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    Blau_Wal004

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    Blau_Wal004

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    2016年くらいに書いたいちへしを発掘したので天日干しします。ちょっと体裁整えた。
    現代パロディ、粟田口一期さんと長谷部国重さん。高校生のふたり。

    #いちへし

    ある特別な日 ふと、目が覚めた。
     目が覚める感覚は、好きではない。ああまた1日が始まった、と億劫な気持ちになるから。重い体を無理やり起こして顔を洗い、歯を磨き、朝ごはんを押し込み、制服に着替えて、靴を履いて外に出る。ここまでやってしまえばなんとかなる。やはりそれでも、目が覚めた瞬間の感覚は好きではない。
     しかしいつもはギリギリまで寝ているのに、今日に限っては、1時間も早く目が覚めた。まぶたが重い感じもなく、体を起こせば、ずいぶん体は軽かった。
     身支度をして朝食を作る。長谷部国重は高校生だが、一人暮らしだった。始めは勝手がわからず、できない自分にイライラもしたが、今はもうずいぶん慣れた。もう3年経つ。早いものだ。
     朝に不似合いな甲高い音がして、長谷部は肩を強張らせた。携帯の呼び出し音が鳴っている。変えるのが面倒で初期設定のままだ。急かすようなその音の出所を探し当て、通話ボタンを押す。見なくても、誰がかけてきているかなどわかる。
    「なんだ、朝っぱらから……」
     母親だった。ぶっきらぼうに電話に出たが、おはよう、と穏やかな声とともに祝いの言葉を告げられた。ああ、と返事をしながら、実感などなかったのに、その言葉を聞いた途端、じんわり切ない気持ちになってしまった。
     長谷部は今日、高校を卒業する。

     通学路を自転車で走る。三年間毎朝毎晩自分を乗せてくれたクロスバイクは、引越し先にも連れていくつもりだ。体に馴染んだいい自転車で、長谷部はメンテナンスを怠らなかった。ふと見上げると青空が広がっている。寒いけれど、いい天気だ。すうっと息を吸い込むと、ほのかに春の匂いがした。花の香りと、暖かい空気の匂いと、少しだけ埃っぽい匂いが混ざっている。花粉症じゃなくてよかったと心から思う瞬間である。

     学校に到着すると、まだ人はまばらに見えた。自転車置き場にクロスバイクを停め、教室へ向かう。これも最後、あれも最後、と一つ一つ確認してしまう。自転車置き場に来るのはまだ最後じゃない。
    教室に到着すると何人かが固まって話をしている。おはよう、と挨拶をすると元気な声が返ってきた。これも最後。こいつらにはもう毎日会えることはない。昨日まで、当たり前だった日々が、明日から当たり前ではなくなる。実感はあるけれど、まだ受け入れられない感じがした。
     気に入っていた窓際の席。見るといい景色だった。校庭が一望できて、向こうには山も川も見えて、春は桜、夏は緑、秋は紅葉、冬は雪景色。今の季節はやや春だけれど、まだ、桜は咲いていない。桜は卒業式のあとだったと、そこで気付く。桜はもうここからは見られない。
     バタバタと廊下を走る音が聞こえる。慌ただしい、卒業式だというのに、卒業式だから、か。長谷部の気分もいつも通りとはいかず、わけもなく教室を出た。
     廊下を歩いていると、長谷部と同じように、そわそわしたような面持ちで廊下で集まったり話したりしている生徒がいて、同じように気持ちや時間を持て余しているようだった。
     ふと、男子トイレが目に入った。式の前に済ませておこうと思い、足を踏み入れる。

