Bail out to somewhere else 操縦桿を握る指先がなんとなく冷たいと感じた頃には、それまで遥か足元にあった筈の雲は随分と近くに来ていた。
朦朧とする意識の底で頭に響くのは、切り裂くようなアラーム音。金切り声に近い呼びかけ。骨と内臓の奥底にまで響く振動。そして、慣れ親しんだ轟音。いまや雲は眼前に迫り、そして息つく間もなく頭上へと上がっていく。正確には、雲が上がっていったのではなく、自分が堕ちて行っている。そう気が付いた頃には、今度は味気のない土色の地面が視界に入り始めた。
冷たい手をよろよろと這わせ、座席のレバーを引いてもびくともしない。あたりを包み込む分厚い金属は、どうやら自分を道連れにする気らしい。ますます大きくなるアラーム音。今度は視界の端に炎が見え始めた。
「空母に運んでもらわなきゃ飛べもしない腰抜けめ」
いつか会った空軍のパイロットに、そう野次られたっけ。俺に言わせれば、あいつらこそ陸の上しか飛べない腰抜けだ。人の住まない、足を下ろす場所などない、どこまでも青い海の上を飛んでこそ真のパイロットだ。だからこそ、最期はせめて海で迎えたかった。よりにもよって、こんなに味気のない、いけ好かない土に激突して散るだなんて。
錐揉み状態になり、高速で回転する機体は、真っ逆さまに地面へと向かう。血が煮えたぎるような感覚と、相反して冷え切って行く頭、指先。これで最期なのだと静かに目を瞑る。
あと3000フィート、2500、2000…
「ジェイク」
誰だこんな時に、本名で俺を呼ぶ奴は。
最近じゃ、コールサインの方が本名より本名らしいというのに。
「ジェイク」
ハングマンだ。
そう言い返そうとした瞬間。
自分の身体が接しているのは、土でもなんでもなく柔らかなベッドで。砕け散るかと思った四肢はちゃんと全部くっついており、身につけているのはずしりとしたモスグリーンのスーツではなく、ただの白いTシャツであることに気が付いた。ただ、Tシャツにはじんわり汗が浮かび、速い鼓動と荒い息遣いに呼応して、胸は大きく波打っていた。
ベッドサイドの時計は、夜中の3時を示している。窓の外はまだ暗く、橙色の道路照明が灯っていた。
「水でも飲む?」
その問いかけを聞き、悪い夢を見てうなされていたことが漸く飲み込めた。
「あぁ…」
掠れた声で答えるのとほぼ同時に、冷たいボトルが差し出された。『大丈夫?』等の言葉ではなく、最低限の問いかけをした後直に水を差し出す辺りが彼らしい。
「…ありがとな、…ボブ…」
ボトルの蓋を開けて水を流し込む俺を横目に、ボブはくしゃくしゃになったベッドシーツをなんとなく手のひらで伸ばしている。どうせすぐまたくしゃくしゃになるのに。
「君、随分うなされていたみたい」
「…そうらしいな」
ほぼ空になったボトルをベッドサイドに置くと、ボブの唇が近付いてきて、水で濡れた俺の唇に重なった。
「ふふ、冷た」
「誰かさんがご親切にくれた水のお陰でな」
「じゃ、僕のせいってこと?」
くすくす笑うと、またすぐに唇を重ねてくる。
ボブの薄くて小さな唇は赤くて、前にお前ホントに赤ちゃんみたいだよなとからかったら憤慨していたっけ。
俺たちの立てる濡れた音に混ざって、夜中のハイウェイを走る車の音が聞こえてくる。
俺たちは、一昨日から此処…すなわち、ボブの自宅で夏休みを過ごしている。夏の盛りを過ぎた今、少し遅れて始まった休暇ではあるが、どれほど心待ちにしていたか。
『お前、今年の休暇はいつ取る?』
『9月の3週目から。君は?君が都合悪ければ、ずらすけど。』
当たり前のように同時期に休暇を合わせることが前提となっていて、そのメッセージを受け取った時は思わず顔がにやけた。
去年の秋、耳まで真っ赤にしたお前に告白されて、わざわざ好きだのなんだの口にするだなんて子どもかよ、とからかったっけ。ただ、律儀に告白なんぞしてくる様をいじらしく、愛おしく思ったのも事実で、そこから付き合い始めてもうすぐ一年が経とうとしている。その一年を目前に、初めての夏休みを迎えたという訳だ。確かに秋の気配は感じるものの、ここカリフォルニアの太陽はいつもぎらぎらと照りつけるものだから、休暇気分を味わうには十分だった。しかし…
