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    ワードパレット1月分(No.1~3)
    ちょくちょく修正するかも

    ##セベジャミ

    セベジャミワードパレット1.

    ◆1:「走る」「明け方」「神様」


     さあっと雨の走る音がする。風にあおられてなびく雨のカーテンに陽の光がきらめいていた。ガラスの向こう側は明け方のように白々と明るい。涼やかな雨音と透明な光が建物全体を取り囲み、まるで世界から切り離されたみたいだった。色鮮やかな草花が放つ生命力に満ちた香り、肌にまとわりつくあたたかな空気。厚いガラスに守られた植物園の片隅で、初夏の夕立の音に耳を澄ませている。これ以上ないほどに穏やかな気分だった。

    「やみそうにないな」

     ふいに静かなつぶやきが静寂を破る。ちらりと隣を見れば、薄灰色の瞳が先ほどのセベクと同じようにじっとガラスの向こうを見つめていた。足を組み、木製のベンチにもたれかかった彼の姿はふだん座学の授業で見かけるときよりもリラックスして見えた。

     自身の育てる薬草の世話をしていたところに偶然現れたジャミルと、それぞれの作業にあたっていたところだった。「先輩も授業で使う薬草の世話をしに?」というセベクの最初の問いかけに、「いや、個人的に使用する解毒薬の材料を調達しにきたんだ」と彼が答えてからはお互い無言だった。仲が悪いわけではなく、お互いがお互いを沈黙が苦にならない相手だと認めていたからだ。
     ふいにぽつぽつと頭上からかすかな音が聞こえた気がしてセベクは顔を上げた。ガラスの天井に落ちる雨粒を認めた途端、あっという間にどしゃ降りになりこうしてふたりはガラスの内側に閉じ込められたのだった。

     もはや夕立というより嵐に近い。風が唸り、雨粒がガラスに強く叩きつけられる。ときおりざあっと雨脚が強くなりすぐにまた元に戻った。こんな天気にもかかわらず、厚い雲の合間から漏れ出た初夏の陽光があたりをうっすらと明るく照らしていた。

    「夕飯の時間までにやむだろうか」

     先ほどのジャミルのつぶやきに答えるようにそう言うと、隣で彼が小さく吹き出した。

    「心配するのはそこか。君はあいかわらずだな」

     笑いを含んだ声にむ、と言葉にならない声が漏れる。食い意地が張っていると思われただろうか。だがそろそろ胃袋が鳴き声をあげそうなのは事実だった。そうしたら今度こそ彼に笑われるだろう――誰かに笑われるのは我慢ならないはずなのに、彼に笑われると恥ずかしいと感じてしまうのは一体なぜなのだろう?
     そのとき突然、そうだ、とセベクは思い出した。律義に着込んでいた実験着の裾をめくり、制服のジャケットのポケットに手を突っ込む。すぐに指先ががさりとした紙の包みに触れた。
     個包装されたファッジが三つ。昼休みの終わりに、魔法薬学の教科書を寮に忘れてきたことにさっき気がついたのだと情けない顔で言う監督生に小言を言いながらも教科書を貸してやったところ、神様……! とおおげさに感謝され礼としてこのファッジをもらったのだ。そのときはずいぶんと安い神もいるものだと呆れたが、いまとなっては監督生からの感謝のしるし――つまり食べ物――がありがたかった。手に持ったそれは小さいながらもしっかりとした重みがある。ひとつ食べれば当座の空腹はしのげそうだ。

    「ジャミル先輩も食べるか?」

     手のひらの上のものを見せながら訊ねる。また笑われるだろうかと思ったがジャミルはちらりとセベクの手のひらに目を向け、笑うかわりになんとも微妙な顔をした。

    「……いや、俺はいい。そんな甘いものを食べたら喉が渇きそうだ」

     普段あんなに甘いお茶を飲んでいるのにそんなことを気にするのか。そんな失礼なことを思いながら「そうか」とうなずく。では自分だけいただくことにしよう、と決めて三つのうちふたつを膝の上に置き、セベクは残ったひとつの包みをあけて口の中に放り込んだ。固くもやわらかくもない独特のじゃり、とした歯ごたえのあとに舌の上にねっとりとした甘さが広がる。

