ー窓の外から微かに鳥の声が聞こえる。
リズナタスは、深い眠りから覚めるような穏やかな心地で目を開け、辺りを見て訝しげに開いたばかりの目を細めた。
知らない部屋だ。
窓はあるが扉はない。
壁には風景画が飾られており、他には見覚えのある人間が目を閉じ眠っている一人掛けの皮張りのソファ、花の飾られている小さな机、ライトスタンドに椅子のないバーカウンターがある。
バーカウンターの向こう側にある棚には幾ばくかの酒瓶が置いてある。
そして、窓のそとから見える外の木々は生い茂り、数十メートル先も見通すことは不可能。…。
一つ一つの品質は悪くないが、どうにもちぐはぐで奇妙な印象を受ける部屋だ。
まるで思い付くままに家具を配置したような気配すらある。
リズナタスはもう一度見覚えのある人間……奇妙な館で出会った名探偵を見た。
すると、いつの間に目覚めていたのか、彼女と目が合う。
「あなた、何をしているの。……ここはどこ?」
「起きたのか。ここは一体なんだ」
ほぼ同時に発話したが、問題なく聞き取れた。
そして、二人ともろくな情報もなしにこの奇妙な場所に放り込まれたことがここに確定した。
軋むような沈黙が耳に響く。
「つまり、”また”こういう展開に巻き込まれたということね」
スピネルが沈黙を破る声を発し、リズナタスがスピネルの目を見る。
スピネルはリズナタスを見ている。二人とも、表情は常と変わらない。
「……そのようだ。ずいぶんと久しぶりだな」
「正確には○○日ぶりよ。念のため聞くけれど、これは貴方が?」
「まさか」
「そう」
「他の探偵はいないようだな」
「そうね。私たち二人だけ。あなた、この状況について何か共有していないことがあるのでしょう?」
「共有すべきことがあるなら既に行っている。私自身、君がやったのかもしれないと疑うほどには状況を把握しきれてはいない」
「そう」
二人分の”収穫なし”のため息。
言葉はここで途切れた。
伝えておくが、これより先まともな会話は出てこない。
延々と続く描写に対し、苦痛に思わないでいただければ幸いである。
どちらもろくな情報を持っていないのであれば、やることはひとつだ。
二人とも名のある”探偵”であるからして、取り掛かりは早い。
スピネルがソファのひじ掛けをこつ、と軽く爪弾く。
「……ふん」
なにかに気付いたかのように、数多ある薔薇の装飾のうちひとつを取り外す。
尖った茎部分でうっすらと残る木溝を何度かなぞれば先ほどまで影も形もなかった外蓋が開き、中から小さな鍵が出てきた。
(随分と厳重だこと。窓に鍵穴はなさそうだったし、金庫か何かの鍵かしらね)
ちら、とリズナタスに目をやれば、彼も彼で空の酒瓶から何かを取り出している最中だった。
(入り口は目蓋の裏。出口は心の窓)
リズナタスが空の酒瓶から取り出したメモには、そのようなことが書いてあった。
(抽象的だな。心の窓……ジョハリの窓の比喩か?迂遠な表現だ)
不意に、赤毛を二つに括ったアンという名の探偵を思い出す。
確かあれは精神科医だったはずだ。
こういった分野にも強かろうに。
ここにいないのは残念だが、いないものに思いを馳せても意味はない。
(他の酒瓶は全て空。別の場所を見るか)
バーカウンターの裏をゆっくりなぞっていくと、セロテープで雑に貼り付けられた金属片に触れた。
約7cm四方の正方形の金属板だ。真ん中に鍵穴型の穴が空いている。
「……?」
裏返してみても特に何か彫られているわけでもない。穴の開けられたただの金属板だ。
何に使うのかは知れないが、わざわざ隠してあったということは同じように他の場所にも何か隠しているかもしれないということだ。
事件の調査というよりスマホアプリの脱出ゲームだな、とうんざりしたため息を吐いて、リズナタスは金属板をひとまずバーカウンターに置いた。
(金属板を二人で合計六枚見つけて、合流→スピネルの見付けた鍵を使用。金属の箱が裏返る。かつて何が起こったかの幻視)
この部屋の主は、心の病が元で自殺した恋人を悼むあまり、服毒自殺により死亡した。
映像から読み取れたおおよその筋書きはこのようなものであった。
しかしその映像自体から、ごてごてとした欺瞞と嘘と誤魔化しが随所に見てとれて、なんだか誇大妄想と陰謀論に取り憑かれた思想犯の取り調べを思い出してしまった。
