君と一緒に 地獄のような場所で雁字搦めになっていた俺を、彼女は引っ張り上げてくれた。誰かに助けを求めて良いのだと。頼って良いのだと。……救われて、良いのだと。
だからこうして自分は現実に帰ってくることが出来て、この足で立ち上がろうと思うことが出来たのだ。
◆
リドゥから帰還し、病院でのリハビリや手続きを終え、帰宅部の仲間たちと現実での再会を果たしてからしばらく——鐘太は一人きりの家で暮らしていた。事件の後で職は失ってしまったが、結婚のために貯めていた貯金が残っている。しばらく食うものに困ることはないだろう。ずっとこのままでは居られないけれど。
食事は自炊を心がける。幸か不幸か時間だけはあるのだ。鐘太にとって悩む時間も増えてしまうのが困るところだが。
料理の片手間、鐘太はスマートフォンを手に取った。とある番号に電話をかけ、ソファに座り、背もたれに身を預ける。数回コールが鳴った後に相手が出た。
『もしもし、鐘太先輩?』
「ああ、部長くん……少し、良いですか」
少し緊張しながら、鐘太は慣れない言葉を口にする。
「その……、相談したい事があるのですが」
すると、彼女は少し驚いたように息を飲んだ。
『相談? 本当に?』
「本当です。そんなに驚くことですか?」
『だって、鐘太先輩が私を頼ってくれるなんて、嬉しいな……って』
「それは、まぁ、お陰様で……」
自分で抱えず、誰かに相談すること。それは彼女が許してくれた事だった。だから今日、勇気を出して彼女に声をかけることが出来たのだ。
「それで、今度会えないかと思いまして」
『もちろん。私はいつでも空いてるよ』
二人で予定を合わせ、カフェで落ち合うことにする。久し振りに仲間に会えると彼女は喜んでいるようで、待ち合わせまでのやり取りの中でもウキウキしている様子が窺えた。
そんな彼女に、相談なんてして良いのだろうか。いやしかし、すると決めたのだからしなければ不自然だろう。やはり選択は苦手だと、鐘太は一人苦笑した。
◆
「それで、相談なのですが……」
互いが知る仲間たちの近況をひと通り話した後、小さなパフェを食べる彼女はぴたりと手を止めた。鐘太が相談を始めると理解した途端、彼女は真剣な表情でこちらの言葉を待ってくれる。
そんな彼女に伝えるために、鐘太は手を組んで気持ちを落ち着かせ、口を開いた。
「これからの人生について、一緒に悩んでくれませんか」
そう言うと、彼女は驚きに目を見開いた。何か変なことを言ってしまっただろうか。狼狽えだす鐘太を見て彼女はクスクスと笑い、スプーンを皿の上に置いた。
「鐘太先輩って凄いことをサラッと言うから、いつもびっくりさせられちゃう」
「率直に、困っていることを伝えたつもりなのですが……」
唸りながら、鐘太は腕を組んで首を傾げる。
「リドゥからの脱出は果たしましたからね。目的がなくなってしまいまして……。いや、しなければならない事はたくさんあると思うのですが、ありすぎてどこから手をつければ良いのか分からないというか……」
うんうん、と頷いて、彼女はテーブルの上に置いた腕に顎を乗せた。
「それじゃあ、鐘太先輩」
「はい?」
「私の人生のお手伝いをしてくれませんか?」
君もなかなかに勘違いさせることを言いますね、とは言えずに、鐘太は目をぱちくりさせた。
◆
人の心に踏み込むというのが、こんなに勇気のいることだなんて思っていなかった。目を伏せる部長を前に鐘太は思う。相当の覚悟を持って、仲間のために何かをしたいという明確な意思の元に、リドゥでの彼女は鐘太の心に踏み込んでくれたのだ。そう気がついた。
「キィの言葉ではありませんが、結局俺は、君の事を知らずに現実へ帰宅しました」
カップの持ち手に触れながら、鐘太は問う。
「部長くんの後悔は……一体、何だったのですか」
尋ねると、目の前の彼女はへらりと力なく笑った。
「私の後悔は、挫折してしまった事」