    「……甘い」

    「だから言っただろ」

     渋い顔でつぶやいたセベクに呆れた声が返る。それからジャミルは少し身をかがめ、面白がっているような顔でセベクをのぞき込んだ。

    「いまなら君でもブラックコーヒーが飲めるかもしれないな」

     からかい混じりの言葉にむう、と口をとがらせる。子供扱いされたようで悔しい気持ちになりながらも、彼が自分の苦手なものを把握しているという事実に胸の奥が甘く疼いた。いつも彼に瞳をのぞき込まれ、笑いかけられたときのように。
     舌に残る甘さと胸の疼きを振り切るように、ふたたびガラスの向こうに視線を戻す。雨はあいかわらず降り続いている。外があんなに荒れているというのに、ガラスの膜に守られた建物内は深海のように穏やかで静かだった。ふ、と唇のあいだからため息のような甘い息が漏れる。

     本当に夕飯の時刻が近づいたなら、自分も彼もいつまでもここで雨宿りなどしていられないだろう。雨の中に飛び出して、びしょ濡れになりながらも互いの主の元へ帰らなければいけないだろう。
     でも今だけは。
     あともう少しだけ、このガラスドームの内側で彼とふたりきりでいたかった。
     「甘いにおいがするな」と先ほどセベクが口に入れたファッジのことを言う彼の声を聞きながら、そのときようやくセベクは胸の奥で燻ぶる感情の名前に気がついた。

    20220108

    ◆2 :「甘い」「突風」「飲み込む」


    「うぶっ」

    「あ、すまない」

     突然黒い布のような物に顔を覆われ間抜けな声が漏れる。顔に触れたそれは絹のようにやわらかく、ふわりと甘いにおいがした――運動場を吹き抜けた突風がジャミルの長い髪をあおり、セベクの顔を思いきり叩きつけたのだ。まるで不機嫌な獣の尾のように。

    「今日は風が強いな」長い髪を自分の方へと引き戻すように手で押さえながら、ジャミルは青々とした芝生に目を向けた。運動場にはセベクたちと同じように二人一組でストレッチをおこなう生徒たちがあちこちに点在しており、彼らの髪と黒い運動着の袖が風にはためいていた。

    「ああ、だが悪条件下での訓練というのも役に立つだろう。いついかなるときに敵が襲ってくるかわからないからな。僕も子供の頃はどしゃ降りの夜の森や深い雪の中で訓練をおこなったものだ」

    「……前から気になってたんだが、君の師匠とやらは少し厳しすぎやしないか?」

     それにここにいる大半の生徒たちにはそんな訓練必要ないだろうがな、と呆れたような顔でセベクを振り返ったジャミルがふたたび芝生の上の生徒たちに目を向けた。たしかにセベクやジャミルと違い、この場にいるほとんどの生徒は単なる一般人だ。悪天候の下で己や己の主の身を守るために刺客と戦わなければならない場面などまず訪れないだろう。
     だが自分たちは違う。

    「だからこそこの訓練の相手がジャミル先輩でよかった。ろくな鍛錬を積んでいないやわな人間相手では訓練にならないからな」

    「……ふ、そういう言葉は俺に勝ち越してから言うんだな」

     軽く口の端を持ち上げて告げられた言葉にむむ、と思わず唸る。そう、こちらの方が上背も筋肉量も上のはずなのに、いまだにセベクは体術の訓練でジャミルに勝ち越せないでいた。
     ほら、座れ、と地面を指し示され大人しく芝生の上に腰を下ろす。そのまま足を横に広げると、あたたかい手のひらがそっと背に触れてセベクをゆっくり前へ押した。そのあたたかい手のひらの感触と、すぐ後ろに感じる気配に喉のあたりが引きつるような感覚を覚える。鼓動がわずかに早くなる。背中を押す力に合わせて身体を前へと倒しながら、セベクは先ほど顔に触れた彼の髪の感触とにおいを思い出していた。ハーブのようなさわやかな香りに混じる甘いにおい。長い髪が湿気で広がらないよう毎晩ヘアオイルをつけているのだと、以前彼は言っていた。その洗いたての長い髪に指を通したら一体どんな心地がするのだろう――最近そんなことばかり考えてしまう。

