鉛「レディのことは実際どう思っているんだ?」
「……は?」
納品物の入った木箱を置くためかがもうとしたときのことだった。暖炉の前の柔らかそうな一人掛けのソファーに座るルーナが唐突にそんな問いをヴェネルに投げかけた。思わず木箱を床に取り落としそうになったヴェネルは慌てて体勢を直すと、改めてそれをそっと指定された位置に置く。ルーナはヴェネルが答えるまでじっと黙ってその動作を見つめていた。
「なんだよ急に」
居心地の悪さを隠そうともせず、ヴェネルは顔をしかめた。視線を合わせるのがなんとなくしゃがんだまま嫌で木箱の蓋を見下ろす。中身はルーナがリテイナーの業務としてヴェネルに依頼した植物だ。これを何に使うかは知らないし、わざわざ聞いたこともない。おそらく尋ねればルーナは喜んで聞いていないことまでヴェネルに教授することだろう。だからヴェネルは聞かなかった。それを確信できる程度には付き合いも長いのだ。
「なに、一応保護者だからな。気になるのさ」
ルーナはそんなヴェネルの態度を気にした様子もない。ちらりとヴェネルが視線を向けるといつもの余裕ぶった笑みを浮かべていた。そんなところがヴェネルは苦手だった。再び視線を木箱に戻す。
話題に上がった人物──メルコレディはヴェネルを好いている。それはヴェネルも以前から感じていたし、本人からも聞いた。というか、ヴェネルがうっかり彼女の好意に気付いていることを吐露してしまったのだ。あれは今でも良くなかったとヴェネルは思い出すたび頭を抱えたくなった。ヴェネルがその気持ちに応えられないと分かってもメルコレディは諦めなかった。だからヴェネルもせめて彼女を傷つけることがないよう彼なりの誠意をもって接することに決めたのだ。そんな二人の間柄についてこれまでルーナが直接口を出したことはなかった。一緒に出掛けるときの服装やら何やらを決めるときに首を突っ込んでくることはあれど、あとはニヤニヤと面白そうに見守るだけだ。そのルーナがした質問の内容にも驚きながら、ヴェネルは一度ため息をついてから答えを切り出した。
「……どうって、まぁ、いい子だと思うよ。いつも一生懸命だし、勉強熱心だし」
素直な感情だった。メルコレディは人見知りで、ヴェネルと出会ってからもしばらくは彼を警戒していた。だが次第に心を開いてくれるようになり、彼女がルーナのもとで慣れない土地や風習に苦労しながら弟子として成長していくところをヴェネルも見ている。
「そうだな。それから?」
「……」
ルーナは相変わらず笑っている。ヴェネルの頭に浮かぶのはメルコレディの姿だ。深い藍色の髪。アウラ・ゼラ特有の黒い角。雪のような白い肌に、大きくて赤い瞳。ヴェネルが話しかけるとその白い頬をほんのりと染めてはにかむ。華奢で一見すると儚げで、けれど強い芯を持った少女だ。そんな彼女に好かれたこと自体をヴェネルが厄介に感じたことはない。だがやはり彼女の恋愛感情に対してヴェネルは同じ気持ちを返すことができなかった。
「……可愛いって思うよ。けど、それ以上は、そういうんじゃない」
「ふぅん」
「お前さぁ」
「なんだ。正直でいいじゃないか、お互い」
ヴェネルはそれなりの勇気をもって己の気持ちを打ち明けたつもりだった。表面上そうは見えないこともあれど、ルーナは己の弟子をとても大切に扱っている。だからこそヴェネルは彼のその大切な「お嬢さん」の片思いに良い答えを出せないことを気まずくも感じているのだ。だが当のルーナはまるで最初から分かっていたとも言うように気のない返事をする。木箱に一度手をついて立ち上がったヴェネルは肩をすくめた。こういうところも、本当に苦手だ。
「あの子はお前が好きだろう」
あけすけな言葉に思わず眉をひそめる。
「……そうだな」
顔を背け、それだけ返したヴェネルにルーナは特に気分を害した様子もなくその様子を観察する。ニヤついていた表情はいつの間にか真剣なものへと変化していた。ひとつ間をあけてから、ルーナが続ける。
「私はな、ヴェネル。お前にならあの子を任せてもいいと思っているんだ。私はほら、英雄だろう」
「自分で言うか?」
思わずヴェネルが言うとルーナはおかしそうに声をあげて笑った。ヴェネルは目の前のエレゼン男がこの星を救った英雄だと認識したことはない。いや、ないことはないが、薄かった。そんな非日常の夢物語のような存在には思えない程度に彼はヴェネルにとっての日常だ。──不本意ではあるが。
