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    ニキ♀燐♀
    人魚姫パロディです。未完です

    タイトル未定 むかしむかしのおはなしですよ。
     ふかい、ふかいうみのそこに、ひとつのくにがありました。おうさまがおさめる、にんぎょのおうこくです。
     おうこくには、それはそれはうつくしいおひめさまがいます。なまえを、りんね、といいました。そらからうみをあたためるたいようのようなながいあかげに、かいていからみあげたみなものようなあおいひとみと、それとそろいのいろのうろこをもつ、とてもきれいなにんぎょひめです。
     そしてものがたりのはじまりは、にんぎょひめの17さいのたんじょうび——などではなく、いつもどおりの21さいの、あるよるからなのです。

    ・・・

    「……」
     燐音は背後に続く洞穴を注意深く再確認してから、音を立てないよう慎重に水面へと浮上した。
     珊瑚礁のルートは臣下達にバレてしまったようだったから、今日は昆布林の方から迂回して洞穴を抜けるルートで此処へとやって来たのだが、道中に危険——鱗や尾鰭を傷つけかねない尖った岩肌や、人魚を襲い喰らう魚の縄張り、など——が多いと、まさかここを好んで通りたがる人魚もいないと考えられているのか、警備は驚くほどに緩かった。此度は臣下達にバレずに城を抜け出せたようで、追手の様子も見られない。
     此処は、というより此処の海面は、燐音の昔からのお気に入りの場所だった。海中は、なんでもないただの海である。王国領ではあるもののその統治や発展は未だ進んでいない、高い岩だらけで未整備の領海。王家に仕え領海領民を守護する武官ですら、此処には駐屯していないような無人の僻地。何故こんな暗い海が、ゆくゆくはこの国の女王となる姫君に気に入られるのか、ほとんどの民は理解できないだろう。けれど。
    「……綺麗だな。いつも通り」
     海面に上がれば、此処からは燐音の憧れの世界がよく見えたのだ。此処以外の人気のない場所は大体が遠すぎて景色が霞んだり、逆に人間に見つかりかねない近さだったりするのだが、此処は距離感も良く、そして一等、綺麗に見える。
     水平線の向こう側までその光を届ける不夜城を構えた、人間の世界の王国が。
     白亜の城と、賑やかな雰囲気を此処まで届ける城下町。そこから放たれるキラキラ眩い光を眺めているだけでも、そこに息づく人々の歓声や笑い声、楽しい気持ちが届いて来そう。夜は等しく眠りにつく規則の人魚の世界とは違って、夜でも人々が自由に活気付くらしい人間の世界。歌や踊りは常に王族の儀礼と結びつき、内容に乏しい人魚の世界とは違って、日常の中で身分に関係なく、人々が自由に歌い踊るらしい人間の世界。燐音はずっと、自由でキラキラした人間の世界に憧れていた。こうして国の規則を破り、海面に顔を出してしまうほどに。
    (いつか必ず、人間の世界に行きてェ。必ず……でも)
     そう。こうして王宮の監視を掻い潜ることができる燐音でも、人間の世界に行くにはひとつの大きな問題があった。燐音は、魔法が使えないのだ。
     昔——人間と人魚との間に、交流があったほどの昔——は、人魚とは皆等しく魔法を扱える種族だったと、文献には記されている。一時的に人間の姿をとる魔法の使用記録も、幾つもの文献に表されていたり。きっと人間の世界の文献には今でも、人魚は魔法を使う種族と書かれているのだろう(あるいは人魚の存在を記す文献など、焚書されたかもしれないが)。しかし。人間との交流が完全に絶たれた現在では、魔法を扱う人魚はほんの一握り、数えられるほどになってしまって、燐音も含めてほとんどの人魚にその力は無いのだ。
     昔の、人魚が人間の世界を魔法で助け、人間は海へと陸の恵みをもたらすことで人魚を助けていた二者間の親密な関係性は、人間の文明が進み魔法への要求が壮大で傲慢なものへと移り変わったことで次第に歪み、険悪になったのだと言う。そして、言いなりに魔法を使わせる奴隷を得るために人間が人魚の乱獲……拉致を始めたことで、人魚の王国は人間の世界との関わりを閉ざし、人間と人魚は断絶された。
     そしてそれ以降、まるで種の生存本能が働いたかのように、生まれる人魚のほとんどは魔法の力を持たなくなった、のだと。一〇〇〇年も前の古文書の話だけれど、王族というのは歴史も大切なお勉強として修めねばならない規則なのだ。それにこれは燐音も、妹の一彩や国民だってみんな学んでいる、普遍的な人間と人魚の物語である。教鞭を振るう文官が口にする結末はいつも"だから人間には近づいてはいけません、海面に上がるのもダメ、姿を見られたら最後捕まって飼い殺される"で固定の、断絶の物語。
     けれど、燐音は人間の世界に行きたかった。いくら話を聞いたところで、人間は恐ろしいと言われたところで、自分の力だけでは不可能だとしたって、自分が今こうして見ている世界は、とてもキラキラしていて心が躍るから。そんな輝きの中に、楽しい空間に行って、自由に歌い踊りたいのだ。こんな、規則ばかりで燐音を次期女王としてしか扱わない世界を出て。
     しかし、奴隷にされるとか殺されるとか言う以前に、魔法がなくては人間の世界には行けやしないのは先にも述べた通り。人間の世界へは歩いていかなければならないのだし、陸で呼吸ができなければ死んでしまうのだから。人魚は下半身が海中にある限り呼吸ができるが、人間は身体が海水や水に触れなくとも大気で呼吸する種族だと言う。まずは魔法で人間の姿を得なければ、燐音は一生こうして水平線の向こう側を羨ましげに眺めるのみの人生になってしまうだろう。女王として即位してしまえば護衛の武官も政務も増えて、それすら不可能になる。燐音は悩ましげに溜息をついた——魔法について、アテがないわけではないのだが、素直にうんと頷きそうではない相手だし。しかし自分ももう二十一歳なのだ、父上もご病気でいつ代変わりという話になるか知れない——などと思案していたため、燐音は迫り来る人工的な水音に気づくのが一瞬遅れた。

