楪めしょ 「あっ、いたいた!」
遠目に私が見えたところで大きく手を振ってくれたのは那谷楪だった。
「なかなか来ないから心配したよ」
「ううん、ごめんね、ちょっと寝坊しちゃって……」
前日までなかなか寝つけず、やっと寝たかと思えば起きたのは既に家を出ていなければならない時間だった。そこから慌てて電話で謝ったのだが、楪は特に咎めることも無く『ゆっくり準備してきて良いよ』と言ってくれたのだ。そういえば、私はまだ彼が怒ったところを見たことない。柔和で、とても優しい。だのに、いままでの彼女とはあまり長続きしたことがないようで、それが不思議だった。
「ねぇ、楪」
「なぁに?」
「ほんとうに怒ってないの?」
「うん! 全然。きみだってきみの納得する状態で来たいかなって思うし……俺もそこまで時間に追われてないし……」
「なにより、俺はきみが好きだから、ずっと待っていられるかな」
そう言って、にこりと笑った。
人懐っこいような、どこか犬っぽいような、撫でたくなるような感覚。つまり愛らしいというか、なんというか。
いくつかある、彼の好きなところのうちのひとつだ。
「もしかして髪の毛切った?」
「えっ? うん、先週くらいかな。すごいね楪! ほとんど気付かれなかったのに」
「ふふ、きみのことならよく見てるからね」
思えば、この言葉がどれだけ彼のことを表しているものだったのか、まだ知らなかった。