決闘裁判「何故来なかった」
怒気をはらんだ声が空気を震わせ、がらんどうの神殿に響いた。
人々の暮らす都市から少し離れたこの神殿に、日が落ちてから訪れる人間は誰もいない。喧騒を逃れてひとりになるにはうってつけの場所だったが、どうやら明日からまた新しい穴場を探さなくてはいけなくなった。だらしなく寝そべっていた石造りの祭壇からゆっくりと身を起こし、ドルイグは静寂に踏み込んできた闖入者と向き合う。
東の丘の上、暁に眩い太陽の光が真っ先に届くこの神殿は、目の前の男を崇めるために建てられたものだった。
「失礼、君と何か約束していたかな」
怒っている理由は明白だった。
もっと以前には、家族が不穏になりそうな物言いはなるたけ避けようと、殊勝な心配りをしたりもしていたものだったが、この男相手にそんな面倒ごとをするのはとっくにやめていた。なにしろいちいち意見が合わないのだ。彼と挨拶よりも複雑な言葉を交わして、穏やかに会話を終えることのほうが少ない。始めから神経を逆なでしてやる方が、互いに無駄なやり取りをする手間も省けるだろう。それに、イカリスは多少怒らせてやった方が、いつもよりずっとよどみなくものを言った。
話している間にも、威圧的な足音を立てて真直ぐに歩いてくる。数歩手前で足を止めた。
祭壇のそばではぜた松明の火を映して、影の落ちた暗い瞳がぎらりとひかった。
「南の海岸にディヴィアンツの痕跡があった。討伐に行く者と都市に残る者を選定するから日没後に集まるよう、エイジャックから指示があったはずだ」
「もう日が沈んでた?気付かなかったよ」
しらじらしくあたりを見回すしぐさまでしたが、無言のまま見下ろすイカリスから放たれる冷え冷えとした怒りが、いよいよ足先から這いのぼってくるのを感じ、それ以上戯れるのをやめた。どのみちこんなところまで来られてはもう逃げようがない。さっさと終わらせてしまいたかった。
「総出で討伐の招集がかからないってことは、痕跡といってもせいぜい数匹程度のものだったんだろう。ちょうどよかったじゃないか。このところ襲撃がなかったから、セナなんか暴れ足りなくてずいぶん鬱憤を溜めていたようだったし…昨日だって気の毒なキンゴが鍛錬の相手させらて燃え尽きてたな。南の海岸は都市からも遠い、避難させる人間なんていやしないから僕の出る幕はない…こんなこともわざわざ言わないと分からないのか?」
「お前が戦いに出ないことは分かっている。初めからお前にそんな力はないし、それを非難するつもりもない。問題は———」
聞き捨てならない言葉に言い返そうと口を開きかけたのを、煩わしげに片手を上げて黙らせ、イカリスは続けた。
「問題は、俺たちの任務に対する、ここ最近のお前の態度だ」
「態度だって?自分の役目は果たしてる。何が不満なんだ?」
「人間に干渉しすぎだ」
イカリスの答えは簡潔だった。下手な誤魔化しなど許してくれそうもない視線に射られて、ドルイグは観念した。そろそろ何か言われる頃合いだろうな、とは思っていた。
始まりは些細なことだった。
その日も都市付近にディヴィアンツの姿はなかった。暇を持て余して広場の階段に腰かけ、行き交う人々を眺めているうちに、ざわめきを縫って何かを言い争う声が届いた。視線をめぐらすと、十歩ほど離れた先でいかにも血気盛んな男二人が、額を突き合わせるようにして、互いに食い違う言い分を熱心にまくし立てていた。
人間は実にありとあらゆる方法で、何もない場所から諍いの火種を生み出す。どの時代、どの場所にいてもそれは変わらない。
呆れるほどくだらないことにこれほど時間を割いて真剣に口論できるのは、ある意味彼らの暮らしが平和であることの表れなのかもしれない。しばらく座ったまま聞くともなしに聞いていたが、終わる気配のない不毛な口喧嘩が殴り合いに発展しそうになったところで、つい横から口を出してしまった。