「君さ」
「ん?」
「なんというか…心があまり休まってないんじゃない?」
キスが止まったかと思うと、ボブがずれた眼鏡を直しながらぽつりと言った。
「どういうことだ?見ての通り、優し〜い恋人の家で、優しくしてもらって、とってもリラックスしているが」
「でも、さっきあんな様子だったじゃないか」
ボブの視線が、俺の顔とベッドサイドのボトルを交互に追う。
「…それは、まぁ…休暇で気が緩んで、普段の疲れが出ただけだろ」
「だからって、墜落の夢なんか見る?」
思わずドキリとした。コイツ、俺の夢の中に…
「まるで訓練中みたいに、高度は正確に言うわ、レバーが引けないと言うわで、どんな夢にうなされてるのか一目瞭然だったよ」
なんだ。
思わず言おうとしたが、それ以上に恥ずかしさと情けなさで顔を覆ってしまう。
「…ちょっとワーカホリック気味なだけだよ」
「僕たち地面にいるより飛んでる方が好きなのに、それでワーカホリックって皮肉だよね」
言われてみりゃそうだ。だが、飛ぶのは好きでも死への恐怖は別。肉体がなくなるのも、身体への痛みも、そしてお前と別れることも……恐怖はいつも影のように付き纏う。
顔を覆った俺の手を、ボブの大きな手がそっと解いた。
「ねぇ、ハングマン。じゃなくてジェイク。
僕たち、少しだけパイロット辞めない?」
一体何を言い出すんだ。俺たちは、血液の中までパイロットだろ。
「どういうことだよ」
「つまりさ、ここにいて僕と過ごしていたら、ずーっと仕事のことが頭を離れないだろ」
まさか…『やっぱり別々に過ごそう』とか言い出さないだろうな?
「…だけど。僕とは一緒に、過ごしてほしいから…」
間接照明が反射して、レンズの向こうのボブのブルーの瞳が揺れる。その目つき、赤ちゃんみたいに可愛いクセにしっかり男くさくて、腹が立つがたまらなく好きだ。
「場所だけ、変えよう?」
「…ん?」
「つまり、今日から旅行に行こうよ」
やっぱり夏休みと来たらバケーションに行かなきゃいけないんだよ、とボブが跳ねるようにベッドから出て行くと、机に置かれたラップトップを取り出し何やら調べ始めた。
「お前、何調べてんだよ」
「え、だから旅行の予約。バケーション。」
ほっといたら日がな一日ずっとパソコンでも見てそうなナリして、何がバケーションだ。
思わずそう言いかけたがぐっと飲み込み、手早く予約サイトを開いたボブと、スクロールされ次々と映し出されるホテルの画像とを交互に見比べてしまう。
「バケーションってお前。どこに」
検討違いな質問をしてしまうが、ボブは淡々と答える。
「んー。今日から急に行けるところ、となるとやっぱり州内かなぁ。あとは大きい街の方が候補も沢山ありそう」
「州内って。そんなの意味あるのか?ここにだってヤシの木はあるし、十分休暇気分は味わえてるだろ」
手をひらひらさせながら反論すると、ボブに手を掴まれる。コイツの手、やっぱり俺より大きいんだよな。
「ダメだよ。現に君は、仕事のことを忘れられなくて心が休めてないんだから。たまには気分を変えることも大事だよ」
真剣な顔が愛しくなり、思わずキスしてしまう。
「あ、ちょっ、ジェイク…」
「で?どこにする?」
マウスを握るボブの手に、俺の手を重ねる。
「っ……、こことか、どうかな」
明らかにドギマギした様子で、必死に画面を指差すボブ。こういうウブなところは、一年経っても結局変わらないらしい。
「ほぉ…良いんじゃないか?」
指差した先には、ロサンゼルスのリゾートホテルの写真があった。
大都市。海はあるが、飛ぶための海ではなく、眺めて泳ぐための海。滑走路はあるが、戦闘機ではなく旅客機のための滑走路。そして誰も、ボブとハングマンのことを知らない。ただのロバートと、ただのジェイクになれる街。
「じゃ、早速予約しようかな。半端な曜日だからちょうど空いてたみたい」
ボブが上機嫌でサクサク予約作業を進める。眼鏡に反射するPC画面を眺め、ふと外を見ると、まだ空は暗い。
あともう一眠りして、夜が明けたらコイツと出て行く。
さっき目覚めた時とは異なる音で高鳴る鼓動を感じながら、ボブの髪を撫でる。
「ありがとな。ロバート」
画面を見やると、そこには『Reserved』の文字が浮かんでいた。