおろか、足音すらもまったく聞こえない。通り過ぎた視界の外にある、公園のブランコの金具らしき音がキィー…キィー…と、生ぬるい風とともにアキラの鼓膜をかすめた。
……思わず、生唾を飲む。
いくら自身が男だとはいえ、立ち止まることも、辺りを見回すことも出来ないまま、ただまっすぐ前だけを見つめ、自宅のアパートを目指したのだった。
そして翌週の火曜、同じ時刻───。
帰路につくと、やはり公園の近くで人のような気配を感じる。
『見ちゃだめだ。』
そう、本能でわかってはいたけれど…なぜだか、どうしても興味をおさえられず、ついに公園のほうへ視線を向けてしまった。
アキラはそこで見たものに、思わず小さく声が漏れそうになったが、同時に安堵する。公園のいちばん奥、反対側の道路に背を向けるかたちでぽつんと設置された2人掛けのベンチに、若いシリオンの男性が腰掛けていたのだ。彼は誰もいない公園で独り、足を組んで本を読んでいるようだった。
……なんだ、生きてる人間じゃないか。自分の勝手な勘違いに申し訳なさを覚えながらもアキラは胸をなでおろし、その日は何事もなく帰宅したのだった。
そうしてまた次の火曜日、アキラが再びその公園の横を通ると、やはり彼は同じ場所で読者をしていた。よくよく見るとその男性、おそらく色素の薄い髪色なのか、後方から差す夕陽に真っ赤に染められ、ネコのような耳と、長いしっぽが後ろで揺らめいていた────。
アキラはその姿に、やけに興味を惹かれてしまう。気がつけば足取りはそちらへ向かい、ついには男性の目の前まで来てしまっていた。
「……なに、」
彼は口を開き、アキラを見上げる。目が合ったその一瞬、彼の瞳がなにかしらの引力を帯びているかのように、ぐっと身体ごと吸い込まれていく感覚をおぼえ、呼吸をすることさえも忘れてしまう。
「……オレになんか用?」
「………あっ、…いや、あの………」
「…?」
「……いつもこの時間に、ここにいるなぁ、と思って……」
「………」
まるで彼のストーカーみたいじゃないか…と直ぐさま脳内反省会を繰り広げるアキラに、「……まぁ、家が、近いからさ。」と短く答えてくれた。
───彼の話によると、アキラと同じく大学生で、学年は2つ下。実家を離れ、通学のためにひとりアパートを借りているらしい。名前を尋ねると、『セス』というようだった。なぜこの時間にこの場所で読書をしているのかと訊いたところ、セスはただ、「なんとなく。」とだけ答えた。
それからというもの、アキラは毎週火曜の同じ時間、セスに会うため、公園へ立ち寄ってはなんてことない世間話をすることが楽しみのひとつとなっていた。
セスはアキラの話によく笑い、時たま冗談も言う、明るくて人懐こい印象を与えるようなひとだった。
偶然が重なったとはいえ、学校の外でこんなに気楽に話せる友人ができるだなんて……本来ならただ億劫なだけの6講だが、その時間に設定した教授に感謝しなくちゃだな、そうぼんやり思うアキラだった。
そうして2ヶ月ほど経った、ある日の火曜日───。
いつも通り大学での講義を終え、いつも通りの慣れたバス停を降り、セスに会うためあの公園へと向かうアキラ。
……その途中、ふと、あの日に感じた人のようななにかの気配を察知する。慣れたもので、もうすっかり恐怖というものもなくなっていたアキラは辺りを見回したが、当然、人の姿はない。そのまま先を進むと、やはり足音が1つ多いように思えた。
その音はしだいに近付き、ついには息遣いまで聞こえる距離になる。
アキラはなんだか嫌な予感が走りぱっと後ろを振り返ると、そこには黒い服を着た自分と背丈が同じくらいの男が、瞳孔の開いた目でこちらを見ており顔のすぐ横には光る刃物のようなものを構え、切っ先をアキラに向けていた。
「あ、───────。」
……ころされる。
そう脳裏に過ぎったのとほぼ同時くらいのタイミングで、アキラの視界は暗転した。
混濁した意識の向こうから、サイレンのような音が聞こえ、アキラははっと目を覚ます。……どうやら、自分は倒れてしまっていたようだった。
「っ!…きみ!!怪我はないかい?!気分は?」
