人を、殺した。
存外、簡単だった。
やってはいけない、と思い込んでいただけだった。
──そう、例えばスーツを着たまま風呂に入ってみるとか。
それと同じだ。
◇
「アンタ、日車だよな」
さして広くもない劇場に幼さの残る声が大げさなまでに響く。
目をやれば、ステージ下の琥珀色の目がこちらを見据えていた。
「いかにも」
短く答えて微笑む。
視線だけ動かして客席を見た。観客はいない。日車の他にいるのはこの場で最も新参である少年だけだ。
少年は何かを言いかけて口をつぐんだ。そして眉間にしわを寄せながら口元に手を当てた。
そのまま「怪訝な顔」の見本になりそうな顔だ。 それが妙に可笑しくて、壇上の男──日車寛見は薄く笑った。
だが無理もない。「大量殺人鬼」を探しに来て、
目の前にいるのが、「ステージの上でスポットライトを浴び、スーツを着たままバスタブに入浴している中年男性」なわけだ。それは俺でも困惑する。
少しばかりの申し訳なさもありつつ、しかし少年の困る顔がやはりどこか笑いを誘う。
まあ何もかもどうでも良くなったからこんな事に興じている訳だが。
日車はバスタブの縁に置いていた両手を持ち上げて、ゆっくりと水面へと沈めた。
水音と共に水面が煌めき、視界の端の少年が口を開く。
「いや…なにしてんの」
「見ての通りだ」
「……うーん?」
「君は服を着たまま風呂に入ったことは?」
「ないけど」
そうか、とひとりごちる。
やはり抵抗があるものらしい。だが、
「思っていたより、気持ちがいい」
誰に言うでもなく、こぼれた。
心からの本音だ。
そうだ、
「俺は着衣水泳の授業が好きだったんだ」
それはわかる、と少年の薄桃色の髪が揺れる。
理由は分からない。非日常感が好きだったのかもしれない。ある種の──臨死体験のような。
ふ、と日車は自嘲する。我ながら発想の飛躍もはなはなだしい。
だが、そういう柔軟さも必要かもしれない。
この『死滅回游』においては。
◇
──『死滅回游』
日本全国を巻き込んで行われる殺し合いゲーム。
どうやら俺はそのゲームに巻き込まれたらしい。
なんとも現実味がないが、信じるしかなかった。
『死滅回游』に巻き込まれた者達──泳者(プレイヤー)──には超常的な能力が与えられた。
──人を殺せるような能力が。
そこからは早かった。
あちこちで暴力が溢れ、秩序は崩壊し、東京は戦場と化した。
弱者は狩られ、強者もより強者に狩られぬように殺し合いは止まらなかった。
だが完全な無法というわけでもない。
ゲームを謳うだけあってルールがあるらしい。
数刻前、コガネ──『死滅回游』の窓口として泳者に割り当てられた端末──からアナウンスがあった。
<総則(ルール)>と題されたそれにざっと目を通す。
<総則1>から<総則8>まであり、そのどれもが殺し合いを肯定し、強制し、逆らうものにはペナルティを与えると明記されていた。
──そして、この『死滅回游』には終わりがないことも。
◇
──「それで?君は何をしに来たんだね」
「えっと…………何から話せばいいか……」
「時間は有意義に使うべきだ、俺は弁護士でね。俺と話すなら30分5000円かかるぞ」
「えっ」
「冗談だ」
「ええ……」
「ちょっと悪徳弁護士をやってみたくてね」
「そっか……」
少年の顔になんだコイツと書いてあるのがありありと見える。
だが、すぐに切り替えたらしい。
数秒考え込んだ後、少年は口を開いた。
「アンタ、100点持ってるよな」
「ああ。持っているとも」
「じゃあさ、もう1個ルールを追加できるんだよな」
「そうらしいな」
『死滅回游』の泳者の生命にはそれぞれ得点が懸けられている。
術師──能力者のことらしい──には原則5点、
非術師には1点、と<総則5>に明記されていた。
──そして<総則6>に、
『泳者は自身に懸けられた点を除いた100得点を消費することで管理者(ゲームマスター)と交渉し、死滅回游に総則を1つ追加出来る』
とある。
なるほど、少年はここを解決の糸口と踏んだらしい。
俄然、日車の興味の対象は少年に移った。
日車は黒い双眸に琥珀を映す。
そこには決意が燃えていた。
少年が口を開く。
「アンタの100点、使わせろ。」
◇
──数刻前。
『泳者による死滅回游にルールの追加が行われました!!』
突然コガネからジングルが鳴り響いたかと思えば、無機質な声で
『<総則9>』
『泳者は他泳者の情報──”名前”、”得点”、”ルール追加回数”、”滞留結界”──を参照できる』と通達した。
──かつて人間だったモノがグズグズとコンクリートを汚していくのを目の端に映しながら、日車は妙に感心した。
この『死滅回游』は不完全だ。
ゲームとはまるで名ばかりで、泳者は生き残りたければ終わりなき殺戮を繰り返すしかない。
だが別の結界への移動は禁止されている。
結界内の他泳者を殺し尽くしてしまえば
「ポイントの変動が無い泳者」として19日後には死を迎えるしかない。
そもそもの問題として──どうなればゴールなのか?