     ざあぁぁぁぁ————

     それは大きな大きな客船だった。燐音が見上げてやっと、その船の甲板と舳先が見えるほどの立派な豪華客船。人間が海を開拓した証であり、王国では公害として日夜防音対策が協議されている、轟音と共に進む人間の乗り物。甲板にて演奏会が開かれているようで、今日は推進音の他に、管弦楽器の美しい響きも聴こえてくる。先程から見えたり物陰に隠れたりしている人々は、音楽に合わせて踊っているのだろうか。
    (すげェ。俺も乗ってみたい……)
     人魚は人間に姿を見られてはいけない。人間に住処の当てをつけられたら最後、一人残らず狩られる可能性があるからだ。だから普通、燐音がここで取るべき行動は海中に身を潜めてから逃げる、の一択であるはずだった。でも憧れに膨らむ心は、まだもっとこの音を聴きたい、この景色を見たい、と、尾鰭をこの場に留めさせてしまう。もう少し、後もう少しだから——
     ——舳先に歩み寄る、人影がいる。
     それは、豪奢に幾重ものレースが飾られた純白のイブニングドレスを身に纏う少女だった。
     糸の一本一本が繊細に織りこまれているのだと遠目にもわかる、ドレスと揃いの素材のオペラグローブは、彼女の健康的な肌色をいっそう好ましく飾り立てる。首元や耳を飾り月の光を反射しているのは、真珠なのだろう。そして何より、彼女はとても……綺麗だった。人間の世界の光が、霞んでしまうくらい。柔らかにうねるパールグレイの長髪を頭頂部から結い上げ、涼しげにまっすぐ伸びたまつ毛のラインに縁取られている縹色の瞳は、曇天の合間から差し込む青い晴空のように輝いている。美しい、という言葉はきっと彼女のためにあるのだなんてありきたりな賛辞を思いながら、燐音ははやる胸を抑えて、じっと彼女を見ていた。
    (話してみたい……声を聞いてみたい。名前は何て言うンだろ、年下っぽく見えるけど一彩よりは上だな、あれ人間って人魚より若く見えるんだっけ?ああいやどっちでもいい、ただ知りてェ……年齢以外も、いろんなことが)
     彼女はどんな声だろう。どんな名前で、何歳なのだろう。何が好きで、何が楽しみなのだろう……
     燐音は物憂げな顔でやや俯いて海面を眺めている彼女のことを考える。それが政務をする時の自分とそっくりな表情であることに気づいて、その顔の理由も知らず、燐音は彼女に強く、共感を覚えた。
     それでも、彼女の姿は自分とは違って、なんともはや絵になった。彼女についての知らないことを、考えるたびに心が躍る。嬉しくて、ドキドキして、心臓のあたりから身体の端まで、じんわりとした温かみが広がって頭がぼんやりとするようだ。少し幸せになるし、同時に居ても立っても居られないような気がする。
     そう。燐音は人生で初めて、この少女に恋をしたのだった。
     どうしよう。次はいつ会えるかわからない、もしかしたら二度と会えないかもしれないのだから、彼女の名前だけでも知りたい。話しかけたら教えてくれるだろうか。人間に姿を見せるのが危険なのは承知のことだと知っているけれど、ここは人間に探られたところで誰も住んでいない領地だし。でももし、この姿を化け物だと気持ち悪がられたら——燐音の逡巡を、今度は大きな轟音と振動が切り裂いた。

     ごおぉぉぉぉぉん————

    「っ、!?」
     反射的に海中へと潜り、衝撃を耐える。何かと何かがぶつかり合う振動と、轟音の音波とが重なり、身体は揺れ皮膚までもがビリビリと揺れる。……大波が二度三度と押し寄せ、やっと燐音が海面に上がった頃には、事態は悪しき方向に一変していた。
     水面に、おおよそ六〇度の角度でめり込んでいる豪華客船。バリバリという音を立てるそれから、人間がそれこそゴミのようにバラバラと海に落とされ、あるいは落とされないように崩れた船体にしがみついている。地獄のようだった。そうだ。燐音が抜けて来た洞穴近くの高い岩に、この豪華客船は座礁してしまったのだ。
     先程までの幸せな空気から一転し悲鳴と轟音が響き渡る中、危険回避のためにも燐音が一度海中深くへと潜りつつ確認すると、最悪なことに船体には大きな穴が空いて、今この瞬間にも船の中に海水が侵入している。もうこの船は助からない、確実に沈没する。こんなに陸から遠い場所、人間にとっては生存に適さないだろう冷たい海では、人魚のように泳ぎの得意な者が最短ルートで陸まで泳いでもやっと助かるかどうかといった状況で、乗客のほとんどの命は絶望的だろう。ということは、
    (あいつ……!)
     一気に頭が冷えた燐音は、海中から、必死に白いドレスの女の子を探した。あの子の身に纏っていたものはどれも高級そうだったから、身分は高いのだろうと察せられたけれど、このようなパニックでは身分による優遇措置など存在しないに等しくなってしまうはずだ。つまり、あの子はこのままこの海で、見殺しにされてしまう可能性が低くないということ。——そんなのは嫌だ!だったら俺が、絶対にあの子を助ける。
    (どこ、どこだ!どこだ、早く、早く見つけねェと)
     見つけても溺れていてはおしまいだし、長くこの水温に浸っていてはそれもまた命に関わる。燐音のような人魚と違って、人間は低い温度が苦手らしいから。船体破損部の右手に回って、彼女を探す。いない。反対方向も見る。いない。海底に沈んでいる人影を検める。いない、良かった。もしかしてキュウメイボート?などというモノで逃げ出せたのだろうか?燐音はあまり知らないそれのことを思い出して一瞬楽観的になったものの、やはり不安が勝り、踵を返して捜索作業へと戻る。水面の方まで上がってぐるりと確認する。しかしいない。どうして見つからない、もしかしてどこにもいないのではないか——もはや半分が沈んだ船を改めて確認して。
     燐音はようやく、まだ海面に出ている船の手摺に片手でぶら下がり、もう片方の腕に意識のない白いドレスの少女を抱えた男がいるのを見た。
    「っ、いた……!」
     あの子こそ、燐音が探していた少女で間違いない。誰だか知らないがあの男が守っていたのか。しかし、彼だってもう長く持ちそうにない。燐音の声と泳ぐ音に男は気付き、こちらを見て疲弊し切った顔で言う。
    「……私は、夢を見ているのか、人魚など」
    「夢じゃねェよ!なァ、その子のこと助けたいンだ俺、」
    「……私だって助けたい、でも、私は泳げない。救命ボートは最初に沈んでしまってもう使えない、救援が来るのにはあと一時間もかかると聞いたが、この腕も船もきっともう限界だ」
    「だったら!俺にその子を預けてくれ!必ず、必ず陸まで届けるから……!」
    「……人魚は、人を誑かすのだろう?信用、できない…………」
     男の言うことは理解できなかった。人魚が人を誑かすとはどういうことなのか、断絶の一〇〇〇年の間に、人間の世界ではこちらと違った物語が根付いたのだろうか?しかし今はそこを詮議したり、指摘して訂正している場面ではない。どうすれば、一刻も早くこの男から信用を得られるのか……燐音は一瞬の間に考えに考え、考えた結果素直になる以外がどうしても浮かばずにこう言った。
    「……その子に、恋したから。だからその子には死んでほしくないンだよ。お願いだ、俺を信じてほしい。絶対に無事に帰してみせる」
     そしてその素直さは、無事に男の意志を変えてみせたのだった。
    「……ははは。そうか。やはり人魚は伝承通りというわけか」
    「はァ?何言って、」
    「わかった。私が仕える大切な主君を、姫君をよろしく頼む。必ず生きて、国に届けてくれ」
    「お姫様なのか?この子」
    「知らずに助けようとしていたのか、それなら余計に信用に足る。そうだ。必ず姫君を生かしてやってくれ」
    「……、ありがとな。国までは無理だけど、ちゃんと陸地に送るから安心して、」
    「「…………」」
     そうして、この海上で唯一意識のある二人は見つめあった。燐音が助けられるのは一人だけということも、男が助けてほしいのはこの姫君一人だけということも、初めからわかった上でのやりとりだったとはいえ、今から燐音が陸地に向かって泳ぎ出せばそれが何を意味するのか、そこを考えずにいられないわけではない。
    「……早く行け」
    「……最後に」
    「なんだ」
    「名前だけ教えてくれよ。お前の。この子の名前は本人から聞くから」
     お前の名前は覚えておきたい。燐音が言えば、男はその時初めて、柔らかく微笑んで見せたのだった。

