冷めた珈琲の味は、覚えてない閉店30分前、普段はそこそこ客が居るカフェも、数分前に一組が帰って僕一人になった。
密かに特等席と呼んでいるカウンターの端の席。その日も、よく注文するオリジナル珈琲をお供に、求人誌と睨めっこをしていた。
他のテーブルを片付けるのを眺めて、そろそろ出なきゃなぁ、って考えながら雑誌に視線を落とせば隅の方で手がヒラヒラ。見慣れた白くて細い指。
顔を上げればよく会話をしてくれる店主が居た。
ゆっくり動く口から鋭い歯が覗いて、一瞬目を奪われる。
それから口全体に目を移して、その動きを読む。なんとなく言われそうな事は分かる。
「また、それ見てるんだね」
ほら。少し気まずくて、つい苦笑い。
「前、決めた所、良くなかったのかい?」
首を横に振る。それから、手元のスマホのメモアプリを開いた。
『落ちちゃいました。全聾は申し訳ないけど、って』
音声をオンにすれば態々彼女に画面を見せなくても聞こえているらしい。店主の目は僕を見たまま、驚いたように少し大きくなった。
「ただの、事務作業…なのに?」
『駄目らしいです。前例が無いらしくて、環境が整ってないんですって』
障害者雇用に力を入れてる所でも、こういう事はよくある。障害と一口言っても、種類があまりにも多い。
少し考えるように口元に手を当てた後、店主はまた僕を見る。
「次のいい所は、あった?」
『とりあえず、今日は見つかりそうにないです』
「じゃあ、うちはどうだい?」
「……」
「……」
驚いて、右手の人差し指で下を指して「ここ?」と聞けば、店主は穏やかな笑顔で両手を下に向けて「ここ」と表す。
とりあえずスマホを手に取る。けど、返答に困った。どう、どうやって伝えようか。
悩んでる間に、店主は伝票の紙を裏にして、何か書き出した。少しして、僕に見せる。
『ちょうど求人を出そうと思っていたんだ。一人でも早く決まれば広告代が浮いて助かる』
『飲食店は初めてです。色々迷惑をかけると思います。障害者雇用の手続きもありますし』
詳しくは知らないけど、申請を出す事で一般雇用とは違うところがあるらしい。役所関係はいつも面倒くさい書類ばかりだ。
けれど、店主は嫌な顔せずに、また何か書いて僕に渡す。
『なるほど、今はそんなものがあるのか。勉強してみるよ』
その手間を考えると、勧誘するにも他をあたる方が良いと思ってしまう。申し訳なくなる。
読んでから顔を上げると店主が何か書いている。文が長いのか、カップに残っている珈琲に口をつけて少し待った。
そしてまた渡される。
『何人も面接して雇ってみるより、最初から真面目に働くと分かっている人間を雇う方がいい。障害者雇用が手間なだけで大して意味が無いなら、店としては一般雇用で構わない。音が聞こえないなんて君が思うより些細な事だよ』
些細な事。差し出された文章をもう一度読む。些細な事と言われている、何も聞こえない事が。友人関係ならともかく、働く上でそう言われたのは初めてだ。
読み終えて店主を見るけど、その表情は変化無く、ただ穏やかだ。
いつも、どこか浮世離れしていると思っているけど、今は、本当に人間じゃないみたい、と思ってしまった。
何か言葉を返そうとスマホの画面をつける。
「……、…!!」
が、表示された時間を見て息を飲んだ。閉店時間過ぎてる!
慌てて右手首を左手の人差し指でさした。店主も店の時計に目を向けて、思い出したようにああ、と言う。
雑誌を片付けて、財布を出している間に店主はまた伝票の裏に何か書いている。手短に会計を済ませてさっさと出ようとすれば、レシートと一緒にさっきの紙を渡される。僕との会話で伝票の紙をだいぶ無駄にしてないかな?
いつもの軽いお辞儀をして、とりあえず店から出る。店主はいつものように軽く手を振ってくれた。
***
少し歩いてから、街灯の下でさっき貰った紙を見る。
『興味があったら履歴書を持っておいで。珈琲を飲むついででいい。その後面接をしよう』
困った。絶対迷惑をかける事が分かってる。客にもスタッフにも。
なんたって視界の外の事は何も気づけないんだ、その普通との違いを僕はよく知っている。
帰ったら、全聾が働いてる飲食店の話を調べてみよう。きっと無い話では無い。
困ってしまう。あんな言葉で誘われたら。
上手くいくイメージなんてひとつも無いのに、僕にも出来るんじゃないか?って期待で胸が膨らむから。
店主の表情を思い出す。あれはきっと、バレてる。
誘われた瞬間僕が喜んでた事、次の時、僕が面接をお願いする事。