    「こら、ちゃんと集中しろ」

     すぐ耳元で声が聞こえびくりと身体が揺れた。

    「す、すまない」とどもりながら謝罪すると「もういいだろう、今度は俺の番だ」と言ってジャミルは手を離した。背中から離れていく体温を残念に思ってしまう自分を心の中で叱咤する。――本当に自分は一体どうしてしまったのだろう?

     セベクは軽く首を降ると、立ち上がって自分と入れ替わりに芝生に腰を下ろしたジャミルの背中を見下ろした。また風で髪があおられることのないようにか、ジャミルはひとつ結びにされた長い髪を身体の前側に流していた。深紅の髪紐とパーカーのフードのあいだから褐色のうなじがのぞく。思わずセベクの目はそこに釘付けになった。無意識にごくりと唾を飲み込む。

    「どうした?」

     ジャミルが振り返り、小さく首を傾げる。長い前髪が動きに合わせてさらりと垂れた。よく手入れされた黒髪は明るい太陽の下で眩いばかりに輝いている。この髪に触れることができたら――
     グッと拳を握り、セベクは雑念を振り払った。
     「すまない、なんでもない」と答え、おそるおそる肉付きの薄い背中に触れる。パーカー越しに感じる彼の体温にふたたび喉のあたりで妙な感覚がした。あいかわらず風はびゅうびゅうと強く吹きつけ、青々とした芝生のにおいに混じってあの甘いにおいがセベクの鼻をかすめた。
     この長い髪に指を通し、顔をうずめて思う存分その香りを堪能できたなら。
     はあ、とセベクはため息を吐いた。愚かしいことだ。こんな感情、自分には用はない。己の主を守る力を育むために、自分はこの学園にいるのだから。
     なぜか痛む胸を無視してセベクはあたたかい背中に触れた手にゆっくりと力をこめた。初夏のさわやかな風がセベクの頬を撫でる。頭上に広がる空はいっそ憎らしいほどにどこまでも青い。
     この風と一緒にこの想いもどこかへ吹き飛んでしまえばいい。強風に身を晒しながらセベクはそんなことをちらと考えた。