    ・・・

     にんぎょひめはやくそくどおり、にんげんのおひめさまをかかえて、りくまでおよいでいきました。
     にんぎょのおびれでも、にんげんひとりをかかえておよぐのはとてもたいへんです。けれどもにんぎょひめはおひめさまをたすけたくて、ひっしにひっしにおよぎました。おうこくのうみをこえても、じかんもわすれてひっしにおよぎます。
     そうしてついに、にんぎょひめとおひめさまは、りくにつながるすなはまへとたどりついたのでした。

    ・・・

    「なあ、起きろって……!服も髪も濡れてるのに夜風でこれ以上冷やされたら、あんたこのまま二度と目覚めないかもしれねェだろ!起きなきゃダメだ、おい!」
     人間の国の領地であろう砂浜に着くと、そこは街の方からの灯りで星が見えないほどに明るい夜だった。人の姿形など、影まではっきりと見えてしまう。
     燐音は人魚である以上、長居するのは得策でない。けれど燐音はこの少女の……お姫様の名前をどうしても知りたかったし、助けるために泳いでいる間に"恐怖されても構わないから自分の姿を見て、記憶に残してほしい"と思うようになって、しまった。本当に、これでさよならかもしれないから。だから帰れなかったし、何よりそれ以上に、何度声をかけても目覚めない……安否を確認できない彼女を、放り出しては帰れないだろう。
    「おい!起きろ!がんばれ……!」
     燐音は必死に声をかける。もしかして目覚めないのは衰弱しすぎたか、死んでしまったからなのではないか?と訝しみ、人間という種族に関する僅かな知識を頼りに呼吸や脈拍を確認するが、どちらも安定しているような気がする。けれど、目覚めてくれないことにはやはり心配で堪らない。お願いだから起きて、元気な姿を見せてほしい。
     その一心に燐音が声掛けを続けていると、遠方から突然に声が掛かった。
    「……どちらさん?こんな夜更けに危ないで」
    「!」
     人だ。人が、燐音の声を聞きつけてやってきたのだろうか。声も足音も一人だけれど、見つかっては事である。
    (っ、くそ)
     燐音は人間の世界に行きたいが、それは奴隷や見世物という扱いを意味しないのだ。意識のないお姫様を砂浜に置いて、燐音は急ぎ海中に逃げ込む。あのような人を心配する声色の人間であれば、きっと少女のことも悪い扱いはしないだろう。一国の姫であることを知っていれば尚更、良い待遇をして褒賞を貰おうとでも動くはず。だからきっと大丈夫。自分は早く逃げるべきだ——
     燐音は後ろ髪を引かれる思いを必死に振り切って海に飛び込み、初恋の少女が暮らす人間の世界を後にしたのだった。

    (……名前。聞けずじまいだったなァ)

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    -------------------------------------

     おひめさまをたすけたことがおうさまにしられると、にんぎょひめはいっしゅうかんのあいだ、ろうやにいれられてしまいました。
     けれどもにんぎょひめはあきらめません。ろうやをだされるとすぐ、ともだちのまほうつかいにあいにいったのです。じぶんをにんげんにしてほしい、とたのむためでした。
     "あとひとめだけでいいから、おひめさまにあいたい"。にんぎょひめはひっしに、まほうつかいにたのみます。