一歩も譲るつもりのない争いを邪魔され憤慨した男たちは、しかし突然割って入ってきたこのあどけない顔をした小柄な青年が、彼らの崇める神々の仲間の一人だと気付いた途端に口を噤んだ。
さっきからそこで君たちの話を聞いていた。ドルイグは口火を切り、同じだけの妥協で両者の言い分が両立できる和解案を助言してやった。
この都市に訪れるより以前、数百年とどまっていた別の国で、賢者と呼ばれていた人間が人々の諍い事の仲裁をするのを、ドルイグは幾度か見たことがあった。少しその真似事をしてみせただけである。
はたして、ついさっきまで一触即発状態だった彼らは、驚くほど素直に仲裁を受け入れた。
納得のいく和解案に喜び、ドルイグに礼を言い、互いの肩を親しげに叩き合いながら歩き去っていく男たちを見送りながら、目の前が開けたような気分だった。
なんだ、こんなに簡単なものか。
翌日、庭園を歩いていたドルイグのもとに3人の女が訪れ、彼女らの土地で収穫した果実の配分についての助言を求めた。
その翌朝には、ドルイグが寝起きしている神殿の前に、彼の助言や調停を求める何人かの人々の行列ができていた。
困ったことになったと思ったが、正直なところ、そう悪い気もしなかった。自分の言葉で人間たちの諍いを解決するのは、気分が良かった。彼の助言に納得する人間ばかりではなく、意固地に反発して拳の力で解決したがる者もいたが、そんな時はドルイグの持つ力がとても役に立った。
もっと早くにこうしていればよかったとすら思った。
人間に干渉してはいけないという掟に背いている自覚はあった。仲間内の誰かが止めに来るとすれば、それはおそらくエイジャックか…いま対面しているこの男だろうという予想はやはり当たった。
「アリシェムに課された使命が、どうやらお前にとっては役不足とみえるな?人間同士の取るに足らない諍い事を解決してやることの方が重要らしい」
「そんなことはない。でもその取るに足らない諍い事が、多くの人間の命を奪うこともある。僕らがいくらディヴィアンツから人間たちを守ったところで、彼らが互いに争って殺し合うことをやめないのなら、何の意味があるんだ?イカリス、君だって人間が人間の国を亡ぼすところを何度も見てきただろう。君は何も思わないのか?ただ何もせずにアリシェムに従っているだけで満足なのか?」
眼前の男の表情がふっと凪いだ。ぱちぱちと揺れる炎に不規則に照らし出され、苛烈な怒りが嘘みたいに鳴りを潜めた面貌は、なんだか作り物じみていてそら恐ろしかった。
「エイジャックや俺がただ忠実であることをお前はいつも悪し様に言うが、お前の唯一の能力がまさにそれだということを、自分で分かっているのか?お前がその力で人間を従わせているのを見た。意思を奪い、服従させる力だ」
目を見開く。
彼とこの議論するのはこれが初めてではないが、自分の力をそんなふうに言われたことは、これまで一度もなかった。
ドルイグが意識に触れた人間たちの姿が、つぎつぎに脳裏を過る。
不死の彼らに敵意を抱いた者、彼らの留まる国で内乱を目論んだ者、彼の言葉を聞き入れず争い続けた者。
がらんどうの瞳の底に黄金の光を写してこちらを見返す、あらゆる感情が抜け落ちた彼らの顔つきは、今のイカリスのそれとよく似ていた。
喉の奥がひりついて、否定の言葉を返すのが、一度目よりもいくばくか遅れた。ちがう。
「それは違う、僕は…彼らに服従を強要したりはしない、ただよりよく導いているだけだ…」
本気でそう思っていたが、ひとたび生じた迷いを打ち消せないままに発した声は、自分でも分かるほどなんの力も伴わなず、石の隙間に吸い込まれて消えた。おとなに叱責されたこどもの癇癪の方が、よっぽど威勢が良かった。手に触れるほどの緊張を感じ取って、イカリスは目を眇める。