『死滅回游』には終了の条件が明記されていない。
<総則1>から<総則8>まで何度も目を走らせた。
しかし、どこにもゲームの終了を示す<総則>は認められなかった。
『このゲームには終わりなどない。』
── かつて司法に生きた男はそう結論付けた。
しかし、そこで思考を止めることは選択肢になかった。
弁護士としての職業病か、生来の性分か。日車はこの<総則>を「法律」と据え置き、考察する。
あまりに不完全、残虐、理不尽、混沌そのもの。
だが──この『死滅回游』にどこか希望を見出していたのも事実だ。
そこに通達された<総則>追加の報。
『100点を消費することで<総則>を1つ追加できる』
泳者それぞれの生命に懸けられた点は術師は5点、非術師は1点とある。
──少なくともそいつは20人以上殺している。
──自分と同じように。
思いついて「<総則>変更を行った泳者」を検索する。
あいよ!!と妙に間の抜けた返答の後コガネのモニターには簡素なドット絵とただ1つ名前が表示されていた。
〘 鹿紫雲 一 〙
「得点:100 変更:01回」
「滞留結界:東京第2」
ほう、と意図せず息を吐いた。
この泳者は<総則>追加後にも関わらず100点を所持している。
少なくとも40人は殺している計算だ。
余程の戦闘狂か、あるいは自分と同じようにこの『死滅回游』に可能性を感じているのか。
──どちらにせよ、
「イカれてるな」
血溜まりの中、誰にともなく呟いた。
◇
── 日車寛見は天罰を欲していた。
悪徳に鉄槌を。偽りに報いを。
整然と審議を。弱者に救済を。
誤り無く、過不足なく、公平に裁きを。
──かつてそれが叶うことは無かった。
法の世界を歩くうちに、理想と現実の違いを痛感した。
「自ら飛び込んだ世界だ。」
そうだ
「分かっているだろう?」
当然だ
「彼らは弱者だ。」
ただ助けを求める手を取り、寄り添うのが弁護士の仕事だ
──「そりゃ立派だね、弱者救済ってわけだ。」
そんなつもりはない、おかしいと思った事をそのままにしておけなかった
それだけだ
「追い込まれて自分達に当たるのは仕方がない。」
被告人の一番近くにいるのが私達だから
その手を取ったのが私だから
──「君の精神(こころ)はどうなるのさ」
私はそれでも被告人を信じていたい
だから
「嘘つき」
何故だ
「無罪にしてくれるって」
やめろ
「お前のせいだ」
その目で私を見るな
──頭蓋の奥で何かが切れる音がしたのを覚えている。
◇
「ふむ?」
要領を得ない、と日車は改めて少年を見つめた。──一言で表すなら「不良少年」だった。
最も特徴的なのはやや色素の薄い桃色の髪だろう。
それを後ろで刈り上げてあるらしいのが「ヤンキー」という印象を与えるのだろう。
あどけなさの残る顔は傷だらけだ。
会話からも察するに、この少年も『死滅回游』の泳者なのだろう。
額と口の端の肉は抉れ、他にもよく見れば細かな擦り傷や切り傷が見受けられた。
両目の下には切り込みのような傷がある。──ただこの両目の傷は他の傷と何かが違う印象だった。
ほかの傷は負傷によるものだと察しがつくが、それはナイフで目の形に沿うような、対象に刻まれているのだ。
服の上からでも判別がつく程度に鍛えられているのがわかる体付きで、胸元には渦巻き模様の入ったボタンが付いている。どうやら制服らしい。
しげしげと眺めている日車に対し、
「そのままの意味だ。」
なおもじっと琥珀色の瞳がこちらを見返す。
「アンタの100点を使わせてほしい。」
「それはもう聞いた。」
「……友達を、伏黒を助けたいんだ。」
その言葉を聞いて、日車はわずかに目を見開いた。
「君、他に仲間がいるのか?」
「うん…あっ。」
これ言ってよかったんだっけ?と汗をかく少年をよそに、日車は思考を巡らせた。
(なるほど……泳者同士で協力関係を結んでいる可能性があるのか……。)