本当に最悪すぎて、二度と思い出したくない記憶だった。
ここに来て何度目かの重いため息を吐いて、箱を持ち上げる。
「今の、本人はあれを事実と思い込んでいるようね」
スピネルが口を開く。
非常に珍しいことに、吐き捨てるような口調だった。
「……そもそも、人間の認知領域には限界がある。確かに病的だが、なにも珍しい現象ではない」
世界の全てに意味があると考えるのは明確に病的だが、人間とは何かしら先天的な精神的疾患を抱えているものだ。だから平気で嘘をつくし、時に嘘をついたことすら忘れてしまう……。
そのように続くはずだった言葉をリズナタスは飲み込んだ。
これ以上言葉を続けるのは無意味だし、言っても詮無きことであると判断したからだ。
「……貴方が言うなら、そうなんでしょうね」
リズナタスの瞳を射貫くように見詰めて、スピネルが呟く。
日数が経過しているとはいえ、あの奇妙な館での出来事は未だ鮮烈に脳裏に残っている。
リックが世界の狭間から連れ戻した13番目の探偵。
時の巻き戻し。
崩れる世界。
そのどれかひとつとっても、それまでの人生で培ってきた常識を粉々に打ち砕くに足る現象だった。
(再度室内を見渡す。リズナタスは「綻び」が、スピネルは「改竄」があることを確信しながら)
リズナタスが、確信をもってそれを見る。
星によって決定付けられた理性が、積み重ねられた嘘に押し潰され、無かったことにされたそれを見付けた。
パテで何度も何度も塗りかためられ、その上から壁紙を貼り直されたその壁。
その一部分が、わずかに浮かんでいる。
それはまさしく、暴力と発砲の痕跡であった。
裏返しになった箱とその場所を照らし合わせて検証する。
位置的にもほとんど間違いはないだろう。
辺と辺の境目。ほんの僅か、そこにあるのだと確信がなければ分からないほど小さな瑕疵を撫ぜる。
「……これだ」
箱の一辺に触れるリズナタスの指先を見つめるスピネルに、分かりやすいようにその辺を示す。
彼女は箱の瑕疵に目を留め、自分達の閉じ込められている室内をぐるりと見渡した。
「歪ね」
本当に小さな呟きだった。
手をさしのべたスピネルに、箱を委ねる。
ここから先は彼女の領分である。
カチ、カヂ、ガチ。
時が巻き戻り、再び動き出す。
芽吹いた蕾が膨らみ、そしていつかあるべき場所に辿り着くように。
歪められ、裏返しにされた金属の箱も、あるべき形に戻っていく。
ねじ曲げられた認知が、あるべき姿を取り戻す。それは、過ちであり過失。
しかし、受け入れるべき結末だ。
隠し事を暴くのは無粋だろうか。
事実を突き付けるのは残酷だろうか。
その全て、世界の美しさに比べれば些細なものだ。
その全て、世界の無意味さに比べれば些末なものだ。
だからこそ、二人はここに呼ばれたのだろう。
記憶が息を吹き返す。
本来のかたちに戻った箱がまばゆい光を放って二人を包み込んだ。
まさしく、一瞬の出来事だった。
(事件の真実)(身勝手な口論と殺人、その行為全ての否定)
全ての光が収まったとき、すぐに二人は室内はもちろん互いの姿すらぼやけていることに気付いた。
夢が終わるのか、と言葉にはしないが二人ともすぐに理解した。
「朝の香りだわ」
スピネルが変わらぬ表情のまま呟く。
リズナタスも辺りに漂う香りが、朝露とそれに濡れた草花の放つ芳香であると気付いた。
所以もなにも説明されないまま、物語はもう終わる。
せっかくなのだから、優しい香りに包まれながら「また会おうね」とか。「不思議な事件だったね」とか。
そういう、上っ面だけでも別れを惜しむような言葉のひとつでも言い合えば良いのに、やはり彼らは特に何か言うでもなしにただその時が来るのを静かに待っていた。
そして
ーー朝がきたりて。
常の通り夢から覚めたリズナタスは、これまた常の通り寝台への未練など少しも感じさせない動きで起き上がった。
妙な夢を見た。
まだあの薔薇と朝の匂いが鼻の奥に残っている気がする。
……。違和感。
違う。気のせいではない。
噴くの裾に顔を近づけ、その匂いを確かめる。
「………」
脳裏にあの探偵の人形じみた顔が浮かぶ。
僅かに眉根を寄せ、リズナタスはまとわりついたその香りを流すべく、シャワールームへと向かうのだった。