    ・・・

     父上……というかこの国の規則は娘に対して、外の世界に出ることばかりに厳しく、内の行き来には寛容だった。未開拓であったり治安の悪い場所でない限り、燐音は護衛や監視に付き纏われることなく、国内の至る所を日夜自由に泳ぎ行くことが許されていたので(流石に意識のない睡眠時には護衛が付いているが)。陸の世界を眺めに行くと怒られる理由にはそういうものもあるだが、反対にこうして街中を泳ぐことには何のお咎めもない。なのでこの日、燐音は一人きりで、病院に近い立地のとある民家を訪れていた。
    「ハローハロー!」
     軽やかな口調と共に戸口をドカドカ叩く。次期女王様のロイヤルノック……否、取り立て屋もかくやという暴打に、家主である女性はうんざりの四文字を顔に貼り付けながら玄関扉を開いた。勿忘草色のしなやかなストレートヘアを腰の下まで伸ばした、涼やかな蜜色の瞳が特徴のこれまた美しい人魚は、名をHiMERUと言う。
    「お帰りください」
    「開けてくれたじゃん。じゃ、お邪魔しまァす」
    「うるさいのですよ貴方は。そんなに騒がれては居留守が使えないではありませんか」
    「そのためにうるさくしてンだもん」
    「もん、と付けられましてもかわいくもなければ気持ち悪いです」
     態度はともかく名実ともに姫君である燐音を前にして、民間人である彼女がこれほどの軽口を叩けるのには訳がある。HiMERUは、魔法使いなのだ。
     一〇〇〇年前の昔の人魚はだれでも魔法を使えたというが、現在、魔法を使える人魚の数はほんの一握り。種の生存本能がそうさせたと伝えられるが、理由は定かではないし、肝心なのは現在を生きる人魚にとって魔法使いは一握りの存在ということ、そして、HiMERUはその一握り側である、ということだけだ。この王国では、魔法使いの人魚は高校生ほどの年齢になると、学校に加えて王宮にて魔法の使い方や安全な運用方法を学ばねばならないという規則がある。そして、その授業には魔法の力の有無に関わらず、王族の子息息女も参加する決まりなのだ。国を統治する者として、魔法使いという存在や魔法という概念を正しく理解するために。
     つまり。燐音とHiMERUは、同窓の仲間なのであった。
    「メルメルが今日は仕事なのかオフなのか知らなかったけど、どうしても会いたくて一か八かスイスイやって来ちゃった、健気でツイてる燐音ちゃんを?すげなく追い返すのかよォ?」
    「追い返しますよ、今すぐ。……こうして見物人が現れていなければ、の話でしたが」
     HiMERUは小さく舌打ちをする。近隣の家の人々や通行人が、先ほどからそれとなくこちらを見ているのは燐音にも察せられた。職業的にも性格的にもこうして周囲を囲った方が、HiMERUは捕まえやすいのだ。燐音はしたり顔で彼女の横をすり抜け、屋内へと侵入する。HiMERUも溜息と共にそれを見送り、早々とドアを閉めた。
     HiMERUは魔法使いであるが、それは泳ぎが早いとか視力が良いとかに連なる分類であって、職業ではない。HiMERUの職業は芸能人……アイドルである。
     王族の儀礼として行われる舞踊ではない、独自の歌と踊りで人々にパフォーマンスを行う存在を、アイドルと呼ぶらしい。燐音もHiMERUがそう言い始めたことで知った。これは彼女の自称だ。……アイドルとはこの国でははっきり言って異端の存在だし、王族として舞踊の稽古を付けられている燐音から見ても一級品に磨き上げられていると感嘆するその一挙手一投足・奏でられる歌声も、儀礼のそれとは別種のモノであるというだけで、受け入れない・受け入れ難いと言う国民は多い。実際、国政にはアイドルを認めない空気があることは、政治に近い立場である燐音はよく知るところだ。文官の誰かが、王族に伝わる儀礼的な舞踊の立場が脅かされるから、とかなんとか言っていたような気がする(くだらなすぎてもう忘れた)。とにかくこの国では、アイドルを自称し活動するHiMERUは、パイオニアでプロフェッショナルであると共に問題児で、なかなか自由には振る舞えない立場だった。
     でも、見ていてくれる人はいる。HiMERUは問題児であるのとは裏腹に、芸能界では多くのファンを抱えている存在だ。彼女がさきがけとなって、アイドルという存在はこの国の一大ジャンルに成長するのではないかと予感させるほど。燐音も、自身が憧れたのは人間の世界の自由な歌と踊りだが、HiMERUがこの国でアイドルとして、芯の通った決意を持っていることはよく理解しているつもりだ。
     ——いつからか話が逸れたが、ともかく。つまるところHiMERUは芸能人、アイドルなので、外で悪目立ちする訳にはいかない。それも相手が王族であれば尚更。だから、彼女は騒ぐ燐音を嫌々ながらもあっさりと、室内へ受け入れたのだった。