     中を覗くと、トイレの1番奥の個室が閉まっていた。あまりその個室が使われるのを見ることが少ないので(理由はわからない)、ああ閉まっているな、と思ったら、ゆっくりと不自然なスピードで開くので長谷部は目を見開いた。えっと思うのもつかの間、見慣れた顔がのぞいていた。
    「……粟田口?」
    「嗚呼、長谷部さん!おはようございます!」
     同じクラスの粟田口一期。一年生の時からの友人で、一緒に生徒会も務めた。長谷部は会計で粟田口は副会長。いろいろあって自分の代は派手で随分目立ったので、名物生徒会とまで言われた。いい思い出だな!と会長は笑っていたが、馬鹿にされていたのではと長谷部は危惧している。そんな、会長に振り回されながらも共に生徒会を運営した仲間が、卒業式の日に下がり眉でトイレにこもっていた。
    「どうした?」
    「外に女子の集団はいませんか?」
     女子?と聞き返すと、追われているのです何故か、と粟田口が早口で慌てたように言った。体を反らして出入り口を見たが、そのような人影はなかった。
    「いないぞ」
    「よかった。嗚呼、驚いた。登校したら急に数人の女子に追われて、次第にとても大勢になってしまって」
    「お前は自分がどれだけ人気者か、いい加減自覚しろ」
    「はぁ……」
     粟田口は反省する素振りもピンとくるような素振りも見せない。信じていないのだ。バレンタインは毎年卒倒するくらいの大量のチョコレートをもらうのに、毎年困惑していた。告白されてもちっとも嬉しそうではないし、体育大会で黄色い声で応援されても困ったように笑うだけ。「その塩対応がイイ!」ともっぱらの評判でファンは絶えないが、長谷部や他の男子からしてみれば羨ましい限りだし、女子たちの根性に長谷部は半ば呆れている。当の本人に至っては意味がわからないと来たもんだ。生徒会メンバーで成績優秀、人当たりもよくイケメンときたら、もてないわけがないのに。本人はとんと興味がないらしい。興味ゼロ、関心ゼロ。むしろ迷惑。それなのに事あるごとに追いかけ回されて……だんだん粟田口が不憫に思えてきたのは最近のことだった。
     とりあえず、トイレじゃなんだし外に出ようと長谷部が提案すると、粟田口は追いかけられる心配がないなら、と承諾した。
    「第二なんとかを、くださいって懇願されて」
    「第二なんとか?」
    「ボタン? らしいんですが」
    「ボタン……ああ、なるほどな」
    長谷部が合点がいったと声を出したところで、それを合図にしたように高い声が響いた。
     黄色い声と粟田口の名前を呼ぶ声に、粟田口の悲鳴が重なる。確かに10人ほどの女子がこちらへ向かって走ってくる。
     長谷部はとっさに粟田口の手を取り走り出した。長谷部は自他共に認める俊足だった。陸上部に何度も何度も勧誘されて、その度に断っていて、陸上部のメンバーには申し訳なく思っている。陸上部より、生徒会活動や委員会活動のほうが性に合っていると知ってしまったのだ。
     廊下に屯する生徒をかき分けかき分け、長谷部と粟田口を手を繋いで走る。生徒会メンバーなんて顔が割れてる有名人なものだから、振り返る生徒があっという顔をする。すまん、今日だけ許してくれ。長谷部は自分の知識をフル活用して、北棟への道のりをジグザグに進んだ。

     北棟は所謂離れの校舎で今はほとんど使われていない。資料や図書館に置けなくなった大きな蔵書などが保管されていて、その他の部屋は行事の時に使われる程度。その北棟には、屋上があることを長谷部は知っていた。階段をかけあげると、さすがに息が切れた。追いかけてくる気配はない。まいたか。
    「すみません、走らせて……あ、ここって」
    「ここなら人があまり来ないかと思って」
    「学祭の後、ここで休憩しましたね。懐かしい。屋上から、フォークダンスを見ましたよね」
    「体育大会の後もだ」
    「テストが終わった日も。そうでしたそうでした。ね、長谷部さん、屋上までのぼりませんか?」
     まるで粟田口がそう言うことを予知していたみたいに、長谷部はその言葉を聞いて(やっぱり)と思った。予知していたというより、期待していた。

