無題まだ、肌寒い、水気の多い未明の空気の中に、ジェロニモは微かな声を聴いて寝床を抜け出した。
この街を囲む穏やかな海の精霊たちは、他所の土地から訪れた己には寡黙だったが、踏み出した足首が季節外れの高潮に沈むと、彼らに導かれているのだと確信する。
アクア・アルタが起きるのは秋から冬の半ばまでと聞いていた。
それでも、ジェロニモの大きな足は完全に水の中に隠れ、暗がりの中でジェロニモの機械化された視界をもってしても、歩道を「見て」歩くのは至難の技だった。
歩かされている。
どこに向かっているのか、外部記憶装置の地図と照合しようか。他のメンバーがいたならそう言ったかもしれない。
けれど、ジェロニモはこの土地の、この海の精霊が珍しく己を呼んだことを密やかに歓び、また、敬意を持って、ただ呼ばれるままに歩いた。
セーフハウスから海水を掻き分けて十数分ほどだから、さほど遠くはなかったのだろう。広々と広がる夜明け前の黒々とした水辺の狭間、桟橋の柱と柱の間で、寄り掛かるようにして彼はいた。
2月の東京で久しぶりに目にした時と同じ、赤いダッフルコートを纏った細身の少年は全身ずぶ濡れで、零れそうに真っ直ぐな瞳を隠した瞼は上がらぬままに、ジェロニモの到着を待っていた。
驚きに喉が詰まる。
彼らの神にではなく
己の頼む精霊でもなく
なにが彼を再びここに呼び戻したのか
けれども
『この世界は、名の区別などなくとも、まだおまえを必要としている…』
精霊が己に教えてきたのも、そのせいなのだろう。
ざぶりと水中に腕を突っ込んで、大きくはないその身体を抱える。たっぷりと海水を含んだ分違いはあるが、ジェロニモには彼からなにかが欠けているような重量の違いを感じられなかった。それに鼓動もしている。
この男は、何度も不可思議な生死を越えてきた。
それに、ここには、彼女が待っている。
フランソワーズは昨夜、回収したジェットの破片の解析を一段落させてイスタンブールから戻ってきたところだ。
凛とした素振りは崩さないが、ジェットが発見されてからのフランソワーズは、憔悴が目に余るようになってきていた。発見されたと言っても見つかったジェットの身体は全体の10%に満たず、生体の脳から脊髄脊柱を格納している一連の部位は、保護被殻の極めて一部の末端部品が回収出来ただけだった。
海洋に浮かぶ002の下顎を掴んで振り返った瞬間の004の表情は、ジェロニモには形容ができなかったし、今もできはしない。
我々が『こう』するのは二度目で、一度目の時はそれはもうみな取り乱し、喜び、焦り、必死になっていた。表面を真っ黒に焼け焦げさせた二人の身体は熱で溶けてまるでひとつになっていて、みな涙を流しながら、どうにか助けようとしていたことを昨日のことのように覚えている。おそらく、今回だって皆がその時のことを思い返しながら、レーダーとイワンの指示を頼りに大海原へと繰り出した。
己が出る幕もない程度の、僅かな収穫。
それが、前回との大きな違いだった。
見る影もないほどの002の残骸。
かき集めた部品と思しき漂流物の中にひとつも含まれていない009の痕跡。
それがフランソワーズをみるみるうちに弱らせていた。
己も、博士も、張々湖も、ハインリヒも、どうすることも出来ない。こんな時に場を和ませてくれていたグレートもまだ帰らない。ピュンマも。イワンだけが、目を覚ますと黙ってフランソワーズに睡眠を取らせている。
今回『彼らの神』と呼んだ『彼』の存在が、人間個人から発生するものだったとしたら、希望はないのかもしれないと考えたこともあった。
ーーしかし
今、この真っ暗な水辺の街に島村ジョーは辿り着いた。
彼女の元に帰ってきた。
私たちの元に、帰ってきた。
もう、精霊たちの声はしない。
帰路は己で探せということのようだ。
大股に一歩踏み出すと、静寂を破る水音がざばりとわきたった。
『フランソワーズ、聴こえるか。フランソワーズ』
己の脳波通信で、イワンが彼女にもたらした眠りを破れるだろうか?
それでも構わない。
海を背にして、私は歩く。
腕の中に、仲間が一人、いる。