GRAVITATION 此の想いを捨ててしまえれば楽になるのだろうか。
好きだとか、愛だとか、そんな単純なものではなく。声を聞けば嫌悪が走り、顔を見れば吐き気がする。彼奴が笑えば不愉快で、苦しんでいる姿を見れば胸がすく。
存在が嫌悪の対象で、決して混じり合わない。だというのに、時折訪れる強烈な感覚は、太宰を振り切ろうとする中也の袖を引き止めるようについと引く。
強く灼きつけるように襲う感覚は『快楽』という類のもので、双黒として並び立つ時に厭というほど其の身に刻まれる。
太宰の描いた絵図で踊るなど最悪だ。——寸分の乱れすらない。
何故、犬のように俺が動かなきゃならない。——隙間なく埋まる感覚。
なんで、こんな糞野郎が相棒なのか。——嵌る。嵌まり込む。気持ちが好い。
太宰の隣はあらゆる負の感情が渦巻く場所だが、其れを覆すほどの快楽が得られる場所でもあった。脳を刺すような快感は中也に全てを忘れさせる。
気持ちが好い。もっと——。そういう衝動以外は無くなって、眼前に広がる朱の海を見たって収まりやしない。
そんな中也の姿を眺めて、太宰はいつも嘲るように笑う。
不思議と其の顔だけは不快に思わなかった。瞳に隠しきれない興奮の色が見えたからかもしれない。俗っぽい、如何にも人間らしい。幽鬼と呼ばれ、凡そ人としての感情など持ち合わせていないかのような男が、人並みに興奮し、欲情を向けることに、中也もまた興奮を覚えたからかもしれない。
太宰から向けられる熱は情欲だ。視線一つで中也を絡め取らんとする。向けられた熱に気付かない振りをして——そうしなければ、すぐに捕まってしまいそうだから——目を逸してやり過ごす。
数を追う毎に太宰の視線は温度を上げているのに、その口からは何も発せられない。其の熱に当てられてしまったのか、それとも焦れたのか、今まで絶対に近付かないようにしてきた太宰の目の前に、その日中也は自ら進み出てしまった。
「云いたいことがあるならはっきり云えよ」
「突然なに」
素知らぬふりで態とらしく首を傾けた男が観察するような目で中也を見る。
「あからさまな視線寄越しやがって」
「なあに、云い掛かり?」
舌打ちする中也に、くすくすと笑うようにして太宰が応える。如何やっても自ら動く気はないようだ。其れならば放っておけばいいのだろう。視線は鬱陶しいが其れだけとも云える。
「何か勘違いしてるんじゃない?」
面倒くせえ放っておこうと、踵を返しかけた中也を挑発するように太宰が声を掛ける。
「中也こそ、僕に云いたいことがあるんじゃないの? 人のことチラチラ盗み見るようなことばかりしてたじゃない」
こんな安い挑発に乗る必要なんてない。莫迦莫迦しいと、切って捨ててしまえばいい。それなのに思考に反して、手は太宰の胸倉を掴んで引く。至近距離で睨みつけた瞳は、未だ欲に濡れ真っ直ぐと中也に向けられている。
「物欲しそうな面してるじゃねェか」
「其れは君の方だろ」
お互いに睨み合ったまま唇を合わせた。ちりちりと燃えるような光を灯した瞳が瞬きすらせずに中也を捉えている。吸い寄せられるように瞳も唇も絡み合ったまま熱を上げる。
「ん……はぁ……ッ」
「はっ……中也」
ぴちゃりと舌が絡む度に水音が響く。もう何方のものかわからない唾液をこくんと飲み込んで息をつく。名前を呼ばれる度に、躯の芯がどくんと脈打ってどうしようもない疼きが生まれる。
周りには中也が片した肉塊の山、地面は血に濡れ、埃と錆びついた臭いがむせ返る場所なのに。そんな異常な状況だからこそなのか、精神が昂って仕方ない。
太宰に触れられた部分は焼かれたように熱くなって、神経を刺激する。
「あ、……やァ……!」
いつの間にか硬い木製の机の上に押し倒されて、太宰が覆い被さっている。上から見下ろす瞳が獰猛な獣みたいに光って、今にも此方の喉笛を噛み千切りそうな気配をしていた。
ゾクゾクと腰から駆け上がる疼きが脳まで届くと、もう余計な事を考えられなくなってしまった。
「太宰」
名を読んだら、想像の通りに首元に噛み付いてきたのを、歓喜を持って受け入れる。切れ切れに声を上げながら、何度も何度も名前を呼ぶ。その呼び掛けに、らしくもなく切羽詰まったような声で中也の名前を呼ぶものだから、ぐちゃぐちゃに蕩けた思考で出来たのは包帯塗れの躯に爪を立てることくらいだった。
***
其の日の出来事は中也を縛る鎖になった。目と耳を塞いで振り切ってしまおうと藻掻いていた行為も虚しく、違う種類の快楽まで叩き込まれて、もう自分の意思では振り払えなくなってしまっていた。
太宰と組んで仕事に駆り出され目的を達すると「中也」と甘い声が誘う。抗えず繰り返す内に、自分の中の気持ちも大きくなり、形も歪んでいく。
歪な関係は長いこと続き、太宰の離反でやっと解放されたと思っていたのに、結局は帰ってきた太宰にまた囚われてしまった。今更だと拒めばいいのにそんな簡単なことすら出来ない。
此の想いを捨ててしまえれば楽になるのだろうか。離れられず、手放せず、最後の最後で自ら袖を引いてしまう。苦しむことがわかっているのに。
其れでも離れることを辛いと思ってしまうのだから、きっと永遠に此の手から逃れられないのだろう。