     階段をえっちらおっちら上っていく。四階分を上がるのは案外疲れる。北棟の屋上の扉は一度強く引いてからノブを回し、回しながら強く押し込むと開くという、なんとも面倒な扉だった。そのようにすると、すんなり開くのだ。長谷部はその開け方を先輩からこっそり教わったが、自分の後輩には教えていない。誰かに教えてやってもいいな。大倶利伽羅あたりに教えておくか。
     屋上に続く踊り場に着いた時はふうふうと息をあげていたのに、屋上に出た途端、粟田口はわーっと走って行った。
    「嗚呼、いい景色ですね」
    「お前、ここに来るたび同じことを言うんだな」
    「同じことを思うんですから、当然ですな」
     粟田口が、講堂が見える方へ寄り、「もうみんな集まっていますかね?」とつぶやいた。時計を見ると卒業式までまだずいぶん時間があった。
    「まだだろう」
    「じゃあしばらくここにいてもいいですよね?」
    「ホームルームには行かないとだぞ」
     長谷部がいうと、粟田口はあーとかうーとか言いながら、広い屋上をくるくると回った。
    「嫌なのか?」
     長谷部が問いかけると、粟田口はすとんとその場に座り込み、体を横たえた。水はけのいい、靴底と擦れるとキュッと音のする地面と、粟田口の小綺麗な制服がピタリとくっつき、明るい髪が散らばった。空を見上げて、いい景色ですよ長谷部さん、と粟田口が言う。
    「おい、粟田口!汚れるぞ!」
     長谷部が近寄って呆れたように声を出すと、粟田口はにまりと笑った。こんな笑い方は、教室や生徒会室にいるときは絶対しない。
    「なんでそう思うんですか?私が、ホームルーム行きたくないって」
    「嫌じゃなければすぐ、そうですな、とかそうしましょうか、とか言うだろう」
     頭を傾けて粟田口の顔を覗き込むと、嬉しそうに粟田口は笑い、長谷部さんにはお見通しですね、と呟くように言った。
     隣で寝転ぶように指示されたが、制服が汚れるのが嫌だったので座るだけにした。見上げると、視界が青い空だけになる。なるほど、いい景色だ。
    「長谷部さん、長谷部さん」
     ややあって、粟田口が長谷部の裾をひっぱって呼ぶ。こういうことをするとき、粟田口はワガママを言う。
    「卒業式、サボりませんか」
     ほらな。
    「駄目だ。式典はサボってはいけない。それに、」
    「生徒会に申し訳が立たない?」
    「そうだ。後輩の生徒会長が送辞を読むんだぞ」
     はぁーと粟田口が呆れたようにため息をついた。呆れているのはこちらだというのに。粟田口は、普段はたくさんの弟の「いちにい」をやって、クラスや生徒会で優等生としてキチンとしすぎているせいなのか、心を許した相手に対してはとことん許す男だった。一時期彼女がいて、その心を許す相手は彼女だったようだが、理由はわからないが別れて(長らく学校中の噂になった)、その役目は何故か長谷部に回ってきたのだった。長谷部はといえば元来面倒見がいいので、粟田口の相手は難しくなかったが、その後粟田口に彼女が出来ることはなかった。
    「生徒会なんてもう引き継いだじゃないですか。あんなもの、もう私たちのものでもなんでもないんですよ」
    「薄情だな。『伝説の副会長』さまが何を言うか」
    「元、副会長です。伝説はやめろといっているでしょう!」
     粟田口が相変わらずムキになるので、長谷部は思わず、はは、と笑った。
     伝説の、とは、生徒たちが勝手につけた粟田口副会長のあだ名だ。あまりに見目がよく、あまりに性格がよく、あまりに出来過ぎるので、一年生で初めて書記として生徒会に入ったとき「噂の粟田口」というあだ名がつき、これがどういうわけか「伝説の粟田口」に変わり、副会長に就任した際「伝説の副会長」となった。一説によれば面白がった会長があることないこと吹聴したらしいが真実はわからない。
    「笑いすぎです、長谷部さん」
    「いやだっておかしいだろう、なんにも伝説的なことはないのに、伝説の副会長って」
    「話に尾ひれがついて大変なことになったことは許していません」
    「誰を許さないつもりなんだ」
    「鶴丸さんです」
    「やっぱりアイツが犯人なのか?」
    「知りませんよ……」
    そんなことがあり粟田口は親の仇のように「噂」というものを毛嫌いするようになったのも、今となっては懐かしい話だった。
    「懐かしいな」
    「……そうですな」
     粟田口は長谷部の方を見なかった。遠くを見つめている。何か、考えている風だった。迷っているようにも見える。じっと見ていると、ふと、目玉が動いて長谷部をとらえた。澄んだ虹彩が、光の加減で何色にも見えた気がした。長谷部は、粟田口の色を気に入っていた。肌や髪や目や声。人が考えて設計したみたいな綺麗なパーツに惚れ惚れする。
     無言だった。いつもだったら目が合えば必ずどちらかが口を開く。けれど、今に限っては、2人とも口を開かなかった。どちらかが開くのを待っているわけでもない。ただ、お互い何か言いたくて、でも何も言葉が出てこない、そんな感じだった。