治安官の男性が、街灯のそばで横になるアキラを見下ろすかたちで隣に座っていた。
少し頭を上げ、まわりを見やると、パトカーが数台と救急車、そしてあたりには隊員らしき大人たちが何人もうろうろしていた。
「……あ、あの……僕はいったい……?」
「……きみね、不審者に襲われて、ここで倒れていたんだよ。近所の方から通報があったんだ。」
「?!」
……やっぱり、あれは夢ではなかったのだ───。
そして治安官の男性は続ける。
「それでなあ、ちょっと、不可解なことがあって……その不審者の男、きみの近くで泡を吹いて倒れていたんだよ。まるで何かに苦しんでいたかのように、自分の胸をこう、ぐっ…と押さえてさ。」
そう言い自身の胸ぐらをグッと掴んで見せ、男性はアキラに説明してくれた。
幸いどこも怪我は無かったものの、念のためと病院へ連れていかれ、ご丁寧に自宅へと送り届けてくれた。
今日はとんでもない目に遭ったな…、とベッドに倒れ込むアキラ。
「……セス、きっと、待ってくれてたろうな……」
仰向けになり、天井を見つめながら彼の人懐こい笑顔を思い出す。来週また会った時、今日のことを彼に話そう。
特にお互い、約束をしているわけではないけれど…初めて公園に行けなかったことに少しの罪悪感を覚えながらも、どっと押し寄せる疲労感と睡魔に抗えず、そのまま眠りに落ちるのだった。
───気がつくと、アキラは見慣れた景色の中に立っていた。
どうやらここは、近所の公園の中。明るい時間帯なのに、通る車も無ければ、人の姿も無い。
「───アキラ!」
よく知った声に名を呼ばれ、後ろを振り返る。そこにはこちらへ手を振り笑う、銀髪のシリオンの青年の姿があった。
「…っ!…セス!!」
ずっと会いたかった笑顔に、アキラは声を弾ませた。
「こんな時間に会えるなんて、珍しいね?」
「………実はさ、アキラに、見せたいものがあるんだ。」
「見せたいもの?なんだい?」
こっち、と先をゆくセスについて行くと、公園からほど近くにある、小さな路地へ入っていった。…と思うと、直ぐに行き止まりになる。この辺りは古い家屋も多いことから察するに、昔かつてあった細道の名残りのようなものが、きっと多くあるのだろうと思った。
こんなスペースがあったんだな…とこぼすアキラに、「ここ。」と足元を指差した。
そこには花束がいくつも置かれており、セスはただ、じっとそこを見つめていた。
「……オレさ、ここで死んだんだ。」
……え───?
「…それって、どういう……」
アキラは、セスの言ったことがまったく理解できなかった。
……死んだ?セスが?きみは生きてるだろう?いったい、なにを言ってるんだ?
そんな疑問が次から次へと浮かび二の句を継げずに混乱していると、
「……やっと、……やっと、終わったんだ。」
ぐっとなにかを噛み締めるように、セスはそう言った。
そうしてアキラを振り返り、
「短い間だったけれど……ありがとうな。……きみに会えて、楽しかった。」
「…セス?急になに言っ…、っ!」
アキラの言葉を待たず、セスは彼を強く抱き締めた。
「………オレに気付いてくれて、ありがとう。」
「─────────セス……っ!!!!!!」
アキラが手を伸ばすとそこは、見慣れた自室の天井だった。外はすっかり明るくなり、鳥の囀る声が聞こえる。
……自分はどうやら、夢を見ていたらしい。内容も、鮮明に覚えている。
「……セス…、」
夢の中の彼が言ったことは、本当だったのだろうか。
それを確かめるため、アキラは着の身着のまま外へと走り出した。記憶を頼りに息を切らしてその場所へ辿り着くと、確かにそこには小さな行き止まりがあった……が、あの時に見たような花束は、なにひとつ置かれてはいなかった。
「やっぱり、ただの夢……だよな?」
そうして迎えた翌週の火曜日、同じ時刻───。
アキラはいつも通り、あの公園へ向かう。このごろはもうすっかり秋めいて、カラッとした涼しい風が正面からそよそよと吹いてくる。辺りは暗く、街灯の灯りがぽつりぽつりと照らしていく道を歩いてゆき、公園の前で立ち止まる。
──そこにはもう、見慣れた姿は、どこにも見当たらなかった。