夜空のように深い、それでいて目の覚めるような美しい青だった。ビロードにも似た質感の花弁。困ったことになったと思う。
簡易なラッピングの花を一輪携えて、どこへ行く予定もない。
店先に出されたバケツのメモにガーベラとあった。花には詳しくない依織にも見覚えのあるものだ。買おうと決めて買ったわけではない。ただ、その時依織の目にひときわ美しかった。だから手が伸びたのだった。
行き先のない夜の散策のしまいに到着する場所といえばひとつきりだ。昔なじみの営むバーというのはなんとも居心地のいいもので、近頃は足に任せていると自然とそのバーの前に辿り着く。実のところ、この花が目に入った瞬間に頭に浮かんだ男がいるのもそこだ。なんだか安直なような気もしてためらったが、買ってしまったものは仕方ない。閑静な住宅街に静かに佇むバーの前で一度足を止め、依織はひとつため息をついて扉を開けた。
「ゴキゲンさん! 今日~も静かやなあ~!」
カウンターの中でなにごとか作業をしていた匋平が顔を上げ、「お前かよ」と笑う。
「なんや、俺で悪いか?」
「悪かねえが……つうか、お前が静かな時間に来てるだけだ! 今はそこそこ繁盛してんだよっ」
「ナ~ッハッハッハッ、そら何よりやわ!」
「ハアァ……いつものだな?」
依織の目配せにふんと鼻で応え、匋平が体を起こす。――と、依織の手にある花に気付いた目が驚いたようにまたたいた。
「依織、それどうした」
「ん? ああ……」
匋平なら喜ぶのではないかと、依織は内心思っていた。
硬派な性格の割にロマンを生きる男だ。その二つが内面に矛盾なく立っているところが匋平の匋平たるゆえんなのだろうと思う。CANDYへ立ち寄る際に「店への礼儀として」花束を携えてくる件も、その二面が働いた結果として依織は受け取っている。
「綺麗やろ。花屋の前通って見かけてな。たまには俺からくれたろ思て」
「……俺に?」
「他に誰がおんねん」
おそらく素直に喜ぶだろう。いくら依織に不似合いなふるまいであろうと、こういうことを茶化す男ではない。
「……ま、煮るなり焼くなり好きにしてや。花のことは俺より旦那の方が詳しいやろ」
「ああ……」
ギムレットを置いた手で青いガーベラを受け取った匋平が、目元を緩めて顔を寄せる。
「良い色だな」
鮮やかだが眩しくない、深い青だ。だから似合っていた。夜を生きるこの男に。
「……やっぱ似合うな。ガラにもないことしてもうたと思っとったけど、買うてきてよかったわ」
「口説いてんのか」
「口説いてたら?」
「……」
匋平の視線は花に注がれている。まつげが頬に長い影を落としている。まったく、どこまでも絵になる男だ。
「……悪くねえ」
匋平が目を上げて微笑む。
その瞳に思わぬ熱を見てとって、依織は少し面食らった。
「花瓶取ってくる。一輪挿しがあったはずだ」
「お、おぉ……」
「生けたら店閉めるから、準備しとけよ」
「おう。……おう?」
カウンターの奥へ向かおうとしていた匋平が要領を得ない返事をする依織へ振り返り、「何だよ。誘ったろ」と眉を寄せて言う。
「口説いてたんだろ。俺を」
甘やかでありながら明確な情欲がある。そういう声と瞳だった。依織は明日の予定を頭の中でざっくりと洗い、うなずくだけうなずくと匋平を見送りながら手元のカクテルグラスを傾けた。飲み慣れた味がする。求めていた答えのような。
飲み終えたグラスをカウンターに置き、匋平が戻るのを待つ。
顔が見たくなった。足がそう動いた。花を渡したかったのかはわからない。どうするつもりでもなかったのだ。ただ。美しかったから会いたくなった。
花から目を上げ、依織を見つめた瞬間、匋平はこの上なく甘く微笑んだ。
美しかった。