「ふふふ、事実だからな。だから、いつどんな面倒事に巻き込まれて命を落とすともしれん」
「……」
「しばらくすればまた長く家を空けることになるだろうし、旅の先で無事である保証はない。……もしものときは、残されたあの子のそばにいてやってほしい」
小さく息を飲んだヴェネルに気づかないふりをしてルーナは話し続ける。真っ直ぐに見つめてくる視線に向き合うことが出来ず、相変わらずヴェネルは顔を向けられないままだ。居心地の悪さが増した気がして、ヴェネルは気を取り直すように大きく息を吐いた。
「……んだよ。真面目な顔すんなよ」
「なんだ、私はいつだって真面目だぞ?」
表情を崩したルーナにどこか安心しながら、ヴェネルはようやく正面からルーナの方を向いた。座る彼に一歩近付く。普段見下ろすことのない紫の瞳がヴェネルを見上げる。眼鏡の奥の目が柔らかに細められた。
「……そういうの、本人には言ってあんの」
ヴェネルが尋ねるとルーナは首を横に振った。
「まだだ。時期が来たら話すさ。……旅に出ることはな」
曖昧な答えにヴェネルはわずかに眉間にしわを寄せた。つまり、ルーナはすべてをメルコレディに伝える気はないのだ。彼がどんな覚悟をして再び旅に出るのか、その先にどんな危険があるのか。噂に聞くだけでも彼の歩んだ道がいかに過酷なものだったか想像がつかないわけでもなかった。だからこそ、この答えにヴェネルは納得がいかなかった。
「……お前がオールドシャーレアンに行ってる間」
「うん?」
「メルコレディは毎日不安そうだったぞ。お前も大して連絡寄越さねぇし、この辺でも終末の騒ぎがあったからお前がどうにかなってないかって……ずっと心配してた」
一番そばで見ていたから知っている。ヴェネルが語った通り、ルーナが旅に出ている間メルコレディは口では強がりながらも常に瞳の奥に不安を抱えていた。ただの旅ではない。英雄として迫りくる脅威に立ち向かうための道のりだ。ルーナが話すようにいつ何時死んでしまってもおかしくない。――血の繋がった親きょうだいを失ったメルコレディにとってルーナはもはやもうひとつの家族になっている。そんな彼を失うかもしれない想像はメルコレディを疲弊させた。ヴェネルはそんな彼女に毎日のように励ましの言葉を送った。けれどその不安を消し去ってやることは結局、ルーナ自身がこの家に戻ってくるまで叶わなかったのだ。
「……そうか。それは、すまなかった」
ルーナもそこまでとは思っていなかったのだろう。驚いた顔をした後、申し訳なさそうに眉を下げた。大切に思っているくせに、どうしてその考えに至らないのだろうと苛立ちがヴェネルの胸にこみ上げる。
「……俺じゃねーよ。必要なのは」
苦虫を噛み潰すように吐き出した言葉は、自身が思う以上にヴェネルに重くのしかかった。そう、自分ではない。――自分では、だめなのだ。
重苦しい沈黙が部屋に落ちる。暖炉の中で燃える薪がかたんと音を立てて、そうしてしばらくしてからルーナが口を開いた。
「けれどヴェネル。もしもの話なんだ」
「……」
「お前があの子とどんな関係を築くかはお前の自由だ。だがあの子を憎からず思っているのなら、私の頼みを聞いてくれないか?」
他にも何か言いたげな目をしたまま、ルーナは真剣な面持ちでヴェネルに懇願する。鉛を抱えるような感覚は消えず、ヴェネルはじっとルーナを見つめ返してから観念して小さく答えた。
「……いいけど」
ありがとう、と安堵したように微笑む顔が見れず、ヴェネルは顔をそらして呆れたように肩をすくめた。話は終わったと背を向けて帰り支度を始める。次の依頼は言い渡されなかった。どうせまた必要なものがあれば呼びつけてくるだろう。そう思って荷物を整理する。ふと、ヴェネルはルーナに振り向いた。
「……お前、変わったよな」
「うん?」
「俺んちに居た頃は他人を寄せ付けないっていうか、怪我した野良猫みたいだったみたいじゃん。あのときのお前まじでやりづらかったよ」
かつてルーナは大怪我を負ってヴェネルと父ソルクウェンによってしばらく介抱されていた。記憶をなくした……せいにしたって、ルーナは非常に扱いづらい男だった。なにしろ治療のために触るのだって嫌がるし、まともに目を合わせようともしなかったのだ。それがどういうわけか――ヴェネルが彼に呼び名をつけた夜から――いやに馴れ馴れしくなったのだが、それもまた種類の違う扱いづらさに変化しただけだった。当のルーナはきょとんと目を丸くしたあとおかしそうに肩を揺らして笑い出した。