    「それで?アイドルの貴重な休息に割って入ってまで、HiMERUに何の用向きですか」
     ドアが閉じられた瞬間に静かになり、纏う空気を冷静なそれに変えた燐音に向かって、敢えてHiMERUは問う。この女が自ら泳いで自分の元に訪問してくる場合に限り、それは八割以上の確率で、真面目であったり深刻な類いの、他人を助けたいから魔法の力を貸してくれ、という相談である。先程は挨拶代わりに帰れと言ったが、HiMERUには初めから話を聞いてやるつもりがあった。そういう時の燐音には、手が空いているならば捨て置かずに手を貸してやる程度の善良さを見せても、無駄にはならないと知っているから。
    「……HiMERU」
    「なんでしょう、天城」
     だからHiMERUは驚いた。
    「俺を魔法で人間にしてほしい。一週間でいいから」
     燐音が、燐音自身の欲のために魔法を求めて来たのは、これが初めてだったのだから。
    「…………、貴方をですか?」
    「ダメ、かよ」
    「ダメでは、ないですが……」
     そうだ。ダメではない。魔法は行使する手間がかかるだけで減るものではないから、きちんと礼儀と感謝と手間賃程度の謝礼があるなら首を縦に振るのも簡単だ。そして燐音はきちんとそれを用意する人魚であるし。だからただ、驚いたのだ。この女の他人を頼る程の我欲と初めて向き合わされたことにも、その内容がまさか、人間に変身したいなどという大層なものだったということにも。いや、燐音が人間の世界に強い憧れを抱いていることや、人間の世界を眺めに行っては戒めに牢へ閉じ込められていることは、魔法の学習のために王宮に通わされているHiMERUは既に知っている。けれどだとしたって燐音が、いよいよ強硬手段に出ようと始めた計画の片棒を、HiMERUに担がせようと考えていることが驚きだ。
    「……ダメではないですが、壮大な頼みだから驚いたのですよ。貴方は人間に変身したいと言いましたが、変身魔法は決まって“触媒”が魔法の対象者の身体または精神の一部になる危険性の高い魔法ですし、“誓約”の内容だって難しいものが多い。そもそも変身魔法は要求される魔力量が多いゆえに、成功率も——」
    「お前は変身魔法が一番得意だろ」
    「……」
     何より変身魔法は要求される魔力量が多いゆえに、成功率も低いから試そうとするな、と止めようとして、HiMERUは逆に口を封じられてしまった。そう、変身魔法の成功率が低いというのは一般論。HiMERUの得意魔法こそ、その変身魔法なのだった。理由は割愛しよう。借りられる魔力量も魔法使いの中では随一のHiMERUが、この魔法に百発百中の自信があることを、燐音はいつから見抜いていたのだろうか。……しかし成功率について論破されたところで、
    「ですが、対象者に危険が多いことには変わりありません。魔法が要求する触媒と誓約は、術者ではなく魔力が——自然の意志が定めるのですから」
     そう、危険性については、話は振り出しのままだ。誓約が果たされず触媒が失われたら、魔法がしたこととはいえ術者のHiMERUが一国の姫を傷つけたという構図が完成するだろう。そうなればアイドルとしてだけでなく一国民として、HiMERUは終わってしまう。それだけは何がなんでも避けなければならない事態なのだが、その点について目の前の女はどう考えているのだろう。
    「しかも、一週間など長すぎます。何か考えがあるのですか?」
    「……危険は承知の上だし、考えは……ないけど、誓約だって守ってみせる。お前に迷惑はかけないと誓う」
    「……あのですね、」
     ふざけているのか、魔法はそんな簡単な話じゃない。一緒に学んでいる癖に今まで何も聞いていなかったのか?燐音とは思えない軽率な発言に、額に青筋が立ちそうになるのを感じた。それを必死に堪えつつ、HiMERUは皮肉の意味も込めて、魔法の基礎講釈を語ってやる。本当に魔法をただの便利な手段だと思っているなら、ここから話してやらねばいけませんからね。
     魔法。それは、有から有を生み出す奇跡のことだ。
     詳細には、大いなる自然から魔力というエネルギーを借りて、術者が対象者に対して指定するプログラムを稼働させる儀式である。プログラムの部分が“物の温度を一定に保つ”とか“場所から場所にテレポートする”といった、魔法の中身に相当する。何もない所から鳩を出すような無から有を生み出すことはできないが、そこにいる鳩を一瞬で調理済みの丸焼きに変えるような有から有を生み出すことは、難易度はともあれ大抵の内容が可能である。術者の素質とはすなわち自然と通じ魔力を借りる能力の有無であり、これを有する存在を一般的に「魔法使い」と呼ぶのだ。対象者は術者自身でも、第三者でも成立するが、対象者の同意がなければ魔法は成立しない。
     勿論、魔法はなんの制限やデメリットもなく自然の恵みを享受できるものではない。より大きな奇跡を起こすには多量の魔力が必要な一方で、自然から借りられる魔力量は術者の間で能力差があるため、同じ魔法でも扱える者と扱えない者がいる。そして、術者が魔力を借りる時、自然と魔法の対象者の間には“誓約”が生じ、対象者は“触媒”を提供することになるのだ。
     誓約は、自然が対象者に提示し約束させる、達成しなければならない条件である。例えば“三日以内に珊瑚の粉末を五〇〇グラム手に入れなさい”とか“一週間で友人と呼べる存在を一人増やしなさい”とか、その時その時の魔法の内容によって異なり、魔法使いは皆これを天啓のように聞く。魔法使いでない者には聞こえない自然の意志だそうだ。
     そして、誓約に同意した時、対象者は決まって“何か”を提供するよう自然の意志に求められる。それを人々は触媒と呼称していて、これもまたその時その時の魔法の内容によって異なり、魔法使いだけが天啓のように聞く。
     触媒はいわば誓約に対する人質のようなもので、対象者が誓約を達成すれば戻され、違えれば永遠に失われてしまう。魔法の規模や期間が長大になり借りる魔力が多くなればなるほど、誓約の難易度と触媒の希少性は上がる……いや、そう説明するよりは、「より大切なものを人質に取られ、難しい要求を突きつけられる」と説明した方がわかりやすいかもしれない。
     この通り、一口に魔法と言っても、一生命体の身で大自然の力を借り不思議を起こすためには、実際これだけの危険が待ち構えているのだ。誓約を守ればノーリスクで魔法の恩恵を受けられる、と言えば簡単だけれど、HiMERUの経験上それは些細な魔法に限られたことで、
    「変身魔法というハイカロリーな魔法は、課される誓約も、提供させられる触媒も重大なものばかりですよ。簡単に口約束できる代物ではありません」
     言い切って、HiMERUはじぃと目の前の女を見た。しかし、彼女の表情にも返事にも変化はない。
    「それでも……誓約は守ってみせる。天地神明に誓って」
    「ですから、」
    「どうしても人間になりたいンだ。妹の一彩も優秀な魔法使いだけど、人間の世界に行くなんてあいつに言ったらきっと騒ぎになる。かと言って俺は魔法が使えないし、HiMERU、お前にしか頼めない」
     それどころか、必死に食い下がってくる始末だ。だんだん呆れを通り越して、心配やいじらしさ——HiMERUはこれに弱い自認がある——すら感じてくる。なぜ彼女は唐突に、これほど人間になることに……人間の世界に行くことに、固執し始めたのか。推理してもいいが材料不足の気があるし、あくまで現在の本題は魔法を使用するか否かであるから、HiMERUは素直に燐音に問うた。
    「……なぜ、人間になりたいのですか」
    「……」
    「理由は魔法の行使に関係しませんし、HiMERUも天城のやることに興味はないのです。ないですが、魔法を行使させることで自らだけでなくHiMERUにも危険な橋を渡らせる自覚が天城自身にあるのなら、“それでも”を望む理由をHiMERUにも聞かせるのは道理ではありませんか?」
    「…………」
    「何も知らせずただ国民を死地に送るような王になる予定が、あるわけでもないでしょう?」
    「……当然だろ」
    「では教えなさい」
     冷静に迫ると、燐音は存外素直に口を開いた。
    「……昨日まで俺が牢に入れられてたのは知ってるよな」
    「ええ。此度は深夜に沈没船から人間を助けて領海を出たとか」
    「…………助けた時に、その、人間を」
    「人間を?」
     重ねて問うと、燐音は柄に合わない赤面を見せた。
    「す、好きだなって……思ってェ!」
     そして、突然開き直ったように大声を出してみせた。
    「……」
     しかしHiMERUは燐音の恥じらいが眼中にない。だって、『沈没する船から人魚が人間を助け、その人間に人魚が恋をして、魔法に頼る』。そんなあらすじの話が、人間との交流を絶った一〇〇〇年の間に散逸した伝承に、存在したような覚えが——
    「おいおいおい、この燐音ちゃんが恥をしのんで言ってのけた大告白を無言で流されンのは、流石にキツいけどォ?」
    「……うるさいですね。声も顔も」
     ずい、と近寄られて、HiMERUの意識は現実に戻った。伝承との類似性に気づいて一瞬意識が推理の方向に向かったが、そもそも散逸しているのであらすじ以上の詳細は不明なのだ。考えても何も身にならない。
    「ともかく、天城の動機が恋心というのは理解しました。HiMERUにその恋路を応援しろというわけですね?」
     あえて直接的に言えば、燐音はより一層顔を紅潮させ、眉をひそめた。少し胸がすく表情だと思う。しかし、出てくる言葉の声色は反対に冷静なそれだ。
    「明け透けに言えばそうだけどなァ……もう一つは、無事を確かめてェの」
    「助けた人間の、ですか」
     燐音は赤らめた頬を手の甲で冷やしつつ、ぽつりぽつりと話しだした。もしかすると、本音ではこちらの方が重要な理由なのかもしれなかった。
    「そうそう、俺っち、その人間を砂浜まで送った後すぐ帰っちまったからさァ」
    「助けが必要だったということは人間に意識はなかったのでは?人魚であることを見られるのは確かに問題ですが、せめて意識が戻るまで待っていても良かったのでは」
    「そりゃあ俺っちも本当は意識が戻るまで責任持って介抱してやりたかったンだけど、別の人間が来たから」
    「ああ……」
    「気絶してるその子を置き去りにしちまったの。だから、また一目だけでも会って、最悪見るだけ見て、無事を確かめたいわけ……でもその子、どうやらお姫さんらしいンだわ。だったら一日で会える相手じゃねェだろ、捜索自体は簡単だろうけどな。だからせめて一週間、ほしい」
    「……」
     HiMERUは内心、腕を組んで頭を捻ってしまう。そんないじらしい話をされては、このデカい女の個人的な欲望に対しても“なんとかしてやりたい”という気になる。今なった。
    「……HiMERU、どうしてもダメか?」
    「……」
     でも。でもだからといって、彼女に変身魔法をかけるのはやはりリスキーだ。今自らが感じているなんとかしてやりたいという感情は、一時のもの。それに流されて危険な橋を渡り、HiMERUの名前と活動に傷がついては事なのだから——
    「お前の大切にしているものを傷つけてまで、叶えたいわけじゃねェよ。……でもだからこそ、俺に賭けてくれンなら、俺は絶対に誓約を守る——HiMERUに迷惑はかけない」
    「………………、わかりました。いいですよ」
     ——でも。それ以上に。この女に賭けてやっても良いか、と思えるほど、HiMERUは燐音を仲間だと思ってしまっていたのだった。

