啓護くんが怪我をしたとき僕は彼のすぐ傍にいた。
その日は天気が良くて、いろいろ買い出しもしておかないとって二人で出かけたんだ。僕はドラッグストアで買った洗剤とか水物と食料品の入ったエコバックを両手に下げていて、啓護くんはトイレットペーパーの袋と僕の方に入りきらなかった荷物を少しだけいれた袋を持っていた。これ以上は持てないな、と一度家に帰ることにした。
交差点で信号待ちをしている時、えっと、僕は何をしていたんだっけ。そうだ反対側の歩道にいる人の服の色が今度描く絵本の表紙に合う気がすると思って絵の具の混ぜる配分をぼんやりと考えてたんだ。啓護くんも何を話すでもなく、普通に信号が青になるのを待っていただけだ、なんでもなかったんだ、そんなこと人生に何万回だってあるでしょう?
でもそこに車が突っ込んでくることはほとんどの人の人生にはないでしょう?
ブレーキの音が聞こえて振り向いたときには僕の身体は啓護くんに突き飛ばされていた。世界がスローモーションになったみたいに啓護くんが右側から車に跳ね飛ばされて車は街路樹にぶつかって止まって、どこかから女の人の悲鳴と救急車って叫ぶ声と、倒れている啓護くんと散らばった買い物、破れた袋からトイレットペーパーがころころと転がって、ああ、そんなのはどうでもいい、僕は何もかも放り出して啓護くんに駆け寄って馬鹿みたいに名前を呼んで、啓護くんは意識はあって「大丈夫だ、心配するな」って言ってたけど、多分身体を動かすことは出来なかった。それからすぐに来た救急車に乗って病院へ運ばれた。検査中廊下で待っている間不自然に歪んだ彼の右手が頭から離れなかった。
命に別状は無かったけれど啓護くんは大腿の骨と手首の骨と、手の甲の骨の骨折、擦り傷がたくさん。頭を打っているから頭部のCTも撮った。警察の人も来たし、保険屋の人も来た、それで骨折の方は手術になるってそのまま入院した。入院の書類を書きに来てくれたのは彼のお父さんで、啓護くんと医師と少し話した後何も言わずに僕の肩をぽんっと叩いて帰ってしまった。そのあと叔父さんが病室に来て要る物をあれやこれやと挙げて明日持ってくるから!と言って最後に「お前さんの命が助かっただけで俺も兄貴も義姉さんも、啓護ちゃんのにーちゃんも十分だよ。」と、そしてかすれるような声でよかった、と呟いた。そこで僕はみっともなくぼろぼろと涙を流しながら床にはいつくばって謝罪した。
ごめんなさい、僕が居たのに、隣にいたのに、啓護くんに助けてもらってごめんなさい、助けられなくて、何の役にも立たなくて、ごめんなさい、ごめんなさい。
僕の事なんか助けなければ啓護くんの手は壊れたりしなかったのに。
「ちがう。」
ぽつり、と啓護くんが言った。僕はその時の啓護くんの顔は知らない。怖くて頭があげられなかった。病院の床しか見ていなかった。
「叔父上、七朗を連れて帰ってもらえますか?そいつにも休息が必要だ。七朗、一度帰れ。」
「啓護くん…。」
「七朗、俺は後悔していない。」
叔父さんに腕を引かれて病室を出て車に乗せられた。啓護くんと住んでいる家にはすぐ着いた、そうかあそこは出版社に行く途中に通るあの大きな病院だったのか。
車を降りてお礼を言うと彼の叔父さんがどうにも困ったような顔で言った。
「しちろーちゃんのせいじゃねぇよ。俺らだってそんなこと思ってない。それに、兄貴も忙しいからさ、すぐ帰っちまっただろ?あいつの兄だって今日は遠くにいてこれなくてさ、心配はしてんのよ?だけど仕事人間っつーか、そんなやつばっかよ鍋島家は、だからずっと啓護ちゃんと一緒にいてくれてありがとな。俺は暇だからさ、また来るよ。」
車を見送って、その日は一睡もできなかった。
手術は思ったよりすぐに行われた。早い方がいいらしいって啓護くんは言っていた。僕はお医者さんの説明は聞いてない、家族じゃないから聞けない。啓護くんの大腿骨と手首と手には金属が入った、骨がくっついたらまた今度はこれを抜く手術をする。僕は最初は毎日面会時間いっぱい病院に入り浸っていたけど啓護くんに怒られたから隔日にした。初日ほど取り乱すことは無いけどやっぱり包帯でぐるぐるの手を見るとどうにもならない感情が胸にあふれ出す。
分かっている、事故なんてどうしようもないことがほとんどで、僕が啓護くんにけがをさせたわけじゃなくて、啓護くんは僕が罪悪感を抱くことを良しとしていない。だから僕は罪悪感に蓋をしてなるべくいつも通りに笑って啓護くんに会いに来る。