盲点だったな、とバスタブに肘をつきながらため息とともにこぼした。
おそらく学生であろう少年の言う『伏黒』とは少年の学友なのだろうことは察しがつく。
──問題は
「君」
素っ気ない呼びかけに、はいっ!と少年が勢いよく振り返った。
「君は『何者』で『何を』『どこまで』知っているのかな?」
──この少年が『敵』か否か。
◇
日車の問いかけに対して、少年は面食らったようだった。
「.......」
お手本のような苦虫を噛み潰したような顔だ。
「……いいか少年。」
ざば、と水音が響く。
「名前も分からないんじゃ、いつまでたっても君を『 少年A』とでも呼ぶしかないぞ?」
「……虎杖悠仁。」
揚げていた腕をバスタブのふちへ乗せ、よろしい。と大袈裟に頷いてみせる。
「次、名前……は言ったな。職業は?」
「都立呪術高専一年.......ってホントに弁護士みたいだな!」
「みたい、じゃあなくてその通りだ。」
ほれ、とジャケットの襟をつまんで見せる。
胸元の向日葵と天秤を刻んだバッジがスポットライトを照り返した。
「ちなみに弁護士バッジは俗称で正確には弁護士紀章という。かつては弁護士の唯一の身分証明の手段だった。」
まあ顔パスみたいな物だな、と言うと少年──虎杖悠仁は素直に感心したようだった。
「…って今それはどうでもいいんだわ。」
あ、馬鹿にしてるわけじゃなくて…などと口ごもる少年を見やる。
「えーっと...なんて言うか...タスケテクダサイ」
「要領を得ない、やり直し。」
「いやほんとゴメン。…えっコレ俺が悪いの!?」
「そのザマでは助けようにも、何を困ってるのか分からないので手出しのしようが無いだろう。」
「それはそうだけどさあ! そもそも根本的なことよくわかってないんよ!」
少年はふっと視線を下げた。
「……いきなり殺し合いしろとか……<総則>が多すぎるし、その<総則>もわけわからんし、何がなんだか……」
最後はほとんど呻きのように出力され、少年の焦りと苦悩を物語っている。
「安心しろ、俺の理解の範囲で説明もしてやる。」
「……自慢じゃないけど、俺そんな頭良くないよ?」
「構わない、弁護士はどんな相手にでもきちんと理解できるように説明すべき義務がある。」
「取引をしよう」
◆
2人分の足音が無機質なコンクリートに寒々しく響く。
どこを目指しているのか、黒衣の男はただ、
「着いてこい。」
と言ったきりで虎杖の前を歩き続けている。
所在無げに辺りに目をやれば、廊下の脇には舞台道具らしい椅子や衝立などが乱雑に積まれていた。
薄らと埃が積もるそれらを見ると焦りが増していく気がした。
──かつてはこの劇場にも人がいたのだ。
ここで上演される演目に誰もが心踊らされたのだろう。
観客と演者たちがステージに集い、束の間の非日常を楽しみに。
──もうそんな日は来ないのかもしれない。
渋谷が壊滅した今、日本は恐怖と混乱の渦中にある。
それは他ならぬ虎杖悠仁によってもたらされた災害だった。
少なくとも虎杖悠仁にとってはそうだった。
◆
──10月31日の夜、数多の命が塵と消えた。
わけもわからぬまま、あるいは助けが来ると信じたまま、跡形もなく。
──夏油様を解放してください。
自らの神のために、藁にも縋る双子は切り刻まれて死んだ。
炎が上がり、星が落ちてきた、人が死んだ、街がひとつ消えた。
──死ねよ。
──なんで生きてんだよ。
──自分だけ。
──お前がいるから人が死ぬんだよ。
それでも誰かを助けるため生きたいと思っている。
──その結果がこれだ。
──偽善者ぶるのは止めろ。
救えなかった命があった。守れなかったものがあった。
──どうせ何もできねぇんだ。
──諦めろ。
──死ね。
それが身に巣食う災厄の声か、己自身の声か分からなくなる。
──虎杖くんはもう立派な術師なのですから。
気休めに過ぎなくてもその言葉に確かに救われた。
きっと後悔しているに違いなかった。