    「大いなる海よ、空よ、水面を分つ地よ。一たび我が身に、御力を与えたまえ……」
     特に必要のない口上をあえて述べて、HiMERUはそっと瞼を閉じた。
     王宮での指導では、自然への礼儀作法として魔法の行使前にこうした口上を読み上げることが必須だと教えられる。燐音もきっとそれを信じているだろう。しかし、実際のところは何も言わずとも魔法は行使できるし、それで問題が起きることもない。なんならこんなのただの雰囲気作りでしかないのだ——が、そういう魔法使い側の事情をいちいち一般人に説明するのも面倒だし、今は特に急いているわけでもない。なのでスムーズに事が進むように、HiMERUは丁寧に口上を述べる方を選択した。
     燐音に穴があく程見つめられているのを感じながら、ゆっくりと呼吸を海流と合わせ、意識を海底に沈めるイメージで集中する。すると聴こえてくる声がある——魔力の声、すなわち自然の声だ。女性とも男性とも、子どもとも大人ともつかない。そもそも何語なのかも知れない。しかし、その意味するところを聴き取ることはできる。この不可思議な体験は、経験せねば理解し難いものだろう。HiMERUはその声に促され、ゆっくり、一音一音を噛み含めるように、行使する魔法を内心に宣言する。
    (天城燐音を、一週間、人間にする)
     そして、
    (『————、————————……』)
    「……はぁ……………」
     与えられた指示に、それこそ海底よりも深く嘆息したのであった。

    「触媒は『声』、誓約は……『恋する相手とのキス』、だぁ?」
    「HiMERUはつまらない嘘はつかないのですよ」
     燐音は動揺のままに、燃える赤毛を右手でかき上げた。そんな乙女じみた話があるかと問い詰めてもHiMERUに嘘や揶揄いの気配は感じられず、むしろ「口づけはまじないにも用いられる形式の一つですから、誓約としてその形だけが求められるのもおかしくないと言えばそうなのでは」などと解説される始末。どうやらこれが、紛れもない真実のようであった。でも、でも。困るだろう。本気で恋したとはいえ、まだ結婚には至っていない相手と、キス、など!そんな恥ずべきことをして相手に淫奔だと誤解されたらどうするのだ、触媒として声を失っている中では、事情を説明することもできないのに。気づけば思考が口から出ていたらしく、HiMERUは呆れたような引いているような視線で燐音を見ている。古臭い価値観と内心馬鹿にしているのかも知れないが、こちとら王宮育ちの箱入り娘なのだから、市井との多少の価値観のズレは許されたい。
    「……結婚前に……という乙女思考は置いておくとして。それならこれは、言い換えるならば“一週間以内に想い人とキスができる関係性になれ”ということになるのでは?想い人と将来を確約していれば、婚前にキスしてもいいのではないですか、天城?」
     突然出てきた乙女思考の四文字の意味だけはよくわからなかったが、彼女の筋道通った説明に燐音は渋々……本当に渋々、頷いてみせた。少々無理に自分を納得させているとは傍目からもわかるらしく、呆れたような引いているような視線はますます強まったが、駄々を捏ねて言い返したわけではないのだから良いだろう。こちらだって、魔法を諦める道は自分から絶っている以上、どこかで納得しなくてはいけないとはわかっているのだ。
    「……まァ、先に婚儀を執り行なうべきだとは思うけど、互いに想いを確かめあって事実上結婚しているに等しいなら……いいんじゃね」
    「……ではハードルは下がりましたね。魔法、使いますか?」
    「ちょ、っっと待ったァ!」
    「……何ですか?中止したくなりました?」
     いや、違うけどでも、待って欲しい。確かに燐音の感情的な問題にとりあえずの落とし所はついたが、この誓約にはもっと重大なハードルがあるではないか。いくら何があっても誓約を守る覚悟があるとはいえ、声が出るうちに相談するくらいの時間は欲しい。
    「ていうかよォ、そもそも声が出ないのに一週間以内で想いを通わせるとか、無理ゲーじゃねェの?」
     そう。これが大問題だ。声が出る状態でも一週間は短いのに。一目惚れしたくせにそんなことを考えて燐音は率直に問うたものの、HiMERUの返答はすげない。
    「だから変身魔法の誓約は難易度が高いと」
    「はいはい言った言ったァ、聞きましたァ!」
     相談はサービス外ということか。まあ、むしろその態度のお陰で、覚悟が完全に固まった感じはある。後は出たとこ勝負っしょ、と決意した燐音が口を開いた——のと同時、HiMERUは片手を差し出してきた。
    「自作の発信機兼、通信機です。HiMERUも同じものを持っていて、対になっています。握るともう一人の持ち主の居場所がわかる他は、所有者のどちらかが念じると二つが同期して光るだけですが……何かあればこれを光らせることで合図とし、貴方がいる浜辺のどこかで落ち合いましょう」
     その手のひらには一粒の真珠が光るネックレスが鎮座している。ただのアクセサリーのように見えるのに、実は魔法を応用した発信機、とはすごい技術だと思う。
    「おお……すげェじゃん」
     一度は諦めたサービスを施されたとなれば、変に曲がった態度は取らず素直に向き合った方が得である。よって燐音は素直にHiMERUを褒める。
    「HiMERUはこのくらい当然です。……領海を越えて発信機の場所まで向かうのは魔法で一瞬ですが、長居してなんらかの理由から事態がバレたり人間に目撃されると大事ですから、重要な時にだけ手短に呼び出すように。いいですね」
     できる限り呼び出すなと言わないあたり、彼女はやっぱり悪人ではない。燐音は口調こそ軽く、でも全幅の信頼と感謝をもって返事をした。
    「はァい。ありがとなメルメル♪」
    「何を感謝されることがありましたか?これは善意でもサービスでもなく、ただの自己保身の一環なのですよ」
     そう笑ってからHiMERUは一度深呼吸をすると、真剣な眼差しで燐音を見た。もう、その意図するところは知れている。燐音はいよいよ覚悟を決めていらえた。
    「俺っちを……俺を、一週間、人間にしてくれ」
    「はい。魔法をかけますよ」