    「うぶっ」

    「あ」

     ――セベクの想いを吹き飛ばすかわりに、突風はふたたびジャミルの髪でセベクを思い切りひっぱたいたのだった。

    20220110

    ◆3:「別れ」「香り」「声」


     ふわりと頬にやわらかいものが触れた。絹のようになめらかな感触と高級なシャンプーを使ったときのような甘くかぐわしい香り。なかば寝ぼけたままうっすらと目を開けたセベクは、ふたたび目を閉じると、すう、とそのかぐわしいにおいを吸い込んだ。それからぱちりと目を開けて飛び起きる。上半身にかかっていたシーツががばりとめくれ、やわらかいマットレスがふわりと弾んだ。
     視界に飛び込む闇のような黒い髪。そのたっぷりとした長髪は、白い枕の上に波打つように広がっている。カーテンのすきまから差し込む朝日がその美しい髪を艶々と輝かせていた。頭は白いシーツの中に半分隠れ、黒髪の持ち主は穏やかな寝息をたてていた。
     ドッドッと心臓が早鐘を打ち始める。驚きすぎて声も出せなかった――セベクにとっても眠っている人物にとってもさいわいなことに。セベクが大声をあげていたら間違いなく目の前の人物は目を覚ましていただろう。
     そう。セベクが飛び起きたのと同じベッドの上で、髪の長い女性が眠っていた――リリアからはいくつになってもウブだなんだとからかわれるセベクだったが、そんなセベクにでも男女が同じベッドで眠っているという状況がなにを意味しているのかぐらい想像はついた。
     まさか。信じられない思いでごくりと唾を飲み込む。まさか自分がそんな、男女関係にだらしのない小説の中の男主人公のような真似をするだなんて。
     そんなふうにセベクがショックで固まっていると、突然、黒髪の持ち主がもぞ、と小さく身じろぎした。思わずびくりと肩が跳ねる。まずい。いま起きられるのは非常にまずい――いや、いつ起きられてもまずいのだが。
     セベクはサッと自分の身体を見下ろした。見覚えのあるシンプルなTシャツが目に入る。自分の服を着ていることにセベクはとりあえずホッとした。だがシーツに覆われた下半身の方は――足に触れるなめらかなシーツの感触からしてどうやら下着しか身につけていないようだ。状況は芳しくない。
     セベクがそんなことを考えているあいだに、黒髪の持ち主はもぞもぞとシーツの中で身を丸め、ふたたび穏やかな寝息をたて始めた。どうやら寒かったらしい。そのときようやくセベクは自分が飛び起きた際に黒髪の持ち主の身体にかかっていたシーツの片側がめくれあがってしまっていたことに気がついた。あわててシーツを掴み、眠る身体にかけ直そうとする――そうしてセベクはぎょっとして手を止めた。
     真っ白なシーツのあいだから、ちらりと褐色の肌がのぞいていたのだ。つまりいま自分の隣で眠っている人物は――服を着ていない。

     ――完全にアウトじゃ。

     そんなリリアの声が聞こえたような気がした。
     裸の背中を視界から遮断するようにバッとシーツでその身体を覆うと、セベクは呆然と枕の上の黒い後頭部を見つめた。こんなふうに途方に暮れるのは幼い頃はじめてリリアに訓練と称して深い森の中にシルバーと置き去りにされたとき以来だ。いや、あのときよりも状況はなお悪い。
     どのくらいそうしていただろう。永遠のように感じられたが、実際には完全なショック状態にあったのはほんの二、三十秒だろう。あいかわらずすやすやとのんきに眠っている人物のうしろ姿を眺めていたセベクは、ふとあることに気がついた。この長い黒髪には見覚えがある。そしてあの、なめらかな褐色の肌にも。
     いまだドキドキとうるさく鳴る心臓の音を聞きながら、セベクはベッドに手をつき、おそるおそる眠っている人物の顔をのぞき込んだ。
     ミルクをほんの少し混ぜたコーヒーのような淡い褐色の肌。形の良い細い眉は眠っているためかいつもより緩く弧を描いている。メイクをしていなくてもくっきりとしているアイラインに、まぶたを縁取る漆黒の長いまつげ。そうして先ほどセベクの頬に触れた、やわらかで艶やかな長い髪。

     ベッドで眠っているのはどこからどう見てもジャミル・バイパーであった。

     ほう、と口から無意識にため息が漏れる。安堵のため息だ。見知らぬ女性と一夜を共にしてしまい、しかもそのことをまったく覚えていないという最悪の事態に動揺していたが、なんだ、相手はジャミル先輩か。知らない人間じゃなくてよかった。

     ――いや、全然よくない。

     ドッと全身から汗が噴き出した。少しだけ落ちつき始めていた心臓がふたたびバクバクと騒ぎ始める。口の中がからからに乾いていた。全身に汗をかいているのに、セベクの身体はぶるりと大きく震えた。
     ジャミル・バイパー。ナイトレイブンカレッジ時代のセベクの一学年上の先輩で、スカラビア寮の副寮長。同じくスカラビア寮の寮長であり熱砂の国の大富豪の家の長男であるカリム・アルアジームの幼馴染兼従者。そして――セベクの長年の片想いの相手である。
     そのジャミルが自分と同じベッドで眠っている。
     呆然とシーツに包まれた身体を見つめていたセベクのまぶたに、先ほどちらりと目にした裸の背中が浮かび上がりそうになってセベクはあわててぶんぶんと首を振った。まずい。これは非常にまずい。

