俺が彼と初めて顔を合わせたのは、あの二重ダンジョンでの事件の後だった。入院していた俺の元に、彼が監視課の職員として事情聴取に来た。どこか厳しそうな雰囲気に少しばかりの気まずさと苦手意識を覚えた。落ち着いた声で丁寧に尋ねる彼に俺は気を引き締めて答えていたが、いくつか質問されてあっさりと聴取は終わった。彼は特に俺を深追いすることなく淡々とした態度で礼を言い席を立った。
正直、その時のことは特に記憶に残らなかった。協会の職員なんてたくさんいるし顔を合わせることも頻繁じゃない。けれどしばらく経って協会を訪れた際に、ふと彼を見かけてあの出来事を思い出した。
彼は上司らしい年配の男性と話していた。俺はただ廊下から遠目に見ていただけだったが、ふとした瞬間に彼が柔らかく笑った。病院で会った時の堅い印象が嘘のような表情だった。
「犬飼くんも、そんな顔をしていれば避けられないだろうに」
男性の冗談めいた言葉に彼は少し困ったように微笑んだ。
「もう慣れましたから、別に構いません」
その言葉が俺の胸に刺さった。きっと仕事柄多くの人に遠ざけられてきたのだろう。俺も最初の印象で彼を苦手だと感じてしまっていたことに、なんとなく申し訳ない気持ちが湧き上がった。
その時に見た彼の表情が、ずっと胸に残っていた。
それからは協会に来るたびに彼の姿を探してしまうようになっていた。何か特別な理由があるわけでもないのに、彼のどこか寂しそうな言葉が心に引っかかっていたのかもしれない。
しかし彼は監視課の職員だ。彼がロビーや共有スペースに出てくることは滅多になく、大抵は彼の姿を見つけることなく終わった。それでも運が良ければその姿を遠目に見ることができた。偶然廊下で出会ったり、エレベーターの前で待っている姿を遠目に捉えたり、ほんの一瞬のことばかりだがなぜか記憶にはっきりと残っている。
またある時、彼が他の職員と話している場面にも出くわした。協会のロビーで数人の職員に囲まれるようにして立っていた彼は、静かに話を進めていた。内容までは聞こえなかったが彼が丁寧に説明している様子が見て取れた。しかし、彼と話している職員たちは皆どこか緊張した様子だった。身動ぎもせずじっと彼の言葉を聞き、時折緊張気味に頷く姿が見て取れた。彼が立ち去ると、周りにいた職員たちはほっとしたように息をついた。彼の存在は他人にここまで緊張を与えてしまうものなのか。
彼の後ろ姿はいつも通り背筋が伸びていて凛とした佇まいを保っている。だが、その姿がどこか寂しそうに見えてしまったのは俺の気のせいだろうか。
ある日、協会での用事を終えた帰り際に後藤会長に声をかけられた。
「水篠ハンターではありませんか。少し時間があるなら昼食でもご一緒にどうですか?」
思いがけない誘いに少し驚いたが、特に急ぐ用事もなかったため会長の誘いに頷いた。会長とこうして二人きりで食事をする機会はそうそうあるわけではない。何を話せばいいのか少し迷いながらもその場の空気に身を任せることにした。
席に着き、運ばれてきた料理に手をつけながら会長は穏やかに話しかけてくる。協会の近況や、最近増えているゲートの出現についてなど、会話は主に仕事に関する内容だったがどこか和やかな雰囲気が漂っていた。会長の落ち着いた物腰に自然と気が緩み、ふと口をついて出たのは最近ずっと俺の頭に引っかかっている彼のことだった。最初に彼の微笑みを見た時は知らなかったが、彼と話していた年配の上司は後藤会長だった。
「犬飼課長って、どんな人なんですか?」
自分でも少し驚いた。こんなことを会長に聞くつもりはなかったのに、気がつけば口からこぼれ落ちていた。後藤会長は俺の問いに少し驚いたようだったが、すぐにその表情は柔らかい笑みへと変わった。
「犬飼くんのことが気になりますか?」
そう言って会長は穏やかに微笑み、静かに語り始めた。
「彼はね、今の時代には珍しい誠実で愚直な人物ですよ」
誠実で愚直――それは、俺が彼に抱いていた印象とも重なる部分があった。彼の静かな態度、控えめでありながら揺るぎない姿勢、その全てが彼の人柄を反映しているように思えた。
「犬飼くんのような人間は組織において貴重な存在です。彼はいつでも真っ直ぐで自分の信念を曲げない。だからこそ私も彼を高く評価しています」
会長の言葉には、彼を擁護するような柔らかさと確かな信頼が込められていた。しかし、会長は少し寂しげな表情を浮かべながら言葉を続けた。
「ただ、そのせいで煙たがられることも少なくないようですがね」
会長の言葉に俺は胸が締めつけられるような感覚を覚えた。誠実であるがゆえに彼が煙たがられることがあるというのがどうしても引っかかった。俺自身も最初に彼に対してあまり良い印象を抱いていなかったからだ。彼の真剣な態度や凛とした立ち振る舞いを気難しそうなどと感じ、その硬い雰囲気だけで先入観を持ってしまった自分が何だか申し訳なく感じられた。
