すべての名前というもの忘れたくないから日記をつける、そう聞いたことがある。
歳にしては幼い文字で書かれたノートを楚は無表情にめくる。罫線に沿って行儀よく並んだ文字が話すのは、日々起こる事件とそれをうけての郭長城の気持ちだ。
人の日記を勝手に見るのは大変失礼な行為だ、楚にもそれくらいのことは分かっている。踏み込まれたくないプライベートというものは人それぞれあり、楚自身にももちろんある。
日記というものがそれに当たるというなら、机の上に無防備に忘れていくべきではない。そんなことだから、誰もいない特調所で机に足を乗せられ、こんなふうに楚にプライベートを踏み荒らされるはめになる。
楚は好んでこの新人のプライベートを漁りたいわけではない。郭長城、海星艦の役職付きの身内の入所。その立場の人間をスパイと疑うのは筋違いではないだろう。内外の敵を見張るよう命を受けている楚には、その人物が書きつけている日記を把握しておく必要性があった。押し付けられた教育係は心底面倒臭かったが、内実を探るには好都合ではあった。役に立たない、それすらも演技かもしれないのだから。
全部杞憂だったな、とまたページをめくる。
事件のない静かな日の記録には、趙雲瀾にもらった飴がすごい味だった、林静に騙されて変な機械の実験台にされた、大慶のブラッシングをしたら服が大変になった、祝紅が淹れてくれた茶が苦かった、汪徴に叔母へのプレゼントの相談をした。楚恕之の訓練は厳しい。楚恕之は歩くのが早い。楚恕之にまた怒られた。
そんなことばかり。
どうでもいいと言っていい内容だ。優れた表現があるわけでもなければ、記録と呼べるほど詳細なものではない。こんなものを書き記すことに何か意味があるのか、楚にはいまいちわからない。読んだところで、ああこんなことがあったな程度の感慨だ。
しかし一週間前の日付まで来たところで楚の手が止まった。
『楚哥が初めて僕の名前を呼んでくれた』
楚は記憶力が悪いわけではないが、その瞬間のことは覚えていなかった。そういえば初めて会った時から新人、お前、そう呼びつけていた。それで充分だったからだ。
「長城」無意識に声に出していた。もうその名前は自分の発声に馴染んでいた。いつのまに。
俺はどうして、あいつのことをそう呼んだ?小郭ではなく、長城と。
『うれしかった』
日記の次の行には短く、そう書かれている。こめかみが痺れた。見張っていた目を二、三度しばたたかせ、楚はその二行をみつめる。
この変化は、海星艦に関わりがある「郭」ではなく、頼りのないけれど大事な仲間である「長城」、そう認識したせいかもしれない。けれどそれは推測だ。いつからそう思ったかもわからない。ページを戻し、自分の行動が書かれた箇所を古い方から見返し、その痕跡を探す。怖い、怒鳴られた、助けてくれた、心配してくれた、笑ってくれた。決定的な痕跡はないが、自分の変化がそこにはあった。自分が覚えていない揺れが。
楚は日記を閉じて、机から足を下ろす。窓に目をやると外はもうとっぷりと日が暮れ、夜が広がっていた。雲があまりない空は月と星に照らされ、黒ではなく藍色に滲んでいる。机の上に戻した日記の表紙を、手のひらで軽く二度はたく。呼びかけるような仕草だった。
立ち上がり玄関に向かう。扉横の電気スイッチを切ると所内にも夜が広がった。扉を開けて空を見る。ガラス越しよりも星の光がまぶしく見えた。楚は長城が眩しく見えたあの日のことを思い出す。
ああ、きっとあの時だ。
忘れたくないから日記をつける。きっとそれは正しい。
郭長城が名を呼ばれて嬉しいと思ったように、自分も初めて長城と呼んだことを忘れたくない。楚はなぜかそう思った。