『呪術師に悔いのない死はない』
なにより、術師である彼自身が知っているはずだった。
その言葉は呪いになり、少年を苛むと。
それでも、
──後は頼みます。
結果的に俺は生きている。
今の俺は呪いに生かされている。
──俺は歯車だ。
ただ呪いを祓うための部品。
──まずは俺を助けろ。
わかった、約束するさ。
だから待っててくれ、伏黒。
◆
「着いたぞ。」
声に顔を上げると、日車の目がこちらを向いていた。
どれほど歩いたのか、薄暗い通路の脇、薄汚れたドアの前に2人は立っていた。
虎杖が口を開く前に、日車はさっさとノブを捻り、軋む音と一緒に中へ身を滑らせた。
慌てて虎杖もそれに続くようにして踏み入った。背後で扉が大きな音をたてて閉まった。
明かりの無い室内を、しかし慣れた手つきで日車がスイッチを探り当てた。
明暗の切り替えに適応しきれず目を細める虎杖に対し、日車は意に介している様子はない。
埃っぽい空気とともにゆっくりと歩きながら日車は振り返ることなく話し始めた。
「時間が無いんだったな。」
見れば部屋の中央には無機質なテーブルが1つ、対面するように椅子が2つ。
部屋の隅にはパイプベッドとクローゼットがある。
埃っぽい空気と相まって随分と殺風景だ。
どうぞ、と日車が手前の椅子を引いた。
促されるまま安っぽい椅子に座る。
「まず最初に俺と会ってどう思った?」
思わず顔を上げると人好きのしない三白眼がこちらを向いていた。
端的すぎる質問に面食らうものの、すぐに答えを探す。
少し悩んだ末に一言。
「変な……いや面白い人だと思うよ」
思わず本音が漏れた。
──小さく鼻で笑う日車に一瞬違和感を覚えたけれどそれは些細なことだったのかもしれない。
「『死滅回遊』に<総則>を追加する件についてなんだが……」
何もなかったかのように日車が言葉を続ける。
そうだ。そのためにここにいるんだった。すっかり忘れていた。
「具体的な案があるなら聞かせてもらおう。」
日車の視線と質問を浴びて、思わず姿勢を正す。
ただでさえ、現状、自分には何も分かっていないに等しいのだ。
少しでも情報を貰うことができるならば願ってもないことである。
だがこれでは情報を貰うどころか、こちらが情報を流しているだけでは無いだろうか?
虎杖の返事を待つかのようにじっと見つめられる。その表情からは真意を読み取ることはできない。
──正直に言うべきか。
沈黙に耐え切れず口を開く。すると先に声を発したのは目の前の人物の方だった。
「そもそもなぜ<総則>を追加したいかという話になるんだが……。」
日車は相変わらず感情を表さない瞳のまま、淡々と続けた。何を言いたいのかいまいち理解できない。
「何か問題でもあるの?」
「例えばどんな<総則>だ?」
「……そう言われても、まだ具体的なことは決まってないけど」
正直なところ、具体案が出ていない状態でいきなり話を振られても困る。もう少し考えさせて欲しいものだ。
しかしそれを言い出せる雰囲気ではなかった。
「いや別に具体的に決めてくれと言っているわけじゃない。要するに追加したい理由だよ。」
こちらの考えを見透かすような視線から逃れるように顔を背ける。
実際日車が今聞きたいのはこのことだろう。ここで回答しない選択はなかった。
「...友達を助けるため。」
日車がわずかに眉をひそめたが、真意は読めない。
「さっきの──伏黒、だったか。」
頷くと、日車が目を伏せた。
……まぁ伏黒の受け売りでしかないがこちらのプランは伝えるべきだろう。
「俺たちが考えてる追加<総則>は2つ。」
「ポイントの受け渡しを可能にすること、結界の出入りを可能にすること」
ふむ、と見つめたまま聞いていた日車が口を開いた。
「それ、お前の発案か?」
「いや?違うよ。」
「だろうな。」
「ひょっとして馬鹿にしてんの?」
「いやいや、いい仲間じゃないか。」
頭脳担当なわけか。と指を組みながらこぼしている。