初めは小さな違和感だったのだと彼女は言う。誰かを嘲笑う些細な雑談に、優しすぎる彼女の良心は耐えられなかった。合わせる事も否定する事も出来ず、足元が崩れていくような感覚。誰も彼もが離れていって、気づけば取り残されていた。外に出る事が出来なくなり、みんなが『普通』に過ごしている生活が送れなくなった。じわりじわりと、人生のレールから外れていくのを感じたという。けれど乗り越える気力もなく、ただ重たい自責の念が伸し掛かってきて絶望していた。
あの時、もっと心を強く保っていれば。自分が心を殺して耐えていれば。そうすれば『普通』の生活が送れていたはずなのに——。それが、彼女の後悔だった。
「そんな時に出会ったのがリグレットの歌」
「そう……だったのですね」
なんと言葉を掛ければ良いか分からず、鐘太は呟いた。気の利いた言葉を告げられない自分が情けない。自分が過去を吐露した時、彼女はもっと優しい言葉をかけてくれたというのに。けれど彼女は気にする様子もなく破顔した。
「それで、鐘太先輩に協力してほしいんだけど」
「はいっ。なんでも言ってください」
「私の社会復帰……手伝ってくれないかな」
困ったように眉を下げて苦笑する彼女の顔を、鐘太は初めて見た気がした。
「それなら、社会人経験の豊富な能登君の方が適任と思いますが……」
「吟は毎日仕事してるから、こんなことで迷惑かけたくなくて」
頬杖をつき、彼女は目配せをする。
「これからの人生に困ってる者同士、一緒に過ごそうってこと」
クスッと笑う彼女の悩みはきっと本物で、けれど鐘太への優しさでもあるのだろうな、と鐘太は感じたのだった。
◆
それから、鐘太は彼女と頻繁に会うようになった。その中でも必要以上に二人きりにならないようにしたのは真面目な鐘太のけじめだ。面接の練習をする時は、カラオケボックスに入ることで鐘太が折れた。
書類選考でなかなか通らず、それでもアプローチの仕方を考え続ける彼女を見て、鐘太は心配になって問いかけた。
「息抜きに、ご飯でも食べに行きませんか?」
それで選んだのが牛丼屋というのは、女性を誘うのに失礼だったのではと思わなくもない。しかしリドゥの時はよく二人で牛丼屋に行ったものだし、それを思い出してか彼女も嬉しそうだった。
「鐘太先輩って現実でもいっぱい食べるんだね」
大盛りを注文した鐘太を見て、彼女は口元を綻ばせる。
「でもちゃんと運動してるから、太ったりしてないんだ、すごい」
「まあ、その……一人きりになるとつい考え込んでしまうので」
筋力をつけるために行う筋トレだが、未来のことを考えて不安になるのを抑えるため運動に走っている節はあった。答えてから自分の話になるのが照れくさくなり、鐘太はわざと話題を変える。
「部長くんは偉いですね。未来のことを考えるなんて恐ろしいはずなのに、一歩を踏み出そうとしている」
「でも、私にはみんながついてるから」
力強く言った後、彼女は鐘太を見つめる。鐘太を、仲間を信じる真っ直ぐな瞳で。
「鐘太先輩も、見捨てないでくれるでしょ」
「それは、もちろんですが」
「ふふ、ありがとう」
その日は割り勘にして、牛丼屋を後にした。
◆
応募した企業に試験があるということで、その日は勉強を教えていた。学生時代は勉強が苦手だったという彼女だが、ゆっくりと説明を重ねていけばみるみる内に吸収していった。
「出来た! 鐘太先輩は教えるのが上手だね」
「部長くんの飲み込みが早いんですよ」
「そうかなぁ。教師、向いてると思うけど」
有頂天な様子の彼女は、相好を崩して言った。楽しそうに笑う彼女の隣でプリントを整えながら、鐘太は答える。
「人を殺した俺に、教鞭を取る資格なんてありません」
「鐘太先輩、それは……」
彼女が表情を曇らせる。鐘太は慌てて彼女の方へ向き直った。
「大丈夫です。もう、受け入れていますから。少し意地悪な物言いをしましたね、すみません」
そう言って、鐘太は彼女の手を取った。
「部長くんの方こそ、大丈夫ですよ。君は出来る人ですから。俺が補償します」
真っ直ぐ見つめて、心の底から思っている言葉を贈る。すると彼女は面映ゆくなった様子で言葉を続けた。
「鐘太先輩も、ゆっくりでいいんだよ。先輩には私がついてるから」