     一体なぜこんなことになっているのか。そもそもここはどこなのだろう……とシーツに覆われたしなやかな身体から視線を引きはがし、ようやくセベクは自分が今いる場所に意識を向け始めた。見知らぬ人物と――実際には『見知らぬ人物』ではなかったわけだが――同じベッドで寝ていたという衝撃の事実に動揺しすぎてまわりの状況を確認するのをすっかり忘れていたのだ。リリアに知られたら間違いなく『鍛錬が足りておらん!』と説教を食らうだろう。
     男二人がじゅうぶんに寝られる大きなベッド。床に敷かれた鮮やかな色の絨毯と壁に掛けられた額付きの丸い鏡。厚手のカーテンが引かれた大きな窓。きょろきょろと部屋を見回していたセベクの頭にだんだん昨日の記憶が甦ってくる。
     いまセベクとジャミルがいるのは、昨日セベクがチェックインした絹の街の中心地に建つホテルの一室だった。そう、セベクはいま、ジャミルの生まれ故郷である絹の街に滞在しているのだ。
     学園卒業後、故郷の茨の谷に戻り敬愛するマレウス・ドラコニアの護衛役として休まず働いてきたセベクだったが、つい数週間前、リリアに『いい加減まとまった休みをとれ』と叱られてしまった。
     「若いうちからそんなに働きづめでどうする。知らない土地を旅して見聞を広めるというのもお前のような年頃の若者にとっては大切なことじゃ。たまには谷を離れ、一人でのんびり過ごすがよい」リリアはそう続けた。叱られている犬のようにおとなしくリリアの言葉を聞きながら、そのときセベクの頭に浮かんだ土地はたったひとつだった。
     熱砂の国。学生時代から今に至るまで、セベクの片想いの相手であるジャミルの生まれ故郷だ。もし自由に旅ができると言うのなら、彼が生まれ育った彼の国を訪れてみたい。学園卒業後、ジャミルはセベクと同じように故郷に戻り、主であるカリムの下で働いていた。その彼がいまでも歩いているであろう街並みを自分も歩き、彼が食べている地元の食べ物を食べ、そうして彼が毎年見ている絹の街の花火を見てみたい――
     予定は迅速に決まった。形だけの休暇届を城に提出し、両親に見送られながら(最後までセベクはそんなことしなくていいと主張したのだが)茨の谷を発ったセベクは、昨日の午前中、この国に降り立った。花火大会当日は場所取りなどもしなければならないだろうから、その前にゆっくり街の観光をしようと花火大会の一日前に到着するようセベクは旅程を組んでいた。
     そうして熱砂の国の空港ロビーに足を踏み入れたセベクを――ジャミルが出迎えたのだった。
     セベクは目を疑った。ロビーの入口で思わず足を止める。なぜ彼がここに。こちらをまっすぐ見つめる灰色の瞳から目が離せないまま、セベクは呆然と心の中でつぶやいた。なぜならセベクはこの国を訪れることをジャミルに伝えていなかったからだ。
     学園を卒業して以来、セベクはジャミルと一度も連絡を取り合っていなかった。学年も寮も部活も違うにしてはセベクはジャミルと仲が良かったが――だからこそ彼に特別な感情を抱くようになったわけだが――、所詮その関係は学園にいるあいだだけの儚いつながりだ。学園を卒業してしまえば、大抵の学友たちとはなんの関わりもなくなってしまう。そんなものだろう。――だからこんなふうにいつまでも彼への想いを捨てきれずにいる自分の方がおかしいのだ。
     セベクがこの国を訪れた本当の理由。それは数年来の想い人であるジャミルの故郷を訪ね、彼への想いにけりをつけることだった。だからセベクは誰にも告げずに(もちろん家族には休暇中の旅の目的地を伝えてはいたが)この国を訪れたのだ。
     それなのにジャミルは空港でセベクを待ち構えていた。セベクが唖然としてしまったのも無理はない。
     なぜ僕が来ることがわかったんだ、というセベクの至極まっとうな問いに対し、ジャミルは「アジーム家の情報網をなめてもらっちゃ困る」と涼しい顔で答えになっていない答えを返した。
     異国の街を歩きながら学生時代の想い人を偲び、誰にも知られずひっそりそこから立ち去ろうと計画していたセベクは、初っ端からその計画を想い人本人に粉砕されていささか極まりの悪い思いをした。だがジャミルはそんなセベクの複雑な心境などおかまいなしで、そのままセベクを街の観光へと連れ出した。
     今日は一日休みなのだと言うジャミルとふたりでのんびり街を歩き、バザールの屋台で食事をし、マレウスや家族たちへのめずらしい土産の品を買い求める。最初の困惑が消え去ると、セベクの心はすっかり浮き立ち始めた。なにせここ数年一度も顔を合わせていなかった長年の片想いの相手とふたりきりで過ごしているのだ。胸の中であの頃の感情が一気に息を吹き返した。この恋心を忘れるために自分はこの国を訪れたというのに。
     驚いたことに、ジャミルは空港でセベクを待ち構えていただけでなくあらかじめセベクが予約していたホテルをキャンセルして街の中心地に建つ高級ホテルの一室を手配していた。「君はカリムの学生時代の友人なんだ。アジーム家当主の友人を自腹で安宿に泊まらせたとあってはアジーム家の名が廃る」と言われてしまえば金持ちとはそういうものなのだろうかとセベクはなんとなく言い包められてしまった。
     そうして一度ホテルでチェックインを済ませたあと(空港でジャミルがどこかへ預けたセベクの荷物はすでにホテルの部屋に届けられていた)、ふたたび夕闇の迫るきらびやかな街へとジャミルとともに繰り出したセベクは、夕食後に入った居酒屋で少々飲みすぎてしまった。
     ジャミルと再会できたことに浮かれ、少し羽目を外してしまったというのもある。だが本当は、彼とこのまま別れを告げて一人でホテルに戻るのがつらかったのだ。すでに明日の花火大会前にも会う約束をしていたが(大会中彼はアジーム家の従者としての仕事があるらしかった)、数年ぶりに会えた彼とセベクは一秒でも離れたくはなかった。――どうせ明後日にはこの国を離れ、彼とはまた会えなくなってしまうのだから。
     酔ってしまえば今夜ここで彼と別れるつらさも忘れ、朝までぐっすり眠れるだろう。セベクはそう考えた。そうしてジャミルに「熱砂の国の伝統的な蒸留酒なんだ。うまいぞ」と勧められるままに次々とグラスを空にした。そんなふうに豪快に酒をあおるセベクのことを、ジャミルはあの感情の読めない瞳でじっと観察していた。そこまでは覚えているのだが――


