人生山なく谷なく部屋があり 「瀬室さん、聞いてくださいよぉ」
瀬室利達(せむろ としたつ)はパソコンから目を上げる。後輩は自分の席からキャスター付きの椅子を転がしてきて、瀬室の机に二本分のコーヒーの缶を置き、すっかり話し込む体勢だ。
「部長が新部署の立ち上げに行ってくれないかって言うんですよぉ、新部署の部長誰だと思います?島田さんですよ島田さん!あの島田さん!俺絶対殺されちゃいますってぇ」
瀬室は笑う。笑うと切れ長の細い目がさらに細まって、絵に描いた狐のようになる。
「殺されはしないと思うけどな。まあ島田さんってほんと難しいからな……」
「難しいどころじゃないですって!瀬室さん島田さんと仲良いじゃないですか、アドバイスくださいよ」
これアドバイス料で、と改めてコーヒー缶を差し出され、瀬室はプルタブを上げた。かしゅ、と空気の漏れる音と共に甘いコーヒーの香りがする。
「仲良いわけじゃないよ、島田さんが怒らないようにどうにかやってるだけで……」
「その『どうにか』の部分が聞きたいんです!」
瀬室はコーヒーを一口口に含む。疲れきった午後三時の休憩にはちょうどいい甘み。かつ、味も悪くない。会社の自販機に入っているドリンクを全て試した上で瀬室が気に入ったそのコーヒーを、後輩もいつの間にか真似て愛飲していた。
「試すしかないな」
「試してダメだったら?」
「おとなしく怒られる」
後輩が天を仰ぐ。その様子に瀬室はまた笑った。代わってやりたいところだが、生憎すぐには手放せない総務の仕事が山積みだ。
「何事もトライ&エラー、ってやつだな。大丈夫だって、いくら島田さんだって獲って食ったりしないし」
本当に困ったら呼んでくれていいから、と付け足せば、後輩は力無い声でお礼を言った。
「瀬室さんってほんとメンタル強いですよね。うちの部署、病んで辞めたり部署異動する人多いのに」
それを言うならこの男もかなりしぶとく残っている方だが、と思いつつ、瀬室は肩をすくめた。
「病むほど本気で仕事してないから」
「またまた〜瀬室さんみんなの仕事も把握して手伝ってくれるじゃないですか!」
「褒めても何も出ないって」
そろそろ瀬室相談室店仕舞い、と後輩の前でシャッターを下ろす仕草をして見せれば、後輩は「ちぇ〜」と唇を尖らせて、椅子を転がして自分の席に戻っていく。
本当に、何かに命懸けで打ち込んだことがない。部活も勉強も、恋愛も、仕事も。人生を心電図で表わすなら、自分の人生はきっと平坦な線で表されて、無機質な音を立てている。
十人乗りかと思われるほど大きなベッドとドア以外、何もない白い部屋。ドアの上には十五文字の文字の羅列。
『セ⚫︎クスしないと出られない部屋』。
瀬室は天井を見上げ、そして床に視線を落とす。視界はどこまでも白い。
人生を心電図で表わすなら。今この瞬間は大きく跳ね上がった線となるだろうか、それとも谷のように落ちた線となるだろうか。
「……まあ、相手が来なくちゃ始まらないか」
瀬室はベッドに腰を下ろして静かに待つ。ドア上の文字列の意味を理解した瞬間から覚悟はできていた。
──────しかし、誰も来なかった。