「俺も……最初は彼に対してあまり良い印象を持っていなかったんです……」
彼のことをよく知りもせず、ただ雰囲気で近寄りがたいと感じてしまった自分が今になって恥ずかしく思えた。
会長はそんな俺の言葉を聞いて優しい表情で頷いた。
「人の印象というものは少しのきっかけで変わるものですからね。水篠ハンターが犬飼くんのことを気にかけるようになったのも、何かの縁かもしれませんよ」
会長の言葉に少し救われた気がした。今はまだ彼の全てを理解しているわけではない。だが、少なくとも彼の誠実さやその奥にある孤独には気づけたのかもしれないと思った。俺は視線を落としゆっくりと会長の言葉を心の中で反芻していた。
彼のことを、もっと知りたいと思った。
数日後、協会のロビーで彼がある職員と何か話しているのを遠目に見つけた。職員が何度も頭を下げながら話すのを、時折小さく頷きつつ何かを話している。やがて話が終わると彼は静かにその場を立ち去った。その後ろ姿はやはり真っ直ぐで凛としていた。だが、俺が彼の背中に視線を追わせている間に、残された職員は深いため息をつき近くにいた別の職員に小声で愚痴をこぼし始めた。
「犬飼課長って、本当面倒だよな……報告書ちょっとミスったくらいでぐちぐちうるさいし……」
その声に俺は思わず眉を顰めた。彼の指摘は厳しかったのかもしれない。しかし、見ていた限りでは彼は決して感情的に詰め寄るようなことはしていなかった。寧ろ相手の話をちゃんと聞いた上で話しているように思えた。それをぐちぐちと表現するのはあまりにも彼に対して失礼に感じた。
「それはお前が悪いんだから、しょうがないだろ」
別の職員が苦笑いで返していたが、愚痴を言っていた職員はいまだ不満気な様子だった。
俺はその会話にどうしても納得がいかなかった。彼はただ職務を全うしているだけだ。報告書に問題があれば指摘するのは当然だろう。むしろ、責められるべきは彼ではなくきちんと対応しなかった職員の方ではないのか。
それなのに彼の忠告が「面倒だ」「ぐちぐちうるさい」と捉えられてしまうことがどうしても不公平に思えてならなかった。彼は愚直なまでに真面目で、何かに妥協したり手を抜いたりしないのだろう。自分の信念に従い協会の秩序を守るために行動しているはずなのに、それが誤解や反感を招く原因になってしまっている。
彼の後ろ姿が、どうしても脳裏に焼きついて離れなかった。
協会を出ると、建物の脇にある喫煙エリアに彼の姿が見えた。彼は一人で遠くを見つめながら静かに煙草を燻らせていた。その背中がどうしても寂しそうに見えてしまって、思わず口から名前が漏れてしまった。
「犬飼さん……」
気付かれないくらいの小さな声のつもりだったが、彼はゆっくりとこちらを振り向いた。遠目に見る彼の表情には僅かな驚きが浮かんでいたが、俺に気付くとすぐに煙草を指先で丁寧に消してこちらに歩み寄ってきた。
「何かご用事ですか?」
冷静な声音に俺は慌てて言い訳を口にした。
「いや、特に用事ってわけじゃないんですが……ただ見かけて、つい呼んでしまって……すみません」
不器用で拙い言い訳だった。自分でも何を言っているのかよく分からず、少し恥ずかしさがこみ上げてきた。そんな俺の様子を見ていた彼は静かに頷くと「お気になさらず」と短く応えた。その声は相変わらず淡々としていたがどこか柔らかく響いた。ほんのわずかに目を細めて微かに表情が緩んだように見えたのは気のせいだろうか。
彼は一礼してその場を立ち去っていった。まだ話したいことがあったわけではないが、彼が去って行くことになぜか名残惜しさを感じてしまう。自分でもその理由が分からないまま、見えなくなるまで彼の後ろ姿をじっと見つめていた。
俺は彼の些細な優しさに気付いていた。俺のたった一言に彼は残っていた煙草をあっさりと消し、わざわざこちらに歩み寄ってきてくれた。そして特に用もなく名前を呼んだだけだという俺の拙い説明に対しても、「お気になさらず」と柔らかく応じてほんの僅かに目を細めてくれた。その表情には、俺の不器用な言い訳を受け入れる気遣いの色が確かに見えたのだ。
彼の真摯な人柄に触れて、彼を知りたいという欲求が更に大きくなっていた。
相変わらず、俺は協会に来るたび、無意識のうちに犬飼さんの姿を探してしまっていた。彼の姿を一目でも見かけることができればそれだけでなぜか心が弾み、見当たらないとどこか物足りなさを感じてしまう。自分でもなぜこんな気持ちになるのか理解できなかったが、彼の存在が日に日に大きくなっていくのを感じていた。
今日は、運良くロビーで彼の姿を見つけた。受付の前に立っている彼は、職員と話しているハンターのやりとりをじっと見守っていた。職員とハンターが何やら揉めているらしく、どうやらハンターが無理な要求をしているらしい。受付の職員が困惑した表情で対処しているのが見え、俺も少し心配になったが彼がその場に入り仲裁に入っていった。