「得意の詭弁でせいぜい気の済むように言い繕うといい、ドルイグ、だが結局のところ、お前が人間に対してやっていることはひとつだけだ」
体じゅうをこわばらせて黙りこくったまま、暗がりの中で色を失った双眸が雄弁だった。返事を待ってやることもせず、こんなときにも容赦がなかった。
「お前が望もうと望むまいと、お前は人間とは違う。そして連中と関わる以上お前は力を使わずにはいられない。それしかできないのだからな。それは結果的には連中の発展を妨げることになる———こんなことはわざわざ言わなくても分かっているはずだ」
揶揄するように付け加えられたそれが、先ほど彼に放ったものとそっくり同じだと気付く。いいように詰られて、何かやり返さなくてはと思うのに、イカリスの言葉だけが小石のように頭の中に沈んでいく。正しいことをしているのは自分のはずだった。この男に脅かされることなどあり得ないと、たかをくくっていた。まるきり無抵抗にさらけ出された気分だった。
また一歩距離を詰め、イカリスは興味をひかれたようにドルイグの襟元に指をかけ、軽く引き寄せる。
黒染めの亜麻で織られ、赤い刺繍の施された衣服は、たびたび相談を持ち掛けてきた人間のひとりから贈られたものだ。アリシェムから与えられた揃いの衣装よりもよほど動きやすくて、ドルイグは時折それを着て、朝の市場や祭典で賑わう人々の中に紛れ込むのが好きだった。
「いつから人間の服を着るようになった?」
異質なものでも見るように眉を顰め、鼻の頭にシワをよせる。すいと身を屈め、
「人間の匂いがする」
振り払うより先に、ドルイグの胸を押して縮めた分の距離だけまた離れた。爪先が皮膚を掠めていった。大して力を込めてもいないだろうに、押された自分の身体が簡単に傾ぐのが、無性に悔しくてならなかった。
見上げた先で、イカリスは唇の端をわずかだけ歪め、それでもはっきりそれとわかる嘲笑を浮かべていた。そんな表情でさえ、彼の完璧な相貌をひとつも損なわないことに、頭の芯がくらくらした。なんてものを相手にしているんだと思った。
彼を形作っているのは、間違っているだなんてほんのちょっとも疑ったことのない、自身の正しさを心の底から確信している、硬質な強さだった。
人間には、あるいはドルイグにも、けして持ち合わせられないものだった。
人間の心の根に触れるたび、ドルイグは彼らの内に渦巻く無数の感情を拾い上げてしまう。善いものも、悪いものも。
この男に、身の内に積もっていくこれと同じだけのものが入り込む余地のある生き物だとは、到底思えなかった。
「お前が人間の影響を受ける分には構わない。人間の真似事をしたいだけだというなら、好きに楽しむといいだろう」
言うべきことはもうないとでもいうように、イカリスは一方的に踵を返した。現れたときと同じ、揺るぎない歩調で遠ざかりながら呼ぶ。ドルイグ。
「人間の服を着て、人間の食物を食って…人間らしく俺たちに守られているのが似合いだ」
怒りで目の奥がかっと赤く染まった。
堅牢に築き上げられたもの根こそぎに突き崩して、ほんの一片でも、自分と同じ疑念と迷いを感じさせてやりたかった。
腰かけていた祭壇から飛び降り、真っ先に手が触れた水差しを握り込む。
何か考えるより先に、去っていく背に向けて力いっぱい投げつけた。
水差しは狙いを逸れて、彼がすぐ横を通り過ぎたばかりの柱にぶつかり、派手な音を立てて粉々になった。
飛び散った破片はひとかけらも、彼の足元にさえ届かなかった。
肩で息をしたまま立ち尽くすドルイグを残して、イカリスは歩みを止めることなく神殿を後にする。
一度も振り返りはしなかった。