「ふふふ、すまんすまん。けどお前とソルクウェン殿の献身的な治療があったから私はここにいる。感謝してるよ」
「はいはい」
「なんだ、本当だぞ」
「別に、俺は親父の手伝いしただけだからな」
ソルクウェンは自身も愛する妻を喪いながらも、自分と同じような人たちの支えになりたいと霊災で被害にあった人々を助ける道を選んだ。ヴェネルもまた母の死を悲しみながら、そんな父を少しでも助けたいと彼の活動に加わったのだ。真に立派なのは父なのだとヴェネルは心の底から思っている。しかしそう言うとルーナは訝しむようにわずかに顔をしかめて、少し考えてからヴェネルに言った。
「なぁ、ヴェネル。お前はもっと自信を持ったほうがいい」
「あ?」
「無自覚か?もしくは謙遜のつもりなのかもしれんが、『自分なんか』と思ってやしないか?」
「……」
急に何を言い出すんだ、とヴェネルが口を挟む余地もなくルーナはつらつらと言葉を続ける。立ち上がったルーナはヴェネルのすぐそばまで来ると人差し指でヴェネルを指さす。
「考え方を改めたまえ。お前はいい男だ。努力家で、謙虚で、面倒見もいい。この私のお墨付きだぞ」
予想外の言葉にヴェネルはぽかんと目と口を丸くした。直接的な賛辞はまるで自分のことのようには思えず、どう受け止めていいのか分からない。ハッとして、大げさにため息を吐いて見せる。
「お前に言われてもさぁ~……」
「不満か?贅沢な奴め」
「不満っつうか……なに、今日やけに絡むじゃん」
「悩める青年にアドバイスをしてやりたい気分なんだ」
「他所でやって?」
「断る」
「はぁ~~」
今度こそ腹の底から嘆息が出た。やはりこいつと長々と話すなんてするもんじゃないと早々に荷物を担いで玄関扉に向かう。しかし途中で妙に柔らかな声色に呼び止められ、思わず足を止めてしまった。
「ヴェネル」
「……なに」
「愛されていると思い知れよ」
「……」
足を止めたことを後悔していると、ルーナはにやりと笑みを浮かべた。露骨に嫌な顔をしたつもりだったが、ルーナには通じないのだろうか。笑みを深くした彼から逃げるようにドアノブに手をかける。
「おいおい、そう急ぐなよ。遅くなったし夕飯でも食べていかないか?」
「いらない」
「そうか、残念。また来い」
残念そうにも聞こえない雇い主の声を背に、ヴェネルは家を出た。どうにかリテイナー協会にかけあって雇用先を変更してもらえないだろうか。そんな考えが頭をよぎった。
「……好き勝手言いやがって」
帰り道、小さく呟いた悪態が石畳に吸い込まれていく。ルーナは本当に思ってもないことは口にしない。ましてやヴェネルに対してくだらないおべっかを言う必要なんてない。だからこそ考えてしまう。
愛されている。愛されているのだ。父にも、亡き母にも、友人にも。ヴェネルはちゃんと分かっているつもりだ。それなのにこれ以上、何を思い知れというのだ。これ以上を、どう求めろと――
「あっヴェネル!」
「!」
思考に飲まれそうになっていたヴェネルの意識を引き上げたのは少女の鈴の音のような声だった。弾んだそれはまっすぐにヴェネルに向いていて、小走りに駆け寄ってくる表情はきらめいていた。
「どうしたの?うちに用事?」
「ん、ああ。うん。リテイナーの仕事で納品にな」
「そうだったの。……あ!ねぇ、夕飯食べてく?もうこんな時間だもの!」
名案であるとばかりにメルコレディは笑顔を更に輝かせた。それにどこか既視感を覚えながら、ヴェネルはためらいがちに首を横に振った。
「――あ、いや。ごめん、今日は家で食べるからさ」
そう言うとメルコレディはとても分かりやすくしょんぼりと尻尾を下げた。その姿に罪悪感を覚えるが、次の瞬間には彼女は気を取り直したのか愛らしく笑顔を見せる。
「そう……残念だけど、じゃあまた今度ね!」
「……」
「ヴェネル?」
なるほど、既視感の正体は。
「ぶはっ」
「!?」
「はは……!同じこと言ってんじゃん」
え?え?と焦るメルコレディに構わずヴェネルは腹を抱えた。彼女はしっかりと師匠の教えを受けている。
「あー……ははは、うん。今度は寄るよ」
「う、うん?」
頭上にいくつも疑問符を浮かべたメルコレディに別れの言葉を告げて、ヴェネルはひとり帰路についた。少し軽くなった足取りは、それでも頭の片隅にある鉛を捨てさせてくれることはない。まっすぐな少女を好ましいと感じるほどに、鉛は重くなっていく。
「……俺じゃない方がいいよ」
月が照らす影は長く伸びて、黒衣森の木々に覆い隠されていった。