     やがて、粟田口が口を開いた。
    「卒業式、サボりませんか」
     同じことを同じトーンで同じ言葉で言った。
    「だから何度も言ってるだろう。式典はサボってはいけない」
    「じゃあ、」
     その言葉を待ってましたと言わんばかりに、粟田口は起き上がりながら、決め打ちで言葉を続けた。
    「長谷部さんの第二ボタン、ください。」
     長谷部のボタンを指差しながら、粟田口ははっきりゆっくり、言った。
    「……なんで」
    「女子が、こぞって欲しがるのですから何か価値のあるものなんでしょう?」
    「誰彼構わずもらってご利益があるようなもんじゃないぞ」
    「とにかくください。長谷部さんの第二ボタンが他の人に取られたら嫌なので」
    「なんでそれでお前が嫌がるんだ」
     長谷部の言葉に、粟田口片眉を上げた。
    「代わりにと言ってはなんですが、私の第二ボタンは長谷部さんにあげましょう」
    「いらん」
     粟田口はポケットを探ると小さなソーイングセットを取り出した。なぜそんなものを持っている? いやに用意がいいじゃないか。
    「粟田口……まさかとは思うがお前、第二ボタンの意味知ってるのか」
    「私に知らないことがあるとでも?」
    「はぁ?」
     器用にソーイングセットを開きながら粟田口はにべもなく言った。長谷部は呆れていよいよ開いた口がふさがらない。
    「長谷部さんはご存知で?」
    「それは……まぁ……」
     いいですか?(いいですよね?)と小さな鋏をもった粟田口が確信めいて確認してくるので、ああとしか言えなかった。そうか、こいつ、意味わかってたんだな。意味わかって、俺に第二ボタンをくれと言ってきたんだな。
    「第二ボタンの話を知ったのは、最近なんです。女子が、話しているのを聞いて。心臓に、1番近いから第二ボタンなんですよね」
     長谷部の第二ボタンを器用に切りながら粟田口は言う。
    「それを聞いたら、あ、長谷部さんの第二ボタン欲しいなって、そう、思ってしまって。先ほどは知らぬふりをしたことは謝ります」
     謝るそぶりもなく、それでもすみません、と粟田口は口にした。続けながら、粟田口は長谷部の上着から第二ボタンを抜き取った。それをポケットにしまい、長谷部に鋏を差し出す。長谷部はそれを受け取り、粟田口の上着の第二ボタンを取り外しにかかる。
    「欲しいなら欲しいと、素直に言えばいいものを」
    「だって、長谷部さんに第二ボタン欲しいですって言いに行って、第二ボタンがなかったらむかつくじゃないですか」
    「俺の第二ボタンなんて、欲しがるやついないだろ」
    「長谷部さんはもう少し、自分がどういう目で見られているか知るべきですな」
     どういう意味だろう。奇異の目で見られているということだろうか。
    「おくゆかしい淑女が虎視眈々と狙っているのですよ」
     粟田口は嫌味ったらしく言った。長谷部が、ボタンを取るのに四苦八苦しているのに、粟田口はその様子をじっと、受け止めていた。空をついと見上げて、周りを眺め、また長谷部の腕に視線を戻す。
    「まだですか?」
    「急かすな。もう少し待て」
     長谷部さんは案外不器用ですよねぇ、と粟田口は呆れたように言う。文化祭の準備も碌に戦力になりませんでしたよね。人を動かすことと計算ごとは得意なのに、作業が何一つできなくて。去年は壁画をダメにしそうになりましたよね。あれは一つの才能かもしれませんよ。
     ポツリポツリと粟田口は長谷部との思い出を話す。時系列はバラバラで、粟田口の印象に残っている順なのかと思って聞いていたらそうでもないらしい。
     あれなんでしたっけ、一年生の時長谷部さんが読んでいた本。思い出せないなぁ。あ、でもあの時よく飲んでたジュースは覚えてますよ。あれ、学校の自販機のラインナップから消えたんですよね。懐かしいなぁ。
     粟田口の第二ボタンが取れた。ポロッと取り落としそうになった。粟田口の胸に押しつけるようにして掴むと、粟田口がうっと呻いた。恨めしそうな視線を尻目に、少し冷たい、無機質な、手に馴染まない塊を手に収める。
    「無くさないでくださいね」
    満足したように、粟田口が言った。
    「善処する」
     はい、と粟田口は返事をする。ふと見ると、白い手が長谷部の裾を掴んでいる。
    「なんだ、まだ何か言いたそうだな」
     粟田口がパッと顔を上げ目を見開く。なんでわかるんですか、という顔だ。粟田口は、自分の癖に気付いていなく、長谷部はいつになってもそれを言ってやるつもりはなかった。
    「いえ、……あの」