    ・・・

     まほうでにんげんになったにんぎょひめは、ひっしにおよいで、りくのすなはまをめざしました。
     うみのなかをおよいでいるとだんだん、こきゅうがくるしくなってきます。にんぎょからにんげんへと、へんかしているからです。うつくしいうろこはあわとなり、おひれはわかれ、しろいふたつのあしがあらわれました。
     いまだとおいすなはまにたどりつこうと、なれないりょうあしでもがきながら、ひっしにひっしにおよいでいるうち、にんぎょひめはいしきをうしないました。

    ・・・

    「————さん、」
    「お——さぁん」
     声がする。
     気さくで話しやすそうな、少女の声だった。心配そうにこちらを窺う声色に、重い瞼を緩慢に開く。記憶にある最後の自分は海の中で、胸元のネックレスの他には一糸纏わぬ状態だった筈だが、今、自分は温かな砂の上に横たわっており、身体を覆うように何か乾いた布が掛けられている感覚があった。声の主の介抱だろうか、早く礼をしなくては。もはや声が出ない身であることを忘れて、口を開きつつ声のする方へ視線をやる。
     そして視界にその人を捉えたと同時に、文字通り声にならない声を上げ、燐音は驚愕に身を引いてしまった。
    「…………!」
    「お姉さ……あ、目ぇ覚めたっすね!良かった良かった。お姉さん、痛い所とかないっすか?」
     燐音を介抱していたのは、白い半袖シャツに、濃緑のフレアスカートを着た少女だった。
     柔らかにうねるパールグレイの長髪は尻尾のように耳下で結われ、涼しげにまっすぐ伸びたまつ毛のラインに縁取られている縹色の瞳は、曇天の合間から差し込む青い晴空のように輝いている。美しい、という言葉はきっと彼女のためにあるのだなんてありきたりな賛辞を思いながら、燐音は早鐘を打つ胸を抑えて、まじまじと彼女を見つめた。
    (“あいつ”じゃねェか……!)

    -------------------------------------
    -------------------------------------

    「お姉さん……もしかして僕の言葉わかんないっすか?」
     晴れ渡る、真昼の空の下、海と陸を繋ぐ砂浜の上で。二本の脚を手に入れた燐音は驚きを隠しもせず、初恋と瓜二つの貌を持つ少女と向き合っていた。
     いや、言葉はわかる。喋ることができないだけだ、物理的にも、驚きに当惑する心情的にも。暫くの沈黙の後に燐音が首を横に振ると、彼女は不思議そうに燐音を見つめてきた。近い。そっくりすぎてドキドキする。いや、もしかして本人なのか?しかし、燐音が助けた彼女はお姫さまなのだと聞いている。それにしては、服装が質素すぎないだろうか?此処は豪華客船の上ではないにせよ、王族ならこんな地味で粗雑な作りのシャツにスカートなど間違っても身に纏わないと思う。それに、人を介抱するならお付きの者か、王宮に勤務する医務官なんかを連れて来そうなものだが、彼女は一人きりだ。ということはやはり、他人の空似と考えるのが自然なのだろうか。
    「わかるんすね、ならオッケーっす!良かったぁ。なら、体調はどうか教えてもらえるっすか?何にも言ってもらえないと僕も困るんで!」
     燐音が思考している間になんらかの合点がいったのか、彼女は笑顔で問いかけてくる。だから喋れないんだよ。と伝わっているはずのない文句を内心で垂れながら、燐音は足元の砂に人差し指で文字を書いた。
    『体調は問題ない。俺は天城燐音。本当は人魚で、海で助けたお前とそっくりなお姫さまを探して無事を確かめるために人間になって陸に来た。声は人間になる代償として一時的に失ったんだ』
     しかし、伝わるとは考えていない。HiMERUも同じ考えだったからか魔法をかけられる前には話題にならなかったが、人魚の世界と人間の世界は一〇〇〇年前こそ同じ言語を使っていたとはいえ、それ以降はずっと関係性が断絶しているのだ。捜索対象であるお姫さまを助けた時に口語が通じることは確認済みだが、書き文字の方がこの長い年月で変化し、こちらの文字が伝わらなくなっている可能性は依然高い。いや、ほぼ確実だ。だからこそ文中で人魚という隠すべき事実を明かしているのだし。
     そして、案の定彼女は燐音の書いた文字に目を見開くと、大層困りましたと言うように眉を下げ、動揺した声色でこう言った。
    「……えっとぉ、なんて書いてあるかわかんないっす。すんません」
    (まァそうだよな……)
     予想通りだ。ということは現状、燐音と彼女はボディランゲージ以外でのコミュニケーションを取ることが不可能だというわけで。燐音が制限時間付きの人探しをしていることはもちろんのこと、自己紹介も介抱してくれたことへの感謝を言葉で伝えることもできないし、現状の最重要事項である、目の前の彼女がなぜお姫さまと瓜二つなのかを問うことも、できない。わかってはいたがやはり、ゲームモードがハードすぎる。その方が燃えるたちなのもまあ、否定はできないけれど。燐音は目の前の彼女にばれないように、努めて静かに嘆息した。
    「……でも文字でお話ししてくれたってことは、り……お姉さんはおしゃべりできないんすね、きっと!わかりました!」
     しかし、肝心の喋れない事実は行動から伝わったようだった。彼女は、じゃあいいかな、と呟いてから、燐音に向き合って笑った。
    「なら、僕の方だけ自己紹介!僕の名前は——椎名ニキっす」
     彼女、あたらめニキは、左手を燐音に差し出してくる。
     その手を取れば、ひどくあたたかい。燐音の冷たい指先からその温度が血に渡り、全身をも暖めていくような錯覚を覚えた。
    「細かいことは家の中で話した方がいいっすね、お姉さん服着てないから身体冷たいし、ずっといたら風邪引いちゃうっす。あそこの崖の上に僕の家があるんで、移動しましょ。立てるっすか?」
     手を引かれて立ち上がると、うまくバランスが取れずに尻餅をついてしまい、重力に従って身体にかけられていたバスタオルが落ちた。ニキはかっと赤面してバスタオルを掴むと、燐音の胸元へ差し出す。
    「お姉さん、ちゃんと持ってほしいっすよ!」
    (悪ィ、でも立つのに必死で)
     口だけがそのように動き、しかし口から出たのは空気だけ。燐音がしかめ面をしたのを見て、ニキはふふ、と微笑むとしゃがみ込み、燐音の脇下と膝裏に腕を回して抱え上げた。
    (う、わ、なんだこれ)
    「うーん、余裕っすね!もしかして僕と体重同じくらいじゃないっすか?」
     これが人間の世界ではお姫さま抱っこと呼ばれることを、燐音は知らない。身体が密着したことに頬を紅潮させる燐音にも気づかず、ニキは燐音を抱え上げたまま、崖上の家へと歩き出した。