言ってから照れくさくなったのか、彼女は鐘太から視線を逸らす。鐘太にとっては彼女が居てくれるのは当たり前の事になっていたので、もちろん否定はしなかった。
◆
夕飯を作る鐘太の元に、一本の電話がかかってきた。彼女からの電話だ。鐘太は一旦鍋の火を止めると、着信ボタンを押した。
「もしもし」
『鐘太先輩! 内定、出ました〜!』
元気な彼女の声が電話口から聞こえてくる。
「本当ですか!? おめでとうございます!」
『えへへ、それでね……』
その時、電話口からもすぐ間近からもチャイムの音が聞こえてきた。鐘太が家の扉を開けると、彼女はスマホを耳から離す。
「来ちゃった、鐘太先輩の家」
今日ばかりは許されるだろうか。鐘太は仕方ないとフッと笑んで、通話を切った。
「改めて。おめでとうございます、部長くん」
「ありがとう。鐘太先輩のお陰だよ」
これで、こうして二人で会う時間も少なくなるのだろうか。鐘太が慣れない寂しさを感じていると、彼女は憂慮して顔を覗き込んできた。
「鐘太先輩、大丈夫? 本当につらいなら、先輩のこと養ってあげようか」
鐘太はキョトンとし、手にしたスマホを軽く彼女の頭に乗せる。
「こらこら、養うなんて簡単に言うんじゃありません。自分のことでも大変ですよ、お金は大切にするように」
「はーい」
彼女も冗談だったようで、クスクスと笑って答える。鐘太は口元を緩ませ、そんな彼女に尋ねた。
「夕飯、作りすぎてしまったんです。食べて行きますか?」
「私に分けちゃっていいの? ご飯足りる?」
「足りますよ!」
心配そうな顔をして彼女は言う。言い返しながら、鐘太は彼女と顔を合わせて笑った。
◆
「今日は、私のこれからのこと、鐘太先輩に聞いてほしくて」
焼いた肉を箸で持ち上げ、彼女は言った。
「これから……仕事を始めてからの事ですか?」
「うん。私、やりたい事があるんだ」
肉をタレに浸しながら、宣言する。米の上に乗せるとタレが染み込んでいった。
「ドールPになろうかなって。有名になりたいとかじゃないけど、作りたい曲があって」
彼女の鞄に目を向ければ、キィのパッケージが顔を覗かせていた。鐘太は微笑んで、
「さすが君は、俺たちの部長です」
「楽曲作りなんてした事ないから、最後まで完成させられるか不安だけど」
「君なら大丈夫ですよ。それに、君も言ってくれたじゃないですか。ゆっくりで大丈夫だ、って」
鐘太が言い聞かせるように言うと、彼女は相好を崩し、ありがとう、と笑った。
◆
「部長くん」
「あ、鐘太先輩」
待ち合わせ場所で楽譜を手にしている彼女に声をかけると、彼女は顔を上げ、穏やかに微笑んだ。
「作曲は順調ですか?」
彼女の隣に座って尋ねる。現実に戻ってきてから、彼女は作曲を始めたのだ。
「うーん、あんまりかな」
眉間にシワを寄せ、彼女はルーズリーフの楽譜をひらひらと揺らす。
「みんなで歌える曲が作りたいんだけど」
帰宅部のように仲良しな人たちで楽しく歌える曲を作りたいそうだ。頑張ってバーチャドールソフトのキィを歌わせているようだが、なかなか上手くいかないらしい。肩を落として息を吐き、彼女は空を仰いだ。
「茉莉絵に色々教えてもらいたいなぁ。作曲してるんだって言ってたから」
リドゥでそのような話をしたのだろう。そう言って肩を竦める彼女に、鐘太は必死に言葉を選んで答えた。
「俺には音楽のことは分かりませんが……部長くんが作るのですから、きっと良い歌になると思います」
そんなことしか言えない自分がまたも情けない。だが彼女はフフッと笑って、笑顔をこちらに向けた。
「ありがとう、鐘太先輩。頑張るよ」
彼女は自分の選択を受け入れてくれるのだ。笑顔で楽譜を鞄にしまって、彼女は立ち上がる。
「それじゃ、行こうか」
「はい、行きましょう」
立ち上がって並んで歩く。彼女が作る歌を楽しみに思いながら。そして鐘太は、彼女の横顔を見た。
「部長くん。その……今日はまた、相談に乗ってほしいのですが」
「もちろんだよ、鐘太先輩」
次は自分が進む番なのだと、鐘太は彼女の姿を見て思えたのだ。