    「ん……」

     かすかな声にセベクはハッと我に返った。ドクリと心臓が嫌な音を立てる。セベクの視線の先でシーツに半分隠れた頭がもぞもぞと動き出していた。カーテンのすきまから差し込む太陽の光はいまや燦々と明るく、彼の美しい黒髪を眩いばかりに輝かせていた。

    「なんだ、起きてたのか」

     かすれた声が空気を震わせる。のそりと起き上がった彼の裸の肩から長い髪がさらりと流れ落ちた。その黒髪のすきまからのぞく褐色の肌からセベクは全力で目をそらした。わかっていたことだが、やはり彼はなにも身に付けていなかった。下はどうなのだろう――と考えそうになってセベクはぎゅっと目をつむった。

    「どうした?」

     不自然に顔を横に向け、ぎゅっと目を閉じているセベクを訝るように彼が訊ねる。昨日数年ぶりに聞いた彼の声。高くも低くもなく、内耳に心地よく入り込んでくるセベクの好きな声。
     ジャミルに顔を向けることができなかった。とりあえず服を着てほしい。彼の裸を見てしまったら自分がどうなってしまうかわからなかった。自分と同じベッドで眠っていた、想い人の裸を見てしまったら――
     そうだ。同じベッド。服を着ていないジャミル。酒に酔って記憶がない自分。やはり自分は昨夜彼のことを――

