お泊まりの朝土曜日の朝は、桜にとってとても特別なものだ。理由は他でもない、彼の恋人である十亀がいるから。
数ヶ月前から誠実なお付き合いを始めた二人は、定期的にどちらかの家にお泊まりをしていた。十亀は一人暮らしではないので、大体は桜の家に泊まる。
泊まるのはいつも金曜日で、一週間の終わりを、二人きりでゆったりと過ごすのが彼らの楽しみ。
泊まりの時は想い人と過ごす夜ということで桜もリラックスできるのかいつもよりも遅い時間まで寝ていて、大抵十亀の方が早く起きて朝食の準備をしている。
そして後から起きた桜がキッチンにいる十亀を見つけて後ろから抱きついたり、時には朝食の準備を手伝ったりする。これが二人の土曜日の朝のルーティーンだった。
だが、この日は少し違い、桜がいつもより早く起きた。
ふと横を見ると、すでに十亀は起きているらしく、布団にはわずかながら温もりが残っていた。
いつもは布団が冷たくなっているので、十亀が起きてからはさほど時間は経っていないようだった。
いつも通りキッチンにいるのかと様子を見に行くが、そこに十亀の姿はなく、桜は不思議に思った。
まあこんな狭い部屋でいなくなる訳ねぇか、と桜は顔を洗うべく洗面所に体を向ける。
その時、たった今向かおうとしていた洗面所の方からなにやら機械音が聞こえてきた。
その音に導かれるように洗面所に行くと、十亀が口元に泡をつけ、何やら機械を充てていた。音の出どころはわかったが、桜は何をしているのかよくわからなかった。
十亀は鏡に映る桜に気付き、「あ、ごめぇん…音で起こしちゃったぁ?」と申し訳なさそうに眉を下げた。
が、桜はまるで十亀の声が届いていないかのような様子で、口を開けてぽかんとしていた。
「…?桜ぁ?どうしたのぉ?もしかして、まだ眠い?いつもより起きるの早いもんねぇ」
いつもと同じようにゆったりと、愛おしそうに恋人にだけ掛ける甘い声で喋る十亀を前に、桜は終始驚いた顔で黙っていた。そして、ようやく口を開いたかと思えば
「とがめ、それ何してるんだ…?」
とまるでわからないといった顔をして言った。
「ん?あぁ、これはねぇ、髭剃ってるの。シェーバーって言ってぇ、髭生えるとチクチクして嫌だからぁ…」
と、十亀は苦い顔をして答えた。
時間ない時は嫌になっちゃうよねぇ、焦っちゃって上手くいかないし…なんて言っているが、桜はそれ以前の問題だった。
「とがめ…髭、生えるのか…??」
と、困惑したように桜は言う。
「えぇ?うん、そりゃまあ俺も男だしぃ…というか、逆に桜は髭生えないのぉ?そういえばこの家、シェーバーもカミソリもないもんねぇ…」
「…チクチクすること、ねぇし…もしかして今まで泊まりに来てた日もそれやってたのか…?」
「まあ、そうだねぇ。勝手に洗面所とか借りちゃってごめんねぇ。桜の近く行くのにチクチクしてたら桜も嫌かなぁって思ってぇ…」
出来るだけ近くでくっついてたいし、と付け加えられた言葉に桜は顔を赤くする。
「いや、それは構わねぇ、けど…」
髭なんて生えたことない、男だと必ず生えるのか…?確かに街で見る人たちには髭が生えている人も多いし…いやでも蘇枋や楡井は生えてないぞ…?と桜が一人悶々としていると、十亀はくすくすと笑い、
「まあ個人差あるみたいだからねぇ。俺は体も大きいし、桜より年上だし…成長スピードはやっぱり違うよねぇ。」と必死に色々考えている桜を諭した。
その後、桜は髭が生えていないのを十亀に確認してもらうため口元を思いっきり顔に近付け、
「なぁ、髭生えてないよな…?俺、まだあのし、しぇーばー?かみそり?ってやついらねえよな…?」
と半ば不安そうに聞き、十亀は突然近付いてきた好きな子の唇に気を取られ
「…あーうんうんそうだねぇ、なーんにも生えてないねぇ…というかシェーバー必要になったら俺が貸すし…」
と適当に返したのち、その柔らかな唇にキスを落とした。
桜は慌てて離れ、俺は真剣に悩んでんだぞ!などと顔を真っ赤にして吠えるが、時すでに遅し。
そうして二人のいつもよりさらに特別な土曜日の朝が始まった。
お泊まりが終わり月曜日の朝。
風鈴高校1-1では、「お前らも髭生えるのか…?」とクラスのみんなに聞いて回る級長の姿が見られたとか…。