     ハキハキしているはずの粟田口が珍しくいいよどむ。長谷部は、焦れたが、それでも待つ。卒業式までまだ少し時間はあるはずだった。
    「長谷部さんに、ずっと言いたかったことがあって」
    「なんだ?」
     長谷部が促すと、粟田口は口を開けたり閉じたりして、項垂れる。
    「ずっと、言うつもりはなかったんです、けど」
    「うん」
    「…………やっぱり、やめます」
    「おい」
     待て、長谷部が言う前にぱっと立ち上がり、講堂の見えるフェンスまで粟田口は移動する。逃げるな、と長谷部が言うと逃げてません言うのをやめたんです、と粟田口は長谷部を見ずに言った。長谷部が追いかけると、粟田口は長谷部と逆の方へ移動する。だから逃げるな、逃げてません、逃げてるだろう、逃げてません、の繰り返し。屋上でしばらく追いかけっことなり、次第に、本気で走り出した。
    「追いかけて来ないでください!」
    「お前が逃げるからだろう!」
     声もだんだん大きくなる。しかし、長谷部の方が瞬発力があるので、粟田口の隙をついて腕を掴んだ。
    「気になるから最後まで言え。言いたいことなんだろう」
    「嫌です」
    「はあ?」
     わりと長谷部の言うことを聞く粟田口があまりにも頑なでその理由が分からないので、長谷部は少し驚いて素っ頓狂な声を上げた。粟田口は頑固だが、長谷部の話は素直に聞く男だった。無視もするし否定もするけれど、頑なに拒むことはほとんどしなかった。今日の粟田口は珍しいことばかりだ。特別な日だからか。
     そんなことを考えていたら、隙をついて長谷部の手から粟田口の腕が抜かれ、気づいたら屋上から出て行くところだった。おい、と声をかけて追いかけると、目の前で扉が閉まる。ノブを回して開こうとすると、向こうから引っ張っているのか、開かない。いい加減にしろ、と長谷部が言うと「長谷部さん、絶対に怒らないって約束してくれますか」とくぐもった声が聞こえた。
    「ああ、怒らない」
    「絶対に?」
    「約束する」
     ガチャリ、と大袈裟な古めかしい音がして、扉が開いた。一段高いところに、粟田口がいて、長谷部を見下ろしている。少し、決心がついたみたいな瞳をして。
    「好きでした」
    「……なにが」
    「長谷部さんが」
     えっと声を上げた時には、嗅ぎ慣れた香りに包まれていた。少し高いところから、抱きしめられる。抵抗する余地などなかった。あまりに自然に抱きしめられて、長谷部は驚く。
    「ずっと、ずっと……好きで、言うつもりなんて本当は無かったんです。でも、これで最後かと思ったら、……すみません」
     好きでした。
     過去形のそれは、長谷部に届く前に床に落ちてしまいそうだった。粟田口は長谷部に言っているはずなのに、どこか、放り投げるように言った。
    好きでした。
     針と糸で縫いつけてしまったように、長谷部の口は動けなかった。言葉が出てこない。何か言わなければ、でも、なにを?
    「長谷部さんに会いたくて、学校に来ていました。一緒に何かしたくて、委員会とか、生徒会とか入りました。なるべく長谷部さんにとって居心地のよい友人であろうとしました。ずっとその唇で口付けてほしいと思いながら」
     自分の浅ましさに辟易します、と小難しいことを粟田口は言った。それを聞いて、長谷部は思わず笑った。辟易って。高校生が普通言うか?
    「……おくゆかしい淑女というわけか」
     ややあって長谷部の口から出たのは、先ほど粟田口が言った言葉だった。
    「私は淑女ではありません。どちらかと言えば紳士です。……多分」
     抱きしめていた手と身体を離して、向かい合う。
    「そんな紳士は、俺に考える時間をくれるか?」
    「え」
     どう言う意味ですか、と粟田口が一瞬停止する。動揺しているのか、目玉が泳いでいる。
    「卒業式の間に、考えておく。お前の告白の返事」
    「えっ、そんなすぐ」
    「こういうことは、先延ばしにしないほうがいいだろう」
    「はあ。……え、でも、」
     粟田口が何か言おうとすると、校舎を大きなチャイムの音が包んだ。反響してよく聞こえなかったが、もうすぐ卒業式の前のホームルームが始まるようで、召集の合図だった。
    「行こう、粟田口。卒業式だ」
     長谷部が言いながら粟田口の腕を自分の肩から退かし、階段を下り始める。踊り場に出て振り返ると、困惑した表情の顔がこちらを見下ろしている。
     長谷部は、それを見上げながら、式が終わったらどうやってキスしてやろうか考えていた。
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