    「さっ」

     ぎゅっと目をつむったままセベクは叫んでいた。

    「昨夜はすまなかった!!」

     わん、と広い部屋にセベクの大声が響く。防音性が高いらしい部屋の中は外界から切り離されたかのようにしんとしていた。

    「……」

     気まずい沈黙が流れる。ジャミルはなにも言わなかった。彼の灰色の瞳がじっと自分を見つめているのが見ないでもわかった。

    「……もしかして覚えていないのか?」

     長い沈黙を破り、ぽつりとジャミルがつぶやいた。ぎくりと身がこわばる。セベクはそっとうつむいた。

    「……ああ。すまない」

     ぎゅっとシーツを握る手に力がこもる。本当に最低だ。酔った勢いで想い人と一夜を共にしたあげく、そのことをまったく覚えていないだなんて。そもそも合意だったのだろうか? いまのところジャミルからはセベクに対する怒りは感じられなかった。それに彼ならば、ユニーク魔法を使って酔った自分にどうとでも対処できたはずだ。……いや、こんなのはただの都合の良い妄想だ。今も昔も、彼は自分のことをただの仲のいい後輩としか思っていないのだから。きっと自分が無理やり彼に迫り、彼はそれに流されたのだろう。
     ゆっくりと顔を上げ、セベクはジャミルに向き直った。明るい朝の光の中で、真っ白なシーツに包まれこちらを見つめる彼は神々しく輝いて見えた。
     彼の瞳を見つめたまま、ゆっくりと口をひらく。

    「……謝って許されるとは思っていない。ジャミル先輩がもう僕の顔など見たくないと言うのならいますぐこの国から出ていこう。だがもし――」

     セベクはそこで言葉を切った。次の言葉を口にするのは少しだけ勇気がいった。次に口にする言葉に自分の人生がかかっている。ジャミルは黙ってセベクの言葉の続きを待っていた。
     ふたたびまっすぐジャミルの瞳を見つめ、セベクは覚悟を決めた。

    「――もし許されるのなら、責任をとらせてほしい。一生をかけてこの罪を償うと誓おう」

     もはや自分にできることはそれしかない。一生をかけて、昨夜自分が犯してしまった彼への罪を償うのだ。昨夜の出来事を『一夜の過ち』などというものにしてしまわないために。
     しばらくのあいだジャミルはなにも言わなかった。口を閉ざしたまま、学生時代と変わらないあの感情の読めない瞳でセベクをじっと見つめている。彼は今なにを思っているのだろう。いつもそれを知りたいと願っていた。
     やがてジャミルはふっと微笑んだ。親しい者にだけ向ける、あの穏やかでやさしい笑顔。

    「……ああ。よろしく頼む」

     たしかに彼はそう言った。その静かな声はふたりのあいだの空気を震わせ、セベクの胸の中にすとんと収まった。提案。了承。契約の成立。すべては実にシンプルに遂行された。朝の光が差し込むベッドの上で。
     そうしてセベクは、ジャミルのその言葉に「ああ。まかせておけ」と力強くうなずいてみせたのだった。




    「……え? マジで? それで結婚することになったわけ? ええー……」

     信じられない、という顔でエースはつぶやいた。薄いグレーのスーツに身を包み、髪をうしろに撫で上げたその姿は学生時代よりもずいぶん大人びて見えた。少しだけひらかれたドアの向こうからは人々の陽気なざわめきが聞こえてきていた。婚礼の準備は滞りなく進められ、客人たちは式の開始まで各々くつろいでいるようだ。

    「……え、てかそんな生々しい話聞きたくなかったんスけど。しかもよりによって学生時代の先輩とダチの……。ていうか酒の勢いでヤッちゃってそのまま結婚とか、アイツが一番しなさそうなことじゃん。えー。マジで信じらんねえ」