高圧的な態度で声を荒げているハンターを彼は静かに見据えた。その瞬間、彼の周りに一瞬魔力のオーラが立ち上った。鋭い眼差しでハンターを威圧するその姿にその場の空気が一気に張り詰める。
しかし彼は決して声を荒げることなく、冷静な口調で「お帰りいただけますか」と促した。高圧的な態度で無理を通そうとしていたハンターも、彼の威圧感に明らかに狼狽えて文句を言いながらもロビーから去った。それを見届けた彼は職員に後を任せるとその場を後にした。
その時、彼が助けた職員が同僚に向かって、ひそひそと呟く声が耳に入った。
「こっわ……」
その言葉が誰に向けられたものなのかは明らかだった。助けてもらった相手に対してその言い草はあまりに失礼だと思わず頭に血が上りかけた。彼に向けられた心無い言葉に怒りが湧いてきた。しかし、ここで俺が何かを言えばかえって彼に迷惑がかかるかもしれないと考えぐっと堪えた。
同僚がすぐに窘める声も聞こえたが、俺に聞こえたのだからきっと彼にも聞こえてしまっていたに違いない。しかし、彼は何事もなかったかのように背筋をまっすぐ伸ばして歩み去っていった。
気がつけば彼の後を追っていた。以前も彼を見かけたことのある喫煙エリアに彼はいた。建物の隅にひっそりと設けられたその場所で、彼は煙草に火をつけ静かに煙を吸っていた。彼がゆっくりと吐き出した白く細い煙が風に乗って流れていく。しかし、俺には煙を吐いたのではなくため息をついたように見えてしまった。
しばらく彼をじっと見つめていたら、俺の視線に気づいたのか彼がこちらを振り向いた。そして俺がいることに気付くとすぐに煙草を消そうとした。その動きに慌てて「消さなくていいですよ」と声をかけたが、彼は小さく首を横に振った。
「水篠ハンターは喫煙者ではないでしょう」
淡々とした声で何でもないことのようにそう言ったが、彼の優しさがこういった些細な気遣いにも表れているのだと実感する。彼は煙草を完全に消すと、静かに俺の方へ視線を向けて「どうしましたか?」と問いかけてきた。その静かな声に一瞬言葉に詰まってしまったが、彼は急かすことなく俺の言葉を待ってくれていた。
「あんなの、気にする必要ないです」
気がつけば俺の口からそんな言葉が飛び出していた。ただ、あの職員の心無い言葉にあなたが動じる必要などないのだと伝えたかった。彼は一瞬驚いたように目を見開いたが、俺の言葉が何のことを指しているのかすぐに理解したのだろう。わずかに目を細めて静かな声で口を開いた。
「水篠ハンターは……優しいですね」
そしてその瞬間、彼が小さく微笑んだ。
あの時、後藤会長と話していた時に見たあの柔らかな微笑みと同じだった。普段の冷静で近寄りがたい雰囲気が今は欠片も見当たらなかった。彼がこんなにも優しい表情で微笑む瞬間を、正面から見られるとは思っていなかった。
「ありがとうございます」
彼の口から穏やかで柔らかい声が紡がれた。その言葉には心からの感謝が込められているように思えた。けれどもその声に応える余裕など俺には全くなかった。今、目の前で微笑む彼の姿を見た俺の心臓が、破裂しそうなほど激しく鼓動を打ち続けている。
自分でも驚くほどの速さで、心臓が鳴り響いていた。
その夜、ベッドに寝転がりながら、昼間の出来事を何度も思い返していた。彼のあの柔らかな微笑みを思い出すたび、胸の奥がじわりと熱くなり落ち着かない気持ちが沸き上がってくる。
彼の微笑みを目の当たりにした瞬間、何も言えなくなってしまった自分が恥ずかしくもあり、情けなくもあった。しどろもどろになりながらその場を去るしかなかった俺を、彼は決して笑うことなく丁寧に見送ってくれた。その時の彼の柔らかな表情が俺の頭の中に鮮明に残っている。
あの時の心臓の激しい鼓動が今も耳に残っている気がした。あの瞬間、なぜ自分があれほどまでに動揺したのかわからない。彼の微笑みを思い出すたびに、胸が締め付けられるような感覚が込み上げて気持ちが落ち着かなくなってしまう。
もしかして、俺は彼のことが――好き、なのだろうか?
その考えが頭をよぎった瞬間、自分でも驚くほどの羞恥心が込み上げた。自分の心が彼に向けているこの気持ちが恋なのかどうかはまだ分からない。だが、少なくとも彼のことを考えると胸が苦しくなり、彼の柔らかな微笑みを思い出すたびに心が震えるのは事実だ。
俺の中でどんどん彼の存在が大きくなっていっている。少し前までは、誰かに対してこんなにも心を揺さぶられることがあるなんて想像もしなかった。しかしこの胸のざわめきと高鳴りは、きっと彼が俺にとって特別な存在になり始めている証なのだろう。
彼への想いを抱えながら、熱くなった頬を枕に押し付けて静かに目を閉じた。