佐藤くんとの打ち合わせのために早めに病室を出て廊下を歩いていると前から来た平尾先輩と鉢合わせた。
「やぁ、ご無沙汰していますね、野薔薇くん。」
「そうでもないですよ。あ、先輩、ぴよこですか?」
平尾先輩のもった紙袋に目を止める。可愛らしい?ひよこの絵が描かれた見慣れた袋、そう見慣れているのだ。
「ええ、啓護くんお好きでしょう?」
「うーん、好きなんですけど、みんな持ってくるから、入院してから啓護くんおやつに毎日ぴよこ食べてて…。もしかしたら嫌がるかも。」
「おやおや、俄然楽しみですね。よかった野薔薇くんも一緒に啓護くんの嫌そうな顔みませんか?」
「すみません、今日は用事があって!今度また!」
啓護くんの病室に入っていく平尾先輩を見て喧嘩して看護師さんに怒られるような事態にならないといいなぁと思いつつ啓護くんの病室から途切れることないぴよこに彼がいろんな人に愛されているんだな、と実感する。
最近は音楽関係の、例えば楽団の偉い人とか、良くわからないけどそんなような人もよく来ているみたい。名刺ホルダーを買って来いと言われるくらいに。なんだろう?なぜかみんなぴよこを買ってくる。
退院した啓護くんを迎えに行ったのは僕だった。御家族じゃなくて良かったの?と聞いたら同じようなものだろう、と何でもない様に返された。入院中の備品や衣類はほとんどレンタルしたから荷物なんてほとんどない。看護師さんに頭を下げてタクシーに乗り込んだ。リハビリはまだまだ続くけどそれはもっと家に近い整形の病院へ変わる。歩いていける距離でそれもリハビリになる。
「帰ったら少し話したいことがある。」
そう言った啓護くんに僕は小さく頷いた。
荷物を片付けて、松葉杖を使って啓護くんが向かったのはピアノが置いてある部屋だった。僕は心臓がばくばくするのを抑えられなかった、ぎゅっとパーカーを握りしめて立ち尽くすしかできない。
演奏用の椅子に座った啓護くんが真っ直ぐに僕を見る。その顔に悲壮とか絶望とかそんな感じは無くてむしろ少しだけ穏やかな顔に見えた。
「ピアノはやめる。」
ひゅ、とのどが鳴った。なんとなく予感はしていた。啓護くんならそういう選択をするんじゃないかって思っていた。
「なんで!」
でもそう言わずにはいられなかった。
「どれほどリハビリをしても前ほどのパフォーマンスは出来ない。それにこうしている間にも腕は落ちていくし、完璧な演奏ができないなら舞台に立つべきではない。」
日常生活に支障はない、と言うのは前と変わらない、と言うことではない。残ってしまう不調や可動制限はあるのだろう、ピアノに対して真摯である啓護くんがそれを許すはずがない。
「それは俺自身が許せない。」
「…でも!」
「なにもかもやめるわけではない。楽団からは指導者として残ってほしいと言われているし、作曲の仕事もいくらかもらっている。楽曲作成ソフトを使ってほしいというのもあったな、当面は仕事に困ることは無いだろう。貯金もあるし、どうしようもなくなったら子供相手にピアノの先生でもやるさ。」
「でも…。」
「いいんだ、七朗。お前にもすまなかったな。仮に、お前が俺をかばってもう筆を握れなくなったとしたらと考えたら…死んだ方がましだ。つらい思いをさせたな。」
また僕は涙が止まらなくなってしまった。神様、どうして、この人なの。どうしてこの人にここまでの才能を与えておいてこんな風に取り上げるの。
啓護くんの左手が優しくビアノの黒い身体を撫でる。
「それでも…それでも時々、どうしてもこいつを弾きたくなってしまった時は、七朗、お前だけは、聴いてくれるか?」
手を伸ばしその細い身体を抱きしめた。ああ、ただでさえ細身なのに入院中にさらに痩せてしまったんじゃないのか。パーカーに顔を押し付けて見ない様にした。
「聴くよ。僕はいつだって君のそばで、ずっと聴かせてほしい。」
「七朗、」
すまない、という声は引き攣ってはっきりとした言葉にならなかった。
「失礼します。」
「おや、いらっしゃい。どうしましたか?」
バビル出版の社長室を訪ねると珍しく去場社長は不在で平尾先輩一人だった。
「これ、お見舞いのお返しで、本当なら啓護くんが持ってくる方がいいと思ったんですがまだあんまり遠くへの外出はしていなくて。無事退院致しました。」
と、言うのは建前で多分先輩に会いたくなかったんだろうなぁ。出版社いくならついでに持って行けって押し付けられてしまった。
「これはこれはご丁寧に。野薔薇くん時間があるなら少しお茶でもいかがですか?」
応接室に通されてコーヒーと茶請けを出される。目つきの悪いひよこがこちらを見ていた。
