指先の一抹 冷たい膜を割った。
くぐもって遠くなった飛沫の音が低く反響する。全身が冷たく険しい感覚に包まれた。
瞼を開けると、逆さまの体で深く暗い水底を見上げていることに気がついた。藍色の視界をキラキラと何かが舞っている。光の粒子だ。水面から注がれた光へ砕けた水晶のような欠片が反射して、雪のように揺蕩っている。
「!」
はっとして、吐き出した息がごぼりと音を立てた。魅入られていた体が呪縛を解かれたように呼吸を思い出し、酸素を求める。鈍く沈んでいく身をなんとか反転させ、浮上を試みるも、まるで四肢に重しがつけられているようだった。藻搔きながらゆっくりと沈んでいく。
だが不思議なことに一抹の焦燥感もなかった。
呼吸のできない苦しさはあるが、凍てつく水底への緩やかな落下は、安心感さえあった。
手招く声が聞こえる。自分を求めている。降りていけば、歓迎してくれるだろう。
藻掻く動きを止めて下へ視線を向けると、暗闇の底に開かれた無数の目が自分を見ていた。ソコに降りてくるのを待っている、目。
なんでだろう、と思っていると、あたたかい光を肌に感じた。水中に舞う光と異なるその光は、自分の胸から全身へ、血液とともに流れている。自分自身がほのかな光を纏っていた。水底の目はじっと、その光を持つ己を、見つめていた。
温度のある光が待ち遠しいのだと、気づく。
その目が郷愁ではなく憧憬だと、気づく。
耳鳴りが世界の音を覆い尽くしていく中で、太陽を手招く無邪気な声だけが響いていた。
……応えてしまおうか?
「リヒュペ」
無意識に口にした名前は、水の中でも玲瓏な意味を持った。ゆっくりと沈んでいた身体が弾かれるように水面へと押し上げられる。上へと伸ばした手が、見えない手に触れ、引き上げられていく。知っている、冷たい手だ。冷たいのに胸の内にあたたかい火が灯る手だ。水面に向かっていくごとに、光の雪が溶けていく。
そして幻想の境界を再び割ったとき、ああ、という感嘆が水底から聞こえたような気がした。
***
太陽が目を覚ますと、リヒュペの顔が逆さまに自身を見下ろしていた。
「おかえり、太陽」
慈しみに満ちた声が降る。彼女がいま大きい姿だと理解して寝起きの曖昧な返事を返すが、不遜にも女神の膝を枕にして眠っていた事実に、太陽は一拍遅れて気がついた。
「ごめん、重かったよね」
起き上がり、少し照れ臭くて目を逸らす。リヒュペは何も気にしていないようであった。
「随分遠くに行っていたようだな」
「うん……たぶん」
「海底に陽光は眩し過ぎるからな。迂闊に落ちると、どちらも怪我をする」
無事でなによりだ、と微笑んだ。膝枕を終えたリヒュペは頭身の低い少女の姿へと変わる。
……きっと彼女が、うっかり微睡から落ちた海から、掬い上げてくれたのだ。
「ありがとう、リヒュペ」
彼女は含みを込めて「うん」と答える。
「素敵なところだったよ」
「ふふ、そうだろう」
誇らしげだ。夢の中の世界にそっと想いを馳せる。冷たい水に舞う光の粒子。水底の美しく深い闇。そしてその上は……。
ところで、と。リヒュペが言う。
「私の故郷は見えたかい?」
「……どうだろう」
宝石の雪が舞う海の上。
北の果て。極光の舐める氷の野。
海中から上がる瞬間、飛沫の狭間で目にした流氷が、神の墟城だったのか。