    -------------------------------------
    -------------------------------------

     砂浜から続く斜面を歩き上がった崖上にあったのは、こじんまりとした煉瓦造りの小屋だった。ニキは器用に片手で扉を開け、リビングと思しき部屋のダイニングテーブルまで歩くと、ペアで置かれた背もたれ付き椅子の片方に燐音を座らせる。人間が座る時二本の脚をどのように置くのかを、燐音は知らなかったので一瞬焦ったけれど、すぐに向かいの椅子に座ったニキの足元をこっそり盗み見て、二本をぴたりと揃えた。
     腰を落ち着けたことで改めて室内を確認すると、ダイニングテーブルに椅子が二脚、奥にソファ、壁際にまばらに埋まった本棚、以上である。奥に二つある扉は片方が寝室、もう片方が洗面室だろうか。……なんだか、ニキ程の年頃の女の子が住んでいるにしては、殺風景だ。それどころか床の隅には埃が積もっている箇所があったりして、最近まで家が放置されていたかのような薄暗い雰囲気すら醸し出されている。けれど、それには一箇所だけ例外があった。二つの扉と向かい合う配置の、キッチンだ。二口のコンロから広めのシンクまで、塵一つなく清掃が行き届いているのが一目でわかるそこには、新品のような輝きを放つ刃物や鍋が静かに並ぶ。此処だけが美しく清潔であるという事実は、キッチンという場所そして料理という行為にニキが抱いている、強い愛着、または尊厳のようなものを、燐音に感じさせた。
     まな板が伏せて置かれている調理台の端には、橙色や薄茶色をした見たことのない食物がいくつか置かれている。……すごく興味がある。あれは何という食べ物なのだろうか。人間の世界と交流があった頃に記されたという文献で見たような気もするし、初めて見たような気もする。部屋全体を見て僅かに感じた違和感を抑え込むように、未知の物事への興味が燐音の心を占拠したが、声が出ないのでこちらから質問することはできない。もし視線に気づいてもらえたとて、人間の世界の常識を人間の姿をした存在が聞いてくるとはまさか思われないだろう。よって疑問を解消する手段はない、そのことに気づいて燐音は僅かに落胆した。人間世界の探索は目的ではないのだし、仕方ないけれど。
    「……お姉さん?」
     ぼんやりしすぎたらしい。ニキが不思議そうにこちらを伺い小首を傾げているのに気づいて、燐音は申し訳ないという気持ちを込めて眉を下げつつ彼女に向き合う。しかしニキは何か勘違いをしたらしく、「あー!」と叫んでニッコリと笑って見せた。何だ。
    「お姉さん、お腹が空いてるんすね!」
    (いや、まだそこまで空いてねェけど……)
    「今日は肉じゃがのつもりだったんで、もう作っちゃいましょうか」
    (“にくじゃが”?それはあの食べ物から作られるのか?)
    「味が染みるまで時間を取りますから……夜ご飯になっちゃうと思いますけど、その分美味しいものを食べさせるっすよ!」
     ニキは笑顔のまま立ち上がり、上機嫌にキッチンに入った。いや違うけど。違うけど、昼下がりの今から作って夕飯頃に完成するなら、その頃にはお腹が空いているかもしれない。そう考えてみれば、とりあえず起こしたから後はご自由にと放り出されず、こうして介抱されて食事もついてくるのは、破格の待遇だ。ありがたいことなのだろう。
     考えつつ、燐音は見知らぬ人間の世界への興味から立ち上がり、ニキの後に続こうとする。けれどやはり歩き方というのがよくわからず、膝から床に崩れ落ちてしまった。
    「うわっ、危ないっすよ〜!お姉さん、歩く練習はご飯の後っす!お料理してるところ気になったんすか?」
     燐音が頷くと、ニキは「じゃあ、」と椅子を持ち上げ、シンクの前に置いて燐音をそこに座らせた。
    「これならどうっすか?なはは、お姉さんに見られながらだとちょっと緊張するかも……」
    (かわいいな……)
     元いた場所に戻っていろと言わずに燐音の意思を汲み取ってくれたことが嬉しいし、照れたように笑う姿はかわいい。燐音が頷くと、ニキは「しゃあ、始めるっすよ〜!」と腕を捲りながら宣言し、調理台に調理器具を並べ始めた。その一つ一つに触れる手つきは燐音を抱えた時と同じくらい優しく丁寧で、表情も明るい。全身から、楽しいですと言葉を発しているかのようだ。
     ……あのお姫さまも、こんな風に楽しそうに笑うのだろうか。
    「……なんすか?もしかして見たかったのって料理じゃなくて、僕でした?」
     どうやら考えている間ずっと顔を眺めてしまっていたのか、気づけばニキは手を止め、やや不満げにこちらを見つめていた。いいやもちろん料理の方だ、と燐音は強く首を横に振る。やはりニキは料理に強い志があったようだ、余所見は失礼に受け取られたのだろう。……不快にさせたのは申し訳なかったが、この展開はもしかすると好都合かもしれない。燐音は家へと運ばれている時から考えていた行動を、試しにとここで実行に移してみることにした。
     まず、ニキの顔を指差す。そして両手でそれぞれ丸を作って両目に当て、顔を左右にきょろきょろ。
     『お前と同じ顔の人間を探している』の意味だが、伝わるだろうか。二つの丸は、船に乗る人間が遠くの空を見る時に使っていた道具を表現したものだが、伝わるだろうか。たしかソウガンキョウと言うはずだが、王国にはない道具だ。
    「…………」
     ニキは表情を消して、燐音の様子を見つめている。……子供じみた所作をしている自覚はあるので、そんなに真面目に見つめられると恥ずかしいのだが。顔の紅潮が自分自身で感じられる程になった頃、ニキは静かに口を開いた。
    「僕を探しに来たんすか」
     違う、が、何かそんなに真剣になるような話題だったろうか。燐音は手を下ろし、疑問げに首を横に振った。ニキとお姫さまは見た目こそ確かに鏡合わせのように同じだが、探している初恋の女の子は一国の姫君という身分の人間であり、一方で目の前の彼女は、どう見ても庶民の身形と生活をしている。別人だろう。それにもし燐音がニキを探していたのであれば、起こされた時点でもっと喜びの反応があって然るべきだということは、ニキもわかっているはずだ。しかしそんな思いが伝わったのか伝わらなかったのか、ニキは一人滔々と呟いた。
    「もしそうだとしても、そうじゃないとしても……僕は、お姉さんの探している人なんかじゃないっすよ」

     その場を静かにした不可解な空気は、ニキが調理に戻って暫くすると、自然に霧散した。考え事をやめれば、燐音は彼女の流れるような手捌きに自然と目が向いたし、ニキはといえば料理が余程好きなのだろう、気づけば調子を持ち直したのか、鼻歌を歌いながら調理していた。銀の鍋の中に、何らかの生物の肉、円錐型で橙色の食物、糸状の食物、凹凸のある球状の食物などを適度な大きさに切り、投入していく。



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