     最初の驚きからどうにか立ち直ると、エースは肩をすくめてふるふると首を振った。からかいのネタになればと軽い気持ちでプロポーズの経緯を訊ねたらとんだ大蛇を藪から引きずり出してしまった。こんな話を聞かされたあとで一体どんな顔をして式に参列すればいいのだろう。

    「いや、ヤッてないぞ」

    「……え?」

     静かに告げられた言葉に思わず顔を上げる。深紅を基調とした鮮やかな伝統衣装に身を包んだジャミルの、感情の読めない瞳と視線がぶつかった。
     エースを見つめたままジャミルがふたたび口をひらく。

    「あの夜、アイツとはなにもしていない。酔ったアイツをホテルまで送り届けて、もう遅いし家まで帰るのが面倒だったからそのままアイツの部屋に泊まらせてもらっただけだ」

    「え? え? でもセベクが『責任をとる』って……」

    「それはアイツが勝手に言い出しただけだ。そもそもなにに対しての責任なのか、アイツはひと言も口にしていない。……それをどう解釈しようがこっちの勝手だろ?」

    「え……ええー!? そんなのアリ!? なにそのアズール先輩みたいな理論!……え、つまりヤッてもないのにセベクは一夜の過ちの責任をとってジャミル先輩と結婚するってこと!?」

    「……おい、人聞きの悪いことを言うな。それじゃあアイツが渋々俺と結婚するみたいじゃないか」

     むっと眉間にしわを寄せるジャミルにエースは「いや、でもさあ!」となおもなにか反論したそうな声を上げた。それからグッと口をつぐむ。言葉の代わりに口からはあー……と大きなため息が出た。

    「……いや、なんかもういいや。オレには関係ないし。……それにアイツがジャミル先輩のこと昔からすげえ好きだったのは知ってるしさ……まさかこんな形で結婚するとは思わなかったけど」

     「……ちなみに、どこから計算だったわけ? まさかホテルを手配したとこから……?」とおそるおそる訊ねるエースに対し、ジャミルは「さあな」ととぼけた返事をした。これ以上の藪蛇はごめんだ。エースは深く追及しないことにした。

    「そうだ。わかってると思うが、このことは他言無用だ。いまさらあいつの『決心』に水を差すような真似はしたくないからな」

    「それジャミル先輩が言う!?……はあ、わかってますよ。オレだってアイツのあんなしあわせそうな顔見てたらなんも言う気になんないわ」

    「なんだ。お前もずいぶん丸くなったもんだな」からかうような表情でジャミルが言うとエースはむっと口を尖らせた。

    「……別にそんなんじゃねえけど。そりゃあ四年もあの学園で一緒に過ごせばちょっとは情が湧くっていうか? ダチの結婚ぐらい素直に祝ってやりたいじゃん。……ホント、アイツのことよろしく頼みますよ」

    「……ふっ。言われなくてもわかってるさ」ぶっきらぼうに付け加えられた最後の言葉にジャミルはフッと笑ってみせた。学生時代エースがよく目にしていた、皮肉げでなにか企んでいるような笑顔と似ているが、その顔からは喜びがにじみ出ていた。

     まあ、両人がしあわせならそれが一番だ。
     エースは先ほど聞いた話を自分の胸の中だけにしまっておくことにした。

    「じゃあもうオレ行くわ。後輩代表としてちょっと挨拶しに来ただけだし。……まさかこんな衝撃的な話を聞かされることになるとはね」座り心地の良い椅子から立ち上がりながらエースは暇を告げた。外では久しぶりに再会した旧友たちが自分の帰りを待っている。

    「ああ。今日は来てくれてありがとう。楽しんでいってくれ。……お前も酒を飲みすぎてうっかり『責任をとる』羽目にならないよう気をつけろよ」

    「――それジャミル先輩が言う!?」

     ニヤリと笑って付け加えられた言葉に、エースの本日二度目の叫びが響いたのだった。

    20220124
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