「啓護くんはその後お加減いかがです?」
「すっかり良くなりました。松葉づえももういらないみたいだし。手はまだ痛むのかあまり使いたがりませんがもともとピアノで使っていたせいか左手で色々するのが苦じゃないみたいで。本人も昔は左利きだった気がする、って言うくらい。」
「ほう、それは何より。」
かちゃり、と平尾先輩のカップがソーサーに置かれる。平尾先輩のぴよこもこちらを見ている。
「君は、大丈夫ですか?」
そう言われて、そうか、と思った。心配してくれているんだな。昔からなんだかんだで僕たちの事を可愛がってくれているんだよなぁ、啓護くんは構われ過ぎてトラウマになっているけど。
「僕は大丈夫ですよ。怪我なんか全然してないし。」
「そうではなく。」
じっと見る目が、全部わかっていると言っているように思う。全部見透かされているようで昔から平尾先輩には隠し事ができない。
「…僕、おかしいですか?」
「さぁ?」
「…啓護くんが怪我をして、すごく悲しかった、怖かった、後悔しました。どうして啓護くんなんだって、神様はどうして啓護くんをあんな目に合わせたんだろうって。才能を与えておいて唐突に奪う、酷いって。」
「そうですね。」
「でも、啓護くんがピアノをやめたって聞いて、僕は、ほんの少し、嬉しかった!」
平尾先輩は何も言わなかった。わかっていたみたいに表情も崩さなかった。
「だって!もう啓護くんはどこにもいかないでしょう!?」
きっと僕の顔は今すごく醜く歪んでいる。泣きそうででも笑っていて、後悔と自責、優越。
「もう啓護くんはピアニストじゃないから、どこへも行けない。どこかへ連れていかれたりしない!僕の前でしか弾かないって言った、啓護くんはもう僕から離れない。」
彼の才能はいずれ彼を連れて行ってしまう。僕はその日が来るのをずっと恐れていた。でももうそんな日は来ない。
おかしい、恋人が、世界で一番大切な人が怪我をして、大切なものを失った。それを喜んでいいはずがない。
「彼のピアノは完璧じゃなくなって、僕だけのものになった。先輩、平尾先輩。ぼくは」
おかしいですか?
*
見舞いに来た廊下で野薔薇くんと別れた後、病室のドアを開けると髪を下ろしているせいかいつもより少し幼く見える後輩がベッドに座っている。
「こんにちは、お見舞いに来ました。」
「それはどうも、でもその袋の中身は持って帰っていただいてよろしいですか?」
啓護くんが指をさした先にはぴよこの箱が積みあがっていた。
「もうちょっとした養鶏場くらいいますんで。」
「養鶏場なめちゃいけません、この程度ではありませんよ。」
自分が持ってきた箱を開いて見せる。
「しょっぱいものが恋しいと思いまして、中身はおせんべいでした。」
「なぜぴよこの箱に入れてくるんだ!」
そんな怒らないでほしいんですけどね。まぁ、私が啓護くんと親しいのを知っている人は結構いるので見舞いの品は何がいいだとか仕事の話をしたいのだが手土産にはどんなものがいいとか聞いてくる方が結構いて、それに全部『啓護くんの好物はぴよこ饅頭です』と答えていたのがこの結果につながっている気がしてお詫びのつもりです。言いませんが。
「怪我、酷いみたいですね。」
「ええ、ピアニストとしては死にましたね。」
何でもない様に言ってのけた啓護くんは右手を二三度振って見せた。
「関節のところがいってますからね、以前のように滑らかに可動はしないんですよ。ですから、もう辞めます。幸い頼んでもいないのに誰かさんが手を回してくれたようでくいっぱぐれることはなさそうですし。」
「そうですか、でも残念です。野薔薇くんも一緒にいたと聞いていますが、今廊下で会った感じでは大丈夫そうですね。」
啓護くんが難しい顔をして黙り込んだ。
「あいつは、俺に庇われて責任を感じているんですよ。あいつのせいじゃないのに。」
「野薔薇くんならそう思うかもしれませんね。」
あの子は共感力が高くて繊細なところがあるから、責任を感じてしまうのもうなずける。
それに対して啓護くんが顔には出さずとも嬉しそうにしているのも。
「可哀想に、あいつはもう俺を見放すことなんてできない。」
「君は、ピアノを失ってそれを手に入れて満足ですか?」
一瞬キョトンとした顔をした啓護くんが私には普段見せないような、それこそ野薔薇くんにしか見せないであろう顔で微笑んだ。
「ええ、俺はこの結果に後悔はありません。」
*
「君たちは本当に、馬鹿ですねぇ。」
そんなものは始めからその手の中にあったのに。